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病院にて 02

「だめ」


 そう言っている。

 そんなに困った感じでもないが、ことばははっきりしていた。


「だめ、行けない」


 しばらく沈黙が続いたので、ミワはそっとドアをノックする。

 返事はない。


「失礼しまーす」

 ごくごく小さな声で、ミワは中に足を踏み入れた。

 ドアの近くで、ミワはごくりとつばを飲んで立ち止まった。


 菅田吉乃は、ベッドの端に座っていた。窓の方を向いて、足を垂らして。

 白っぽい病衣の背中に、長い黒髪がさらりと流れている。

 窓枠には、カラスが止まっていた。


 先ほどの会話の相手は、鳥だったのだろうか?


 カラスがちょん、と跳んで彼女がゆっくりと振り向いた。

 ミワは、思わず

「あの……」

 ことばをのみ込んだ。


 彼女は右目に、白い眼帯をつけていた。眼帯の下にはぶ厚いガーゼが挟まっている。

 それ以外には、特にどこが悪いという感じもなかった。

 しかし、顔はまっ白で、端正な顔立ちには恐怖がありありと刻まれていた。

 唇だけは、笑いの形になっているのに。

 その唇が、はっきりとこう告げた。

 少し震えてはいたが、高くて澄んだ声だ。


「よかった。かわりがきた」

「えっ?」


 カンダヨシノは足もとのサンダルをつっかけた。

 いつの間にか、カラスはいなくなっていた。

 足早にミワの前までやってくる様子は、とても入院中には見えない。

 ミワよりもわずかに背が高くて、すらりと痩せている。幼い頃元白鳥訪ねた頃に見た顔かを急いで思い出そうとしたが、見おぼえがなかった。

「あの、かわり、って」

 彼女が口をゆがめて笑う。

 やっぱり細かく震えている。震えに合わせ、かすかに消毒薬が匂う。彼女じしんの匂いはまるで感じられない。

 左手でミワの右手を押さえた時、病衣のそでが肘まで滑り落ちて、肘の内側に貼られたままの絆創膏がみえた。

 彼女はミワの片手を押さえたまま、空いている右手を振りかざした。そこに握られていたのは、銀色の小型メスだった。窓からの日射しでそれはちかりとまたたいた。病院内でよく使われていそうな、しかしどうして彼女が持っていたのかは分からない類の代物だ。


「これでやっと……かーわった」


 恐怖よりも本能的な何かが、ミワの身体を動かした。左利きだったのも幸いしたかもしれない。ミワは左拳を固く握り、ガラ空きになった彼女のみぞおちを突こうと軽く後ろに下がった。が、刃先はミワに向かうことなく、


「ちょっ……待って」


 止める間もなく、カンダヨシノじしんのまっ白な顔――頬のまん中――を直撃した。


「!」


 血しぶきが飛ぶ前に、手が離れミワはドアまで跳び退る。彼女が上を向いたせいで、赤いしぶきは天井に散った。

 ぐさ、ぐさ、と彼女は自分の手で何度も自分の顔を刺した。骨に当たっているはずなのに彼女が手を動かすたびに切っ先はいとも軽々と彼女の頬につき刺さる。ベッドにも細かいしぶきが飛び、あたりが赤に染まり始めた。


「止めて!」


 かすれ声を何とか絞り出すが、彼女は恐怖と苦痛とに顔を歪めながらも、ただ、くちびるだけは楽しげに笑いを形作っている。その上唇にも刃が当たり、いとも簡単に肉片は鼻の上に踊り上がった。ミワは彼女から目を離せない、それでも、じりじりと扉ににじり寄り、看護師を呼ぼうと息を吸ったが、急に


「ははははははは」


 高く澄んだ笑い声をあげた彼女に押し出されたように、病室から飛び出した。


 逃げなくちゃ、とにかく、逃げなくちゃ。


 後を追いかけて来たようだ、それもまともに見られず、ミワはもつれる足を叱咤して出口を目指す。

 ナースセンター前を過ぎる時、ようやく悲鳴と足音を拾う。

「カンダさん! 止まって!」

「何?」「ちょっと止めて! まずいよアレ」

 ガラスの割れる音、高い笑いと怒号の数々、最後に長い悲鳴を背中に浴びながら、ミワは後もふり返らず、覚えたばかりの非常階段を駆け下りてただひたすら逃げた。

 正面玄関の外に走り出し、ばくばくする心臓を上から押さえつけ、とにかく呼吸を整えようとしている耳に、切れ切れに声が届いた。

「飛び降りだって、若い子」

「何階?」

「六階らしい」


 確認する気も気力もなく、ミワは滑りこんできたバスにすぐに飛び乗った。

 行き先を確認していなかったが、幸運にも駅行きだった。



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