第30話 Foreigner
ぞわりと鳥肌が立った。
そして病室に視線を移すなり、鳥肌は更に全身へと広がった。
金色のヴェールが、空間を覆っていた。
その密度は今まで経験したどの瞬間より濃かった。
養蚕のように、極小の光蟲の群れが飼育されている。蠢くたびに鱗粉が舞った。
こんな所でまともに呼吸したら死ぬという、本能の警告。
それでも、蟲が作り上げるモヤの光景はどこか美しく、まるで秘められた植物園のようにも見えた。
トーマは何一つ気に留めない様子で、すたすたと奥に歩みを進め、冷蔵庫を開ける。
「あ、桃。オヤジ来たの?」
「昨日ね。でもすぐ帰った」
「水くせえな、言えばいいのに……」
よく観察すると、どうやら入江瑞紀自身もこの空間を埋め尽くす金色の蟲に気付いていないようだった。
……飼い主ではなく、宿主。
横の流し台で、フルーツナイフを取り出して桃を剥くトーマに、俺はそっと呟いた。
「おい、見えてないのか」
「何が?」
「モヤだよ。金色の。この部屋に充満してる」
俺は氷上で、これと同じ物に取り憑かれそうになったんだ。
トーマは瞬きをした。
「何も見えないけど」
怪訝な顔で、俺を見つめる。
……本当に見えていない。どういうことだ。
「刀麻は包丁の扱いが上手いのよね。夫もそうよ。エッジは刃物だから、スケーターと相性がいいのね。けど、あたしはダメ。スケート靴履かなくなった途端、包丁も触れなくなっちゃった」
目茶苦茶な論理だな、と俺は小さく溜息をつく。
「オカンは不器用だもん。そういうのは俺とオヤジに任せとけばいいんだよ」
そう言って笑ったトーマの顔があまりにも空虚で、ずきりと胸が痛んだ。
こういう笑い方を、俺は知っている。
汐音が死んでから三年くらい、母さんが浮かべていた。
だが、入江瑞紀はトーマの声がまるで聞こえていないみたいに、ベッドにすっくと背筋を伸ばして座ったまま、空中を見つめていた。
「……霧崎君」
急に呼びかけられ、俺はびくりとした。
なぜ俺の名を知っているのか。
「刀麻を、死なせないで」
入江瑞紀は光の源のような目で、真っ直ぐ俺を見た。
射止められたように、俺は動けなかった。
そして少しの沈黙の後、
「はい」
意志より先に、口が動いていた。
確かに鼓膜に響く、俺の声。
入江瑞紀は金紗越しの天女のように嫋やかに微笑んだ。
「刀麻と、仲良くしてね。ちゃんと、世界に繋ぎ止めてあげて。……あの子は、神の子よ。だけど、私はまだ、あの子を《《銀盤》》に返したくはないの」
そう言って胸に手を当てて目を閉じた。
からん、とトーマがナイフを置いた。
「……何言ってんだよ。オカンが変なこと言うから、霧崎びびってるでしょや」
そうして手が肩に触れた瞬間、入江瑞紀はカッと目を見開いた。
髪の毛が静電気を帯びる。
般若を超えた真蛇の顔で、トーマの手を振り払った。
「触らないで! あなた誰?」
「誰、って俺だよ。……マジで言ってるの」
「嘘吐き! あたしには分かるの! あんたからは氷の匂いがしない!」
爛々《らんらん》とした目からは、正気が消えていた。
俺は呆然とするトーマを押しのけ、松葉杖の存在も忘れてナースコールに手を伸ばした。
ギプスの足に鈍い痛みが走る。
すぐに二人の看護師が来た。
「芝浦さーん、興奮しちゃったかな?」
「離して! あたし今大事な話をしてるの! 刀麻はどこ? またあたしから刀麻を取り上げようとするのね! あたしは、絶対に《《銀盤》》の思い通りになんかならない!」
入江瑞紀は看護師達に押さえつけられながら、ありったけの力で暴れていた。
「霧崎先生呼んで」
ベテランが若い方に低い声で呟いた。
間もなく、スクラブ姿の父が早足で入ってきた。
「芝浦さん、落ち着く注射打ちますからね。ふわーっとしますよ」
父は俺達の方を見もせず、慣れた手つきで暴れる身体を制しながら腕をまくった。
透ける肌に、内出血で赤黒くなった注射跡が幾つも浮き上がっていた。
その間もずっと、入江瑞紀は金切り声で何か叫んでいた。
「……洵。なぜここにいる。帰りなさい。君も」
注射を打ちながら、父は声だけで俺達に告げた。
「あの、俺、この人の息子なんです」
弱々しく、トーマが言った。
「知ってる。大丈夫だから。ただのせん妄だ」
それから、これは持ち帰って。
どんなに小さくても刃物は絶対に持ち込まないで。
厳しい口調で、ベテランの看護師がトーマにナイフを突き返していた。
……刃物がダメということは、スケート靴もダメということだ。




