7
翌日はよく晴れた休日だった。
アルマは朝一で作ったクッキーを携えてティアナの家を訪れた。しかし出迎えた母親はすでに娘が出かけてしまった旨を告げると、何も知らない調子で「きっとエルクくんの病院に行ったのよ」と付け加えた。
まだ彼女が婚約破棄の件を聞いていないことを確信したアルマは、急いで病院へ向かった。きっとティアナが婚約破棄を断ろうとしていると信じて。
だが、いざアルマが到着してみると、予想に反して病室の空気は重かった。
「……ごめんなさい……」
ティアナの声はすっかりやつれてしまった手足と同じくらいか細かった。緩く巻いた髪を垂らして、エルクに頭を下げている。
同室のおじさんたちまでもが固唾を飲んで見守るなか、エルクは優しくこたえた。
「顔を上げて、ティア」
痩せて昔の面影が出てきた彼は、声も以前と同じ響きに戻ってきていた。
「いいんだ。こうなることはもうずっとわかってた。君はよく尽くしてくれたし、本当に恨んでなんかいないんだ」
「違うの。私が悪いの、あなたのことをまっすぐに見られない私が悪いの!」
そう言いつつ、ティアナは俯いたままだった。自分の足下を見つめたまま、前で組んだ指をいじっている。
「エルクのことが嫌いになったんじゃないの。ただ自分のことが許せなくて……どうしても許せなくて」
ぎゅっと自分の胸元を掴み、ティアナは悔しそうな顔をした。
「私、最低なの。テロにあって、こんな、命まで危なかったエルクを……大きくなってしまったあなたを見て……私、ほんと最低なことに……」
苦しげに彼女は叫んだ。
「『Jカップ!』って、思ったの!」
「な、何が?」
「おっぱいよ!」
ティアナの声は鋭く響いて、病室中を駆け抜けた。彼女はエルクの胸元を指さし、
「見てよこのずっしりとした重量感ッ! カップから出したばかりのプリンみたいに、もっちもちのぷるんっぷるん! あああもう羨ましいいい!!」
ぎゅっと自分の胸元を掴んで叫ぶ。細身の彼女にとって、エルクの脂にたぎった豊満な? 肉体は喉から手が出んばかりに魅力的なようだった。
衝撃にぷるんと揺れる兄の胸部をまじまじと見つめてから、アルマはティアナに向き直った。
「で、でもそんな、ティアナさんだって……普通に」
「ないの。ないのよこれ全部スポンジケーキなの!」
アルマをきっと睨み返し、ティアナは自分の胸元へ容赦なく手を突っ込んだ。ぽんぽんとスポンジを取り出していく。
一個、二個、三個、四個……ええええ?
元の体積からは想像もできないほどのスポンジに、同室のおじさんたちを含めたその場の全員が仰天した。
「服の上からでもわかるでしょう? 私、まな板なの。いえ洗濯板……それどころか、すり鉢なのよ! えぐれてるの!」
「いやそこまでってほどじゃ……」
エルクのフォローは誰にも信じてもらえなかった。
「いいの、わかってるのよエルク」
ティアナはすっかり男のようになった胸元を握りしめ、さめざめと言葉を続けた。
「わたし、あなたのその豊かなおっぱいを見ているのが辛かった。女の人に敵わないなら仕方ないわ。でもあなたは男の人で、あまつさえ未来の旦那様になる人なのに。このままじゃ、もし赤ちゃんができてもあなたのおっぱいがいいって言い出すんじゃないかって、不安で……」
「ないない」
同室のおじさんたちが揃って首を振った。
「でもこんな立派なおっぱい、うずもれてみたいと思わない!?」
「たとえ世界一の胸の持ち主でも、男ってだけで『ない』よ……」
力なく答えるエルクをフォローするように、隣のベッドのおじさんが話に首を突っ込んだ。
「お嬢ちゃん。胸なんて大きかろうが小さかろうがどうだっていいじゃないか。赤ん坊に吸わせるとき以外はお飾り程度に思っとけ」
「そんなことないわ!」
「そうよそうよ!」
アルマも思わず叫んでいた。深刻な胸部の問題を抱えるのは自分も同じなのだ。リアのような豊かに張り出た胸元にあこがれる気持ちは人一倍強い。
「わたしだってお兄ちゃんほどじゃなくても、もう半分くらいあればって思うもん。男の人にはわかんないかもしれないけど、女には死活問題なんだからね!」
病室の中での数少ない擁護に、ティアナがアルマへうるんだ青い瞳を向けた。
「アルマちゃん……わかってくれる?」
「なんとなくだけどわかります。わたしがティアナさんの立場だったら、すっごく気にすると思うもの」
アルマがティアナへ駆け寄ると、彼女はその手を掴んで両手で包んだ。
「ありがとう、アルマちゃんっ!」
細い両腕でぎゅっと抱きしめられる。
その感触に「あ、これって貧乳ってレベルじゃないかも……」と思ったのは秘密にして、アルマはおとなしく抱かれることにした。
「あのね、ティア」
エルクが大きな身を起こして呼びかけた。
「まさか胸のことでそこまで思い詰めてるとは知らなくて……。その、ごめんね、てっきり僕が太ったことを気にしてると思ってて。こんなデブと結婚するのは嫌だと思ったんだ」
ティアナははっと息をのんでアルマを手放した。
「そんな、外見なんて胸以外はどうだっていいのよ!」
それからティアナはしゅんとしおらしくなって、いつものか細い声に戻った。
「そんな誤解をしてたのね、エルク。私のほうこそ、ごめんなさい。自分の……この胸が憎たらしいって思えば思うほど、あなたを受け入れられなくなってた。私はあなたの外見じゃなく、人となりを愛しているのに」
エルクは小さくなった緑の目を見開いてティアナを見つめた。
「今でもそう言ってくれるかい?」
「ええ、何度でも。あなたに婚約を破棄されそうになったとき思ったの。絶対に嫌だって。あなたが愛してくれるなら、こんなえぐれた胸でも、胸を張って生きていける気がするの。……だから」
ティアナはすっと息を吸って、綺麗な声で告げた。
「私と結婚してください」