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氷上のシヴァ  作者: 天上杏
第五章 Skater 霧崎洵
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第24話 ジャンプの言明

 気付けばいつもの倍、汗をかいていた。


 そして、その後のジャンプ練習。

 クワドに挑戦する前に俺が乗り越えなくてはいけない壁。

 それは、トリプルアクセルだ。

 最後に綺麗に決まったのは、二月の全中スケート。

 もう三ヶ月以上クリーンに降りていない。


「トリプルアクセルを跳ぶ時のお前は、何か超越的な物にすがっているようにすら見えるぞ。願掛けでもしているのか」


 ぎくりとした。


『トリプルアクセルは神様からの贈り物なの』

 エコーでぼやけた声が脳に響く。


「願掛けはしていません。むしろ俺はいつも、絶対に失敗しない、と覚悟を決めて跳んでます」


「絶対に失敗しない、ね。で、お前はそもそもトリプルアクセルが得意なのか?」

「……いいえ」


 絞り出された本音。

 岩瀬先生には嘘がつけない。


 前向きで踏み切る特別なジャンプ。それがアクセルだ。

 宙にダイブする問答無用の不安感は、何度目だろうと肌が吹きさらしになる。

 だが、汐音はアクセルが一番好きだった。

 前を向いて跳べるから楽しいのだと。


 俺にすれば崖からの身投げでも、汐音に掛かれば「時をかける少女」のタイムリープだ。

 跳躍の意味も次元も違った。


 俺のアクセルは汐音のアクセル? 

 ……どの口が言ったのだろう。

 こんなにもあっさりと、俺は汐音と違う。


「言葉はお前を縛る。現に、失敗しないという言葉が、既にお前を失敗に縛っている。じゃあ、成功すると言い聞かせればいいかというと、そんな単純な代物でもないんだな」

 岩瀬先生は一息置いた。


「さっきお前は覚悟と言ったが、意地と覚悟は違う。絶対に失敗しないも絶対に成功するも、意地というコインの裏表でしかない。俺の考えはこうだ。本当の覚悟とは、たとえ失敗しても結果の全てを受け入れるという心構え。一世一代の場面で、たとえトリプルがシングルになったとしても、それは自分のスケートだと責任を持つこと。氷上に立つからには、演技のパッケージには自分の名前を書き入れるということだ」


 俺のトリプルアクセル。俺の演技。

 霧崎洵というスケーターの名前を刻む。


 突然、視界の片隅で、トーマがトリプルアクセルを跳んだ。

 瞬間、ものすごく正確な配列で分裂して見えて、俺は血の気が引いた。

 合わせ鏡の錯覚が、並行世界の写しに見えた。


「……あれを、百発百中だと思うか」

 ささやくように訊かれ、正気に戻る。

 だが、俺は答えられない。


 アクセルだろうがクワドだろうが、トーマのジャンプは精密機械だ。

 初日を最後に、あいつが転ぶどころかつまずく姿さえ目にしていない。

 どの世界線でも、あいつは完璧に降りる。


「ジャンプに百発百中は無い。九十九回成功しているからと言って、次も成功するとは限らない。……だが、そういう覚悟だけが、百回目の成功を生む」

 そう言うと、先生は指先で俺の身体に十字を切った。

 氷面と並行な肩、そして垂直の軸。


「さあ、お前もやってみろ」

 ぴり、と電気が走る感覚がした。

 ぶれないライン。

 くだらない確信も仮定も捨てよう。


「一番楽な入りで行けよ」

 先生の声が飛ぶ。

 俺は深呼吸をした。


 バックアウトカウンターからのトリプルアクセルをイメージする。

 全く楽ではないが、それが一番自分らしく跳べる気がした。


 身投げ上等。

 俺にはこの世界しか無い。



 ずっと不調だったトリプルアクセルが、綺麗に決まった。

 約四ヶ月ぶりのクリーンな着氷。

 エッジが氷を掴んだ瞬間、足元から全身に生命力がほとばしった。


 トリプルアクセルは神様からの贈り物なの。

 ……いつも聞こえてくるあの言葉は、どこからも聞こえてこなかった。

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