雨の一夜 03
手に持っていたライトで照らしてみると、大きなムカデが青白い光の中に浮かび上がった。
最初は丸まっていたので、誰かのリュックの紐か飾りなのかも、と思ったがそれは確かにぞろりと動き、ミワは声にならない悲鳴をあげる。
黒光りする胴体は指の太さよりも少し大きく、並んだ足が鮮やかなオレンジ色だった。虫は今まさにミワの足先から逃れ、人がいちばん重なっている中心部分に潜り込もうとしていた。大きな鋏のついた顎先が、片足をたて膝にしたルリコの右膝元三センチまで迫っている。
「う、ルリちゃん」
刺激しないようにルリコをつつく。目だけこちらを向いたルリコに、
「動かさないで、足。そのままそっと、右の膝のところ……」
つられるように、ルリコが目線を下げる。
ミワが照らした時、ムカデは更に数ミリほど膝がしらに近づいていた。
ルリコはそこに視線をくぎ付けにしたままだ。表情は全く変わらない。
ムカデは出方をうかがうように短い触角を振り、ルリコの膝の前をこするように迂回していった。
ミワはゆっくりと、まともに照らさないようライトで追う。
ムカデの向うすぐ先に、地面につけているツヨシの小さな手が照らし出された。
と、動きは突然だった。ミワにも何が起こったのか分からなかった。
ルリコは土についていた膝を立てて中腰になったはずみに、そのかかとで思い切りムカデの頭を踏みつけた。まわりはどちらかと言えばぬかるんでいたが、下にちょうど石でもあったのか、ムカデはがっちりとかかとに挟みこまれたようで、ぐねりと胴体をうねらせた。
ルリコによりかかるようにしていたツヨシがバランスを崩して前につんのめる。そこに左手を伸ばしルリコはツヨシの野球帽をかっさらった。
すぐに右手に持ち替え、上からうねる胴体にかぶせ、ぐるりと器用に丸めこみツバを無理やり折り曲げてさらに丸め、そのまま真後ろ、桜の大木の並ぶ方へ思いっきり投げ捨てた。
あっという間のお手並みで、数秒もかからないほどだったろう。
ツヨシは虫には気づいていなかったせいで、自分の帽子になされた圧倒的な暴力行為に、終始唖然としている。
そこにルリコはすかさず言った。
「ツヨシ、アンタがあんなふうになるのはイヤでしょ? だったらガマンして」
その剣幕に、ツヨシは泣き声すら飲みこんでまたうつむいた。
「すごいね……」ミワは純粋に感動していた。「さすがだよ、ルリちゃん」
何も答えないので、怒っているのかと横目でみたら、ルリコはひとり、肩を震わせている。
本当は、かなり怖かったのだと今更ながらミワも気づく。
ルリコの肩をそっと抱き寄せ、震えが止まるまでミワは抱きとめていた。
あたりがとっぷりと暮れたが、ケンイチにはまだ動きがない。
もしかしたら死んでしまったのか、とそっと近くにきていたケンイチの口元に手を持って行くが、息のあたる様子もない。背中の、胸のあたりを強く押さえてみると、ようやく、とくんとくん、と速いペースだったがかすかに心拍が伝わってきた。
「さむい」
一番小さいツヨシがそうつぶやくと、息が白く立ち上がった。
姉のミチエは、弟にスヌーピーのシートを固く巻きつけ直して、上からギュッと抱きよせた。
「はい、海苔巻き一丁」ちょっぴりふざけて言ってみせたミチエの声も、かすかに震えている。
残った子どもたちは、しぜんとひと塊りになっていた……倒れたままのケンイチの周りに。
低く垂れこめているだろう雲の中、ゴオゴオと低い爆音が轟いている。
いつもは聞き慣れている、飛行機のエンジン音のようだ。
この村の上空は、地域的にも長距離旅客機の通り道になっているらしく、こうして夜になってもよく飛行機がゆっくりと横切っていくのを、ミワも知っていた。
ミワはぼんやりと上空を見上げる。
大きく育った木々のせいで、空はあまりのぞめない。それでも、飛行機の音はいつもとあまり変わりなく、地上にまでしっかりと届いていた。
気づくとルリコも、空を見上げている。
雨の夜、妙に地に響くその同じ音に耳を澄ませているようだ。
ふと、ミワと目が合った。
ふたりはしばし見つめあい、だんだんと音が小さくなってやがて、消えたのに気づいた時にそろって小さく息を吐いていた。
「おかしいよね」
たずねられもしなかったのに、ミワはそうつぶやいてかすかに笑う。
まだ笑みが残っていたのが不思議だった。
「こんな切羽詰まった状況なのにさ……」
ルリコも同じことを思っていたようだ。
「うん」やはり、かすかに笑みを浮かべて続ける。
「飛行機に乗った人たちって、私たちのことなんて何も知らずに、この上を通り過ぎて行くんだろうね」
「お土産何買ってこよう、とかね」
声に出さずに二人は笑う、束の間だけ、ミワの身体に温かみが戻ったようだった。
恐怖と不安の中でミワはおかしな格好で風呂に入っていた。
風呂桶に覆いかぶさるようにして、服も靴も身に付けたまま、しかもその風呂場は妙に寒かった。水は生ぬるく、空気はカビ臭さと饐えた泥の匂いに冒されていた。
風呂に入っているのに、どうしてこんなに疲れが抜けないのか、どうして寒さが増すのか、そしてどうしてこんなに、恐ろしいのか。
気づいたら、辺りは白い靄に覆われていた。身体はじっとりと濡れて、細かく白い湯気が立ち上っている。
うつらうつらしていて、変な夢を見ていたようだ。
少しでも眠ろう、ミワはまた無理やり目を閉じた。




