第9話 流体
わたしと可憐と美優先生と編集者とカメラマン。五人で打ち合わせが始まった。
今日は雑誌「SILVER EDGE」の取材。三ヶ月に一度出る季刊誌で、クラブの控え室にもバックナンバーが何冊か置いてある。わたしは一度も手に取ったことがない。人のスケートに興味が無いから。それにフィギュアスケートの雑誌はどれも一緒に見える。
まずはリンクの上で滑っている写真を撮る。その後オフアイスを撮ってインタビューも同時に、という流れになった。
普段の練習通りで、とカメラマンは言う。
クラブの皆は自分達が撮られるわけでもないのに露骨にテンションが上がっていた。
もちろん、洵は別だ。浮足立つこともなく、誰とも言葉を交わさない。いち早くアップを終えて氷上で足慣らしを始めている。
どうしたものかなと様子を窺っていると、可憐がさっとリンクに上がった。
「先生、スピン見てもらえますか?」
「OK。じゃあ、アップ終わり次第始めますので、適当に撮っちゃって下さい」
可憐は月末に控えた七級のバッジテストに向けて気合いが入っている。
先月のスプリングカップで二位に入り強化合宿への参加権を既に得ているのに、何をそんなに焦る必要があるのか。
七級はあくまでシニアの選手権に必要な級だ。ノービスには必要ない。
高そうなコートを着た編集者の女の人が、氷上の可憐を指差しながらカメラマンに指示を出していた。当分は可憐を撮るだろう。
わたしはエッジガードを外した。肺の底から息を吐ききり、肩の力を抜く。
目を閉じ、爪先を乗せた瞬間、わたしは溶ける。
上に潜る。下じゃなく、上だ。
高く、それでいて深く。
大切なのは距離。
だから、つまり、遠くへ。
わたしが本当に呼吸できる場所。
肺が氷の粒で満ちるまで。
まだ足りない。完璧に潜らないといけない。
じゃなきゃ、わたしは流れていけない。
……なのに、あの黒い背中が邪魔をする。
収縮と膨張を繰り返す氷上の黒点。ちかちかと不安定で目障りだ。
わたしは採暖室のアラベスクを象って盗み取ると、スパイラルであっという間に洵を追い越した。
わたしは流体。
地上ではできないことが、ここならできてしまう。
……でも、洵はバレエに転向した方がいい。
洵のエッジは氷に抗っている。洵の身体は氷に対峙している。
一対一ではだめなのに。
このまま振り切りたい。
スパイラルの姿勢をほどき、ターンでバッククロスに切り替える。
加速。
透明にならなくては。
髪の毛が邪魔だ。最近耳に掛かって鬱陶しいと思っていた。切っておけばよかった。洵よりも短く。坊主にしたっていい。
身体を薄めたい。
周回遅れの対角線上で、洵がアクセルの助走に入る。
跳ぶ前から転ぶと分かる。
耳の奥がきりきりと張る。肺が縮み上がる。
「痛て……」
無様に転んだ洵は、強打した太ももをしばらくさすっていた。
「よくやるよね」
ブレーキをかけて目の前で止まる。自然と見下す格好になった。
「何だよ」
荒い息に紛れて声がかすれる。
這いつくばったまま睨み付ける、その目の強さに一瞬怯んだ。
「そんな転んでばっかで怖くならないの、氷が」
ならない、とズボンを払って洵は立ち上がった。
「痛いのと怖いのはちがう」
「何それ」
「お前には分からない」
吐き捨てると、再び洵は滑り出した。
ごりごりと氷を削る不快な音が背後へ遠ざかる。
──わたしには分からない。
おーい、と呼ぶ声が聞こえる。
リンクサイドからカメラマンが手招きしていた。
「汐音ちゃん、きれいなスパイラルが撮れたよ」
手の中の液晶画面が視界に入る前に、わたしは視線を氷上に戻した。
「あれっ、見ないの?」
「見ません」
撮られていたなんて知らなかった。
でも、そんなことはどうでもいい。
滑っている時が全て。写真は痕跡ですらない。
それは遺影。
死んだ後に自分の写真を見る人間はいない。




