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 焼き払われて廃墟になった村には、飢えた住人たちが水を求めて井戸に集まっていた。誰もがやせ細り、くすんだ肌をしている。瞳には常に飢えの気配があった。


 幼いアルマは同じくやせ細った兄に手を引かれ、水を求めて井戸に並んでいた。しかし子供にはわずかな水しか与えられず、ほとんどが大人たちの手へと渡っていく。


「――村を……この国を出よう」


 兄の乾いた瞳には強い覚悟があった。

 手を引かれるままに村を出ても、外は荒野だ。かつては美しい草原が広がっていた場所にも、花畑にも、草木が一本としてない。そして遠くに見える町には未だに火の手が上がっている。――戦争が終わる気配はない。


 共に村を出た大人たちとはぐれ、方角もわからぬまま二人は歩き続けた。

 最初にアルマが動けなくなり、それを引きずるようにして歩き続けた兄も倒れた。


「お兄ちゃん、お腹が……すいたよ」

「僕もだよ、アルマ。でもきっと、このまま眠ればもうお腹がすくこともなくなるから……」


 兄は優しくアルマの髪をなでた。

 アルマは目を閉じ、うつろな頭で思う。

 どうしてこんなことになったのだろう。お父さんとお母さんが生きていた頃は、毎日薄っぺらいパンケーキで細々と暮らしていたけれど、こんなにお腹がすくことはなかったのに。


(苦しいよ。喉が渇いたよ。お兄ちゃん……)


 アルマの脳裏にやつれ、痩せこけた兄の姿が浮かぶ。妹を優先させて、わずかなパンをくれた兄。水も少ししか飲まず、すべてアルマにくれた優しい兄。


(無理させてごめんね、お兄ちゃん)


(神様、どうか。お兄ちゃんを助けてください)


(お兄ちゃんをお腹いっぱいにさせてあげたいの……!)


 二人が限界を迎えたとき、遠くにちかちかと光るものを見つけた。

 近づけば甘い香りがして、お腹がぐうぐうと鳴る。見れば見るほど口の中によだれがあふれてくる。


 そのお菓子でできた不思議な街が、幻の国ドルチェブルグだった。



   §  §  §



 ねばねばの中でアルマは必死にもがいていた。このまま溺れてしまえばクララの一部になるのだろうか。そんな恐ろしい考えがよぎって、夢中で手を伸ばした。


 ドボン、という音が近くでして、手をぐっと捕まれた。滑って何度も握り直されたそれは、兄のものよりも二回りほど小さい。


「アルマ!」


 ヴィルの声がすぐ近くでして、アルマは驚いて目を開いた。彼は必死にアルマをかきだき、ねばねばの流れに抵抗する。その彼を支えているのがテオとエルクだった。

 ヴィルが頭からねばねばに飲み込まれる。と同時に、アルマの頭の中に幼い少年の声が響いた。


 ――よわむし。


 すねたような声には、幼いながらもヴィルと同じ響きがあった。

 そして、どこかで、聞いた覚えがあった。

 頭の隅が瞬くのを感じながら、アルマは必死になにかを思い出す。忘れてはいけない、大切ななにかを。


 ――みんなよわむしだ。ぼくは逃げない。絶対に逃げないからな!


 そのとき、アルマの脳裏に、故郷の廃墟がもう一度ひらめいた。焼きはらわれた村には、出て行こうとするたくさんの難民がいた。村を捨てようとする大人たちに、そしてその列に加わるアルマとエルクに向かって、幼い少年が叫んでいた。


 ――ぼくは必ずこの街を戻す。元の平和な、いやそれ以上にすばらしい街にしてみせる。


 黒髪に茶色の瞳をした少年は、幼いながらに今の面影を残していた。アルマと同い年の、幼なじみだ。


 大切な、大好きな人だった。


 どうして忘れてしまったのだろう。


 ――この町だけじゃなく、この国を、すべての国を。


 記憶の中の少年は叫ぶ。


 ――世界全部を元の姿に直してみせる!


「――ヴィーっ!」


 一瞬の映像が終わったとき、アルマはヴィルにひかれてねばねばから頭を出した。ぱっと息を吸うと、甘い香りが肺の中いっぱいに入ってくる。

 ねばねばから首だけを出し、ヴィルが叫んだ。


「君はアルマだ! ちょっと忘れっぽくて、でもいつも一生懸命がんばっている、アルマだ! 絶対に忘れるな。どれだけエリクシールを抜かれても、絶対だ!」

「うん」


 アルマは掴まれた手をぎゅっと握りかえした。


「思い出したよ、やっと。助けにきてくれてたんだね、ヴィー」


 相手は泣きそうな顔で笑った。


「……そういう性分なんだよ」


 そう言うと、ヴィルは懐から大人の握り拳ほどもある巨大なマカロンを取り出した。ラズベリーのピンクに白いクリームが挟まったそれは、アルマとテオが協力して作り上げた大爆弾だ。

ヴィルはどろどろの中で、もがくように大爆弾を竈へ投げつけた。


「やめろっ」


 クララの姿をした魔女が短く叫ぶ。

 マカロン型大爆弾は空中で大きく弧を描くと、割れ目から一度ぷしゅっと蒸気を噴き出して、真っ赤に焼けた砂糖をはき出し続ける竈の中に落ちた。


 数秒の無音。


 そして轟音。目を灼く光。竈の中から真っ白な粉砂糖の煙が吹き出し、煉瓦づくりの竈に無数のヒビが走る。真上の穴からは勢いよく爆風と砂糖が噴出し、辺りに砂糖と煉瓦の破片がばらまかれた。


「あたしの竈があ――!!」


 魔女は髪を振り乱して叫ぶ。

 竈が自重に耐えきれず、べこりとへこんだ瞬間。

 中から大量の人間の声がした。


「俺はディルクだぞーーーーー!」

「私はエリーよー!」

「ぼくハインツ!」

「わたしは、わたしは、イザベラだっけ?」

「フロリアン、フロリアンだよ!」


 それらの声は重なり合い、工場の中にぐわんぐわんと反響した。

 やがて竈から光がこぼれはじめ、小さな光の塊となって空中を泳ぎはじめた。いくつもいくつも飛んでゆき、やがて工場の屋根を通り抜けて国中へ広がっていった。


「ど、どういうことだい、あたしのエリクシールが!」

「元の持ち主のところへ帰るだけだ。すぐに街中の人々が目覚めるだろう」


 光のうち、ピンクがかったものが数個アルマのところへやってきて、すっとその胸に入り込んだ。すると胸が温かくなり、心がぱっと明るくなった。


「うわわわわっ」


 とエルクが叫んだのでそちらを見れば、大量の光にまみれて人型の光の塊になっている。

 その様子をテオとヴィルが驚いた様子で見ていた。

 気づけば辺りを埋め尽くしていたどろどろはすっかり元の砂糖になり、足元に固まっていた。


「――やめろ、あたしの、あたしの体がぁ――!」


 腰から下を光に包まれた魔女が、叫びながら身をよじる。

見れば、足元から順に体がお菓子に戻ってゆき、ぼろぼろと崩れ始めている。


「嫌だ、あたしは生き返るんだ、生き返る、生き――」


 錯乱する魔女のもとに、淡い紫の光がふわりと降り立った。すると社長が目を見開き、ほうけたように呟いた。


「クララ? クララなのか?」


 人の形をしたその光の中に、うっすらとクララの姿が見えた。彼女はアルマたちへにこっと笑いかけると、お菓子の自分の姿を抱きしめ、すっと消えた。


 同時に、お菓子に戻りきった魔女がぼろりと砕けた。


 合わせて竈にビシリとヒビが入り、めきめきと広がった。重い鉄製の火蓋が落ち、煙突から逆流してきたヒビによって竈が真っ二つに割れる。

 その瞬間、ぐらりと工場の壁が揺らいだ。


「やばい、竈が壊れたから……」


 四人がぱっと社長を振り返った。


「――街中のものが、お菓子に戻る!」


「そうだ」と社長は頷き、クララの残骸へむかって歩きだそうとした。

「私と一緒に終わろう、クララ」


 それをテオが引き留める。


「なにバカなことしてんだ、早く逃げるぞ!」

「しかし、九年間かわいがってきた娘なのだ」

「その子はもういません。僕らと一緒に逃げましょう!」


 エルクとテオが両脇から社長の腕を取り、引きずっていく。アルマとヴィルも逃げようとした、そのとき。


「アルマ、危ない!」


 薄いパイ生地でできた天井がたわみ、べこりと大きく落ちくぼんだ。

 その下にいたアルマは、とっさに顔を覆ったが――


「大丈夫だ、アルマ。落ち着け」


 ヴィルが覆い被さるようにして守ってくれていた。


「うん!」


 お菓子に戻ったパイ生地は薄くて軽くてぺらぺらで、指先でつつくと穴が開いてしまうような代物だった。アルマたちはパイの下をくぐり抜け、崩壊していく工場から脱出した。

 青空の下、ぐらぐらと揺らぐお菓子の家々に、五人は絶句した。


「……まずいな。どこに逃げても菓子が降ってくるぞ」


 ヴィルの言葉にテオが答える。


「菓子で住宅なんか作るからだ。言わんこっちゃない」

「街の人は大丈夫かな……」


 とアルマが呟くのと同時に、住人たちの叫び声があちこちから聞こえてきた。竈を壊したことで彼らも目覚めたようだ。しかしその叫びの多くが家が壊れそうになることよりも、とつぜん幻覚のとれた自身の肉体に対する悲鳴だった。

 事務棟から出てきた丸々とした男たちに、社長が叫んだ。


「みんな逃げろ! 国中の建物がお菓子に戻る! はやく塔へ避難するんだ!」


 すべての練甘製品がぐらつく中、フリーダが作った塔だけはぴたりとして動かなかった。

 その塔を指さし、社長が叫ぶ。


「フリーダの作品は本物だ。ゴーレム使いの練甘術師として、私が保証しよう!」

「わかった。塔にいこう!」


 頷くヴィルに連れられていたアルマが、微笑みながらぱんと手を叩いた。


「壊れない塔――やっぱり、師匠はすごいんだ!」


 そのまま駆けだし、五人は塔へ向かった。



   §  §  §



 巨大なシュークリームを不規則に積み重ねられた塔は、見た目の不安定さとは対照的に、まるで根っこが生えたかのようにどっしりと建っていた。


 一同はブッセのふわふわとした階段を上り、展望台へ出た。風が吹くと軋みそうな細いキャラメル細工の柵に手をかけ、街を見下ろす。


 街の半分の家がすでに崩れきり、残りがぐらぐらと揺らめきながら建っている。ぺこりとつぶれたマドレーヌ瓦の屋根や、ぺちゃんこになった教会のババロアのドーム。プレッツェルの街路樹がぱたぱたと倒れていて、その下のチョコレート畳みの道路はすでに溶け始めていた。

 遠くでルーメンの飴細工の庭が崩れているのを見つけ、アルマは不安になった。


「街の人たち、大丈夫かな」

「建物はやわらかくて軽いスポンジが多いから、滅多に怪我はしないと思うが……」

「広場へ逃げてください! あそこなら安全です!」


 生真面目に叫ぶエルクの向こうで、テオが避難する住人たちへ向かって手を振った。


「早く逃げろ、体中ベッタベタになるぞー」


 そう言う彼の口の周りにはべったりと生クリームがついていた。


「ちょ、食べてるー!」

「結構いけるぞ、これ」


 テオの手には、いつ持ち出したのか、生クリームの漆喰が乗った事務棟の茶色いクッキーがあった。

 その屈託のない態度に皆がくすりと笑ったとき、塔の下から大きな声が聞こえてきた。


「大丈夫かー、嬢ちゃんたちー!」

「あ、カールさん!」


 すっかり丸くなってしまった住人たちの中、カールが二人の女性を連れて塔へ続く小道を駆けていた。

 そのソバージュの女性とポニーテールの美女を見て、アルマは息をのんだ。


「師匠も! 店長も! 無事だったんだ!」

「あ、お前ら!」


 とテオが叫んだので見れば、隠れ家にいた子供たちも塔へ向かって走ってきていた。


「ティア!」


 エルクが柵から身を乗り出して叫ぶ。最後尾を駆けるティアナが手を振っていた。

 その様子を横目で見てから、アルマはヴィルを見上げ、顔を見合わせた。


「……街、戻せるかな?」

「当然。このくらい、国の外に比べればなんてことないさ。おれたちならすぐだ」


 ヴィルは余裕で頷き、にっと微笑んだ。

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