1.自室、高山比奈子と
夏休み、俺はすっかり退屈していた。
それは同級生で幼馴染だった高山比奈子も同じだったらしく、彼女は俺の家に頻繁に訪れた。
といっても何をするでもない。
比奈子だって別に確たる目的があるわけではないので、俺の部屋で漫画を読んだりゲームをしたり、なんとなく時間は過ぎていった。
「ねえ、大川」
「なんだ?」
「ヒマ」
俺は比奈子に視線を移す。
人のベッドを勝手に占領し、真剣な表情で漫画から顔を上げることもなく熟読しているその姿はとてもヒマを持て余しているようには見えなかったが、比奈子は思ったことを割とストレートに言葉に出す癖がある。
ヒマだというのも、まあ嘘ではないのだろう。
それに俺は俺で退屈していた。
せっかくの夏休み。
でも俺は別に部活動に精を出しているわけでもなく、塾などに通って熱心に勉強しているわけでもない。
それでは例えば学外で何かサークルなどに所属しているかと言えばそういうわけでもなく、要するにただ漫然と日々を過ごしていただけだった。
自由であることは楽ではあるが、時間をどうしても持て余しぎみになる。
持て余した暇を潰すのは、意外と技術がいるものだ。
「俺もヒマかな」
適当に返事を返す。
すると比奈子は漫画本を閉じるとこちらに顔を向けた。
「じゃあさ、ミノタウロスの森に行かない?」
「ミノタウロスの森?」
なんだそれ?
聞いたこともない。
俺の反応に比奈子は驚いたようだ。
「え? まさかミノタウロスのこと知らないの?」
いや、もちろんミノタウロスは知っている。
牛の頭と人の身体を持つギリシア神話に登場する怪物だ。
「そういうわけじゃないが……。ミノタウロスの森ってなんだ?」
そんな森がこの辺りにあるのか。
そもそもなんで森なんだろう。
ギリシア神話について俺はほとんど知らないが、ミノタウロスがいるのは迷宮であり、森なんかじゃない。
「知らないの? 学校のすぐ近くにあるじゃない」
「学校の近くって、あの森のことか?」
「そう、通称ミノタウロスの森」
「誰が呼んでるんだよ、そんなの」
たしかに学校の近くには森がある。
しかしそんなふうに呼ばれてはいないはずだ。
森の名前など知らないが、大抵は学校近くの森だとか、学校の森だとか、要するになんだか適当に呼ばれている。
俺はというと、さてどう呼んでいたか。
正直思い出せない。
あの森だとかこの森だとか、なんかそんな風に呼んでいたような気もする。
それほどまでに印象の薄い森が、なんでミノタウロスの森などと呼ばれているのか。
「そんなの簡単な話。あの森にはミノタウロスが出るのよ」
出るのよ、などと言われて俺はどう反応すればいいのだろうか。
「あ、信じてないな。本当なのよ」
「本当って言ったって。そんなこと信じれるわけないだろう」
俺はあの森に小さなころに一度だけ行ったことがある。
当時、俺は小学校の二年生くらいで、両親に連れられてのハイキングだった。
「あそこ、たしかハイキングコースがあっただろう」
ゆっくり歩いても精々一時間くらい。
勾配も緩やか。
適度な運動に丁度いいので、お年寄りの方々には体力維持にもってこいだとかなり評判が良かったはずだ。
そんなのほほんの代名詞とされているようなあの森が、なぜミノタウロスの森などという物騒な名前で呼ばれているのか。
「私も詳しいことは知らないんだけどね」
知らないのかよ、と俺は心の中で突っ込みを入れる。
もちろんそんなこと知る由もない比奈子は気持ちよさそうに話を続ける。
「昔々、ミノタウロスの森の近くにとある男が住んでいました。あっ、もちろん当時はミノタウロスの森なんて呼ばれてはいないよ」
当たり前だ。
ミノタウロスの森などと呼ばれるようになったきっかけの物語を俺はいま聞いているのだ。
「男は一頭の牝牛を大切に育てていました。ある日の夜、家を訪ねるものがありました。老人が一人、男の家の前に立っていました。老人は、一晩泊めてくれないか。そう言いました」
比奈子はちらりと俺の方を確認すると、ちょっと得意気な表情をする。
俺はいつの間にか彼女の話に興味を持ち始めていた。
「男は少しだけためらいましたが、けっきょく老人を泊めることにしました。男は嫁も子もなく一人で暮らしています。たまには話し相手がいるのもいいかもしれない。そんなことを思いました。男は老人を家に上げました」
比奈子の話は続く。