7
甘い匂いが充満する工場の最奥にその竈はあった。大きさはフリーダの工房のものよりも一回り小さく、赤い煉瓦に白い漆喰の、古ぼけた竈だ。
上の蓋は常に開いていて、そこから液状になった砂糖がどろどろと出ている。竈の下には薪を入れる溝があるのだが、そこに燃料はなく、ただ赤い炎が燃えていた。溝の内側には幾何学的とも呪術的とも言える文様が描き殴られていて、底知れぬ気持ち悪さがある。
竈の前には片腕を亡くしたクララがいて、憤怒の形相でアルマたちを睨みつけていた。
彼女は何かにとりつかれたようなしゃがれ声で叫ぶ。
「もう許さないよ、小娘ども! わたしの竈まで壊しにくるだなんて!」
「クララちゃん……なの?」
その声の迫力に戸惑い、アルマはうろたえて後ずさった。
ヴィルがその背を軽く押さえ、守るように一歩前へ進み出る。
「あんた……何者だ?」
だがその問いは無視された。
「もう少しで出来るところなのに。邪魔しないでちょうだいな!」
クララは片腕で空をなぎ払う。
「行け、あたしの可愛いお菓子たち!」
すると、竈から続く長い砂糖液の中から、ざらりと砂糖でできたゴーレムが立ち上がった。門にいたものとよく似ているが、細かい砂糖の粒子でできており、時折ぱらぱらと粒がこぼれ落ちる。それがどんどんと砂糖液の中から生まれてくるのだ。
「何だよ、こいつらっ」
テオが爆弾を投げつけると、ゴーレムの胴体にぽっかりと穴が開いた。強度は門のものよりも弱いらしいと安堵する。のもつかの間、ざらりと砂糖が集まって、すぐに修復してしまった。
「アルマの生クリーム作戦のほうがいいと思うが……」
ヴィルがゴーレムを見上げ、そのまま口をつぐんだ。砂糖ゴーレムには額の文字がなかったのだ。
アルマが足止めに粘着ゼリーを投げつける。しかしゼリーは砂糖にまみれるだけで、ころんと転がって落ちてしまった。ぼろぼろの表面ではゼリーもつかないらしい。
そうこうするうちにゴーレムは寄り集まって一体化し、巨大化した。砂糖まみれの大きな手がずるりと伸びてきて、アルマの胴を掴んだ。
「ぎゃ――!」
そのままのっしのっしと竈へ向かわれ、アルマは焦る。クララが高笑いしながら、真っ赤に焼けた砂糖液をさらす竈の口を指さしたからだ。
「溶かされるー!」
ばたばたと暴れるアルマへ、クララが邪悪に笑う。
「こうなったのも縁だからねぇ。逃がしゃしないよ。見たところ、お前たちにはたっぷりエリクシールが詰まってるみたいだし」
「な、何をする気――」
「この竈の中でぐつぐつ煮込んであげるのさ。どろどろに溶かしてエリクシールと一緒にすれば、『新しいあたし』のできあがりって寸法さね」
アルマの全身からざっと血の気が引いた。このまま竈にくべられたら、ただ死ぬのではなくクララの一部にされてしまうのだ。
(冗談じゃない、何とかしないと――)
そのとき、ゴーレムの背中でぼんぼんと爆弾が弾けた。背から腹を突き破り、アルマにどっと砂糖が被さる。
「嬢ちゃんを放せ、この砂糖野郎!」
テオの声がするのと同時にアルマのとなりへ駆け寄ったヴィルが、ゴーレムへ緑の薬を振りかけた。
ざっと砂糖が溶け、アルマが床へ転がる。素早く腕を取られて立ちあがるも、もう反対の手をクララに取られ、少女とは思えない力で引っ張られた。
「い、痛い痛い!」
「くそっ! アルマ!」
クララは掴んだ腕に爪をたて、それから高笑して指先でアルマの肌をなでた。
「逃がしゃしないって言っただろう? おや、綺麗な緑の目をしているね。この娘の肌と瞳、そこの小僧の目鼻立ち。寄せ集めたらどんなに素敵になるだろう。ハハハハハ!!」
高笑いするうクララの瞳には、狂ったような暗い光が宿っている。そのくすんだ水色の瞳に吸い込まれそうに思え、アルマはあえて顔をそらした。
そのとき、二人の足元に丸い爆弾がころんと転がってきた。それはぷしゅっと煙を吐き出し、真っ白な煙幕を作る。それから突然パアンと大きな音を立てて弾けた。
驚いた拍子に手が離れ、アルマが駆けだす。
「――大丈夫かい、アルマ!」
戸口からエルクの大きな声がして、アルマははっと顔を上げた。
「お兄ちゃん!」
見れば、エルクが社長を連れて工場の戸口に立っていた。
「助けに来たよ、さあ、社長さん!」
「うむ」
社長が口の中で何事かを呟くと、周りにいたゴーレムたちがざっと音を立てて崩れ落ちた。辺り一面に白煙が立ちこめ、誰もが足を止める。
甘い香りがする白煙の向こうからクララがエルクを忌々しげに睨んだ。チッと舌打ちし、「お前はダメだね」と呟く。
「嫌味な金髪だ。あの忌々しいヘンゼルとグレーテルにそっくりな色。ああ、見るだけで怖気が走る」
「ヘンゼル? ハンス一世のこと?」
その名を出した途端、クララは顔をしかめてアルマを睨みつけた。
「あいつらは大嘘つきの裏切り者さ。飢えから救ってやったっていうのに、見返りをするどころか、あたしのことをこの竈に突き入れたんだからねぇ」
「この竈に? まさか……」
ヴィルがごくりと喉を鳴らした。
「――昔話の『森の魔女』、なのか?」
「ま、まさかぁ」
言いながらテオが青ざめる。
「この竈に取り憑いた悪霊が魔女を騙ってるだけだろう?」
社長が首を振りつつ答えた。
「違う。これは本物の『森の魔女』だ。何百年もの間ずっと竈に取り憑いていた」
クララがにやりと老獪な笑みを浮かべた。
「そうさ、あたしは魔女。愚かなグレーテルに殺された、錬金術師の端くれだった女だよ。この竈の中で元の体に戻る日をずうっと待っていたのさ!」
クララ――魔女が一歩進み出で、残った片手でパチンと指を鳴らした。すると砂糖が彼女の元へ集まりはじめ、その腕を再生した。
ヴィルがアルマを背に守るようにして立ちはだかった。
「大勢の犠牲を出してまで生き返ろうとするのか……本当に醜いな」
「本来の自分に戻って何が悪い。貴様ら錬金術師の本分じゃあないかね? 錬金術なら私も囓っていたからねぇ、もうずっと昔のことだけれど。あの小娘が教えもしないのに覚えて、こんな広め方をしてしまって。くだらない。見せかけの豊かさなんて、なんの価値があるんだか」
ヴィルは顔をしかめてコートの内ポケットから新しい薬瓶を取り出した。
「本来の自分に戻るのに、他人の本精と姿を使うなんて矛盾してる。死者ならば死者らしく地獄に落ちろ」
魔女は口元へ片手をあて、せせら笑う。
「なりたい自分になって何が悪い。求めた姿、それこそが本性だよ」
「違う、本性とは持って生まれたモノだ」
ヴィルは強い語調で言い切った。
魔女は鼻を鳴らして笑う。
「生まれつきの自分に満足しているモノが一体どこにいるって言うんだい? 誰もが理想の自分を求め、それこそが本来の自分だと、胸を張って言っているじゃぁないか」
「そうやって自分を見失った結果が『ヘンゼルの骨』だ。太って倒れるだけだったろう」
「そういうお前さんはどうなんだい?」
魔女が何かを見透かすように目をすがめてヴィルを見た。
「あたしにゃあわかるよ。お前さんも矮小な自分の本性が大嫌いみたいじゃあないか」
「それは……」
とっさに何も言えないでいるヴィルへ、魔女は更に追いうちをかけた。
「小僧にはわからないかもしれないがね、生まれたばかりの赤ん坊なんてね、ありゃあ確かにエリクシールの塊みたいなもんさ。だけど赤んぼに何ができる? ただ泣いて叫ぶだけだよ。お前さんは、その赤ん坊こそが本当の自分だって言っちゃっているのさ。まったく馬鹿者さね。自分のことをなぁんにもわかっちゃいない」
「…………」
ヴィルは唇をかみしめてじっと相手を睨んだ。
そんな彼をアルマは心配げに見上げていた。
にやにやと笑いながら魔女は言う。
「自分を偽るってのは悪い言い方だがね、よく言えば努力じゃないか。成長じゃないか。それが理想の自分になるってことじゃあないのかい」
魔女はさも正論だと言わんばかりに小鼻を鳴らし、胸を張った。細い首を軽くかしげ、愛らしい少女の姿にぞんざいな老女の態度を混ぜ込む。
「なにが努力だ、成長だ。お前のした努力と言えば、人から本性を奪うことじゃないか!」
「そうさ。長い長い雌伏の時だったよ! すべては自分に立ち返るため。万人が望むことさ!」
高らかに言い放たれ、ヴィルは数回口を開きかけては止め、ぐっと押し黙ってしまった。
魔女が勝ち誇ったように目元を細めた。
「だろう? お前さんもそう思うだろう?」
「――違う!」
叫んだのはアルマだった。
「理想の自分なんて、きっと一生なれない。だって理想って、どんどん変わっていくもの。一つ変わればもう一つ、もっともっとよくなっていきたいって思うもの」
「そうだよ、だからあんたもあたしと同じ意見だろう? 理想の自分になりたかろう?」
「違う、全然違う……」
震える拳を握りしめ、アルマはきっと相手を睨み付けた。
「だって、そうやって無理をして、苦しんで、悩みながら少しずつ変わり続けていくものこそが――――本当の自分なんだもの!」
きつく言い切ったとき、そっと背中に手を回された。振り返って見上げれば、エルクが優しくも力強く微笑んでいた。
「そうだよ、アルマ。僕もそう思う。きっと少しずつ変わりながら良くなっていくものなんだ、人間って」
「お前みたいな化け物にはわかんねーだろうがなっ」とテオが爆弾を片手に言う。
「……そうかもしれないな」
ヴィルはこくりと素直に頷き、アルマを横目で見た。その目にはいつものような冷たさがなかった。
魔女はまなじりをつり上げ、金切り声をあげた。
「もういい、愚かなガキどもめ。そのまま食われていれば、わたしの中で永遠に生きられたものを!」
「そんなの、死んだほうがずぅーっとマシだね」
テオがぺろりと舌を出し、爆弾を投げつけた。
だがそれは突如竈から噴出した大量の砂糖によって阻まれる。
「げぇっ」
「なんだ!?」
どろりとしたそれは通常の砂糖とは違い、ねばねばとして赤い色をしていた。すぐさま砂糖のレーンからあふれ出し、ゴーレムの残骸を飲み込んでむくむくと膨れあがる。その表面には時折この場にいないはずの国の住人の顔が映りこんでいた。
足元まで迫ったねばねばを避けて、五人が戸口間際の一カ所に集まる。試しにテオがねばねばを蹴ってみると、どろりとした液体が靴について離れなくなった。
クララは腰までねばねばに浸かりながら高笑いして叫んだ。
「あーははははは――! 全部、ぜぇんぶ『あたし』になってしまえ――!!」
彼女の声に合わせてねばねばが大きくたわみ、その反動でアルマを飲み込んだ。
とっさにヴィルが手を伸ばし、アルマの手を掴む。
「助け――」
「アルマ!」
しかしねばねばで手が滑り、掴んだはずの手はずるりと離れてしまう。
頭の上からつま先までどろどろに飲み込まれ、アルマは必死でもがいた。視界が真っ赤に染まっている。何も見えない、聞こえない。
はずだった。
――助かりたい。
強く願うその声を、自分のものと思った。だがそれにしては低く、男のものに聞こえた。
――お腹がすいたよ、お母さん。
幼い子供の声に驚いて目を開けるも、視界はただ赤いだけだった。慌てたことで息を吐き出し、ごぽりと泡が逃げていく。
――いつになったら戦争は終わるんだ。
――大丈夫、きっと助かるから。
――お腹いっぱいご飯が食べたい。
――空襲の心配がなくなって、毎日眠れますように。
――水を。水をくれ。
いくつにも重なった声の中で、ひときわ大きく響くものがあった。
――『その望み、かなえてあげよう。辛い過去は忘れておしまい』
それはクララから出ていた老婆の声と確かに一致していた。
――『その代わりに、おまえたちのみずみずしい命をわけておくれ』
そう言われた瞬間、アルマの脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。