5:「由春」
勢いで出てしまったが本当はもう少し休んでいきたかった。
人と会話するのはぼくにとって結構体力を使うことなのだ。
まぁ一発目であんな獣の匂いがするやつに当たってしまったぼくの運が悪いということもある気がする。
住人全員と会話するといっても所詮挨拶だけなんだから、元々疲れるほど会話しないほうが多いだろう。
とりあえず幽霊という非常識に、悔しいけど常識を指摘されてしまった通り、引越しの挨拶には何か物を送るのが常識だろうってことで近場のコンビニまで一旦行くことにした。
面倒くさいけど最初にある程度良い印象をつけておけば後々不快な干渉はしてこないだろう。
以前はコンビニへ行くのに三十分かかるところに住んでいたから五分ほどで着いたのは驚いた。
ここが都会かどうかはわからないけど得した感じだ。これからもお世話になります。
店内の商品を十分ほど見て回ったけど、挨拶のとき何を渡せばいいのか考えてもわからなかったのでなんとなくプリンを買ってしまった。
しかもプリンの詰め合わせなんて便利なものはなかったから単品のプッチンするやつだ。
想像してみると、いきなり挨拶と同時に一つプリンを渡されるのは結構シュールかも。
でもまあ、いいか。
どうでも。
あいつの好物をまんまと買わされたというのが癪だけど、頭の中にプリンがいたんだからしょうがない。
それにあいつの分は買っていないし。
バレることはない、と思う。
ぼくとデブ以外の部屋数は四部屋、なのでプリンも四個。
若干半透明なビニール袋を片手に雪割荘に帰宅した。
とりあえず、挨拶は隣の部屋からかな。
所々錆びている情緒も赴きもない金属階段を上って、ぼくの部屋を通り過ぎ一つ隣へ。
202号室だ。表札は……“雪柳由春”と綺麗な字で書いてある。
女の人、かな。
チャイムを鳴らし、数秒待つ。
扉を開けて出てきた人は、肩まで伸びている少し癖のある髪をした、目がぱっちりしている上品な雰囲気のとても顔が整っている女性だった。
「あの、今日隣の部屋に越して――」
挨拶をしようと話しかけたのに、途中で遮られ、
「あなただれ? ファンならちゃんと規則を守って。サインなら書かないわよ!」
冷めた目で見られながら、よくわからないことを高圧的に言われてしまった。
「…………」
えーと。
どうしたらいいんだろう。
どういう反応すればいいんだろう。
サインって言ったかいま。
どういう意味だろう、サインをせがまれる立場の人なのかな。
芸能人とか。
まあそれはどうでもいいんだ。
今考えることじゃない。とりあえず今やるべきことは、
「そうですか、じゃあこれで失礼しますね」
逃げることだな。
そう言ったとたん、ふん、と鼻息を荒くしながら勢いよく扉を閉めて女性は中へ入ってしまった。
扉の前でどうしようもなく取り残される。
「…………わあーい」
展開が急すぎるよ。
たった十秒程度の会話なのに見事に疲れたぞう。
なんだろう、ここの住人は人を疲れさせることが得意なんだろうか。
なんてったって一人は死んでいる。
それだけで疲れる。
挨拶するというとても簡単なはずのことを失敗してしまい、かなり心にダメージを受けてしまった。
これは休まないと次に進めない。HPが赤いゾーンに突入している。
こんなテンションで他人と会話したくない。
ということで、家に帰ろう。
『おかえりー。皆に挨拶してきた? あっなんか買い物してきたの? プリン?』
「…………」
そうなんだよなぁ。
家に帰ってもこいつがいるんだよなぁ。
休めるところないなぁ。
宿屋無しで冒険続けるってどんな苦行だよ。
そんなの勇者だってしないよ。
「いや、まだ一人もしてない。出来なかった」
『う? どういう意味? ……あっプリンだー! アキくん優しいなー!! このツンデレさんめ! なんだかんだ言って私のことが好きなんだからもうっ』
「……いや、なんか隣の部屋の奴がちょっと……って、袋を覗き込むな!」
はあー……、結局プリンを買ったことがバレてしまった。
このアパートが悪いんだちくしょう。
なんで普通に挨拶をさせてくれないんだここの住人は。
最初に挨拶さえちゃんとさせてくれればもう二度と関わらないと誓いを立てるのに。
『おとなり……ってことは、ユイちゃんかあ。なんで挨拶出来なかったの?』
プリンから目が離せない幽霊はこっちもどう答えていいかわからない質問をする。
「なんでって……うざかったから?」
それしか言いようがない。
初対面の人にサインを断るとか、どんな神経しているんだ。
いやまあ本当に有名人ならそういう機会もあるのかもしれないけれど、せめて用件を聞いてからでもいいだろう。
確かに綺麗な人だったけど、ファンがいるような人がはたしてこんなボロアパートに住んでいるんだろうか。
『別にうざくないよー。ダメだよちゃんと挨拶しないと。ユイちゃん良い人なんだよ? 美人で、頭が良くて、運動も出来て、すっごくモテて、世界は自分を中心に回ってると思ってるだけだよ。 ほら! とっても良い人でしょ?』
「いや、うざいじゃん」
的確な表現だろ。
むしろそれがうざくないとかそっちの方が神経疑うよ。
『だーいじょーぶだって! アキくんが思っているような人じゃないから! ほらもう一回挨拶してきなよ! ところでこのプリンは全部私のものなの? 食べていいの?』
「思ってるような人じゃないって……ぼくは別に……」
たった一言二言話しただけなのにイメージもなにもないよ。
まあ初印象は決して良くないけれど。それはこのアパートで会った奴全員に言えることだし……って。
「このプリンは引越しの挨拶用なんだよ、お前の分はない」
厚かましい奴だなあ。
なんでお前に買ってくると思えるんだ。
そもそも幽霊って物を食べられるの?
ここから動けないってことは食事もしてないってことだろ。
まあ死んでいるんだし当然だけど。
そうだとしたら栄養を取る必要がないっていうのは便利かもな。
体調が変わらないわけだし、病気になることもないだろう。
体がないんだから、それに関する悩みも消える。
それなのに物には触れるなんて、なんてインチキな奴だ。
「顔は合わせたんだし、もう十分じゃない?」
あっちだって無理に会いたくないだろう。
というかぼくが会いたくない。もちろんファンなんかじゃないし、色気では美雪さんに負けている。
会いたいと思う理由がない。
『隣の部屋なんだし、もうちょっと気をつかおうよぅ……』
「……お前に言われると、ショックだなあ」
まったく気を使わない幽霊にそれを言われるとは思わなかった。
変なところしか常識の持っていない奴だ。
そういう気の回し方を少しはぼくに使って欲しい。
……しょうがない。もう一度、行ってみるか。
再度チャレンジ。
今度は失敗しないぞ。
面倒なことは早く終わらせるんだ。
隣の部屋、202号室の前に立ちチャイムを押す。
さっきと同じように数秒待つと、また扉が開かれた。
そして現れる自信過剰な女性――
先の失敗の原因は先手を取れなかったことだ。
ちゃんと用件を伝えればわかってくれるはず。
とにかく一回、この一瞬だけ我慢すれば、
「あの――」「またあなた? まったくファンクラブの規則はどうなっているのかしら。あらそれは? 困るわ貢物なんて……」「――ですよね」
失敗したー……。
なんてパワーだ、これほどまでに人の話を聞く気がないとは。
それに出たよファンクラブという謎の存在。
あなたは何者なんですか?
そんなに慕われているんですか?
しかも言いぶりだと公認だよ。
自分でファンクラブの存在を認めてるよ。抜け駆け禁止だよ。
貢物って、いつの時代だよ。せめて贈り物とか綺麗な言い方にしろよ。貢物ってどんだけ上の位置にいるんだよ。
まったくこんなのに付き合って――
……いや、待てよ?
まともに付き合うからペースを飲まれるのか。
そうだよ、逆にこっちが振り回していけばいいんだ。
小学、中学、高校と友人がいないことにかけては誰にも負けない。
コミュニケーションの難しさなら、ぼくのほうがわかってるぞ!
「いえ、これはぼくの分ですよ。何を勘違いしているんですかいやらしい」
渡すはずのプリンを食べてやる!
ふふふ、まず相手の度肝を抜くのが重要だ。
「えっ!? じゃあなんで私の前で食べるのよ!?」
ふっ、予想通りの返し方だ。
平凡なつっこみしか出来ないところを見ると、奇想天外な行動に慣れていないらしいな。
まだまだ、これからだぞ!
「ここで食べるとより美味しくて」
「どんなシチュエーションなのよ!?」
「君の前で食べると美味しいよ」
「えっこれ口説かれてるの!?」
「いえ、あなたがうざいので」
「見せ付けられてるんだ……」
「じゃこれで失礼しますね」
「プリン食べに来ただけなの!?」
「あ、ぼく隣に越してきた巻柏といいます」
「ここで自己紹介なんだ! あっ……私は雪柳よ」
むぅ、意外と律儀な人だ。
しかも結構ノリがいい。
だけど度肝を抜くことは成功したようだ。
もはや何の勝負かわからなくなっているけど、この場はもうぼくの勝ち。
「まったくもう、引越しならそうと早く言いなさいよ。私に惚れるのはかまわないけど迷惑のかからない範囲でね。まあ、一応よろしくしてあげるわ?」
最初の変な勢いが抜けたような力のない笑みで挨拶を返す女性。
言わせなかったのはそっちの癖に都合のいいやつ。
私に惚れるのは自由って、さも当たり前のように言われてしまったぞ。
何様のつもりなんだこの人は。
しかもまた一応ってつけられた。
なんなんだここの住人は。一応よろしくって、まったくよくするつもりのない言葉だろ。
まあ、ぼくにはそんな皮肉通じないけど。
「いえ、うざいのでいいです」
えっ!? と驚く女性を横目に立ち去る。
ふっ、完全勝利。
最初はしてやられたけど、これで胸のつかえが取れた。
やっとここの住人に一泡吹かせてやったぞ。
「私にこんな失礼な態度……絶対に後悔させてやるんだからー!」
と女性が後ろで叫んでいるが無視して自宅へ入る。
……しまった。
最初の目論見だと気にされない程度に良い印象で済まそうと思っていたのに、なんだか逆に印象を強くしてしまったぞ。
それに最後のセリフ……恐いんだけど。
なんだよ後悔させるって。
あー……犯人かどうかもわかってないのに大胆なことやっちゃったな。
もう後悔しちゃったよ宣言どおりに。
まあ仲良くなるよりはいいかな?
でも仲が良すぎて殺しちゃうんなら仲が悪くて殺しちゃうほうが、普通にあるよなぁー……どう考えても。
あ……、結局プリン渡してない、食べちゃった。
もう後悔しかない。
『どうだった? ユイちゃんと挨拶できた? なんか今ユイちゃんの叫び声聞こえたんだけど喧嘩になったりしてないよね? 大丈夫だよね?』
なぜか幽霊は玄関で立ちふさがるように突っ立っていた。
これはなんだろう、心配の表れだろうか。
どっちに?
ぼくかお隣さんか……まあ付き合いから考えてあっちか。
「……ああ、挨拶はしてきたよ」
挨拶じゃないこともしてきたけどね。
……早くそこをどいてくれ、中に入れない。
『よかった~。ねっユイちゃん良い人だったでしょ? アキくんもおつかれさま!』
幽霊は安心した様子で畳に寝転がる。
あんまり埃を立てないで欲しい。
「……うん」
良い人ねえ。
あれが。
むしろぼくのほうが良い人じゃなかった感じだったけど、それでもあれは断じて良い人じゃなかった。
こいつの頭の中はどうなってるんだ。
お花畑か。
靴を脱いで中に入り、寝転がっている邪魔な幽霊を跨いでテーブルの近くに座る。
しかし畳に直座りはお尻が痛いな、今度座布団を買わないと。
あ、プリンの空容器どうしよう、まだゴミ箱が無いんだよなあ。
いいか、とりあえずテーブルに置いておこう。
「なあ、本当に誰が犯人か見当もつかないのか? まだ二人しか会ってないけどどっちも普通じゃないし、どっちもかなり怪しいんだけど」
風貌がもうすでに犯罪者な男と、自分が大好きな自己中女。
見た目がそぐわない殺人犯も嫌だけど、見た目から怪しいってのはもっと嫌だ。
あー、引っ越したいなあもう。
『んー……? わかーんなーい。全部アキくんにまかすー……ぐだー』
幽霊は自分のことだってのに、興味なさそうにしてるし。
「…………別にお前のためにやってるわけじゃない」
くそっ、こいつがもっと本気で思い出してくれれば、会う人全員を疑うことなくそいつだけを警戒出来るのに。
なんでこんなにやる気がないんだこの幽霊は。
まるで自分の家のようにくつろぎやがって。
いや、元は自分の家なんだろうけど。
今はぼくの家なんだから少しは気を使え。
「あー……もう、めんどくさいなー」
なんでいちいち挨拶するたびに家に戻ってるんだ。
効率が悪すぎる。
くそ、変人じゃなかったらもう少しスムーズに行くのに。
この分だと残りの奴らも普通じゃない可能性大だ。
五分ほどテーブルに突っ伏して休憩する。その間幽霊は何も話しかけてこなかった。
「じゃあ残りの人たちに挨拶行ってくるから、おとなしくしてろよ」
三つに減ってしまったプリンを持って、立ち上がり玄関のほうに歩くと、
『……うん、いってらっしゃい』
力なく送り出す幽霊の声が返ってきた。
なんだこいつ、眠いのか? まあ幽霊って眠れるのかどうかもわからないけど。
さて残りと言ってもあと三部屋。
たったの三部屋、されど三部屋だ。
先の二人が強烈な個性の持ち主ということは、あと一人くらいは覚悟しておいたほうがいいかもしれない。
二度あることは三度あるって言うし。
まさか全員ってことは……さすがにないだろ。
次は……どこからにしよう。
102号室、202号室と回ったから、先に二階のあと一部屋を終わらせようかな。
カン、カンという金属特有の足音を響かせて201号室の前まで歩く。
さて表札は……と、あれ、ないのか。
まあ最近表札つけない家増えているっていうし、ぼくもなにか特別なことがない限りつけない予定だ。
郵便的には困るかもしれないけど住所がわかれば十分だろう。
こんなもんなのかもしれないな。
チャイムを押して数秒待つ。
この瞬間が嫌な待ち時間。
どんな人が出てくるんだろうという不安と、また変な人だったら嫌だなという不安と、もし殺人犯だとわかったらどうしようという不安と、ってあれ、不安しかないや。
ネガティブな考えしか出てこない。
そんな不安を払拭するように扉から出てきた人はこっちまで明るくなってしまうような爽やかな笑顔で応対して……なんてこともなく反応はいつまでたっても返ってこない。
……あれ、留守かな?
しょうがない、一階の人たちに挨拶してくるか。
階段のほうへ向かったとたん、まさにその一階から、かちゃっと扉の開く音がした。
そっと上から覗き込むと、
「103号室の……」
男性だった。
ぼくの部屋の真下、103号室から出てきた男性は、髪を茶色く染めた、もしぼくが女性だったら一生縁のなさそうなイケメンだった。
一言で言うとチャラ男というような外見。臭いとか高飛車よりはマシかもしれない。
なにより普通の人っぽい。
それにしても、思いつめたような表情だ。
なにかあったんだろうか。
男性は、アパートから離れるのではなく、そのまま横に移動した。もしかしたら階段に登るかと思ったけど――階段の上り口は102号室前にある――男性の行き着いた先は、101号室。
まだ挨拶していない部屋の前だった。
チャイムを押して佇んでいる。
なんとなく、音も立てないように様子を伺ってしまう。
人と人との会話に入り込む勇気はないし、邪魔しちゃ悪いかなと。だけど、いつまで待っても101号室の扉が開かれることはなく、だんだんと男性は焦れてきたみたいに貧乏揺すりをし始めた。
ついに男性は我慢しきれなくなったのか、張り付くように扉に手を置く。
そして――
「なあ、いい加減出てきてくれよ!」
叫んだ。
扉を、音を立てて叩きながら。
なんだ……?
痴情のもつれってやつだろうか?
いやまだ101号室の人が女性だって決まったわけじゃないけど。
男性は顔がいいし、モテそうだ。
モテないよりモテるほうが絶対いいだろうけど、こういう面倒くさいことになるならモテるのも大変そうだ。
イケメンのデメリットってやつか。メリットのほうが大きいから、中々わかってもらえないだろうな。
はは、可哀相に。
大変だなぁ、ああ、イケメンが困っているのを見るのは……気持ちいいなあ。
他人の不幸って見ていて楽しいよねぇ。
なんてアホなことを考えていると、男性は無視出来ない言葉を、
「――あいつを殺したのは俺なんだよ! マナのせいじゃないんだ……! 頼むから出てきてくれよ!! このままじゃ死んじまうよ! なあ、頼むよ……」
泣き叫ぶように、言ってしまった。
あれ……犯人、わかっちゃった。




