10:「過去」
ボロアパート〝雪割荘〟に引っ越してからの二日目が始まる。
引越しを後悔するくらい変な住人達、やっかいな殺人事件。
しかもその被害者の幽霊から犯人の殺人動機を調べてくれとお願いされる始末。
どうしてぼくがそんなこと……。
ずっと人と関わることを拒否してきたから、あんなに一日で会話をし続けたのは本当に久しぶりだった。
疲れたけど……いや、疲れただけだ。
まどろんでいた頭の中がやっとすっきりして、体に違和感を抱きながら目を開く。
『…………』
「…………」
超至近距離、顔一個分も離れてないくらいの距離で、幽霊がぼくを覗き込んでいた。
幽霊の長くてまっすぐな黒髪がまるでカーテンみたいに周りを覆いつくしていて、世界から隔離するようにぼくと幽霊の顔を切り取っていた。
まつ毛の一本一本まではっきり見える。
もう顔、顔しか見えない。
目が、見開いている目がじっとぼくを見てる。
ん!? 体が動かない。
ひょっとしてこれが金縛り?
……いや幽霊がぼくに乗っかっているだけか。
えーと……、なんだろう。
近いよ、怖いよ。
いやホント、なんですか怖いんですけど。
驚きすぎて声が出ない。
そんなことすら忘れてしまうくらい怖い。
腕を動かそうとするけどあるのかすらわからない幽霊の体重に抑えられてどうも動きそうにない。
どうしよう。
何をすればこの状況を打破できるんだ。
結局どうしたらいいかわからないこの状況を壊してくれたのは、幽霊本人だった。
『おはよう』
挨拶だった。
朝の挨拶だった。
え、この状況で言うことはそれなのか?
もっと他に言うことはないのか?
いや、起きたんだからそれであっているのか。
ぼくが難しく考えているだけなのか?
もしかして、ぼくが知らないだけで、普通の朝はこんな感じなのかもしれない。
ぼくの家が世間の常識から取り残されているという可能性だってあるだろう。
……まあ、言っておいてなんだけど、絶対これは普通じゃない。
『おはよう、アキくん』
反応しないぼくを見て、もう一度挨拶する幽霊。
「……あ、ああ、おは、よう?」
なんとか、混乱した頭でたどたどしく挨拶を返した。
返せた。よかった。
その返事に満足したのか幽霊はにこっと笑みを一瞬作り、そしてまた限界まで目を見開いて無表情になる。
ぼくの目を視線という凶器で射抜きながら放った言葉は、
『ひま』
そんな、無慈悲な一言だった。
「あのさぁ……だからってあの起こし方は止めてくれよ。心臓が止まるかと思った」
体の上から退いてもらい、昨日デブと食事したせいで放置されていたコンビニのざるそばパックを朝ごはんに食べながら、幽霊に文句を言ってみる。
幽霊は見えるけど金縛りにはあったことない。
だから本当に驚いてしまったんだ。
金縛りの経験地があればこの状況でも冷静に対処できたものを。
つくづく霊感って役に立たないなあ。むしろあるだけ損している気がする。
余談だけれど、金縛りって霊の仕業とかじゃなくても普通に起こるものらしい。
なんでも脳は目覚めていても体が寝ている状態なんだとか。
考えることは出来るけど動くことは出来ない、それが金縛りというものの正体らしい。
まぁ、本当に幽霊がやってるものもあるかもだけど、見えたり触れたり出来るぼくはなったことがないので本当かどうかわからない。
『だってヒマだったんだもん』
幽霊はテーブルに顔を突っ伏してむくれていた。
髪が縦横無尽に広がっていて、正直に言うと食事中なので止めて欲しい光景だった。
黒髪ストレートの髪ってなんでこんなに怖いんだろう。
イメージが某サ○コを彷彿とさせるからだろうか。
「お前、ぼくが寝てるときなにしてたんだよ。幽霊って眠れないのか?」
暇だからって生きている人の睡眠時間を邪魔するなんて、これじゃ本当に悪霊として駆除されてしまうぞ。
……いや、ぼくとしてはそのほうがいいんだけど。
『寝れない……こうなってから一度も眠ったことない。帰ってきたとたんアキくんはさっさと眠っちゃうし、ひどいよ……おかげでずっと暇だったよ』
幽霊は額をぐりぐりとテーブルに擦り付けながら見当違いの文句を言う。
「…………」
仕方ないだろう、人は眠るもんなんだから。
こんなにはっきり実体を持っているのに――あるべき影はないけれど――やっぱりこいつはもう死んでいるんだと、再認識してしまう一言だった。
そっか、幽霊って眠れないんだな。
まあ当たり前か、体がないんだし……。
そういえばあいつも、いつも夕方になって分かれるときは、ずっと公園から動かなかったな。
ぼくが家に帰るのを見送るだけだった。
もしかしてあいつはずっと公園にいたんだろうか。
帰る家もなくて眠れもしない。ぼくが来るまで、ずっとあそこにいたんだろうか。
一人で、ずっと。
「……食事も、取らなくていいのか?」
恨みがましい目で見ている幽霊に、見せつけるようにしてパックそばをすする。
『……食べられないよ。昨日プリン食べようと思ったけど、食べられなかったよ!』
うー、と呻いている幽霊の隣には、中身が半分ほど減ったプリンが一つ置いてあった。
「あっお前勝手に食うなよ! これは引越しの挨拶用で――」
『味がないんだよー! 口にも入れられるし、飲み込むことも出来るのに! 肝心の味がしないんだよぉー!! うぅ、まさかプリンに裏切られるとは……ぐす、ひどいよ……』
文句は途中で遮られて、勝手に泣き出してしまった。
「…………あー、そう」
昨日帰ってきたときにはまだ三つとも無事だったから、多分寝ているときに食べようとしたんだろう。
それにしても、飲み込めるのに味がない……ねえ。
味覚がないってことなのかな?
舌はあっても味蕾がないなんて、つくづく不思議な存在だな。
この幽霊はなんでも人のせいにする傾向があるけど、でもそれは違うだろう。
プリンが裏切ったんじゃない、お前がプリンを裏切ったんだ。
お前が悪い。
まぁ殺人事件の被害者なんだし一方的に幽霊が悪なんて言えないだろうけど。
それでもプリンに罪はない。
さて、時刻は八時。
朝ごはんも食べ終わったし、今日は部屋に足りないものを買いに行かないといけないな。
あと、結局昨日は挨拶できなかった残りの住人にも会っておかないと。
残り、三人か……。
一人は、あの、男性だ。
103号室の茶髪の男性。
このプリンが食べられなくておいおい泣いている幽霊を殺した、らしい。
やっぱり挨拶しなくちゃいけないんだろうか、嫌だなぁ。
なんで殺人犯と一つ屋根の下で暮さないといけないのか。
でも少し、引っかかっているところもあるんだよな。
それを確かめるために、やっぱり危険だけど会わなくちゃいけない。
まだ会っていない残りの住人達と、言葉を、交わさないといけない。
ここの住人は多分、全員真相を知っている。
だけど素直に教えてはくれなかった。
教えてくれないなら自分で調べるしかない。
それにすんなり教えてくれる人もいるかもしれないし……っていやいや、なんでこんなにやる気になっているんだろうぼくは……。
ぼくには関係ないことなんだ。
そんなに踏みこむことはないって……わかってるのになあ、どうして気になるんだろう。
……って、理由はもうわかってるんだけどね……。
きっとあの幽霊が〝あいつ〟とダブって見えるから。
――ぼくが、まだ〝あいつ〟のことを引きずっているから。
結局ぼくはあのときから、どこにもいけてないんだ。
中途半端に消えてしまったあいつのことを忘れようとして、さらに意識してしまう。
それが、今の状況とかぶるんだ。
『アキくん……? どしたのぼうっとして、大丈夫……?』
無防備に晒してしまったぼくの心に、遠慮もしないで入り込んでくる。
「……いや、なんでもないよ」
〝あいつ〟とこの幽霊が、重なってしまう。