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氷上のシヴァ  作者: 天上杏
Bonus Track 第六章 Butterfly 霧崎汐音
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第2話 視線速度

 ごりごりとかき氷でも削るような不細工な音が背後に近付いてくる。脱力したわたしは、振り向く気にもならない。

「汐音」

 さっきはちゃんと甲高かったはずなのに、今の洵の声は低い。

 最近洵は時々こういう声になる。

 わたしはそれが嫌い。


「……あとちょっとだったのに」

「は?」

 洵がブレーキを掛けて真後ろで止まるのが分かった。

「もう少しだったのに、今まで無いくらい完ぺきだったのに! どうして邪魔すんの」

 やっと振り向いてわたしは洵を睨み付けた。


 夜に見る鏡のように真っ黒な瞳がそこにあった。

 ばちっと合った瞬間、わたしの身体は水面に引き揚げられた。天空の気配がしゅるしゅると吸い込まれて消えた。

 ひそひそ声がざわめいている。

 音楽が鳴っている。“レ・ミゼラブル”……洵の曲だ。


 洵はすぐに眉根を寄せて睨み返してきた。

「それはお前だろ。何なんだよ、いつもいつも。どうして邪魔するんだよ」

 だってと言いかけて口を噤む。

 ……だって洵には見えない。洵には分からない。


「二人とも落ち着いて」

 シャッと鋭い音を立てて美優先生が来た。

 先生はちょっと、と言ってまず洵を遠ざけると、くるりとわたしに向き直った。長いポニーテールが揺れる。そのしなやかさとは対照的に、先生の表情は険しかった。

「汐音ちゃん。洵くんの言う通りよ。人の曲掛け中はジャンプ禁止って、何度も言ってるわよね」

 唇を固く結ぶ。

 見えてしまえば関係無いのにと思う。

 あの光が。見えてしまえば飛び込まずにはいられないはず。

 先生は小さくため息をついた。

「時間が無いのよ。次のバッジテストまで、もう二週間を切ってるの」


 先生は焦っている。

 ノービスA男子の選抜合宿参加条件、六級を何とか洵に取らせたいのだ。

 洵はこの合宿に妙にこだわっていて、今年こそはと意気込んでいる。

 わたしは全く興味が無い。なんなら、わたしの持ってる参加資格を洵にあげてもいい。スプリングカップなんかテキトーにやればよかった。――でも、あの時もちょうどさっきみたいに光が見えて、ダブルの予定のアクセルをトリプルで降りていて、気付けばノーミスフィニッシュ。優勝していた。


「じゃあ、わたしの曲掛けの時間洵にあげる」

 唐突に思い付いて、わたしはぴっと右手を挙げた。

「何言ってるの。そういう問題じゃないでしょう」

 ぴしゃりと先生は言う。ナイスなアイディアだと思ったのに。

「先生。いいです、おれはそれで。長く滑れるなら何でも」

 洵が左手を挙げて言った。

 ほらね、とほくそ笑むわたしに、洵は鋭い目を向ける。

「汐音。お前は外に出てろ」

「えーっ、やだ」

「次やったらマジでキレるから」

 その目線がわずかに水平じゃないことに、突然わたしは気付いた。

 肩の位置がほんの少し高い。


「ねえ、背伸びた?」

「は? 何急に」

「何だっけ」

 洵ははあーと長く息を吐いて耳の後ろをかくと、意を決したように顔を上げた。

 目線はちゃんと水平だった。

 瞬きをする。気のせいだったのかもしれない。


「おれの曲掛け中は外に出て。おれもお前の曲掛け中は外に出るから」

「分かった、いいよ」

 いつの間にか口がそう言っていた。


 わたしの言葉に洵は小さく頷くと、淡々とした足取りでリンクの中央へ戻っていった。練習着に包まれた黒ずくめの身体は、白い氷の空間から切り抜かれたように浮いている。その背中をしばらく見ていた。

 先生は手を叩いて、もう一度最初から、とリンクサイドのアシスタントに指示を出すと、すれ違いざまにこそっと言った。

「素晴らしいジャンプだったわ。洵くん、本当は汐音ちゃんのアクセルが大好きなのよ」

 ぽんと背中を叩かれた、その場所からものすごい勢いで砂粒が広がった。胸の温度が急降下する。皮膚だけ残して身体が真空になった。


 ――本当は? 

 何、それ。


 好きとか嫌いとかどうでもいい。

 わたしに洵のことを説明しないで。


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