2:「雪割荘」
本日無事に……ではないけれど引っ越してきたこの木造のアパート『雪割荘(ゆきわりそう』は、いつ床が抜けてもおかしくないくらいボロい。
畳が敷いてあるので実際には抜けることはないだろうけど、その畳も清潔感はない。
むしろ汚い。
だけどその代わりに家賃がとても安い。
なんと敷金礼金無しで月一万円。そんな物件が存在することが驚きだ。
六畳のワンルームなのでまあ一人暮らしとしては上等の広さだと思う。
親と離れて暮しているのに親のお金で暮しているんだ、贅沢な暮らしは望めない。
そんなに興味もないし。
そんな自由で素敵な生活のたった一つの問題点は、こいつ、だよなぁ。
『とりあえず降ろして欲しいんだけど』
いまだにぶら下がりながらもムカつくくらいの笑顔で話しかけてくる自称地縛霊の女性。
こいつさえいなければ誰にも干渉されない素敵ライフの始まりだったのに。
「…………はぁ」
勝手に人の部屋で首吊っといて図々しいなーとか言ってもこれには通じないんだろうなあ。
なんでよりにもよってここで死んだんだよ、不幸すぎる……。
『あっなにそのため息! 私になにか文句があるならちゃんと言ってよ! これから一緒に暮らすんだからさ、隠し事はなるべく無しにした方がいいと思うんだけど!』
文句なら最初から言っているのに理解してないのかなぁ。
なんとかして追い出す方法を見つけないとな。
残念ながら「地縛霊だから出て行けないのか、ならしょうがない」とか思うような殊勝な性格はしていない。
「…………はぁーあ、出てってくれないかなぁー」
とりあえず本人のご希望通りちゃんと文句を言ってみる。
『……ねえ君は人のことを不快にさせるのが好きなの? そういうの良くないと思うよ? でも大丈夫! 私が更正してあげるからね‼ なんたってこれからは一緒に、二人で暮らすんだからね! あっこれって同棲かな? ちょっとまずいかなぁ付き合ってもいないのに……。私年上が好みなんだけどそういえば君って年いくつなの? 私? 私は秘密だよ!? てゆーか女性に年なんて聞かないでよデリカシーが足りないよ!』
「…………うーん」
うざいなー。
ほんと早く出てってくれないかな。
これからこんなのと一緒にいなきゃいけないかと思うと死にたくなってくるなぁ。
あ、これは皮肉になってていい表現だな。
とりあえず健康を狙ってもいないのにぶら下がっている幽霊の足を掴んでみる。
なんか……女性の足を掴むって変な構図だな。
というか普通に掴めるんだ、幽霊なのに。
影がない以外に人との違いを見分けられそうにない。
『ぐぅっるじぃ……やめっ』
なんとなく下に引っ張ってみたけど……これどうやって降ろしたらいいんだろう。
それより苦しいってことは幽霊も息とかするのかな。
ということはこのまま引っ張っていると死んだり……いやもう死んでいるのか。
じゃあどうして苦しんでいるんだ非常識な。
そもそも幽霊って質量ないんだから浮いたり出来るんじゃないのか。
なんなんだ。
『やめ……やめぇぇ!!』
幽霊はどす、と大きい音を立てて畳が敷いてある床に落下する。
火事場の馬鹿力というやつだろうか。
なんと幽霊は自分で縄を首から外してしまった。
下に引っ張る力より苦しみから逃れようという力の方が大きかったのか。
大した執念だ。
とりあえずげほげほと咳き込んでいる目の前の非常識に一言いっておかないと。
「まったく、なんてことをさせるんだ! ぼくを人殺しにするつもりか!」
『君が怒るんだ!? いやこっちだよ! こっちのセリフだよ! なにするんだよ!? 危うく死んじゃ……わないけどさ! 普通降ろしてって言ったら縄を外そうと努力するもんだよ! なんで下に引っ張るんだよ!』
「いやまあなんとなくだけど」
『そんな理由なんだ……もういいよ。君がどんな人間なのかわかってきたよ……』
落ち込む幽霊を見て少しだけ気分が晴れた。
ざまーみろ。
というより、先ほどから気になってはいたんだけど、どんどんわからなくなってきた。
まずこの幽霊が落ちたときに音と衝撃が発生したので多分質量はあると思われる。
でもこれぼく以外には聞こえるんだろうか。
少なくとも声は聞こえなかったみたいだし……これがボルターガイストの正体なのかな。
そして次に気になったのは――というか最初に女性を見た時から気になっていた――縄だ。
どこから持ってきたんだろう。
当然引越ししたばかりなので部屋に荷物は何もない、これから届くはずなんだ。
ということは、どこからか持ってきたのだろうか。
それとも、この幽霊特有の能力なんだろうか?
よく聞く話ではある。
噂などのレベルでも物を持っている幽霊は多い、包丁とか柄杓とかね。
物に触れないはずの幽霊はどうやって物を持つのか。
それは、自分の死因が関係しているものに関しては、例外があるからなんだろうか。
だけどこうして本体から離れても消えないってことは、ちゃんとあるってことだし……よくわかんなくなってきたな。
『ねぇねぇ、そういえば君の名前は? なんて呼べばいいの?』
落ち込んだ心を回復させて落ち着いたであろう女性は無邪気な笑顔で名前を聞いてきた。
いわゆる前かがみな体勢なんだけど、これって胸元が気になって落ち着かないんだよな。
ワンピースって、エロいよね……いや落ち着くんだ。
幽霊に欲情してどうする。
「……人に名前を聞くときはまず自分から名乗るもんじゃないの?」
『あーそういう説もあるね』
説とかじゃねえよ一般常識だよ。
嫌味たっぷりで返しているのに全然気にしている様子がない。
死んでいるくせに肝が太いとは何て奴だ。
『おほん、じゃあ私から言うね? ちゃんと聞いてね。無視しちゃやだよ? 私は立波常夏、生前は「トコ」ってあだ名だったんだ、君もそう呼んでいーよ』
衝撃が走る。
と、とこなつ……!?
なんていうキラキラネームだ。
結構いま多いもんな、マンガとか小説に出てきそうな名前。
ぼくだったら確実に親を恨んでいただろう。
「うわーいい名前だねー、学校で人気者になれそうだー」
出来るだけ馬鹿にするように言ってみる。
『でしょ!? 可愛いよね! 数少ない私の自慢なんだよ!』
「…………ですよね」
こいつ本当に自分が嫌いなのか?
キラキラしている目には先ほどのような迫力もなく、説得力もない。
単純に褒められたことが嬉しいんだとすると、案外素直なのかも。
『でさっ君のお名前は? 私は君のことをなんて呼べばいいの?』
もしも犬だったら必死に尻尾を振りまわしているであろうはしゃぎっぷり。
くっ、癪だけど答えるしかないのか?
なんとなくこいつに主導権を握られるのは嫌なのに。
「……巻柏秋人」
小さい声で言ってみる。
聞こえなかったら儲けもの。
言ったという事実はあるからな、もう二度と言わないぞ。
……なんて、我ながら子供っぽい理屈だよなぁ。
『そっかぁ! 秋人君かぁ……あれ? あだ名とかないの? 私は君を何て呼べばいいの? ねえねえ、聞いてる? 聞いてるよね?』
ちっ……聞こえていたのか。
というかぼくがあだ名をつけられるような人間関係を構築しているように見えるのか?
目がどうとかくだらないこと言うくらいならこれくらい見抜けよ。
「知らないよ。むしろ呼ぶなよ、出てけよ」
『じゃあ私が考えてあげるね!』
「やめろ」
なんでそうなる。
『うーんイワヒバ、イワヒバ、ヒバちゃん……イワっぴ、あーアキヒトだから、アッキー……いや、ヒトデ、かな!』
あれ、なんかこいつあだ名考え始めているんだけど。
頼んでないって言うか最後のはありえないだろって言うか。
え、なんだろうこれ、名前を言うのってこんなに疲れる作業だっけ。
ていうかなんでそんなに愛称にこだわるんだ、そういう病気なのか?
とりあえず何をおいてもヒトデは却下しなければ。
「……いやあだ名とかいいから」
特にヒトデな。
『そう? じゃあ何て呼んで欲しいの?』
ねえそれって本人に聞くことなの?
……いや、でも変なあだ名つけられるより大分マシか。
いやでも待てよ、自分を何て呼んで欲しいかって結構難しいな。
それに自分で自分のあだ名を考えるのって痛くないか?
でも変なあだ名をつけられるより……ってこれじゃループだな。
思考方法を変えよう。
いま自分で考えるんじゃなくて過去に呼ばれていたあだ名を思い出せば……ってそんなのあれば苦労しないんだよ。
友達なんていないし、親は普通に秋人って呼んでいたし、他にぼくの名前を呼ぶ奴なんて………………はぁ、いやいたよ。
そういえばあいつがいたな。
そうだ、あいつは確か――
「――『アキ』で、いいよ」
こんな風に、ぼくを呼んでいた。
今日初めて会ったこいつにあいつと同じ呼び方させるなんて癪だけど、しょうがない。
だってあだ名なんて、これしか思いつかないもんな。
少し投げやり気味に言った言葉を幽霊は、
『……うん、わかった。アキくんだね。これからよろしく!』
受け止めるように微笑んで、最後はこちらに手を差し出してきた。
まあ当然のように無視したけれど。
『……うへへ』
スルーされた手を何事もなかったかのように引っ込めて、それでも気にしてないよと言わんばかりの笑顔。
なんかボジティブだなぁうっとおしい。
うへへじゃねえよ。
『ねえねえ、アキくん年いくつ? 顔つきが幼いけど学生さんだよね? 私より年上なんてことないだろうけど。あ、なんでここに引っ越してきたの? ご両親はどうしたの? 遅れて来るの? アキくんが最初に来たってことはーひょっとして一人暮らし? 当たった? だよね? 家族で住むには狭すぎるもんねここ。私もいるし……ってそうだ! ちゃんとお布団は私の分も用意してね! 一緒に寝るのはちょっと恥ずかしいしそーゆーのまだ早いと思うし……ってなに言わせるの! おませさんなんだから!』
「はっはは、うざいなー」
どうしてなんだろう。
どうしてスルーされたばっかりでこんなテンションを維持できるんだろう。
ぼくに言われるなんてこいつどんなレベルなんだろうって感じだけど、うん。……こいつ、友達少なそうだよなぁ。
「それより聞きたいことがあるんだけど」
『ん、なに? なんでも聞いて?』
あ、自分の質問はスルーでいいんだ。
なんだ、質問に答えなくてもいいんだな。
自分がしゃべりたいだけだこいつは。
なら面倒くさい時は無視するようにしよう。
「いや、幽霊ってことはもう死んでる、んだろ? なんで、ここで首吊ってたの?」
これ以上死ねないのに。死ぬ必要なんてないのに。
「殺されたって言ってたけどさ。多分君の死因って……首吊り、だよね。わざわざ殺された時のことを再現するなんて、ひょっとしてマゾなの?」
しかもなぜか苦しいんでしょ?
呼吸しているのかどうかも怪しいくせに。
自分から首吊ろうと思うなんて、自殺する人以外考えられないんだけど。
『トコ!!』
幽霊は両手の拳を胸の辺りで握り締め、迫るような大きい声で自分のあだ名を叫んだ。
虚をつくような勢いになんとなくびっくりして、のけぞってしまう。
「いやいや……は? なにいきなり、病気?」
いきなり大きい声出さないでよ。
人と話すの慣れてない奴って自然と声が大きくなるらしいけどまさしくこいつのことだな。
さらに会話のキャッチボールまで出来てないとか最悪だよ。
『アキくん、私のことはトコって呼んでよ! もう家族みたいなもんじゃん! むしろお姉ちゃんじゃん!? トコって呼ばないとその質問には答えませんよ!』
意味不明なことを言いながら腕を組んでむくれる幽霊。
「…………わーお」
いやいやいや何言ってんのこいつ頭おかしいだろ。
頬を膨らますな可愛いつもりか?
大体まだお前と一緒に暮らすとか認めてないから。
むしろ存在を消そうとしてるから。
なんだよ家族って。
そんな簡単に作れる関係性じゃないよそれ。
ていうか姉って、こっちの年もわからないのにずいぶん大きく出たなおい。
もしかしたらぼくの年下かも知れないじゃん。
それだったら妹じゃん。……結構いいじゃん妹。欲しいよ。結構欲しいよ妹。義妹とか最高だよ。
…………あれ?
「いや違うよ! 妹とかいらねーよ! いや欲しいけど無茶だよ! シェ○ロンでも難しいよ! いや出来るよ、シェ○ロンなら出来るよ!」
あ。
しまった。声に出してしまった。
『…………えー。なにいきなり妹がどうとかって……、いい病院紹介しようか?』
「お前が言うな!!」
くそう、まず落ち着こう。落ち着いて深呼吸しよう。
すーはー。
うん、こいつとの会話疲れるなあ。
「うん、いや、君に聞きたいことがあるんだよ」
『それは聞いたけど。だからお姉ちゃんのことはトコって呼んでよ』
……まずいな、どんどん気安さが増してくる。
もう姉気取りだよこいつ死んでいるくせに。
ここら辺で止めておかないと本当に姉に、はならないけど、まずいことになる!
特にぼくのストレスが! 精神状態が!
「はあ……、なんで呼び方にそんなにこだわるんだよ。家訓かなんか?」
死んだ身にそんなの関係ないだろうけどね。
『……うん、私の親友がね、言ってたの。名前で呼び合えば仲良くなれるって。へへへ』
幽霊は目を伏せながら、苦笑しながら呟いた。
ふん、生前の知り合いか。
親友……ね。友達もいないぼくにとっては親友なんて想像もつかないけど。
……はた迷惑なことを言ってくれたもんだ。
仲良くなれる、ねえ。
――だけどそれは、仲良くするつもりのない人には関係ないルールだろ。
「あっそう、早く質問に答えてくれよ」
自分でもびっくりするくらい冷たい声で、拒絶した。
ぼくは友達なんかいらない。
必要ない。
君とはただすれ違うだけ。
他人とは、仲良くしない。
『……そっか。へへ、わかったよ』
もう、言わない。
と小さく呟いて、またぼくの冷めた態度を受け止めるように、微笑んだ。
それがなんだか、寂しそうな笑顔で。
テンション高くて、うざくて、子供っぽいのに。
どこか、大人っぽい。
……くそ。なんなんだよこいつ。
『私はこうやってね、首を吊って死んでたらしいんだけどさ。その状況になってみればなんかわかるかなーって。あるでしょ? 考え事するとき、落ち着く場所とか』
なんだそれ。
「……なにか、考えてたの?」
あんな苦しそうなポーズで。
まさしく死んでいるからこそ出来る芸当だな。
まぁでも落ち着く場所ってのは、あるのかも知れないな。
ぼくにはないけど。
例えばズッコケてる三人組のメガネの人もトイレの中だと学校のテストなんか百点取れるみたいだし。
でもそう考えると、殺された時のポーズって落ち着くのかな。
むしろ避けたい気がするんだけど。
『……思い出そうとしてたの』
幽霊は一度ぼくの目を見て、少し気まずそうにまた顔を伏せる。
「なにを? 犯人の顔とか?」
自分のことを殺した犯人がわかんないってのは、はっきり言って恐怖だろう。
どんな気持ちなのか。死んでもいないし殺されたことがないぼくには想像もつかないんだけど。
だけど幽霊は悲観的な顔ではなく、照れくさいような表情で返してきた。
『んー、ちょっと違う、かな。そのときの自分、かな?』
「…………そう」
それは同じことだろう、と思ったけど。
本人が違うって言うなら違うんだろうな。
思い出そうとしたってことは、もしかして殺された時の記憶がないのかもしれない。
ショックで、とか。
殺される時に犯人の姿を見てない状況ってどういうことかわかんないし。
そりゃ生きてるときに見れなかったのならあるかもしれないけど、背後から殴られたとか。
でもこいつは死んだ後でも意識があるんだから、一度も姿を見ることができないってことはないだろう。
まあ死んだあとすぐ幽霊になれるのかはわかんないけど。
やっぱり、記憶を失くしてしまったから、協力を頼んだんだろうか。
『私も聞きたいことがあるんだけど、いいかなあ?』
伏せていた顔を上げて、また目を見つめてくる。
……なんか、じっと見られているとやりづらいんだけどなあ。
「なに?」
まあ一応だけど答えてもらったし、いいか。
家族だとか姉だとか理解不能なことを言われるより、こうやって会話のキャッチボールが出来るだけまだいい。
『――アキくんて、なんで私が見えるの?』
本当に不思議そうに、ぽややんとした顔で聞いてきた。
あんまり、踏み込まれたくないことを。
「……さあ、体質なんじゃない?」
ふぅんそっかあ、と幽霊は軽く返す。
こっちの気持ちも、知らないで。
まったく、そっちこそデリカシーが足りないよ。
『――でも、幽霊とお話出来るなんてすごいね! だって、死んだ人とも友達になれるんでしょ? それって素敵だよ! …………本当に、分けてあげたいくらい』
「あぁ……そう、だね」
うまく、声を出すことが出来なかった。
思ったよりも動揺していたのか、最後のほうがよく聞こえなかった。
うろたえるぼくを置いて、幽霊はふんふんと鼻歌を歌っている。
「…………はあ」
こいつに他意はないんだ。振り回されるほうが悪い。
つまり、気にするぼくが馬鹿なだけだ。
この幽霊は、あいつじゃ、ないんだから。
必死に心を落ち着かせていると、ピンポン、と。機械音がなる。
チャイム、呼び鈴だ。
『あれ……? 誰か来たみたいだよ。あっわかった、ご両親でしょ? すぐにわかったよ。いやー私って頭いいなー探偵になれるなー。……いや? もう怪盗にもなれるよ。なんにでもなれるよ! 私はなんにでもなれるよー!!』
「…………」
無視だ、無視しよう。
こいつはかまうだけ損する。
「はい、どなたですか……?」
ドアを開けると、猫のマークがついている従業員がさわやかな笑顔で帽子を脱いで、
「引越しの荷物を届けてきましたー! こちら巻柏様でよろしっ……かった……」
と言う。
引越し業者だった、けど、あれ?
なぜか言葉が止まったぞ?
帽子を下げたまま、引越し業者の従業員が青い顔して見ている部屋の中に振り返る。
そこにはにこにこ顔の幽霊と、
……あ、しまった。
いかにもというような太い荒縄が、天井からぶら下がっていた。
「……か、変わったインテリア、ですね……?」
違うんです。ぼくじゃ、ないんです。




