4:「美冬」
「それじゃ、管理人に挨拶行ってくるから。散らかすなよ」
まあ部屋を散らかせるほどの荷物はまだないんだけど、念のため。
あいつの私物は荒縄しかない。
だけどその縄ですでに被害を受けた身としては注意を配る必要がある。
また天井に荒縄を吊るされても困るしね。
『はいほ~。いってらっしゃー。アキくん無愛想気味だし、ちゃんと仲良くね?』
「…………うん」
物を持ち歩くのが好きじゃないぼくがいつも持ち歩いている唯一の私物、腕時計で確認すると、現在午前十時過ぎ。
にこにこ顔の女性はぶんぶんと手を振っている。
このアパートに着いたのが八時くらいだから、二時間も幽霊と話していたことになる。
それにしても、仲良く、ねえ?
アパートの住人の中に殺人者がいるってのに。しかもそれが誰かわからないというこの状況で。
そんなことぼくに出来るとでも思っているのか?
ただでさえ人と仲良くするつもりのないぼくに。
ていうか、そんなの誰にだって無理だろう。
人を殺したかもしれない奴と仲良くできる奴なんて、よほど無神経な奴か、そいつと同じような異常者だけだ。
殺人者。
仲が良すぎて殺した、らしい。
そんなことどういう状況ならあるのかわからないけど、一番恐いのは、その犯人が誰かわからない状況だろう。
つまり今の状況だ。
誰かわからないから、対策が立てられない。
コミュニケーションを取ってしまっていいのかもわからない。
それに仲良くなると、自分も殺されるかもしれない。
かなり特殊な状況かもしれないけど、万が一くらいにはありえるだろう。
だから一刻も早く誰か断定しなくちゃならない。
そいつを、警戒するために。
ぼくだって殺されたくはないから。
でも決して、あの幽霊のためにやるんじゃない。
ぼく自身の、保身のためにだ。
犯人を見つけるだけ。
なぜ殺したかなんて、絶対に調べない。
オンボロ木造アパート〝雪割荘〟は二階建ての六部屋で構成されている。
ぼくが借りた部屋は203号室。アパートを正面から見て右上の位置にある。
二階へ続いている階段が近く、上の三部屋の中でも特に良いほうだと思う。
窓が東側で朝日も当たりやすい。
これから挨拶しに行く管理人の部屋は102号室。一階の真ん中の位置にある。
アパートの管理人“三角”さんは、不動産屋の紹介で部屋を見せてもらう時に一度会った、ものすごい美人。
もしかしたら殺人犯かもしれないという恐怖はあるが、美人に会うというのは男であるなら心躍る状況であり、ぼくもまた例外じゃない。
そんな恐怖と緊張が入り混じった気持ちで102号室の前まで来ると、表札が見えた。
“三角 美冬”と、そう書いてある。
綺麗な名前だ。一人の名前しか書いてないところを見ると、一人暮しなのだろうか。
もしかして……結婚してないんだろうか!
なんだか緊張してきた! この手に汗握る展開、決して嫌いじゃないぞ!
三角美冬さんの美しさ。
名は体を表すという言葉があるけど、まさにその通りだ。
雪のように白い肌、まるで美しい冬景色のような、とても儚げで、影のある女性だった。
今思い返すと、この人になら殺されても文句は言えないんじゃないかというくらいの、美しい人。
注意すべきところは、可愛いではなく、美人というところだ。
とにかく色っぽい。和服がとても似合いそうな、思わずうなじを指でなぞってしまいそうな。
そんな女性と、これから一つ屋根の下で暮らす。
だからいくつかあった引越し先のリストの中でこのボロアパートを選んだといっても過言じゃない。
なんとも素敵な日々になりそうな予感がするじゃないか!
難点はまぁ、殺人を犯しているかもしれないということだが、綺麗な花にはトゲがあるという言葉もある。
危険なほど、惹かれてしまうものなのだ。
我を見失って思考能力が低下するくらい興奮する!
今、ご挨拶します……!
少し震えている指で、チャイムを鳴らす。ドアを開けて現れたその人は――
「あーい、今開けまーす」
のぶとい声の、眼鏡をかけた、太っている、決して美しくない、男性だった。
「「………………だれ?」」
声が、重なった。
「……あれ? ここ、三角美冬さんの部屋ですよね?」
部屋を間違ったかな? ともう一度表札を見る。
……うん“三角美冬”と書いてある。
ここで間違いはない。じゃあ、この人は……誰だ?
彼氏なのかな?
……許すまじ。
分不相応というのはこのことだ。
鏡でも見てこい。
「うん、間違いなく俺の部屋だよ」
「…………え?」
よくわからないことを言い出したぞこの男性は。
なんだ……俺の部屋? いやいや、ここは三角美冬さんの部屋なんだろ?
お前は誰なんだよ。
「えっとお。三角美冬さんはいますか? 引越しの挨拶に伺ったんですけど」
「だから目の前にいるって。ああ、今日入る人だったのか。一応よろしく」
太っているよくわからないことを言う人によろしくと言われた。
本当にそう思っているのか怪しい言葉と表情で。
一応ってなんだよ。
いや、そんなことよりも聞き捨てならないことをこの人は言ったぞ。
目の前にいる? 美冬さんが目の前に?
……え?
「…………美冬、さん?」
「うん」
目の前の眼鏡を指差す(失礼だけれど)と、さも当然とでも言うように肯定されてしまった。
「……いやいや、何かの間違いでしょう。美冬さんはぼくに案内してくれましたよ。あなたとは似ても似つかないとても美しい人で、部屋を見るときに案内を――」
「ああ、それはお袋だ。名前は美雪。ってなんか君失礼だな……」
まだしゃべっている途中なのにばっさりだなー。
信じたくない思いを込めて必死に説明していたのにこの野郎。
まぁいいこんな太っている人のことなんかどうでもいい。
そんなことよりも美しい女性は美冬ではなく美雪さんだったという事実のほうがよほど重要だ。
美雪さん、それでもやっぱり美しい人にお似合いな名前だろう。
うん、いい。
それにしてもこのまるで何日も体を洗っていないような年期の入った体臭のデブは息子だったのか。というか、美雪さん結婚していたのか。
まぁでも予想していなかったわけじゃない。
あの美しさだ、世の男性は放って置かないだろう。
人付き合いが好きではないぼくでさえ会いたいと思う稀有な人なんだから。
それにしても似てない親子だ、こいつちょっと……いや、言わないでおこう。
この人にも人権はあるんだ。
「あの、では美雪さんはどこでしょう? 案内してくれた時のお礼をしたいんですけど」
早くこの人から離れたい。
そして美雪さんに会いたい。
女性特有のフローラルな香りに包まれたい。
だけどそんな淡い希望は早々に打ち砕かれることになった。
「ああ、お袋はここに住んでないよ。お袋が管理人ではあるけど。まあ俺が住んでいる間は代行みたいなことしているんだ。だから管理人に用事がある場合は俺に言ってくれればいいから、そこんとこよろしくね」
な、なんだってー……。
そうか、そういえばそうだよな……案内してくれたからといってその物件に住んでいるとは限らないよな。
はは、ぼくはなんて馬鹿なんだろう。
しかも先に美雪さんには会えないという事実を突きつけられてしまった。
とんだ先回りだ、嬉しくない。
不愉快だ。
だんだんとこの男性に対する不快指数が上がってくる。
「そうなんですかー。はは、それにしても似合わない名前ですねー。美冬って、ははっ」
なんだろう、口から勝手に悪口が出てくるぞ。
これは……まあよくあることだなうん。
「うん、次に名前ネタでいじったら殺すよ?」
わあ、なんか爽やかな笑顔で恐いことを言われてしまったぞ。
殺すって言ったよこの太っていて髪が不衛生に脂ぎっている男性。
殺すって初対面で言えることなのか?
物騒な男だ。
多分自分の名前がコンプレックスなんだな、名は体を表してない。
うん? なんか違和感があるぞ。
……あれ?
なんか忘れているような……殺す? そうか。
……思い出した。
このアパートには殺人者がいるかもしれないんだ。
しかも容疑者の一人を挑発して、意図せずに危ない橋を渡ってしまった。
気をつけなければ。
見た目から言うとかなり怪しいし。
捕まったら部屋からエロい漫画やらゲームなどが見つかってテレビに取り上げられる風貌をしている。
きっと情報操作のために近所の人から「真面目な印象で、そんなことするとは思っていなかった」と言われてしまうんだろう。
なんて可哀相なんだ、少し優しくしてあげよう。
これは決して保身のためじゃないよ。うん。
とりあえず情報収集のためになにか質問してみよう。
「あの、ここって幽霊とか出ます?」
うーん、我ながら微妙な質問かも。これでなにがわかるというのか。
「……なんで?」
やっぱり疑わしげな視線をぶつけてくる。
話の切り替え方が下手すぎたな。
反省だ。
「いや、なんにもないならいいんです……じゃあこれで失礼しますね」
どちらも相手に対しての印象が良くない。
男性にとってぼくは失礼な態度だし、向こうはぼくが勝手に好きじゃない。
美雪さんに会えなかったことで心が乱れている状態で話を長く続けても互いに良いことがないだろうと判断した結果の返答だったんだけど、
「なんか、あったの?」
予想外なことに男性は続けてくれた。
「いや、まあ、ラップ音、とか……?」
会話が続くとは思っていなかったから、返事が適当になってしまった。
しかもさらっと嘘をついてしまうことに。
それだけ焦ってしまったんだろう。
男性はふうん、とそう続けた後、
「まぁこのアパートにはいてもおかしくないよ」
まさかの肯定の言葉を続けた。
「それは、どういう意味です……?」
思わず前のめりになって聞き返してしまう。
だけど、
「めんどくさいことが先月色々あってね。幽霊が出たっておかしくない。気になるんだったらここから出て行ってもかまわないよ、俺に金が入ってくるわけでもないしね」
残念ながら説明する気のない言葉しか返ってこなかった。
「どんなことがあったのか聞いてもいいですか?」
確信する。
この人は知っている。
何があったのか、誰が死んだのか。誰が殺したのか。
そして、なぜ殺してしまったのか。
あの幽霊に関する、情報を。
「――聞かないほうがいいよ」
とても冷たい目をした拒絶だった。
人が死んだことをなんとも思っていないような。
面倒くさい、くだらないと思っているような。
まるで興味を持っていない、目だった。
今日入居したどことも知れない馬の骨には、決して教えない。
そう目が言っていた。
男性は扉を閉めかけて、あぁそれと、と続けてまた扉が開く。
「女性関係には気をつけてね?」
と意味不明な言葉を言い残して、じゃあねと今度こそ完全に扉を閉めてしまった。
――気をつけろ。
それは、忠告のようでもあり、警告のような言葉だった。
じょせい、かんけい……? ……あ、名乗るの忘れた。
まあ、いいか。
本当ならそのまま続けて他の部屋の住人に挨拶するところだけど、一人目でなんだか疲れてしまったのと、その一人目が気になることを言っていたので一旦自室に戻ることにした。
自室に入ると、女性は寝ころがりながら今後一切使われる機会がないだろう学力を高めるために参考書を開いていた。
まあ単純に暇つぶしなのかもしれない。
この部屋遊ぶものがないしなあ。
かといって幽霊のために用意する気はさらさらないけれど。
『あっおかえりアキくん。ちゃんと挨拶できた?』
幽霊は参考書から目を離し、上半身を起こしながら顔をこちらに向ける。
まるで親みたいなことを言う幽霊だ。
ただ引越ししてきたと言うだけにちゃんともなにもないだろう、と思ったけれど、
「……いや、ちゃんとは出来てないかもな」
なにやら物騒なことを言われたしなぁ。
あれは世間ではちゃんとしていない部類に入るかも。
こっちの名前言ってないし。
いや挨拶出来たかどうかはいいんだよ、そんなことよりも確認しておきたいことがある。
この、有益な情報は何も持っていない幽霊に。
「なあ……お前、先月死んだのか?」
いつ殺されたのか、これは結構大事なことなんじゃないのか。
それともこいつは自分がいつ死んだのか、そんなこともわからないくらい記憶を無くしてしまったんだろうか。
『あぁうん。言ってなかったっけ? 私は……二月の半ばくらいかなぁ? うん、それくらいに死んじゃったんだ。今三月の中ごろだからーちょうど一ヶ月くらいになるのかな? 私の幽霊人生は、えっへへ』
「…………覚えてるんなら先に言えよ」
思いのほか早い、死にたてほかほかじゃないか。
ていうかこの部屋で死んだんだろう?
そんなすぐ住人募集かけていいのか人の死んだ部屋に。
意外と度胸があるんだなぁ美雪さん。
でもお払いとかしてくれていたらこんな面倒なことに巻き込まれずにすんだのに。
まぁ殺人者が近くにいるって状況は変わらないけれど、知らないってことはいないっていうのと同義だ。
知ってしまったから、気にしてしまう、脅えて、しまう。
こんなこと、知りたくもなかった。
『そ、そういえばさ、引越しのご挨拶って普通は何かあげるもんじゃないの? アキくん何も持っていってないよね? まあこの部屋何もないけどさー』
……そうか、そういえば普通は食べ物か何かを渡すことが多い気がする。
しまったな。非常識な存在に常識を説かれてしまった。
まあそれでも美雪さんにならともかく、
「あんなぞうきん絞った時みたいな匂いのする奴にあげるものなんかないけどな」
殺人やらなにやらの事情がなくてもお近づきになりたくない人種だ。
忘れていただけなのにむしろいい仕事をした気がする。
むしろ無意識で拒否していたのかも。
『そっか……スミくんまたお風呂入ってないんだ』
女性はくす、と小さく笑いながら足をばたばたと動かした。
いや笑い事じゃないよ? 本当に臭かったんだよ。
またってことは頻度が高い行為なのか。
迷惑な話だ。
まあ面倒くさいってのはわかる。
風呂に入るのがじゃなくて、風呂までいくのが面倒くさいんだろう。
ボロアパート〝雪割荘〟は家賃の安さが売りだけど、むしろそれしか価値がないけど、その代わりに風呂がない。
トイレは各部屋についているけど、近所にある銭湯に行かなければ体を洗えない。
それでも、最低限として風呂は入って欲しいところだけど、ここに住むということはあまり裕福じゃない人が多いだろうし、色々理由があるんだろう。
「引越しの挨拶か、何を持っていくのが普通なんだろう……」
これは無意識に呟いただけであって、決して話しかけていたわけではない。
だけどそれを拾ってしまうのがこの幽霊の空気の読めなさだろう。
『プリンがいいよー!!』
しかも、明らかに普通じゃないチョイス。
予想はついているけど、一応聞いておく。
「なんで?」
『私が好きだから!!』
はい、やっぱりそうでした。
そうだと思いました。
まあいいや、話を戻そう。
「なあ、先月死んだってことの他に何か覚えてることないのか?」
『そんなことどうでもいいじゃない。それよりアキくんに言いたいことがありますよ!』
おい自分の死に関することをどうでもいいとはなんだ。
それに犯人のこと探して欲しいんじゃないのかよ。
まあ引き受けてないけど。
それにしてもこのやる気のなさはなんなんだ。
もう寿命を気にしなくていいからそんな軽いのか?
自分で探せないからってお気楽すぎるだろ。
もっと必死になれよ。周りに伝播するくらいもっとあつくなれよ。
『テレビがないの! アキくんてテレビ見ないの? 信じらんないよ! それでも現代に生きる若者かー! ねえどうしてテレビを持ってこないの? それともこれから買うつもりなの? ちゃんと私のことも考えてくれないと困るんだけど! 私なんてさっきからずっとアキくんのこと考えてるんだよ!? 他にすることないからだけどね! つまんないよ何もすることがないよ! アキくんいなくて寂しかったよー! 私と話してくださいお願いします!』
「…………はぁ……」
堰を切ったような言葉の爆発。
こいつは強がるということをしないのか?
いや、こいつの言うことが本当なら一ヶ月も人と会話することがなかったんだ。
こんなテンションの高い会話好き幽霊ならさぞ辛いことだったんだろう。
同情を誘う話だ。
一人だけの部屋で、会話することもなく自分の存在を気づかれることもなくやることといったら自分の死や犯人のことを考え続けるだけ。
精神が狂ってもおかしくない。
普通の感性を持っているならこれから夜通し幽霊と話すかもしれない――
「それじゃ、他の人に挨拶してくるから」
――ま、ぼくはしないけどね。
待ってよー! と叫んでいる幽霊を置いて、部屋を出た。
ああ無情、この世はそうそう思い通りにいかないんだ。
そのことにお前は早く気づくべきだ。




