とんだ災難の幕開け
――ついてない、とにかくついてない
ミワの頭の中にはずっとその言葉が回っていた。
とぼとぼとバス停から歩く、春の夕暮れのこと。
切れるはずのないチェーンベルトが、突然切れたのだ。
試しに行ってみた学校からの帰り、しかも大通りの交差点のど真ん中で。
よろけた拍子にあやうく、曲がって来たトラックにひかれそうになった。
通学に使う予定のチャリは、すでに確かにオンボロだった。
トモエの友人宅から貰った時からチェーンカバーの後ろ側が取れていた。自転車屋さんに見てもらったが、そのままでいいと言うのでそのまま乗っていた。そうしたら、このざまだ。
頼りになる家族は近所にはいないし、頼りにしているトモエは、今は仕事で北海道に行っている。
もちろん、伸介宅に頼る気は毛頭なかった。
スマホで近隣を検索してようやく見つけた自転車屋に向け、とぼとぼとチャリを引いて行ったまではよかったが、
「うちで買ったのしか修理は見ないことにしてるんだけど……」
隣宅の組長にちょっと似た感じの、痩せた自転車屋がしぶしぶといった感じでのぞいてからこう言った。
「ゴム製のベルトチェーンは、切れにくいはずなんだけどさ、誰かにイタズラで切られたとか……」
ミワの胃のあたりがずしんと重くなる。しかしオヤジはこう付け足した。
「後ろカバーが外れてたのか、ああ、これだ、ほら」
外れたチェーンカバーの場所に、飛び出したまま残っていたネジの先がずっと当たっていたせいだ、とオヤジは断定した。
のぞいて見ると確かに、ネジ先が飛び出している。内側を向いていてかなり見づらかったが確かに指摘通りだった。
そして、ミワが見せてもらったベルトは、細く裂けたようになっていた。
確かに、イタズラの類ではなさそうだった。
ベルトは取り寄せに時間がかかるから、また連絡するよ、あ、料金、六〇〇〇円は見といて、オヤジはそう言ってから、すぐに他の自転車の脇にかがみ込んだ。
すでにミワのことは眼中にない。
一方的に責められたような感じがして、ミワの方もロクな挨拶もせずに、店を出た。
時間がかかる、っていったいどのくらいですか?
と聞くべきだった、とだいぶ歩いてから気づいた。
今日は実際に通学時間を計るために家から学校まで往復しただけだったのに、いきなりこれだ。
ちょっと駅ビルに寄って、本屋に入ったり服を見たりしていたのどかな時間が今となってはうらめしい。
自転車屋から、また通学ルートに戻り、今度は近くのバス停を探す。
たしか、本数は少ないながらも、元白鳥まで行けるバスがあるはずだ。
そうしたらちょうど、目当てのバスが少し前方のバス停にいるのを見かけた。
ミワ、あわてて走るが、運転手は気づいていなかったのだろうか、それとも時間に厳しいのか、儲かり過ぎているのか、さっさと走り去ってしまった。
臭い排気ガスを散々かがされ、ミワは涙目で咳き込んだ。
ふてくされてバス停脇に佇んでいると電話が鳴った。
実家にいる兄の圭吾からだった。
「どお? 試しに学校行ってみたか?」
ノンキな口調についイライラと答える。
「今帰る途中」
「なんだよ、何怒ってんだよ」
「大変だったんだからね、家に着いたらまた連絡する。ママは?」
「しらね、ところでさー」
兄の声が急に小さくなり、「は?」ミワは思わず大声を上げる。
通りの向こう側を歩いていたベビーカーの女性が何ごとかとこちらを見ている。
「……のこと、聞いたか?」
「何?」
兄がわざと声を潜めているのに気がついて、ミワは尖った声を出す。
「ちょっと今取り込み中だから、用件は手短にね。何のこと?」
「オマエんとこの近所でさ、JKが行方不明になったろ? ちょい前に」
「何そのオッサンみたいな言い方。ジェイケイ、って、古! さすがダイガクセイ」
女子高生が一月にいなくなった話は知っていた。
何と言っても同じ団地内に住んでいた子で、年も同じだ。まあ、越して来たばかりのミワには全く知らない子だったし、居なくなったのも家出では、という話も耳に入っていた。
「それが何」
「見つかったんだよ、今朝早く」
「ウソ、どこで」
急に思い出した。
今朝、団地から出て行く時に、団地より北の元白鳥の方にパトカーが上って行くのを見かけたのだった。
「もしかしてさ、おじいちゃんち近くとか? 山の方?」
「元白鳥には違いないけど、住所は言わなかったな、畑だって。ニュース見なかったのか?」
「知らないよ、朝から出かけてたもん」
「じいちゃんちに電話してみろよ。それか直接行ってシンおじさんかおばさんに訊いてみたら」
ミワは父方の実家を思い出して、即座に首をふる。
「じいちゃんなら訊けるけど……伸介おじさんなら遠慮する」
祖父は不在だし、伸介叔父は人当たりのよい温和な人物だが、ミワにはちょっと何を考えているのかよく分らない、できれば遇わずに済ませたい人だ。奥さんの綾子も以下同文。
「ばーか、事件だぞ、これは」
兄はどこか面白がっていないか? 自分に探偵の真似をさせつるもりなのか、と、ミワの声がさらに尖る。
「何偉そうなこと言ってんだよ、そんなにヒマならアンタが来て訊いてみればいいのに。 新幹線で一時間だよ? それに面白がってていいの? サツジンでしょ?」
あはは、と乾いた笑いに更に気分が悪くなる。が、意外にも
「重症とはあったけど、命に別条はない、って言ってたよ」
ほんの少し、ミワは肩の力を抜く。
あかの他人とは言え、同じ団地の子だ。
どこかで自分と重ね合わせていたのかも知れない。
「それにオレだってそろそろ研究室決めてかないとなんないしね。学生も何かと忙しいのだよ、旅費もないし」
急に電話が切れて、ミワは思わず画面を見た。電池残量がほぼゼロに近かった。
あー、と小声で叫ぶうちに、電源が落ちた。
つい習慣で画面をみる。
まっ暗い画面しか見えない。
あたりをきょろきょろして、ようやく遠くのビルにLEDの『大安売り』が流れるのを見つける、が、待っても時刻は出て来なかった。
多分、あと一時間弱で次のバスがくるだろう。ミワは溜息をついてスマホを鞄にしまった。




