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カラスが来る


 いつになく暗い空に、カラスの声がよっつほど響いた。


 まだ夜明け前というのもあったが、雲がどんよりと垂れこめていて余計に暗く感じる、雨が近そうだ。


 見上げていた空から目を戻し、昭二は、ふう、と息をついてリードを持ち直してから、玄関の引き戸をきっちりと締めた。

 白いトイプードルのマルがうれしげに短い尻尾を振っている。


 どこか少し遠くから、声が響いた。


 カラスとは違うが、よく通る叫び、すぐにそれは止んだが彼はびくりと肩を震わせ、また空を、そして歩いて行こうとした山の方を見る。


 どっしりとした影が、闇の濃い空に辛うじて浮かんで見える。

 昭二はしばらく立ち止まって耳を澄ませていたが、その後は何も聞こえてこなかった。


 午前五時、いつもの時間。

 そしていつものコース。

 団地入口が見えてくると、自然に足取りは重くなる。

 大きな山懐に抱かれたこの団地には、何かと不穏なうわさが多い。

 不審者、痴漢、続く自死、家庭内暴力による放火、町内会でのいざこざの数々、それに、行方不明者……


 先月いなくなった団地住まいの女子高生のことをふと思い出し、昭二はぶるりと肩を震わせる。

 リード伝いに軽く引っ張られ、マルは短く抗議の声をあげた。


 部活帰りだったか、彼氏と遊んで帰ったのかとにかく帰りが遅くなった彼女は、団地内の自宅まであと数百メートル手前というあたり、県道をしゃかりきに自転車をこいでいたのまでは、目撃されていた。しかし、家には辿りつかなかったのだ。


 彼女の自転車は、団地の入口、まさに昭二がいつも左折する広い交差点あたりに、打ち捨てられていた。

 血痕も、争ったような跡もなかったし、なにより自転車も無傷だった。

 しかし、それから彼女の消息はぷつりと途切れた……


 交差点を左折し、団地の灯りもすっかり背後に消えた頃には、昭二の足取りもまた、軽くなった。


 だが、右側に山肌の迫る細い道をひたすら進んでいた時。

 また、短い叫びが聞こえた。

 声というより、笛を鳴らすような高く短い音。

 しかも、それは歩きだした時よりももっと近い。

 そして何より彼をぞっとさせたのは、


「……すけ、て」


 確かにそれは、ことばの一部だった。


 彼より先に反応したのは、マルだった。

 マルは声の方にだっと駆け出した。はずみでリードが手首から外れた。昭二はあわてて犬の後を追う。

 山を回り込むように曲がりくねった細道を、犬の白い影が小さくなっていく。


「待て!」


 押し殺した声でそう叫び、昭二は転びそうになりながら精一杯のスピードで追いかける。

 急に犬の姿が消えた。

 左脇の水路に飛び降りたようで、リードの蛍光色がいっしゅん路傍にちらりと光った。水路はかなり低くなっており、その脇には所有者ごとに好き放題につくられた畑や果樹園が拡がっている。

 呼吸を乱した胸を押さえ、昭二は果樹園の脇で立ち止まる。


 見通しのきくギリギリ、道路脇から三列目くらい、低くもつれたように枝が伸びる木の影に、白っぽい塊がみえた。

 かすかに動いているようだ、マルはそこめがけで駆け寄っていた。

「やめろ」

 更に声を押し殺し、昭二はおそるおそる塊に近づく。

 地面の起伏が細かくて足をくじきそうだ、枯れた雑草がぶ厚く積り、足首にまとわりつく。


 あと数歩、というところになって、ようやく気づいた。


 犬はその周りを嗅ぎまわって、低く唸っている――赤っぽい下着姿の、その女の周りを。


 髪は長くもつれ、顔を覆っている。まだ三月に入ったばかりだと言うのに、下着の肩ひもがずれて、背中と肩とが丸見えだった。

 すそも破れ、太ももから裸足の足先まですっかりと泥で汚れ切っている。

 体育座りのようにできるだけ丸めた体は細かく震え、低くか細い呻きを上げ続けていた。


 こんなに近づくまで、全く気づかなかったことで昭二はおろおろとあたりを見渡す。


 どういうことだ? 誰かに棄てられた? ここで襲われたのか? 

 犯人がまだ近くに? 


 犬は相変わらず周囲を嗅ぎまわって唸り続けている。


「おい……アンタ」


 へっぴり腰で、昭二は女の方に小さな懐中電灯を向けた。

 黒い髪がもつれて、木の葉や小枝が絡まっている。抱えた膝も腕も、引っかき傷やら泥汚れがひどい。


「だ、だいじょうぶか? 救急車を」

「……か」


 女が何か言おうとしている、昭二はそっとにじり寄った。「何?」


「か、か」

「蚊?」


「カラスがぁ」女が顔を上げた。


 次の瞬間、昭二は気づいた。

 なぜ、下着が赤かったのか。


 顔を上げた女は、笑っていた。

 もつれた髪の合間にのぞく目の片方、ぽっかりと穴があいている。

 女が肩を震わせて笑うたびに、眼窩から新しい血が噴き出した。


「カラスが来るぅぅ」


 女のことばは、昭二の長い絶叫でかき消された。

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