第31話 夢幻彷徨
『捨てないで! 大切な命』
『どうしてぼくをおいていくの?』
『捨てられたあと、どうなると思いますか?』
雑木林のフェンスに、地元の小学生が描いたと思しきポスターが延々と連なっている。
視覚に十分訴えるようにと派手な原色で、猫の目。犬のシルエット。角張った文字。全てがこちらを向いていた。
……気味が悪い。よほど動物の遺棄が多いらしい。
湿った落ち葉と土が蒸して発酵している、あの盛り上がりの中に、得体の知れない生き物の死体があるのかもしれなかった。
腐臭が漂っている気がして、早足で一本道をひたすら歩いた。
歩いても歩いても両端の柵は途切れず、景色がわたしに貼り付いている気がした。
突然足が絡み、悲鳴を上げた。踏ん張りがきかずそのまま倒れ込む。
水たまりにダイブするように、わたしは転んだ。
泥水の中で、からんからんと傘が転がる音を聞いた。
身体を起こそうとして、手のひらにじんと痛みが走る。水面には雨粒で無数に穿たれたわたしの顔が映っていた。
……泥だらけだ。シューズバッグが投げ出されなくてよかった。
ズボンを払い、顔をTシャツの肩で拭う。
傘を拾い上げると目の前に、
『さいたま水上公園ご案内』
……さっきも見た掲示板だ。
悪寒が背筋を走る。道なりに歩いていたら、一周してしまったのか。
そういえば誰ともすれ違わなかったな、と思い返す。
そして道路の向こうを見た瞬間、肌が粟立った。
だだっ広い駐車場に、車が一台も停まっていなかった。
そんなわけない。今日は、バッジテストなのに。さっきまでは満車に近かったはず。
傍らの、木造のボロボロの売店小屋。シャッターが下りている。店名の塗装が剥げて読み取れない。
……けど、そもそもここはトイレじゃなかったか。
アイスアリーナを振り返る。
コンクリートの建物に、黄色いテープのようなものがぐるぐると巻き付いて見えた。
夢中で走って駐車場を横切る。
雨粒の中、目の焦点が合うなり、全身の血が引いた。
『KEEP OUT』
『立入禁止』
『入らないでください』
規制線が、リンクの入り口をがちがちに固めていた。
息が止まった。
灰色に覆われた世界の中、テープの黄色だけが鮮やかに焼き付いた。
ぴしゃりと雷鳴が轟く。
裏側だ、と思った。
わたしは、かるたのように裏返された世界に来てしまった。
背中のシューズバッグがずしんと重くなった。
石化が始まっていた。
降ろすことも捨てることも許されない。
「返しに行こうね」
冷たい息に耳が凍った。
シオリの声だ。
「今ならまだ間に合う」
「……」
「あなたの欲しいもの、知ってるわ」
「……」
「だって、それはわたしと同じだから」
「……」
「たった一つの手に入らないもの。今そのもの」
「……」
「すなわち、永遠」
シオリはわたしの肩を抱いた。
固くて細い骨の感触。
触れられたところから、凍っていく。
白い指の骨が、規制線の向こうを指差した。
自動ドアの奥。
リンクがあるはずの向こうは、真っ暗な闇がぽっかりと口を開けて、まるで洞窟のように見えた。
「その靴をあの暗闇に投げ入れて。あれは、世界の中心と繋がっている。わたしと一緒に、取り戻そうね」
永遠を。
シオリはもはや人の形をしていなかった。
冷気で包み込まれたわたしの手は凍っていた。
シオリの力が、外側からわたしを動かす。
足が引きずられていく。
黄色いテープに手を掛け、乗り越えようとしたその時、
「行ったら死ぬよ」
なめらかな声がした。何にも発声を邪魔されない、高く澄みきった声。
胸が張り裂けそうになった。
膨らむその核は、懐かしさ。




