オオタルにて
車のテールランプはすでにどこにも見えない。
ただ、どこかから低い轟きが伝わってくるだけだ。
滝の音なのか、エンジン音なのかもミワには判らない。時におどろおどろしく、時に消えそうに止むことがない。
山のふもとの方からは何の音もしてこないところを見ると、彼らはまだ山の中にいるのかも知れない、とミワはいったんたちどまり、荒い息をできる限り抑え、さらに耳を澄ませた。
かすかに
―― 助けて
と聴こえた気がして、ミワはまた足を動かす。
カーブの先に、左に入る道が見えた。オオタルへのハイキングコースだ。
ちかり、と左のずっと奥に赤い火が見えた気がして、そのままオオタルへと駆けていく。
スマホで照らす先の暗闇には、相も変わらず白い針のような雨が絶えず写り込んでくる。
―― 神様。
ミワは思わず心の中で祈りをささげていた。
―― 何の神様か分かりません、でも、神様、子どもたちを助けてください。
まさか、とは思ったが、大人たちの様子は遠くから見ても変だった。声は聞きとれたし、喋り方もイラついていたとは言え、特に不気味とかそんなこともなかった。
それでも、変なものは変だった。
「予感をバカにしなさんなよ」
目玉ババアの声がよみがえる。
ミワは木立のかぶった急カーブの手前で、すんでの所で立ち止まった。前に大きくよろめいて脇の崖肌に思いざま手をついてしまい、小石が掌に喰い込んだ。
声を上げてしまったかと身をこわばらせたが、前方の集団には全く気づかれていなかったようだ。彼らは作業に夢中で、すっかり背後に気をつける様子もない。
彼らは雨の中、紺色の雨合羽を上下着こんで、頭には妙に明るいヘッドライトを灯し、三台ほどの車のライトが照らす道すじ沿いに一列に並んで立っていた。雨合羽の表面が雨でてらてらと光っている。
彼らは二人ひと組のリレー形式で、麻袋を両方から抱え、次の組に渡していた。麻袋は口元をしっかりと縛られていて大きく膨らみ、あるものは暴れ回り、あるものはぐったりとしている。
彼らはそれを次つぎと運んで、滝つぼの方ではなく少し上がった崖の方に運んでいる。そして一番奥、滝つぼに近い崖から、いっせーのせ、で放りこんでいる最中だった。
「いっ、せーの、で」
幼児がかけるような原始的な掛け声は妙に手だれていてそこに、くぐもった叫びや泣き声がかぶっていた。
彼らは、袋を……子どもらをオオタルに投げ込んでいたのだ。
暴れ回るものも、すでに静かになったものも、次から次へと。
今まで見たこともないような青白い妖光が、投げ落とされる下のあたりで脈打っている。
いっせーのせ、の後間をおかず、ひゅーうっ、と打ち上げ花火が上がる時にする甲高い笛に似た音が滝の下の方から聞こえ、その時に明かりは最もまぶしくなる、そしてすぐに鈍い音がかぶさり、それまでしていたかすかな悲鳴や泣き声が突然止むと明かりもまた静まるようだ。
ミワはこぶしをくわえ、悲鳴を押さえる。
どうすれば、助けられる? いや、すでにもう子どもたちは……
「あと、いくつだ?」
桑原らしい声が列の途中から飛ぶ。一番車の荷台に近い男の声が
「あとひとつ、ひとつ小さいのだ」
そう叫び返した時、ミワは自分でも信じられないことに隠れていた場所から飛び出していた、大声を張り上げて。
「だめえぇぇぇぇぇぇ!」
小さな袋を荷台から担ぎあげていた男が、完全に虚を突かれたのか動作が止まった。袋が跳ね上がり、それを取り落とす。袋の端が荷台の角にひっかかり、ざくりとよく響く音とともに袋の口が裂けた。
大きく開いた袋から、小柄な少女が飛び出してきた。少女は本能なのか、ミワが発した叫びの方に弾丸のごとく走ってくる。
「逃げたぞ!」
もはや顔を失くした男のひとりが叫んだ。「捕まえろ」
ミワは道のまん中で両手を拡げ、駆けこんできた少女を全身で受け止める。
しがみつく小さな固まりはずっしりと重くて、ぶるぶると震えていて、冷たい雨の中でたしかに、暖かかった。
ぼおっとしたのは束の間ですぐに
「待て!」追手に気づき、ミワは少女を固く抱きしめ、身がまえた。
策があるわけでは、まったくない。それでもミワは男たちに向かい立ちはだかる。
と、そこに
「うわっ!」
迫るヘッドライトの白が突然、黒い影に遮られた。影は形を変え、男たちに襲いかかる。
まさか、とミワは呆然と立ち尽くしていた。
どこから湧いてきたのか、夜中なのに、カラスの大群が男たちに襲いかかっていたのだ。
カラスの短い鳴き声が重複する中、男たちの悲鳴が錯綜する。
ことばにならない男たちの叫喚で、ミワは足がすくんでいる。
ひらりと黒い羽根が目の前をよぎる。その時
「おねえちゃん」
腕の下から、かすかな声がした。
はっと我にかえり、ミワは少女の腕をつかみ直し、また、走り出した。
向かうはふたたび、サクラヤマ。




