12:「同姓同名」
男性は、呆然と表札を眺めているぼくに構うことなく、101号室のチャイムを押してしまう。
昨日と同じように反応の返ってこない扉の前で、悲しそうな顔をして。
一分ほど待っても、やはり物音一つしない。
えっと……、どうしたらいいんだろう。
いま寝ているのかな、いや今お昼だしそんなことないか。
もしかしていないんじゃないか?
それなら少しマヌケな図だなぁ。
男性の後ろでそわそわしていると、扉に向かって男性は静かに語りかける。
「おいマナ、俺だ。ケンジだよ、出てきてくれ、少しでいいから話そう。メシも、ちゃんと食ってるのか? 持ってきたんだ、よかったら食べてくれよ」
その返答は、静寂だった。
「なあっ、マナ! 聞こえてるんだろ!?」
どん、と男性は扉を叩いたのと同時だった。
「――私にもう関わらないで!」
中から、そんな悲痛な叫びが、一言だけ返ってきた。
「…………だよな」
男性は泣くのを我慢したような声でそう呟いて、
「わり、あと、任したわ……」
と、わけもわからないこの状況をぼくに託して、自分の部屋に帰ってしまった。
「えー……?」
任されても。
こんな状況でどうしろっていうんだよ。
私に関わらないでって言ってたじゃん。
それ、そっとしとけってことだよ。
でもなぁ一度も挨拶してないってのもなぁ……。
男性に習って101号室のチャイムを押してみる。
……うん、やっぱり何も言ってくれない。出てきてくれない。
「あのー……、ぼく巻柏っていいます。203号室に引っ越してきましたー……」
とりあえず言ってみたけど、もちろん返ってくるのは無音という無慈悲な音だった。
ああ、なんでぼく扉に向かって自己紹介してるんだろ?
帰りたい。
もう帰りたい。
幽霊がいたっていいから、あのぼくのスペースに帰りたい。
ってか弁当どうするんだよ。
渡されちゃってるよ。
いっそ扉の前に置いておくか?
いや、それなら103号室に返しに行くほうが気持ち的にすっきりするか。
そうだ、そうしよう。
最初からぼくには荷が重かったんだよ。
そう思い扉の前から去ろうとしたとき。
――ガチャ、と小さい音が響いた。
「…………え?」
それは101号室から聞こえてきて、思わず、振り向いてしまった。
カギが、開く音……?
なんで? でも誰も出てきてないぞ?
なんで開けたんだ?
……もしかして、もしかしてだよ?
入れってことかなんだろうか?
うん、今の状況だとそれしか考えられないよな?
だってそれ以外に鍵開けるか?
じゃあ、……行くよ?
えっこれ不法侵入じゃないよね?
ちゃんと家主の了承得たよね?
だってカギ開いたし。
……大丈夫だよね?
「失礼しまーす……?」
入ってしまった。
なぜか出来るだけ静かに扉を閉める。
なんだか罪悪感がすごい。
本当にいいんだよね?
なんでぼくこんなに緊張してるんだろ。
心臓がすごいうるさい。
――玄関から見える景色は、なぜか、ただの暗闇だった。
暗闇と同時に襲ってきたのは、匂いだ。
人が放つような汚れた匂いじゃなく、そう、これは腐臭だろう。
なにかが腐っている匂い。ゴミを放置しておいたら発生するあれ。
えっと……暗いなぁ。何も見えないぞ?
なんでこの部屋昼間なのにカーテン閉めてるんだよ。
吸血鬼か?
何が目的なんだよ。
電球切れたの? 買ってこようか?
うん、もう素直に言う。
怖い、真っ暗な他人の部屋怖い。
怖い怖い怖い怖い。
……うわ、それにゴミすごい。
すごい散らかってる。足の置き場がない。
六畳一間なんだからこんなに汚したら逃げ場なんかないでしょ。
なんでこんなことに? ってゆーかそりゃ臭くもなるよ。
なんでこんなに放置しているの? ちゃんと片付けましょう?
匂いネタで人を困らせるのはデブだけで十分なんだから。
人としておかしくなりますよ。
……これは、さっさと弁当渡して帰るのが吉かな?
「あ、ここに置いときますねー?」
なんとか空いているスペースにおにぎりと弁当箱を置く。
ゴミの中に弁当を置くというシュールな光景を晒しても、なぜか先方からの返答はない。
なんで? なんでなにも言ってくれないの?
そんなに怖がらせたいの?
正直怖いよ……いや?
さっきからなんかすごい小さい音が聞こえてるぞ。
ぶつぶつと、
――え、これ、まさか人の声……?
引き返せばよかったのに、興味本位で留まってしまった。
ゴミを踏まないように慎重に部屋の奥ほどまで進むと、部屋の四分の一を支配しているベッドが見えた。
ベッドの上は、比較的ゴミが少なく、綺麗に見える。
「ひっ!?」
女性が、体育座りでベッドにうずくまっていて、ぶつぶつと何かをつぶやいているのが見えた。
耳を澄ましてみると、ちゃんとその声は聞き取ることが出来る。
「私が、殺したの……」
「ごめん、ごめん、ね……」
「なんで、こんなことに」
それは全て、懺悔のような、罪の告白だった。
ぼくに向かって言っているのではなく、自分に対して言っているように見える。
だって女性はぼくを見ていないし。
ようやく暗闇に目が慣れてきて、女性の姿が認識できた。
その容姿はやせ細った、長い黒髪の、ワンピースを着た――暗闇で服の色はわからなかったが明るい色だった――そんな幽霊そっくりな。
だけど幽霊とは対照的な、雰囲気の暗い女だった。
「お、おま、お前は……誰なんだよ……!」
かすれた声で、それに対して言葉を投げかける。
女性はようやく、部屋の中に人がいるのに気づいたらしく、伏せていた顔をゆっくりと上げて、こちらに視線を向けた。
「私は――『トコ』よ、立波、常夏……」
そして自分のことを――『立波常夏』と名乗った。