プロローグ
2010年8月、それは忘れられない日となるだろう。
神奈川県南部中央に位置する「湘南」と呼ばれる地域でも最大の都市、藤沢市。そこはかつて、穏やかな気候を持ち、江ノ島といった有名な海岸を有する観光都市であり、交通の利便性がよく、東京や横浜への通勤・通園圏として発展し、首都へのベッドタウンとなった地域。
そこに住んだことのあるものなら、大多数は住み心地の良さを感じるだろう。都会というほど発展はしていないが、田舎というほど何もないわけではない。都会にあるような人で溢れかえることも少なく、電車一本で横浜にも東京にも行けた。その住み心地、利便性により首都のベッドタウンとして発展し続けるはずだった地域。
それも過去の話だ。
藤沢市はもう存在しない。
いや、地図上には存在するし、今となっては東京や京都、札幌といった地域に負けず劣らずのよく知られた地域となっている。
だが、藤沢と呼ばれた地域はもはや死んだ地域といえる。
地域を活性化させる住民が存在しないからだ。
市民が何故消えたのか、それは永遠の謎になるはずだった。過疎化が進んだ地域であるわけでもなく、放射性物質を放出する施設が存在するわけでもなく、原因不明の伝染病が流行したわけでもない。ただ、住民が、忽然と姿を消したのだ。
住民が姿を消したことに外部の人間が知るのは、時間がかかることではなかった。普段から電車を利用するもの、市に家族を残しているもの、帰省してきたもの、ありとあらゆるものが、藤沢市から住民が姿を消したことに気づいた。
捜索がすぐに始まった。はじめは県警や他地域の消防が現地に入り、やがては自衛隊が投入させた。だが、規模こそ大きいものの、捜索は困難を極めた。地震といった災害と異なり、地域は瓦礫に埋もれているわけではなく、ただ単に人が消えたのだ。さらに、捜索する地域と藤沢市に限定するのは、隣接する市街地も含むのか、神奈川県全域に広げるのか、関東に広げるのか、その限度を極めるのが難しかった。
結局、消えた住民の足取りを追うのは警察の領分となり、消防や自衛隊は藤沢市での捜索に専念した。
この大規模な住民の消失は、日本はおろか世界も注目することとなった。故に政府は対応に困ることとなる。
ただ単に、「消えた」住民をどう探せばよいのか。
明白な答えはなかった。
どれほど時間がたとうと、消えた住民の足取りは掴めなかった。伸ばした糸が突然切れたかのように、住民も突然、姿を消したとしか言いようがなかった。もはや、匙を投げるしかなかったが、一つの地域の住民が消えたが故に、捜索を打ち切ることもできなかった。
その間に、藤沢市民消失に関する各種専門家による様々な考察が行われた。地域全体によるいたずら、偶然が重なった消滅に見える引っ越し、あるいは事故による政府の隠蔽や、米軍の陰謀。どれも信ぴょう性に欠けるものだったが、無理のない話だった。今までにない現象だからだ。
すべてをあきらめかけた時、事態解明の兆しが見えた。
「残留者」と呼ばれるものたちが発見されたのだ。発見は突然だった。そして異様でもある。発見された残留者はいずれも押し入れやタンス、机の下やロッカーの中、あるいは車のトランクの中から発見された。何かに怯えている様子を見せながら。
発見された残留者は、藤沢市の人口の一握りでしかなかったが、その半数以下は精神に異常をきたしており、病院に収容されることになった上に、そうでないものもやはり落ち着くまで何も話すことはできなかった。発見から話せる状態に回復するまで最短でも半年は必要だった。
やがて、残留者はカウンセリングを受けながら、次々と証言を始める。
その証言に、おそらく聞き手は狼藉しただろう。これが少数の証言なら、妄想や悪戯で片づけられただろうが、年代層も職業も住んでいる場所もバラバラな残留者が皆、似たような証言をしてしまえば真実として取り扱うしかなかった。残留者の証言は政府に提出され、政府はその取扱いに困り果てた。これを事実として認めることは、長年築き上げた常識を崩壊させることになる。やがて、意を決したように、政府は証言を公表し、これを真実と認めた。
この真実に世界は驚愕するしかなかった。発展途上の国ではなく、先進国である日本の政府が、到底現実とは思えないことを真実と認めたからだ。
今でも、これを真実と認めるものもいれば、国ぐるみのでたらめだとするものもいる。
いずれにせよ、この事件は史上最大の国家まで巻き込んだ怪奇現象として、記憶させることになった。




