第1話 汽空域
※お読みいただきありがとうございます。こちらの章は「氷の蝶」という中編小説を「氷上のシヴァ」の第六章として組み込んだものになります。そのため、一部設定に本編との齟齬があります。あらかじめご了承下さい。
氷上は天空の水底。地ではなく、空に属した世界。
人々が地上で目の当たりにする天の最深部がスケートリンク。
だからスケーターは上を滑っているのではなく、本当は底へ潜っている。
でも、誰もそのことには気付いていない。わたし以外、誰も。
フィギュアスケートは標本。
氷という透明な地層に、わたしは刻む。今というこの瞬間を。
でもエッジが触れた途端、氷は溶ける。
残るのはトレースだけ。過去になってしまった今の痕跡。
どんなに今を刻もうとしても、今はするりと逃げていく。
今には追いつけない。今は捕まえられない。
だからわたしは標本にする。過去という形で、現在を。
標本は積み重なる。
頭上には星空。ここはいつだって夜。
月光も雲影も、プレパラート式に閉じ込められている透明な気圏。
だが中心はもっと奥だ。目を凝らす。
……やはり、わたしの足場は遠心している。
トレースは円環。
インエッジとアウトエッジ、どちらかに必ず乗るフィギュアスケートに直線は存在しない。描く軌跡の全てが曲線。
つまり、円の弧上にのみスケーターは在るということ。
イーグルが描く8の字。
スピンが生み出す螺旋。
コンマゼロで踏み替えるターンも、トウを突く一瞬の踏み切りも。
全てが円へと回収される。
わたしが飛び移ると、結び目が生まれる。
重なり合い、絡み合う円。
どれも少しずつずれている。一つとして同じものは無い。
だから無限に刻んでいける。無限というのは永遠のことだ。
わたしはずっと刻んでいたい。いつまでも、ここでずっと。
きらり、と光が瞬くのが見えて、わたしは氷を蹴った。
ロングサイドの一番向こう側、アクリル板の上。
――今度はあそこ。
最短距離を駆ける。対角線上のスケーターをすり抜けていく。
誰にもぶつかることはない。だってこの水域には誰もいない。
わたしが淀みなく流れていける層は深くて遠い。
今度こそとわたしは思う。
落ちてくる光。雫のように輝きを湛えて。
今が瞬いている。あのきらめきが欲しい。
儚い、けど確かなもの。今そのもの。あれさえあれば、何も要らない。
底に着いたら消えてしまう。
わたしはスリーターンで勢いをつけて軌道に入ると、落下点を見定め、宙にダイブした。
トリプルアクセル。蝶の羽ばたきが竜巻を引き起こす。
回転軸の芯で、光の雫を捉えたはずだった。
完璧に捕まえた。
そう思うと同時に声が聞こえた。
――汐音!
わたしの名前。まるで呼び戻すかのように。
着氷。チェックの姿勢を反射的に取っていた。
同時に、肺が鉄の塊を飲み込んだように重くなった。
先行するはずの足は止まった。
手の中を見る。
両掌の台座には、何も残されていなかった。




