雨の一夜 02
祖父よりもずいぶん前に、祖母は亡くなっていた。
しかしミワが幼い頃、時おり、祖母が鳴らす鈴と鐘の音を確かに聴いていたのだった。
「オショウヤ、だよね……」
「うん」
―― ……の国の出の 黒衆の はじめの九人 ここにまつりて
拝むひとこえ
山八つ 谷は九つ 身は一つ 我が行く末は 鳥の里
みな人の 悪しき病を 救はんと ちかいの船に のるぞうれしき
ミワがずっと以前に聴いた、御詠歌の一節が、途切れ途切れに耳に届く。
オショウヤ、と地元で呼びならわされていたその歌は、代々女性たちに受け継がれていた。
仏事の折りに、そしてたまには神事の後にも女たちはそれぞれのお鈴と鐘とを持って集い、夜通し謡っていた。
それがなぜか、この宵に聴こえてくるのだった。
すでに元白鳥では御詠歌の風習は廃れていたようだ。
祖母が亡くなった時、御詠歌の用具一式が出てきて、誰が相続するかで親戚一同がもめたことがあった。
いわく、すでに村から出ている人間には全く意味がない道具だ、
いわく、すでにこの地区でも『オショウヤ』など、どこでもやる人は残っていない……
煌めく小さな鐘と、持ち手に紫の立派な房がついた鈴と、小さな槌と、わずかな経本の束、それを見つめて、幼いミワは大人たちの会話をただぽんやりと聞いていた。
―― こんなにきれいな楽器なのに、もう、ムヨウノチョウブツ、なんだ。
でも、ムヨウノチョウブツ、ってなんだろ?
すっかり忘れ果てていたその歌声が、高く低く、どこからともなく響いてくる。
―― ちりーん
―― かーん
「やだ」
サエちゃんが耳を押さえる。「こわい」
スガオも、ツヨシも半泣きになっていた。
「何この歌」
「キモい、どっから流れてるんだよ」
「こわい」
「こわいよ」
御詠歌は、確かに何かに捧げるための歌のはずなのに、聴けばきくほど、ミワは落ち着かない気分になる。
「みんな、耳を押さえて」
そう言って自分も耳を押さえたが
「止まない!」
スガオがついに叫び出す。
「耳を押さえても、中から聴こえてくる!」
わぁぁぁ、スガオの叫びが闇を切り裂く。
「オレたちやっぱりここで死ぬんだ、だから聴こえるんだ、やっぱここから出ないと死ぬ、オレたちみんな死ぬよヤバイよ、しぬんだ、もう帰る、ここを出」
ぱん、と乾いた音が響く。
スガオが立ちすくんでいた。
頬を押さえて。
その前に立ちふさがるように、ルリコがいた、片手を振り上げたまま。
「ルリコ……」
スガオが笛の鳴るようなかすかな声を出す。
「なんで叩くんだよ」
「誰もここから出ちゃ駄目だよ」
ルリコの声はあくまで冷静だ。
その冷静さにふと我に返り、そうだよ、とミワも加勢する。
「雨が止むまで、出ちゃならん、だからね」
スガオが崩れ落ちる。
「だってさ」
もう自我もすっかり崩れ落ちているようだ。
「あ、あ、雨が止まなきゃ、出られないんだろ? 雨が止まなきゃ」
「うん」
ミワは、スガオが言いたいことが痛いほどわかる。
「雨、いつ止むんだよぉぉぉ」
すでに彼は号泣している。
「だいじょうぶだよ」ミワの言葉には全く説得力はない。
「明けない夜はない、止まない雨もないんだから」
「そうそう」ルリコの相槌すら、闇の中に空虚にひびいた。
―― どうしよう。夜明けまで耐えられないかも。
しかも、夜明けに雨が止んでなかったら、更にここにいなければならないだろう。
いてもたってもいられぬ焦燥感に、ミワはつい立ち上がろうと足を動かし、そして気づいた。
ミワはそのまま動作を止める。
踏んでいた草のすぐ根元に、何かがうごめいたのだ。




