ヤベじい
本当なら、いったん東京に帰った方がいいとは思うけど、明るいうちに団地に帰って、家から一歩も出ないでいれば大丈夫だろう、とようやくケンイチが答えた。
「ま、おまえんちおじさんちも……あんまアテにならなさそうだしな」
「よくご存知で」
にへらっと笑う伸介の顔が目に浮かぶ。
「ねえ、ケンちゃん。目玉ババアに、報告には」
「行くなよ」
ケンイチはそこだけは強い目線をくれた。
「そのまま、家に帰ってすぐ鍵閉めて、オレが行くまで誰が来ても出るなよ」
バスならばうまく掴まえられれば三十分くらいで着く。
そのうちにケンイチが自転車で帰って、その足で彼女の所に寄ると言う。
自転車でもゲキ漕ぎで帰れば四十分かそこらだと言うので、あまり変わりないだろう。
「オレ、じいさんに連絡してみるわ」
言いながらすでに、スマホをタップして耳にあてる。
「えっ、ヤベじいに!」
ついミワの声が弾む。
ケンイチの祖父・一志は地元小学校に締め縄作りの講師に行ったりホタルの幼虫を育てる指導をしたり、昔から精力的に活動していた。
子どもたちからも『ヤベじい』と呼ばれて大人気で、ミワの祖父とも同い年で近所ということもあって、ずっと仲が良かった。
ケンイチはしばらく固まっていたが、
「ちくしょう、山にいるのかな……電波届いてねえ」
とスマホを投げ出した。
「多分またボランティアで山案内だ、近頃他所からのハイキング多いから」
ヤベじいは七十をとうに過ぎていたが、今でも何かというと頼まれてハイキングや観光の案内をして歩いたり、イベント運営にかり出されたりしているらしい。
「地域のこともけっこう詳しいし、目玉ババアのことも他の連中よりかはあんまり悪く言ってないしさ……もしかしたら呪いについてももう少し詳しく何か知ってるかも」
じいさんが捕まったらすぐに、オマエの家まで行ってもらうよう頼んどくから、とにかく帰ったら家から出るなよ、そう言い残し、ケンイチはトレイもそのままで慌てて外に飛び出して行った、が、すぐに戻ってきて、気まり悪げに壁に立たせてあったギターを手に取った。
「やばい。腐れトマトの襲撃を受けるとこだった。わりい、これ先に返してすぐに行くから、もう二十分くらいよけいに待ってて」
バスは幸運にもすぐにやってきた。ミワは今度はためらうことなくバスに飛び乗った。
バス停からは早足で家を目指す。
もちろん、目玉ババアの家の前を通らないコースで。
どこからか呑気そうに鳴き交わすカラスの声を耳にするたび、身を縮める。
ずっと見張られているみたいだ。背中にいやな汗が伝ってくる。
家の玄関の鍵がどうも調子よくない。
何度もさし直し、力を込めてひねってみるが、なかなか開かない。何も考えずにさし込むと、すっ、と開いたりすることもあるのに、何故かその日は上手く解錠できなかった。
「おい」
急に、低い声で後ろから呼ばれ、ミワは飛び上がった。
ドアに背をつけるようにふり向くと、そこにはいつの間にかシルバーの軽自動車が停まっていて、年配の男性が寄りかかって立っていた。
「悪いわるい、驚かしちまって」
「ヤベじい……?」
「ケンイチから電話来てさ」
ヤベじいは、昔見た時と全然変わりがないように見えた。
穏やかな笑みに、思わずミワの膝から力が抜ける。
「何か怖い目にあったってな」
「す、すみません」
すでに涙がにじんできた。
「あの、ヤベじい、じゃなくて矢部さん、どこまで話を」
「いや、ヤベじいでいいよ、みんな相変わらずそう呼んでるし」
まだほとんど聞いてないんだ、とりあえず家に入っていいか、とヤベじいは開いたばかりの玄関先でもうゴム長靴をぬごうとしている。
靴下の親指のところに大きな穴があって、おお、こりゃまたちょいと……と言いながら片足ずつ持ち上げてその場で脱ごうとしていた。さすがケンイチの祖父だけあって、あわてん坊だ。と、彼が急に背をぴんとのばし、耳を澄ませる。
「もう来たな、やっぱり若いもんは速いなあ」
「何ですか」
「自転車の音」
言っている間に自転車にしてはやや派手な金属のきしみが耳に届いた。
「いくら直しても音が直らん、すぐ、来たのが分かるのさ」
生垣沿いの坂を駆け上るように、自転車の影が迫る。
息を切らし、髪をふり乱したケンイチの頭がひょこりと現れた。
「おい、誰だアンタ……ってあれじいさん、もう着いたのか」
「相変わらずそそっかしいな」
溜息をつくヤベじいは既に玄関先で器用に靴下を脱ぎ終えていた。




