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氷上のシヴァ  作者: 天上杏
第五章 Skater 霧崎洵
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第31話 世界の中心の名前

「びびったよな。お前知ってた? お父さんの担当が俺の母親だって」


 外のベンチに腰掛けるなり、トーマは言った。

 軽さを装った笑顔が痛々しい。

 俺は小さく首を振る。


「医者は守秘義務があるから、家族にもそういう話はしない」

 病院を出て呼吸は楽になったはずなのに、ずっと胸が苦しかった。


「……これでまたしばらくは面会謝絶かな」

「また?」

「ああいうの、よくあるんだ。元々不安定な人だったから。こっち帰ったら少しはよくなると思ったんだけどな」


「お前のことが分からなくなることも、よくあるのか?」

「いや、あれは初めて。……ちょっと、ショックだったわ」

 トーマは空虚な視線を宙に投げた。


 ぬるい風が木々の葉を揺らす。

 ちょろちょろと力ない噴水を、しばらく二人して見つめていた。


「俺、生まれてこなければよかったのかな」


 ぽつり、とトーマが言った。

 胸の空白をなぞられたようで、喉が詰まった。


「……俺は妹を亡くしてる。だから、そういう問い自体が好きじゃない」

 細く長く溜息をつく。


『今、生きてる。それが全て』

 ……そう言い切れたらどんなにいいか。

 でも、俺達はそんなにシンプルには生きられない。


 トーマは唇を噛み、やがて喉から絞り出すように低い声で言った。

「俺のせいなんだよ。俺を生んで、あの人はおかしくなった」

「……そうなのか?本当に?」

 俺は眉をひそめる。


「《《銀盤》》の呪いだよ。神に背いた罰だ」


 トーマは足元の煉瓦れんがを見つめたまま呟いた。

 深刻な口調は、比喩を超えている気がした。


「お前、おかしいぞ。気をしっかり持てよ。大体、《《ギンバン》》って何だ? お母さんも言ってたな。あのモヤと関係があるのか? 銀なのか? 金じゃなくて?」


 まくし立てる俺を、トーマは諦観ていかんの目で見た。

 瞳から、光が消えかけていた。


「……やっぱり、お前も知らないよな」

「教えろ。それは何語だ? どんな意味がある」


 俺が詰め寄ると、


 銀、盤。


 アイフォンで入力して、画面を見せた。


「世界の中心の名前さ。けど、誰もそれを知らないんだ。……お前も、明日には忘れる」


 俺はすぐにスマホを取り出し、その馴染みの無い単語を検索した。


 銀と盤の字を拾って、中国語のサイトが大量に引っかかった。

 読めそうなものは一つも無かった。


 ……銀色の、盤。

 皿や盆じゃなくて。

 将棋や囲碁を盤上の闘いと呼ぶ。

 それと関係があるのだろうか。

 スケートとも? 


 ……そんなことより。

 俺は面を上げてトーマの虚ろな横顔を見た。


 お前こそ、知らないのか。

 今のお前は、入江いりえ瑞紀みずきの病室にいた金色のむしを、群れで引き連れている。

 後頭部から足までびっしりと。

 取りかれていると言ってもいい。

 呑み込まれたら、死ぬぞ。


「……死ぬなよ、トーマ。もう一度生まれなくちゃならないんだろ」

「生きろと言うなら、その名前を覚えていてくれ」

 託すように呟いて、トーマは立ち去った。


 そして、この日を最後にトーマは消えた。



 翌朝、スマホの検索履歴が全てリセットされていた。

 寝ぼけて操作ミスでもしたかと思ったけど、もう何も思い出せなかった。

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