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平成妖怪の価値概論

作者: 藻塩 綾香

 視界が右へ左へと揺らめく。混沌とする記憶を頼りに、ただただ月夜に照らされる山道を歩いている。

 なぜ自分がなぜこんな道を歩いているのかは定かではない。

 頭痛がひっきりなしに襲ってくる。胃の中が焼けるように熱く、喉がやたらに渇く。


「くっそったれが……」


 昼間、上司が俺に向かって罵声とA4のコピー用紙を束ねた資料をぶん投げてくる光景が頭をよぎった。

 上司が他の社員がいる部屋で、俺に向かい人生で聞いたことのないような言葉を浴びせる。


「これだからゆとりは駄目なのだ」

「お前の失敗が、会社にどれだけの損害を与えたか分かっているのか愚図野郎」

「お前みたいな低脳で低学歴のクズに頼んだ俺が馬鹿だった」


 会社が更なる発展を遂げるために相手側との商談を進めている最中であった。突然、相手側がこちらとの提携をキャンセルしてきたのだ。


 俺にはその原因が分かる。あれは俺の責任じゃない。なのに、俺は天井と地面が迫りくるようなプレッシャーと罵詈雑言にまみれた。潔白という言葉を主張しようものなら、隣の経理部の女性の囁き声が聞こえてくるほどだ。


 大学を出て、やっとの思いで就職し、毎日を切実に生きてきた。週休二日制という仮の姿に目を瞑り、サービス残業という優しさに身を染め、天辺の禿げた上司に酒をついでやったのだ。


 この五年を必死に生きてきた。それがこのざまだ。

 笑いのあまり、口から内容物をぶちまけてしまう。

 胃酸が、ただでさえ乾ききった喉を通っていき、火を飲み込むような痛みが襲ってくる。


 そういえば、俺は何を食べたっけか。


 少し時間をさかのぼってみると、会社を脱兎の如く逃げ出すようにて家路に付く途中、酒を浴びるように飲んだ。そこから記憶がはっきりしない。


 見渡す限りの山道をただ、朦朧とする意識のまま歩く。

 月夜が頼りの山道はまさに、今の俺の状況と同じだろう。


 会社には多大な迷惑をかけたのだ。俺の責任ではないとはいえ、このような事態に陥ってしまったのだ。取り返しが付かないし、どうしようもない。


 きっと、首が飛ぶのは免れないだろう。


 確かに死ぬほど忙しかったが、そこには自分なりに意義もあったし、楽しみもあった。

 俺が担当する取引先と、新しい商品を考えているときは、頬が吊るほど笑顔になれたし、俺のアイデアがパソコンの画面を埋め尽くす光景は見ていて楽しかった。


「はぁ……」


 ため息が付いてしまう。それでも意味もなく歩を進める。


 この前、この企画を担当する意気込みもかねて、少しお金をはたいて買ったスーツには枝が刺さり、葉が付いている。


 それでも、俺は何かに引き寄せられるように、ただ細い糸でつながれた意識の中で歩を進める。

 山道を抜けると、目の前に広がるオレンジの淡い光。まぶしくはない。だが、街頭の光ではない、人工の固い光ではなくユラユラと優しく揺らめく光だ。


「おや、コレは珍しいもんが迷ったな」


 ぐわんぐわんと揺らぐ視界の中で、どこからか声が聞こえてくる。


「あれま。こらおったまげた、ヒトや」


 俺を指差すやかん。そんなものには目をくれずに進んでいく。

 そして、石畳の道につまずいて転んでしまう。それを拍子に、ぷつんと意識が飛んでいき視界が暗転する。


◆◇◇ ◇◇◆


 カラン。コロン。ジャリ。

 俺の耳元でさまざまな音が鳴り響いていた。そのいつもの目覚ましと違う音に意識を奪われ、石化したようなまぶたを持ち上げる。


 ぼやける視界。とりあえず明るくなった外を見渡す。だが、すぐさま頭の中に電気を流されたような痛みが走る。


「いっつ……」


 つい閉じてしまった目を開くと、そこはいつもの四畳半の寝室のいつもの硬いベッドの上ではなかった。

 目の前に広がるのは木の柱。そして、俺が寝ているのは木の板が敷き詰められた床に敷かれた薄い布団。ふと横を見れば、この空間を仕切っているであろう障子だった。


「おや、目がさめっちな」


 俺の隣をスタスタと歩く茶碗。いや、性格に言えば茶碗に人間の首から下が付いている。目や口といった部位は見当たらない。


「なにっちか」


 茶碗が首をかしげて問う。その光景に、俺は口を開けたまま眺めていた。

 そんな俺を少しだけ見ると、茶碗はスタスタと障子の隙間を潜って歩いていく。


「茶碗が……歩いていたぞ……」


 俺は、茶碗がいなくなった空間をよく見てみる。

 よく見ると、どこかの一室のようだった。木の板が引かれた床は埃ひとつなく綺麗に磨かれているし、障子も破れている様子はない。


 俺は、痛む頭を抑えながら障子を開けて外へと出る。

 そこは縁側になっているようで、すぐ外には人一人通れる道と塀が設けられており、その奥には日が薄っすらと差し込む森が広がっていた。


 そして、木々の影響なのか俺の元に程よく暖かな日光が届いてくる。季節は、夏だというのに暑くない。


「おや、目を覚ましんしたかや?」


 声の方向を振り向くとこの家の主だろうか、長く下ろした黒髪に白色の着物が良く似合う女性が現れた。あまり家から出ないのか、肌はまるで雪のように白く、少し不健康そうでもあった。


「なんか、お世話になったみたいで申し訳ありません」


 俺は少しだけぺこぺこと頭を下げる。


「別に構いやしません。おきちゃが迷い込むなんてたまにありんすから」


 そういうと女性は小さく微笑んでみせる。


「すいません。おきちゃって……」

「あぁ、お客様の事でありんす」


 どこかの方言だろうか。すこし古めかしい印象を漂わせる。


「私は雪女の伽雪と申します」


 そういうと、ペコリと小さく頭を下げた。


「蓄野社と言います」

「社さんですか。これまた縁起のよさそうな名前で」


 伽雪は笑って見せたが、女子のような名前で自分はあまり好きではない。


「にしても、主はずいぶん酒の匂いがきついでありんすな。少し湯浴みでもしたらどうでありんしょう?」


 そういうと、俺は着ているスーツを嗅いでみる。確かに、酒のアルコールと煙が充満する居酒屋の匂いがする。こういう日は消臭スプレーをした後、シャワーを浴びるのだが、相手のご好意に甘えよう。


◆◇◇ ◇◇◆


 俺が湯船から上がり、少しばかり迷ってから、この家の正面へと着いたと思ったらそこにはいよいよ目を疑う光景が広がっていた。


 箒。傘。鍋。なぞの置物。等身大のシャーペン。

 そんな物に手足が生えているかと思えば、掃除をしていた。


 家だと思っていたものは実はお寺で、あの女性以外には妖怪みたいなのが住み着いているようだった。

 というより、あの女性も雪女と言っていたので、妖怪なのだろう。

 石畳が引かれた本堂へとつながる道を進むと、伽雪が座っていた。


「疲れは取れんしたか?」

「いろいろとご迷惑をおかけしました」


 五年という期間を費やして身に着けた相手への言葉使いとは抜けないものだ。こんな状況の中でも、自然と口が動くのだから。


「それで、これからどうするのかや?」

「はい。一応、会社に向かおうと思います。最寄り駅を教えてもらえますか?」


 俺がそういうと、周囲の物がこちらを一斉に見つめる。伽雪も、少しばかり驚いた様子だった。


「かはは。こりゃ面白い冗談でありんす」


 そう言って笑う伽雪はとても美しくすこし惚れ惚れとしてしまうが、一体何がおかしかったのだろうか。


「えっと」


 俺が戸惑いの声を上げると、伽雪は笑いのせいで目に浮かべた涙をふき取りながら答える。


「主はこちらに迷い込んだのであろう。なら、向こう側の人間には見えぬし、気づかれはせんよ」


 俺が口を魚のようにパクパクさせていると、伽雪は小さく微笑みながら話してくれた。


「こっちは言えば妖怪たちの住む世界。主が生きておった世界とは、一枚ずれておる。ゆえに、主は向こう側の人に気づかれないのでありんす」


 まさか、俺は――――


「死んだ?」


 死んでしまったというのか。嘘だろう。

 今年で二十七歳になる。まだ、車も購入してないし、彼女だっていない。それに今働いている会社だって、行くのが恐怖だが取引先と必死に練った新商品の開発も途中なのだ。

 まだ諦めたくないし、諦められる訳がなかった。


「いいや、生きておる。言ったであろう? 迷い込んだと」


 伽雪は、手に持つうちわを仰ぎながら応える。


「肉体から魂が抜けた状態。つまり、体はどこかで無事であろう。だが、主は酒に溺れておったようじゃし、どこに転がっているかは分かりやせんけど」


 記憶の片隅に森を歩いている記憶がある。もしそれが確かなら、俺の体というのは森の中に転がっている

ことになる。


「……」


 顔が青ざめるのが自分で分かった。


「も、戻れますか?」

「わっちにはよく分かりやせん。とりあえずは、てもせわしのうおざんす」

「ても……」

「慌てずに、ゆっくりしてくんなし」


 伽雪が、俺の顔に向かってうちわを仰いでくる。

 冷ややかな風が、顔に当るたびに俺の背中では、どこか嫌な汗の垂れるのであった。


◆◇◇ ◇◇◆


 その後は、何かあるというわけでもなくただただ時間が流れていくばかりだった。ただ、暖かな日光に当たりながら縁側で外を眺めているもの久々に気持ちが良いと感じたが、すぐ横を万年筆が世話しなく床を磨いているのを見ていると、居心地が悪くなってしまい、自らも寺の清掃へと向かうのだった。


 自分の持つ雑巾に比べ、小指の半分もない小さな布で床を磨く万年筆の姿はどうにも健気で、まったく進まないのが少しかわいそうにも思えたのだった。会社でも、手の焼ける後輩に仕事を教えていたが、それに似た感情が湧くのだった。


 気づけば日は暮れており、磨かれた廊下は木目がはっきりとして、夕暮れに照らされてどこか輝いて見えた。

 気持ちの良い腕の疲れと腰の痛み。コキコキと背を鳴らす。


「おやっさすごいっち。ぴかぴかっち」


 足元をみると、万年筆が飛び跳ねていた。来てから一日と経っていないが、物が飛び跳ねる光景にも見慣れてしまったのか、むしろ可愛げがあるようにも思えた。


 すると、水を自らの頭に入れた茶碗が、走ってきた。水をこぼさずに運ぶあたりずいぶんと器用なものだ。そして、その後ろを追いかけるように、水を入れたバケツが走ってきた。チャポンチャポンと水が揺れている様子から、こちらは不器用なようだ。


 俺は、バケツにお礼を言うと雑巾を洗う。

 洗い終わると、バケツは雑巾を持ってまた走っていくのだった。

 ふと、俺のズボンを引っ張るのに気が付いた。


「それじゃあ行くっち」

「ん? どこへだ?」


 万年筆は少し体を傾けると、両腕と両足を大きく広げて飛び上がった。


「夕飯っち」


 万年筆に案内されると、俺が寝ていた部屋ほどの大きさ、四畳半ほどの部屋に通される。


「ちょっと、座って待つっちな」


 そう言われ、俺は畳の上で胡坐を掻いて座っていると、なにやら奥からカシャンカシャンと音を立てて何かが歩いてくるようであった。

 そして、扉にゴツンと鈍い音が響く。


 ふすまとふすまの間に体を打ちつけたのはちゃぶ台であった。ずいぶんと使い込まれているようで、木の色は茶色くなっており、風合いが出ていた。

 そんなちゃぶ台が、自身の大きさを把握せずにぶつかっていた。そして、ちゃぶ台は一歩下がると、ふすまを自身の通れる大きさまで開けると、俺の目の前で止まった。


 ちゃぶ台がもう一つ来たかと思うと、俺の目の前には二つのちゃぶ台と、様々な料理が並ぶのだった。

 久々に見る湯気の立つご飯、暖かな味噌汁、ホクホクの焼き鮭、そしてひんやりとした冷奴など。上京して、一人暮らしをはじめてからこんな充実した食事メニューを見るのは久々だった。


 大抵、添加物を食うようにコンビニ弁当を買ったり、スーパーの惣菜を買たり、家に帰り冷えた米と共に胃へと流し込む。たまに自炊しても、簡単なチャーハンやインスタントラーメンが関の山。

 そんなことを考えていると、俺の隣に伽雪が座る。


「お疲れでありんした」


 そういうと、ちゃぶ台の上においてある徳利に手を伸ばし、自身の猪口へと注ぐ。ずいぶんと手馴れた手つきであるように見えたのは、俺が上司へビールを注ぐときに溢してしまった思い出があるからだろうか。


「一杯いかがでありんすか?」


 そういう伽雪の様子は、ずいぶん色っぽく優艶な様子を醸しだし、どこか甘い香りが鼻腔をくすぐってくる。体を寄せてくるものだから、少しずれた着物がどうにも、目についてしまう。


「いや、遠慮しとく」


 酒はこりごりだ。一杯が二杯になって、酔った俺が何をしでかすか分かったものじゃない。こんな空気ならなおさらだ。


「そうでありんすか」


 そういうと、伽雪は自身の猪口の縁へゆっくりと唇をつけると、まじまじと俺に見せ付けるように酒を飲んでいく。


 俺は、伽雪に視線を奪われ心臓が少しずつ高鳴っていくのを感じつつ、箸を取り料理へと視線を向ける。

 きっと、江戸時代のキャバクラというのはこんな雰囲気だったのかもしれないと空想を馳せつつ、焼き鮭の身をほぐし口へと運ぶ。


 実家でも鮭や焼き魚というのはよく出たが、正直スーパーの鮭とは大違いの美味さであった。別格、という文字が似合うほどだ。


「うまい」


 俺は小さく言葉をこぼす。

 言葉を話す暇があるなら、料理を口へ運ぶほうが利口と自然と思い、無言で米を口へと掻きこむとその味に飽くまで噛み、味噌汁でそれを流し込む。


 温かい。


 ただ、そう感じた。

 電子レンジでチンたり、レトルトカレーをお湯の入った鍋で温めた温かさなんかとは違う。

 胃がゆっくりと熱を吸収していくのが分かる。自然と、その熱は胸へと上がっていき、いつの間にか目元に熱が溜まっていた。そして、米に塩水を垂らす。


「おやおや」


 伽雪は何気なく言って見せたが、酷い有様であっただろう。

 目からは涙が零れ、鼻水を啜り、顔を真っ赤にし、喉に詰まるならば咽ながら、食事をする姿は滑稽とは言えず、汚くもあったかもしれない。


 そんな俺どうとすることなく、伽雪は落ち着いた様子で食事を進める。

 自分でもどうして涙が溢れたのか分からない。それに、涙をながすなんて小学校以来かも知れない。だが、涙が止まらないのだ。


 別に痛いわけでもない。小指をベッドの足にぶつけた訳でも、包丁で指を切ったわけでも、画鋲を踏んだわけでもないし、上司に糞野郎となじられたわけでもない。べつに、俺は何か、泣くようなことをされたわけではないのだ。


 だけど、料理が温かいから仕方がないだろう。

 俺は気づくと、皿に米粒ひとつ残すことなく平らげていた。胃が満足だと心地よい重たさを伝えてくる。


「おいしかったかや?」


 伽雪は、小さく手を合わせて「ご馳走様」と呟く。


「久しぶりにこんな料理を食べました」


 目元に熱はこもり、きっと腫れているだろうが、知らない間に涙は乾き、いつもの調子に戻っていた。


「ほんに?」


 伽雪が尋ねてきたので、俺は小さくうなずいた。


「ほんとうに、おいしかった」


 語尾がゆるく沈んでいく。それと同時に、俺の視線は自然と下を向く。

 黒いスーツの裾は埃で汚れており、アイロンをかけてピシャリとしていたシャツも随分とよれている。

 伽雪はふと立ち上がると、障子をゆっくりと開ける。外には、銀色に輝く月が白い光で外を照らしていた。いつの間に夜になったのであろうか。これも、こちらの世界の現象なのであろうか。


 そんなことを思っていると、伽雪は縁側へ座り込む。そして、座る自分の隣を小さく叩く。

 俺がそちらへと移動すると、伽雪は一杯猪口へと酒を注ぎ飲む。


「わっちには、小さな特技がありんす」


 そう言うと、伽雪は注いだ酒を一気に飲み干す。月明かりに照らされながら、伽雪が酒を飲む姿というのは、どうにも言い難く、ただ美しかった。


「人の悩みを聞くことが得意でありんす」


 伽雪が小さく微笑んだのが分かった。

 そんな微笑む顔に誘われてか、俺の口はあまりにも簡単に言葉を落とすのだった。


「自分に価値があるのかが分からない」


 いつから思い悩んでいたか分からない問いを伽雪に呟いた。

 自分は一体何のために存在し、何のために生き、何のために死ぬのか、と。

 昔、夏休みの読書感想文を読んだ先生に「ずいぶんと捻くれた文章だね」と言われたことがある。自分でも、それがどう捩れたか分からないが、こんな悩みを抱くようになったのだ。


「価値でありんすか」


 伽雪が口を開く。


「そうでありんすな。二週間後、たのしみにしてなんし」


 伽雪はそういうと、猪口に酒を注ぎ一気に飲みほすと満足そうな表情を浮かべて、こちらを一瞥。そして、俺の顔を確認したかと思うと立ち上がり、部屋を退出しようとする。俺はそれを急いで静止した。


「に、二週間後になにがあるんだ」


 俺が問うと、伽雪はどこか妖艶な笑みを浮かべながら「祭り、でありんす」とだけ答えると、襖を開け部屋を出て行く。


 一人取り残された俺は、腹に残る温もりと、胸に抱えたちょっぴりとした不安を抱えながら、伽雪の出て行った部屋を見つめるのだった。


 ◆◇◇ ◇◇◆


 二週間後に祭りがあるというのは本当らしかった。ここの寺を下った先の商店街で祭りが開かれるそうだ。それも、人間側の祭りだそうだ。昔は、巨大な神輿を担ぎ、市内を練り歩くのが通例だったそうだが、少子化の影響か今年は出店があり、花火が近くの河で打ち上がるだけというものに規模が縮小してしまったようだ。


「それで、お前達も出るのか」


 俺は、竹箒で寺の石畳を掃きながら、茶碗に聞いてみた。


「そうでち。人間側でも、妖怪側でも、祭りが楽しいのはかわらないでち」


 俺が最後に祭りに行ったのはいつだろうか。高校生だっただろうか。故郷のお祭りで、花火を見たのが最後だったろうか。


「祭りといえば、隣町の妖怪の演舞が楽しみでちな」

「ちなみに、俺達は何をするんだ」


「特に何もでち。妖怪に自治なんて言葉はないでちな。やりたい妖怪は自由に、適当にどんちゃん騒ぐだけでち」

「へぇ」


 自分のやりたいことを自由にやる。何事にも縛られない。己が全て。生に縛られない妖怪らしい考えだ。


「出店もあるでちよ。河童の冷やしきゅうりに、雪入道のカキ氷、一つ目小僧のすし屋なんかでち」


 祭りで寿司というのも珍しい気がするが、ほかの品目は見たことがあるものばかりだ。


「人間界とメニューは変らないんだな」

「そんなもんでち。人間も、妖怪も」


 茶碗はそういうと、小さい箒で俺の脚をつついてくる。それを軽く足を動かすだけで、茶碗は尻餅をついてしまうが、俺を見上げてケラケラと汚く笑う。

 俺とこの茶碗の違いは何だろうか。ふと思った疑問は、俺の頭の中ですぐさま薄れて消える。


「こら、しっかり働くに茶碗。じゃないとヤシローは俺が借りるに」


 どこか名前を間違えられた気がするが気にせずにいると、後ろからタライが走ってきた。タライは、本体に足と手が生えており、四速歩行をしている。水運びや、物を運ぶのが一番うまい奴だ。


「ごめんでち。すぐやるでち」


 茶碗はすぐに箒を持ちサッサッとと掃除を始める。

 図体がこの寺の中で一番大きい俺は、何かと便利で、作業が早いようでいろいろと頼りにされる。

 俺は、茶碗が足元でせっせと働く様子を見ていると、どこか仕事をしていない自分に気づき、俺も竹箒ではき始める。


 人ではなく妖怪に頼られるというのも悪くない。


◆◇◇ ◇◇◆


 一週間が経ったが俺に何かあるわけでもなく、妖怪たちにも何かがあるわけでもなかった。

 何かが変わったかと言われると、この寺の妖怪にめっぽう好かれる事と、客として来る妖怪に珍しがられる事くらいだった。茶碗たちによると、近場では名の馳せる大妖怪だそうだ。北の山の天狗自警団や、大商人の大狸などだ。


 俺にしてみれば、絵本で見た天狗に、巨大な狸にしか見えないわけだが。にしても、本当に妖怪は様々だと思わせてくれる。

 そんなことを言いながら、俺は縁側で茶を啜っていた。


 この寺の住人とも慣れてきて、掃除当番は非番。休日というわけだ。

 人間の時でも、休日と言ってもすることがなかった事を思い出す。趣味と呼べるものもなく、会社で働くために出てきたので友人と呼べる者も多くはなかった。だから、休日はほとんど食っては寝てテレビを見てみたいな生活をしていたものだ。気が向いたときに、新しい商品のアイデアをまとめるくらいだった。


 妖怪側に来ても、この休日のスタンスは変わらないらしい。

 一口お茶をすすりながら思った。


「主や。暇かや」


 俺が視線をあげると、伽雪が籐で編まれた籠を持ちながらこちらを見下ろしている。


「暇と言えば、暇だが」


 ここで、暇と確定して言えないのも職業病の一つなのかもしれない。社内で暇なんて言った日には、上司の口がどう開くか分かったものじゃない。


「そうでありんすか。今から買い物にでかけんすが、一緒について行きんす。それに、ちょっぴり語りましたし」

「いいけど」


 そういうと、俺は立ち上がりすぐそこの靴に足を通す。こちらへ来てからというものの、ずいぶんくたびれた印象がある。


「それじゃあ、行きんしょう」


 伽雪は下駄を履き、籠の中を一瞥すると歩いていく。それを追いかけるように俺もついて行く。

 そういえば寺から出たことがないなと思いつつ、長い石の階段を下りると、そこには俺が見慣れた住宅街が広がっていた。


 別に時代が遡るわけでもなく、俺が見る何気ない住宅街だ。


「驚きんしたか」

「ま、まぁ」

「人間の世と妖怪の世とはさほど変わらないのでありんす。あちらさんがこちらを認識できないだけでありんす」


 そんな他愛もない話をすると、伽雪は住宅街を抜けて商店街へと向かう。そして、平日の昼間だからか少しだけ閑散とした商店街の裏路地へと入っていく。どこか、表と裏のように、裏路地へと入った瞬間にじめじめとした空気が肌に触れる。


 そして、裏路地を二転三転と迷路のように回ると、そこにあったのは小さな八百屋のような店だった。

 壁を掘ってできた構造で、品物を見ると、野菜、魚、肉など、パックにサランラップで封がされた状態ではなく、生の状態でおいてある。スーパーなんかだと、色々と苦情が飛んできそうなものだ。


「おや、伽雪ちゃん。お久しぶりね」

「こちらこそ、久方ぶりでありんす」


 俺が、商品に目が移っていると、伽雪と話をする妖怪がいた。人の原型に、狐の耳と尻尾がついている。


「おや、そちらさんは」

「あぁ、主はおきちゃでありんす。少しばかり面倒を見いんす」

「またまた伽雪ちゃんは、また大きな胸引っさげて釣ってきたんじゃないの」

「こ、これ。よしゃれや」


 珍しくあたふたする伽雪の姿を見たな、と思っていると先方が話しかけてきた。


「私は妖狐の和宮と言います。伽雪ちゃんとは、江戸からの付き合いです」


 江戸時代としたら、相当長い付き合いのようだ。親友を飛び越えて何になるのだろうか。


「まぁ、ゆっくりしていって」


 そういうと、和宮は店の奥へと歩いていく。


「和宮といると調子が狂いんす」


 そうボソボソ言いながら、自分の目当ての品を見定めていく。

 俺は、特に口出しすることなく伽雪のその様子を眺めるばかりだ。

 伽雪は献立を決めて買っているのだろうかとふと思う。


「そういえば、妖怪って食事する意味はあるのか?」


 俺はふとした疑問を投げかけてみた。


「基本は必要ありんせん。でも、生前の習慣や、美味しいものを食べたいという欲求がありんすな。うまい酒は、いつでもどんな姿でも飲みたいのもでありんす」

「そんな、ものか」

「主の世には、食が溢れておる。悪いことではありんせんが、わっちが生きた家は貧しく娯楽なんてできやせん。だから、自然とわっちの楽しみは食へと移りんす。たまに魚が出れば、手をあげて喜んでいんした」


 俺の中のイメージでは江戸というのは、そこまで飢饉や経済と言ったものが悪いイメージではなかったが、貧しい人というのはいつの時代でもなくならないらしい。


「まぁ、茶碗やたらいなんかは口がありんせんから、食べる事が出来やせんけど」


 そういって笑って見せる伽雪の笑顔を見た瞬間に、つられてなのか俺の表情にも笑顔が漏れた。


「さて、それじゃあ会計をしてきんす」


 そういうと、伽雪は店の奥へと進んでいく。


 俺は棚に並ぶ商品を見て時間をつぶす。思うのが、人間側にいた時と、食べ物は大して変わらないと言う事だ。きゅうりは緑色で長細い形状をしているし、半分に割れば水々しい中身が想像できるほどにおいしそうである。

 わりと、スーパーで並んでいるよりもおいしそうに見えてくる。


「それじゃあ、行きんす」


 後ろから、俺の肩を叩きながら伽雪が話しかけてくる。俺は、うなずくとそのあとに続く。

 太陽はいつの間にか、西の山に体を半分隠していた。路地は、淡いオレンジ色に燃えていた。

 伽雪のカコン、カコンという下駄の音がどうにも心地よく聞こえる。いや、伽雪が隣にいるからそう聞こえるのかもしれない。


「主や。わっちは、今日何を買ったと思いんすか」


 俺が、考えに耽っていると伽雪が質問を投げかけてきた。


「籠、見せてくれるか?」

「分かりんした」


 伽雪は俺に籠を差し出す。俺はそれを受け取ると、中を確認する。中にあったのは、白菜、ネギ、玉ねぎ、トマト、キュウリ、鯖、日本酒とバランスの悪いものが買われていた。これで、どんな献立になるのか、少し疑問でもあり、楽しみだ。


「野菜に、鯖、あと酒か」


 俺が伽雪にそう答えたところ、伽雪は俺の顔を見て「本当にそれでよいか」と聞いてくるので、小さく頷く。

 すると、伽雪は俺の顔を見てかかかと笑うのであった。


「それが、主の答えなら十点というところでありんすな」


 そういうので、俺は籠の中を再度確認してみる。だが、中に入っているものというのは、別に変わることはない。先ほどと同じだ。何かを隠しているわけでもない。


「ほかに、伽雪が隠し持っていると言う事なのか?」

「そうじゃありんせんよ」


 答えつつも、伽雪は笑うばかりだ。

 俺は、自身がそこまでに恥ずかしい回答をしたのかと思い、頬に熱を持ち、手が居心地悪そうに宙を彷徨うばかりだ。


「やはり、こういう思考の違いがありんしょう」


 と伽雪は、どこか満足げな顔をしてみせる。


「主はわっちに価値を問いておったの。なら、主にとって価値とは何であるか教えてくんなし」

「人に必要とされること。人の役にたつ人であり、必要とされる人材であること」

「まぁ、分からんでもありんせん」


 伽雪はそういうと、俺の方へと視線を向ける。


「主が言いたいのは、価値と言っても、自身の持つ他とは異なる価値。他の商品とは違う優位性のあり、独立した価値じゃろ。それを具体的にするとそうなるのかもしやせん」


 古めかしい言葉とは違い、少し難しい単語が並びだす。


「まぁ、そんなところだ」

「つまり、主の商品価値を知りたい訳じゃな?」


 商品価値という言葉に、小さく体が反応してしまった。これも働くものの職業病のようなものだろうか。


「それはつまり、主を必要とする顧客がいるかということになろう。顧客がいなけりゃ、商品は誰にも必要とされていない。つまりは価値なしという訳でありんす」


 自身が商品に喩えられるのもおかしなものだが、体にすんなりと入ってくる。


「主は、商品の価値のつけ方をしっておるかや?」

「値段なら、材料費、人件費とかいろんな掛かるお金を考えた上で、他の商品の値段や売れ行きなんかによって、高い低いを設定する。そこに付加価値とかをつけていって、最終的に値段を決める。こんな感じか」


 詳しくは知らないが、こんな感じだったはずだ。


「かはは。主は百貨店のぬいぐるいでありんすか」


 また、笑われてしまった。


「値段の話じゃないんよ。価値の話じゃ」


 伽雪は、少しだけからかうかのような表情を浮かべる。


「最初、商品に価値はありんせん。どれも、ただの物でありんす。じゃあ、価値とは一体なんでありんしょう」


 どこか芝居がかったような口調で俺に問いかけるが、俺は黙るばかりだ。


「たとえばこの酒」


 伽雪が籠の中から、小さな壺に入った酒を取り出す。


「この酒の価値は一体なんでありんすか」

「えっ、おいしさ」


 語尾が迷い疑問になってしまうが、伽雪は小さく笑って見せた。


「それじゃあ、こはばからしゅうありんす」

「こはば……」

「馬鹿らしいことじゃ」


 馬鹿らしいと言われついムッとなってしまうが、伽雪の答えを聞くために口をつぐむ。


「この酒は未来を売っているのでありんす」

「み、未来?」

「そうでありんす」


 俺は、その返答に小さく笑ってしまった。未来を売るなど、どういうことだろうか。酒を飲むことで、時間がもらえるとでも言うのだろうか。


「たとえば、わっちはこの酒が飲みたいからこの酒を買うわけではありんせん。この酒を飲み、おいしいと感じ、ほろ酔いの気分で月を眺めるために買いんした。つまり、わっちはこの酒によりもたらされる未来を買ったのでありんす」


 俺は、その回答にポカンと口を開けてしまった。その表情を見ると、伽雪はからかうように微笑んで見せた。


「主の持っているもので例えようかや」


 伽雪は持っている酒を籠の中にしまう。


「炊飯器、あるじゃろ?」

「そりゃ、まぁ」


 あるにはあるが、あまり使う機会は少なかったりする。朝食はパンで済ませてしまったり、夕食にも米を研ぐ時間がなかったりして、活躍する場は少ない。


「炊飯器がなかった場合を想像してくんなし。米を研いだあと、土鍋に米と水を入れ、つきっきりで強火、中火を調節しながら米を炊くであろう。これが、炊飯器があったらどうじゃ。米を研いだら、ボタン一つで終わりんす」


 確かに面倒ではある。だが、炊飯器を買うことが、どう未来を買うことにつながるのであろうか。


「つまり、炊飯器によって買う未来というのは、米を炊くのが簡単になるという未来でありんす。今までの手間を考えると、恐ろしい程楽であろう。快適であろう。そんな未来を買っているのでありんす」


 確かにそうだ。他の電化製品でも同じことが言える。洗濯機なら、わざわざ手で洗う手間を省き、楽が出来るという未来。スマホならば、手紙を書き、相手に送り、返事を待つという時間を短縮することが出来る。快適な生活が送れるという未来。


 確かに、未来を売っており、買っている。


「商品を売る際に大切なのは、その商品によって顧客がどう喜ぶかを考える事でありんす。つまり、顧客が喜ぶ未来を売ることでありんす。これを、主に例えてみてくんなし」

「俺が、他人の喜びについて考えること。つまり、そう行動すること」


 伽雪は、その言葉をきき微笑み、話し出した。


「人間は――――働く者は会社に対して自らの時間と労力を商品として売り、その見返りとして賃金をもらいんす。でも、賃金と同じく、働いた裏には、誰かの喜びがありんす。賃金と同時に、笑顔を受け取のでありんす」


 それだけ話すと、伽雪はパチンと手を叩いた。


「なんとなく価値については分かったであろう。なら、主の価値があるかないかについてじゃが」


 俺は、いつの間にか俯いていた顔を上げる。

 俺の価値とは一体何なのか。

 言葉では出ないが、なんとなく、ぼんやりと分かった気がする。きっと、はっきりと出ないのは、俺が企画段階にあるからなのかもしれない。だが、企画の道筋が見えたのは確かだ。


「わっちは、価値がないなんていう人はあまり好きやせん。何か、自分にできることは無いのか、誰かのためにならないのか、誰かの役に立ちたいと思うのが好きでありんす。ガラクタが思うくらいでありんす、人間の主なら何でもできよう」


 伽雪が小さく「のう」と振り返りながら聞く。俺は、寺にいるであろう九十九神のことを考えていた。

 九十九神の中には、まだ誰かに使われたい、使って欲しい、という物の思いにより妖怪になるものもいるそうだ。そんな、仕事熱心な彼らを、俺は見習わなければならないのかもしれない。


 茶碗は、よく見ると欠けており、アレでは米も落ちてしまうだろう。やかんには取っ手が無く、持つことが出来ない。万年筆は、ペン先が折れてしまっており、書く事が出来ないのだろう。


 そんなガラクタになってしまった彼らでさえ、まだ活躍しようとしているのだ。人間で、彼らより幅を利かせて動くことの出来る、自分が何を言っているのだろうか。


「最後に一つ」


 伽雪が落ち着いた趣で言った。


「価値のつけ方でありんすが、価値はつけるものではありんせん。見出すものでありんす」


 伽雪は、手に茶碗を持つようなジェスチャーをしてみせる。


「寺の茶碗は、茶碗として使うことはできんせん。でも、手と足がありんす。なら、雑巾を持ち床を掃除することならできんす」


 伽雪は、己が手をグーパーを広げては閉じてを繰り返す。


「人間には、手も足も賢い頭もありんす。高度な技術で万物をも作りえよう。なら、見出す価値なんていくらでもあろう」


 俺はその言葉を聞いて、分かっていることだと、自明の理だといわんばかりに、得意げな顔をするのであった。


◆◇◇ ◇◇◆


 なんだかんだで二週間という期間は早いもので、祭り当日となった。太陽はもう、山の向こうへと沈もうとしていた。

 俺は、なぜか寺にあったはっぴに袖を通すのだった。


「うむ。なかなか似合うじゃあおっせんか」


 声の方向を向くと、白を基準とした生地に鮮やかな青や赤に紫の紫陽花が描かれている浴衣を身に纏い、髪を高い位置で結わえ、紅い鞠に似た装飾のある玉かんざしで留めている。


「綺麗……」


 自然と言葉が漏れた。


「こはばからしゅうありんす」

「いや、冗談じゃなくて」


 俺は、そう言いながら伽雪の付けるかんざしに目が行く。ガラス玉に模様が施されているかんざし。どこか平凡ではなく、その年季の入ったかんざしから伽雪の物を大切にする性格がわかる。

 伽雪は、俺が褒めたのに対して露骨に照れる表情を浮かべた。袖で口を押さえた後、小さく咳払いをしてみせる。


「それじゃあ、祭りんす」

「そうだな」


 俺は、人生初の草履の感覚を味わいながら、寺を後にする。俺よりも身長の低い伽雪だったが、かなり高い下駄を履いているのか、俺と肩を並べて歩いている。

 そして、後ろから聞こえてくるガシャンカランコロンという様々な九十九神の行列の歩く音。


「主は、百鬼夜行という言葉を知りはおじゃあおっせんか?」


 最後の言葉が分からなかったが、きっと知っているかだろう。


「まぁ、なんとなく」

「妖怪の形は様々でありんす。だから、妖怪をまとめる頭というのは、このうるさい列の音を聞いて、仲間

の存在を聞いて、勇気を貰っていたのかもしれやせん」


 俺は後ろを振り返る。様々な落ちこぼれた異形の妖怪たちが、楽しそうに笑いあいながら、石段を降りている。それは怪異的な光景のはずなのに、その光景からは恐怖は感じられなかった。

 遠足に行くときの子供を引き連れているようだ。


「かもな」


 後ろのドンちゃん騒ぎにも似た音を聞くたびに、俺の心が祭りというものに対しての興味が移り、楽しみがこみ上げてくるのが実感できた。


 そして、そんな音を聞きながら商店街へと着く。

 息を呑み、口を摘むぎ、その光景が目を焼く。


 赤い提灯が揺れ、灯篭が火を灯し、空中に浮かぶ火の玉が空を煌々と照らす。人間の数に負けないような数の異形の怪。人ならざるものが所狭しと道を往来している。


 そして、場から漂ってくる醤油が焦げる匂い、酒のキツイ匂い、そして泥臭い匂いや、嗅いだことのない匂いに、頭がクラクラとしてしまいそうだ。


「どうでありんすか」

「知らなかった」


 人間側の光景に、妖怪側の光景がトレースされた光景というのが、コレほどまでに明るく、喧騒が聞こえてきて、鼻が痛くなるほど様々な匂いがして、みんなが楽しそうな光景は見たことがなかった。


「そうでありんすか」


 そういうと、伽雪は下駄を鳴らしながら一歩一歩と歩き出す。


「さぁ、参りんす」


 伽雪の真っ白な肌が火で赤く照らされた手を、俺へと伸ばす。


「どうなんした?」


 俺は、伸ばされた手を見て、更に伽雪の顔を見て突然心臓が跳ね上がった。


「じれっとうす」


 伽雪が俺の固まった手を握る。伽雪の手はひんやりとカキ氷を持つように冷たかった。だが、この人ごみ、妖怪ごみの中であり、暑い夏の夜にはその手がとても心地よかった。

 伽雪が踏み出す一歩に遅れて俺の足も自然と前へと踏み出される。


「人間は気にせんでくんなし。透けるだけでありんす」


 俺の方へと走ってくる少年が、俺の体を透けて道を駆けていく。

 とても不思議な感覚だった。


「何を呆けた顔をしていんすか」


 俺の顔を見ながら、伽雪は笑ってみせる。それに俺は、どうも言い返すことが出来ずに、ただ口をつむぐばかりだ。

 言い返すことができずとも、どこか悪い気がしない。


「祭りに来たら、あれを食さんとな」


 そう言って伽雪が指差す先にあったのは、妖怪が営んでいる寿司屋だった。


「夏祭りに寿司って珍しいな」

「そう思うのは現代の人間だからでありんしょう」


 伽雪が急ぐ歩調を少し緩める。


「主がよく知るカステラやフランクフルト、ソース焼きそばなんかは最近出てきたものでありんす。わっちらの頃は、寿司屋や蕎麦屋なんてものは出店で毎日ありんした。でも、わっちの家では、贅沢な食事はできんせんから、夏祭りの一日に寿司を食べるのでありんす」


 そう言っているうちに、寿司屋の屋台の前に着く。人間が作った照るパイプで骨組みがされた屋台ではなく、木製の屋台。さらに、歩きながら食べるように手渡すのではなく、立ち食いするようにテーブルが設けられている。


「いらっしゃい」


 そういう店主を見ると、いかにも寿司屋を営んでいますといわんばかりに、つるつるの頭に鉢巻を巻き、青色の甚平を着ている一つ目小僧だった。だが、小僧というにはかなり歳を食っているようにも見える。


「アジをひとつ頼みんす」

「あ、俺は海老で」

「おうよ」


 そう一つ目小僧がいうと、手早く準備したかと思うと、伽雪と会話するまもなく、目の前に海老の寿司が並ぶ。だが、俺がふと思ったのは、二貫で一セットではなく、手ごろなおにぎりサイズの寿司がドンと目の前に置かれたことだ。


 この時代の寿司というのは、一つといえばほんとうに一つなのだろうか。

 そんなことを言いつつ、俺は寿司をそのまま頬張る。現代にも負けず劣らずの味だ。悪くない。

 隣の伽雪を見ると、満足そうな笑顔を浮かべていた。それを見ると、俺もどこか口元が弛んでしまう。


「久しぶりの寿司はやっぱりおいしいものでありんすな」

「だな」


 回転寿司もあるが、カウンターで一人寂しく食べるのとは訳が違った。隣に伽雪が居るからなのか、どこか浮き足立った心がそう思わせるのか、とてもおいしく感じられた。

 伽雪は、テーブルにお金を置き「ごっそうさん」と言うと、暖簾を潜る。俺もその跡に続いて御礼を言い、伽雪の後に続く。


 あたりを見渡せば、様々な妖怪が歩いている。

 背の低い河童が走り回っていたり、一旦木綿が空を飛んでいたり、黒の衣に身を纏った天狗がいたり、良くわからないドロドロとした妖怪まで。


 いつも見ている人間の街並みにこれほどまでに妖怪が溶け込んでいるとは思いもしなかったというのが本音でもある。

 そして、俺は隣を見る。


「なにかや?」


 少しとぼけた様子で視線を送る伽雪。


「いいや」


 出合ってから二週間。とても短い期間だ。だが、その一日一日というのはとても密度が高く、濃かった。俺が、幽霊みたいな状況、妖怪の世界に紛れ込んだというのが一番大きいかもしれない。

 だが、九十九神と一緒に洗濯掃除をしたり、伽雪と他愛もない話をしたりするのが、俺にはとてつもなく楽しく感じられた。


 会社から帰り、テレビの音をバックに一人飯を喰らい、風呂に入ると、泥のように眠りこけ、また会社へと出かける生活とは違う。

 毎日に、親しい友との交流があり、孤独というものを感じさせない空間。それが、今の自分の環境のせいか、心底心に染みた。


 俺は自然と伽雪の手を強く握っていた。まるで、離さないと言わんばかりに。


 俺は口を開くことはなかった。あまり、話し上手じゃないというものあるのかもしれない。洒落たことの一つでも言えればよかったのかもしれない。だが、伽雪と手をつなぎ、朱色、赤色、紅色に照らされ燃えるような祭りの光景を見ながら、その雰囲気に体を溶かしていくその時間に浸かっているのが、どうにも俺には心地よかった。手から伝わる冷たさも、喧騒の聞こえる騒がしい道も、どれもがこの時間を彩る材料になりえた。


 そして心から感じる、今が楽しいという感覚。


 ドンッ。


 俺が、そんな感傷に浸っていると、突然肩に強い衝撃。そして、背後から怒号が響き渡る。声自体は、祭りの喧騒で掻き消されてはっきりとは聞き取れなかった。だが、俺の耳に届いたのは、女性が言葉を発す。


 盗人と。


 俺はすぐさま、肩がぶつかった方向へ視線を向ける。ところどころ穴が開いた頭巾を頭にかぶり、よろけた甚平を着る人間の姿をした物の怪。そして、その手に持っているのは、小さな巾着袋の用であった。


 よろけた体をすぐさま立て直すと俺は走り出した。

 視界に捉えるのは、頭巾の妖怪。


 背後で伽雪が呼ぶ声が聞こえたが、俺はその制止の声を無視して駆け出す。

 人間の波が体をすり抜けていく。妖怪たちの波を潜り抜けていく。人々の怪異の目が俺に突き刺さってくるが、そんな視線を気にすることなくただひたすらに、目の前の妖怪を追いかける。


「止まれ!」


 俺の必死の制止の声を無視して妖怪は走る。こちらをちらりと振り返るとにやりと笑いこちらへと視線を向ける。その顔には、人間と同じ位置に目が付いており、さらに三つの目が俺の顔を捉えていた。

 俺は、その視線に捉えられて背中から、嫌な汗を掻くがそれでも、足を止めない。


 頭巾の妖怪が思いっきり、路上に設置してあったゴミ箱をひっくり返す。ガタンと倒れたゴミ箱からは、祭りによって消費されたゴミが雪崩のように溢れ出す。

 突然ゴミ箱が倒されたことにより、人間がたじたじとし倒されたゴミ箱のほうへと向ける。それぞれが、怪異的な目でゴミ箱を見つけると、隣の出店の店主がゴミ箱を立たせて、溢れたゴミを集める。


 俺は、そんな店主もろとも貫通して、頭巾の妖怪を追う。

 人間達には俺の姿を捉えることが出来ないが、妖怪たちには俺達の追走劇が見られているようで、出店の屋根から、道端から、夜空に浮かびながら、様々な声が飛んできた。


「一興一興」

「愉快な祭りじゃ。やれよやれよ」

「今宵は楽しくなりそうじゃ」


 俺は、そんな声に耳を傾けることなく、目の前を走る妖怪だけを捉えていた。

 どうして俺の体が反応してしまったのかは分からない。気づいたら体が動き出していたのだ。


 この盗品も何が入っているかは知らない。盗られた妖怪がなんの妖怪なのかも、知った顔の妖怪なのかもまったく不明だ。だが、なぜだか微かに聞こえた声が、どこか悲しそうに聞こえたのだ。


 気のせいかもしれない。百年、二百年と活動している魂の塊たちにしてみれば、こんな盗難事件というのは些細な出来事かも知れない。米粒が服につき食べることなく固くなって捨ててしまうような、そんな出来事なのかもしれない。


 だが、俺の二十年という魂の塊は、それがどうしてだか許せなかったのだ。

 テレビ越しでの光景。それが、人間の世界ではなく、妖怪の世界で起こった。なら、それは別のことだろうか。いや、変らないだろう。悲しむのは、たとえどの世界でも、どの次元でも、人間でも、妖怪でも変らない気がするのだ。


 草履と擦過する足の皮が少しずつ剥けていくのが、足の裏を伝って脳に痛みを訴える。履きなれない物というのはこういうことが起きるからあまり好まないのだ。


 心なしか、足にジワジワと温かいものが伝ってくる気がする。血なのか、肉刺が出来てつぶれて滲みだしているのかは定かではない。だが、足の裏の痛みはジリジリと俺の顔をゆがめていく。


 痛い。確かに痛い。だが、それだけであの妖怪の悲しみがぬぐわれるなら、別に構わない。損得感情が言い訳つけていくが、これが正しい行為なのは間違ってはいないだろう。


「ふんぬっ!」


 伸ばした俺の手が、頭巾の妖怪へと届く。そして、そのまま俺は体重をかけると、思いっきり倒れこむ。

 コンクリートへ体が投げ出され二転三転の首が折れるのではないかと思うように転がると体が静止する。


 そして、すぐさま頭巾の妖怪へと視線を向けると、胸を大きく上下させながら仰向けで転がっていた。もう走る気力がなかったのが、口で大きく息をしながら寝転んでいる。


「大変ご迷惑をおかけした、かの者」


 頭上から黒い羽を纏った天狗が降りてくる。身長は俺より一つ頭が抜けており、勇ましい体躯に、伸びた鼻が印象的であった。


「捕まえたか」


 カランコロンと下駄を鳴らしながらやってきたのは、黒とは対照的に赤を通り越し朱色にも似た天狗だった。


「はっ、捕らえました」


 頭巾の妖怪は黒天狗に抱えられると、俺の方を一瞥。

 そして、手に持っている巾着を俺の方へと投げてくる。


「楽しいひと時でした」


 頭巾の妖怪は、自ら頭巾を脱ぐとその顔を露にする。顔には、人間の位置と同じ位置に目が二つ、おでこに一つ、そして頬に三つの目がある女の妖怪だった。


 俺の顔を更にまじまじと見ると、満面の笑みを浮かべる。ほんとうに、それだけの為だったらしい。


「楽しみで人様に迷惑をかけるな七つ目女。貴様は何度言ったら分かるのだ」


 黒天狗が怒号を上げる。


「まぁ、黒天狗、許してくんなし」


 俺は、その声にハッとして顔を上げた。目の前にいたのは、伽雪だった。


「いや、伽雪さん。コイツはコレで四百回目ですよ。迷惑どころの騒ぎじゃありませんよ」

「七つ目女は、物を取ることしか才のない妖怪じゃ。お主は妖怪になりたての用じゃから教えてやりんす。

ないものには与えてやらんと、どうすることもできんせん。分かりんしたか」

「は、はぁ……」


 黒天狗は、困り果てた表情を浮かべる。俺は、その意味が九十九神を見ているのかどこか理解できたような気がした。


「今回は助けられたな、伽雪」

「お互い様じゃ。気にするでない赤天狗。巾着を返してやったら、あとは好きにしなさんし」

「あぁ、そうさせて頂こう」


 伽雪は、赤天狗との会話を終わり、俺の元へと歩きだした。


「はぁ……」


 大きくため息を俺の目の前で付く。俺は、伽雪のその表情になにも言うことが出来なかった。


「なんか冷めんした。帰りんす」


 そういう伽雪の表情は、どこか怒っているようにも見えた。俺は、何も言うことが出来なくなり、ただ伽雪の後ろについて歩くのみであった。


◆◇◇ ◇◇◆


 俺と伽雪は寺まで戻り、そしてここから見える祭りの明かりを見ていた。ただし、この空間に楽しいという言葉は酷く似合わず、俺は居心地の悪さをひしひしと感じていた。


 そして、俺は薄々思っていた。そろそろ時間が迫っていることに。

 俺は視線を下げると、自身の足を見る。自身でも感覚が薄れているとは思っていたが、完全に透けている。幽霊とは足がないもとではあるが、これは少しだけ深刻かもしれない。

 どこか、天に召されるような気分になる。


「そろそろ時間でありんすか。気づいていんす」


 俺は、伏せていた顔をハッとして伽雪に見る。


「主は、わっちに価値を問いんした」


 伽雪は手に持っていた猪口の酒をひと飲みすると語りだす。


「主は、さっき盗みを働いた七つ目女を追いんした。でも、妖怪の世では盗みも一興、人間のいう法を破るのもまた一興でありんす。それをわざわざ追っかけるなんて、妖怪のわっから見たら随分滑稽でありんす。腹が捩れるかと思いんした」


 俺は伽雪の言葉に煽られ、つい怒りの感情が込みあがる。俺がしたことが間違っていたのだろうか。困っている人を助けることが間違っているというのだろうか。

 確かに妖怪に自治は無いと茶碗は言っていた。だが、確かにあの時聞いた声は悲しみの意を含んでいた気がするのだ。なのに、それを非難されたことに胸の内から怒りが込み上げる。こんなに思うのは、伽雪だからかもしれない。


 そんな怒りの感情により火照った頬は、呆気なく伽雪のひんやりと冷たい手により静まってしまうのだった。


「主は人間でありんす。わっちら妖怪はとうの昔に忘れてしまいんした。他の助けとなることを」


 そう呟いた伽雪の表情は、どこか悲しげであった。


「どうしてでありんしょう。人の心なんて捨てた身、物の怪でありんすのに、主が走り出した瞬間に言えぬ気持ちが湧きんした。失ったと思っていた気持ちが、麻縄で縛られた陳腐な気持ちが、急に熱を持つのでありんす」


 伽雪は、手を胸に当てる。


「普通の妖怪なら笑い嘲るでありんしょう。わっちの辛くも、それがどこか嬉しいこの気持ちが。太陽を望む雨蛙が抱く気持ちのようでありんす」


 多分、俺もそんなものかもしれない。


「物の怪でも、恋なんてするものでありんすな。あの時、主を嘲るために何も知らんと言ったが、あれは嘘じゃ」


 伽雪の表情がゆっくりと沈んでいく。


「主は幽体離脱した状態。主がその状態で滞在できる時間というのは限られておる。わっちらみたいに、魂が本体じゃありんせんから。それを伝えず、ただ化かそうと思っておったが、主と過ごす日々がどうにもわっちには楽しすぎたようでありんす」


 そんな事、俺も同じに決まっている。

 楽しい。楽しくて仕方がない。だが、自分ではどうすることも出来ないもどかしさのような感覚。


「主よ。これで最後でありんす。わっちの価値を、説いてくんなし」


 俺は、手を握り締めた。

 伽雪はこの二週間、俺にいろんなことを教えてくれたし、いろんなことをしてくれた。妖怪の生活というものを、様々な角度から教えてくれた。現代における妖怪の立ち位置とは、その意味とは、その存在意義とは。


 その話のひとつ一つが、俺の経験にはない物だったから、俺の心はいつも伽雪の話に惹かれていった。金魚鉢の中の歪む金魚の象をまじまじと見つめる子供のように惹かれていった。


 そんな伽雪の価値、そんな物は決まっている。


「あるに決まっているじゃないか!」


 俺は、伽雪の顔を一点に見つめて言う。


「ほほう。その意とは?」


 伽雪の挑発的な口調に乗せられてか、誘導されるように俺の口が一言発す。


「俺にとって、大切だからだ」


 一瞬の沈黙。伽雪の固まった表情。震える俺の唇。


「かはははは。主はよたろうでありんすか」


 伽雪から大笑いが溢れ出す。


「よ、よたろう」

「間抜けで馬鹿な客を指しんす。わっちに貢ぐおきちゃは多くいんしたが、そんなことをいう人は初めてじゃ」


 そう言って、伽雪は自身の膝をたたきながら大笑いしてみせる。俺も、その空気に耐えることが出来ずに、握り締めた手が震える。そして、徐々に感覚が薄れていくのも気が付いていた。


「でも」


 伽雪は笑いをゆっくり収めると俺へと視線を向ける。


「それを言葉で言ってくれるのは、とっても嬉しい限りでありんす」


 俺はそういった表情を二度と忘れないかも知れない。月夜に照るその表情を。


「そろそろ頃合でありんすな。主や、月を眺めてくんなし」


 そういう伽雪に誘われ、俺の顔が月へと向くと、暗闇の世界に花が咲いた。赤、青、緑色鮮やかに巨大な花が、太鼓にも負けない轟音をとどろかせながら、花が咲く。一輪の花が咲いたかと思えば、その花が他を牽引するように、また一輪、また一輪と開花していく。


 花を彩るようにめしべおしべを思わせるような、黄色い花粉が舞うようにパチパチと音を立てながら、細い線を描く錦冠の花火もうちあがる。


 俺はその光景に一瞬目を奪われた。


「美しいでありんしょう。ここから見る花火が一番美しいのでありんす」


 心臓の鼓動にも負けない音の響きにより、胸が震える。

 巨大な火種は、尾を引きながら空へと舞上がり、そして、数秒の命を、巨大な花を化すことで散らす。美しくも儚い。それがゆえに、その一瞬はとても美しい。


「主や、あの花火の一瞬に価値はありんすか?」


 俺は迷うことなく答える。


「もちろんある。こうして伽雪と一緒に見られる。この一瞬に、価値がない訳がない」


 伽雪といられるこの時間に彩りを加えるこの美しい花火に価値は有り余るほどに存在する。


「随分と実の分からぬものじゃな。わっちは答えよう」


 そういうと、伽雪は花火から俺へと視線を動かす。俺はその視線に射止められ、花火の音が掻き消えてしまうかのような大きな音を心臓が刻む。


「主と見るこの一瞬に、価値がないわけがなかろう」


 その返答に、俺はつい笑ってしまった。

 二人の価値が同じだったからではない。花火というのは、一玉一玉手作りで作られるそうだ。そして、それが何千発と一瞬を散らす。安い玉で三千円程度、一番高い玉で八十万円の花火。その手間隙と苦労、金銭的な価値が、俺達の一瞬を紡ぐためなのだから。


「価値なんて、所詮存在して存在しえない物でありんす。妖怪もそんな物事でありんす。見えなければ感じることさえ出来ない。無価値。でも、感じて触れれば伝わる価値。主に価値がないなんて言わんでくんなし。わっちはそういう主は好きいんせん」


 伽雪の話す言葉の裏に、俺の存在が浮き出だしてくるような。まるで、俺のことを知っているかのような。

 触ることの出来ない手で伽雪の頬をなでようとする。むなしく空に触れる腕。そして、俺の目から涙が溢れ出す。


 俺の人生二十七年。楽しかった日もあった。辛い日もあった。人生を投げ出そうとする日もあった。頭を抱えて、夜に家を飛び出し一人月を眺めた日もあった。友達から散々になじられた日もあった。逆に友達をなじった日もあった。


 そんな俺を構成する一日、一日の中で、この出来事がその構成要素よりも意味を成していた。俺の価値を生み出すであろう、因子と成りえていた。


 それだけに、俺の目からは涙が止まらない。


「泣かんでおくれや。わっちまで、泣いてしまいそうでありんす」


 俺の歪む視界を伽雪の袖が拭う。


「主や、妖怪という存在は、案外隣に居たりするようなものでありんす」


 そして、伽雪は一言付ける。


「大好きでありんす」


 そう言葉が放たれてから、数秒もなかっただろう。俺の唇と伽雪の唇が重なり合わさるのと、ひときは巨大な花火がうちあがり、その一瞬を散らすのは。


 ◆◇◇ ◇◇◆


 俺は暗い視界の中で、石がぶら下がったかのように感じるまぶたを持ち上げた。

 視界に広がるのは、見慣れた人工物。白い天井に、俺の体からつながる複数の管。重たい頭を動かして見ると、点滴のようであった。隣から、ピッ、ピッと心電図が鳴り響いている。


 ふと、隣を見るとあの黒髪で美しい雪女はどこにもいなかった。代わりにいたのは太陽に照らされギラリと光る頭の上司と、同じく同僚たちであった。


「おぉ、社君」


 上司が室内に響くような声をあげる。その声のせいか、俺の頭がジンジンと痛む。


「本当に申し訳なかった!」


 ギラギラと光る上司の頭が俺の方へ向けられお辞儀をする。そして、その後ろに続き、見慣れた同僚の面々が頭を下げる。


 俺は、血の巡りのよくない頭で何があったのかと考える。


「あれは、君のミスなんかじゃなかった。先方の取り違だったそうで、直々に謝罪しに来たんだ。なのに、私は君を悪いと思ってしまい、きつく怒鳴り散らしてしまった。本当に、申し訳なく思っている。この通りだ」


 上司は、そのままひざを折り、地面に手を付けると、頭を地面に叩きつけるように土下座をする。


「こ、こちらこそご迷惑をおかけしてすいませんでした」


 上司が何を言っているのかを理解した俺は、すぐさま謝る。上司がそう判断されるのも仕方がないし、俺だってあの場で違うといえば良かったのだ。何を意固地になり、腐っていたのか今でも考え物だ。

 それに、上司も悪気があったわけじゃないだろう。あれは、本当に大きなプロジェクトだったし、失敗すれば上司の地位も危うかったのだ。仕方がないとも捉えることができる。


「それで、俺ってどうなったんですか?」


 俺は、どうにか話を逸らしたくなり上司に尋ねた。


「君は、大変酒に酔っていたようで、自宅で手首を切った後、徘徊しているところを保護されたそうだ。病院に運ばれていた時は、かなり出血が激しく、死の淵を彷徨ったそうだ」

「本当ですか」


 俺は驚きのあまり、自分の手首を見てみる。包帯がぐるぐる巻きになっており、動かそうとすれば、電流が走るような痛みが伝わる。

 何より驚いたのが、酒に酔っていたとはいえ、自殺未遂から徘徊をしだすとは酒とはさぞ恐ろしいものだ。二度と飲まない。


「君がこんなにも早く目を覚ますのも、きっと奥さんのおかげだろう。私から言うのも恥ずかしいが、お礼を言っておいてほしい。本当にありがとうとな」


 奥さん。俺に嫁などいただろうか。そう、考えているとふと、頭の隅を過った言葉。二週間の思い出。伽雪との会話。


 どことなく分かった気がする。


「妖怪ってすぐ近くにいるじゃないか……」


 俺は、ぼそりと呟いた。


「明日からでも出社できますよ」

「と、とんでもない。君は、これから一カ月は入院生活なんだから、それを動かしたとなると私の首が更に危ういよ」

「俺なら、大丈夫ですよ。片手だってタイピングくらいできますし、それにいろんな商品のアイデアとかありますし」


 そういうと、上司は目に涙を浮かべていた。


「こんな君を、私は怒鳴りつけてしまったのか」


 そう言う上司は、なんとも頼りなさそうであった。


「君が倒れてから、いろいろ調べたんだ。出社時間が一番早く、退社時間が一番遅い。休日も少ない。なのに、ほかの課の資料作成まで手伝って、こんな部下を持てて私は嬉しいよ」


 それは単に、俺の仕事をするペースが遅くて遅れてしまうのが原因だし、ほかの課の資料作成はいろいろと勉強させてもらうためであって、すべて善意というわけではない。だが、なぜだか自分が評価されたように聞こえて、少しだけ嬉しく感じる。


「私は、君の価値を誤って判断していたようだ」


 上司が涙ながらに、どこか誇らしげに答える様子は、どうにも俺には滑稽に映った。

 価値なんて、所詮こんなものだ。あってないようなものだ。だが、それぞれには確実に存在する。意識さえすれば、わかるものなのだ。


 俺は、心の中で退院したら伝えるべきことがあるなと思い、ちいさく微笑むのだった。

 結婚してくださいだろうか。それとも、付き合ってくださいだろうか。なんにせよ、思いを伝えなければ。


 ひとまず、元気になろう。

 どうもtennjaniです!! えっ読めない? 何人に言われたかわかりませんねっ!!


 ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。約23000字とお疲れ様でした♪

 今回のテーマは『価値』という事でした。


 今回は私の中学の頃からの哲学的な悩みであった価値という事について頑張って書いてみようと思いまして、取り組んだ結果です。

 私の考えでは『万物には価値が存在する』です。人間は誰かによって有益であったりします。しかし、自分でそれが認知できるかといえば、まぁ難しい訳で。誰かに必要とされていると実感することなんてあまり無いんじゃないでしょうか?


 そんな時思うのです。「俺って必要なのかな?」とね。

 でも、自分が黙々と悩んでも仕方が無いんです。だって、自分が自分の価値なんて分かるわけ無いですからね。自分にとって自分があるのは当たり前。当たり前すぎて気づかないのですから。そんな時、他者という存在があって初めて価値というモノが存在すると思います。


 自分にとって自分があるのはあまり前過ぎて無益に感じてしまう。だけど、他人から見れば自分は値踏みされて、価値があるか判断される。有益無益を置いておいて、存在価値というのが見出されるわけです。


 中学の頃の私は捻くれていて、作文を書くと先生から「これは駄目。書き直し」と言ってポジティブな事を書かされました。『絆』がテーマの作文で『絆なんていらない。目に見えないものは無いのと一緒だ。だから、絆なんて存在しない。価値が無い』という暴言が飛び出したのもこの頃でしたね。


 今の私は楽観主義になり、ポジティブな考えが出来るようになって、流石に考え方は変わりましたけどね。そんな考え方は、小説内にちりばめてあります。主に、伽雪の発言にね。


 最後に、ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。

 『桃太郎の弟子は英雄を目指すようです』から見てくださった方もいらっしゃるかも知れません。ぜひ、これからも長いお付き合いをお願いしますね!!


 また、次の作品で会いましょう!! ではっ!!

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