最終話 Siva(リプライズ)~Here,I'm skating~
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静寂に目を閉じて、彼は最初の音を待っている。
やがて聞こえてくるのは風の音。
だが彼はまだ目を開けない。
頭の中から音が漏れ出しているのに、彼だけが気付いていないかのように見える。
波紋を呼び起こす一滴が、氷面に投下される。
ストリングスのシュプール。
王冠状の飛沫が螺旋の角度を示す。
上へ。
時計の針音に似たハイハットがリズムを刻む。
彼は目覚め、滑り出す。
舞い落ちる雪片を愛おしげに手のひらで受け止める。
風に潜むきらめきを指先で捕まえる。
溶け落ちる儚さを惜しむように微笑んだかと思うと、ターンを二度踏む。
僅かな音の隙間を狙って、氷を蹴った。
四回転サルコウ。
ディレイド回転を伴う高くて遠い放物線の残像が、無音の空間に浮き上がる。
チェレスタのメロディーは下降螺旋を描き、上昇するストリングスと交差する。
シンセサイザーが奥行きを広げる。
氷河の裾野に飛び乗るように、トリプルルッツ+トリプルループ。
鋭利な二本の軸が、氷柱の残像を焼き付ける。
だが、着氷は足元が雪原と錯覚するほど柔らかい。
心象風景が、世界を浸食していく。
巻き上がる音に背中を押されるように、トリプルフリップ。
すぐにイナバウアーで半円の弧を描く。
見る者全ての視線が軌道に束ねられていく。
ビートがフルになると同時に、滑走のギアが変わった。
縫うような滑りから、ジェット噴射を搭載した滑りへ。
フォアとバックを巧みに入れ替えながら縦横無尽に駆け巡る様は、戦闘機の曲技飛行。周を重ねるたびに領域を塗り替えていく。
空間を巻き込むようにシットスピン。
ブロークンで回転する手足が鋼のスクリューに見える。
足を変えキャノンボールのポジションへ。
この弾丸は、生き急ぐという意志を持つ。
だから速度は絶対に落ちない。
ある音が近付き、ある音が遠離る。
交錯の一点を見極めるように目を見開く。
ロッカーターンから、トリプルルッツ。
着氷のヴィジョンを氷面に投影し、決して目を逸らさない。
一になった軌道が光を放つ。
屋根が、少しずつ溶けていく。
透明標本のように骨格だけが浮き彫りになり、やがてそれも風に溶ける。
心象風景が世界を塗り潰す。
彼は風を味方につけ、氷の祝福を受けている。
ガラスのマントをはためかせ、威厳と共に両手を広げ、ピークの合図。
芯を抉り出すように跳び上がり、四回転サルコウ+トリプルトウループ。 セカンドがより高い、コンビネーション。
水切りの如く滑らかに、ダブルアクセル+シングルオイラー+トリプルサルコウ。
着氷と同時にビートが消え、シンセパッドが何重にもこだます。
飛沫が目に見えるデスドロップからのフライングキャメルスピン。
チェンジエッジと同時にブレードを掴み、スクラッチの竜巻と共に加速する。
地を這うサイレンの音が近付く。
スピンを解き、ここで初めて彼は氷上で足を止める。
カウントダウンのマイム。
ただし、脳に響くのは二つのフレーズ。
「Go to the Start」
「Ready」
海面を渡るように氷上を駆け抜ける。
全ての音が響く中、メインのチェレスタだけが聞こえない。
不在は影となって炙り出される。
彼自身がメロディーの顕現。
たった一ミリで世界との繋がりを試みる、孤独な生物が浮き上がる。
腰を落とし、ハイドロブレーディング。
声に耳を澄ますように氷に寄り添う。
身体を起こして立ち上がり、前を向いて笑う。
スケートは、こんなにも楽しい。
瞬きもせずターン、バックアウトカウンターから、トリプルアクセル。
それは、跳躍ではなく飛翔。
青空の下、軌道が虹を描く。
全てのジャンプは、記録が無意味な一回性。
二度と無い人生を、彼は生きる。
トンプソンの姿勢で最後のスピン。
突然、嵐は消える。
余韻ごと掴み取るように、拳を突き上げた。
ガッツポーズ。
拍手は鳴り止まない。
(「氷上のシヴァ」 了)
本編は以上で終了となります。
お読みいただきありがとうございました。
あと一話、最後に後書きがございます。
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