三章 見習いの悩み事
第三章 見習いの悩み事
工房のオーブンは古い竈式で、きび砂糖の煉瓦にチョコレートの扉がついている。中には真っ赤に焼けた炭と丸型に入ったスフレが六つ。ふわふわの表面は熱気にゆらめいて、今にもパチンとはじけてしまいそうだ。
(よし、あとはこのまま無事に冷えてくれれば完璧なんだけど……。どうかこのままふんわりしていますように!)
アルマは祈るように一度ミトンを合わせてから、そうっと天板を取り出した。焼き色のついたスフレの表面がふわりふわりとおどり、そして。
しゅん、としぼんでしまった。
「あー……」
メレンゲの割合に失敗したのか、それとも竈の温度が高すぎたのか。竈の中ではあんなにおいしそうに見えたスフレが、急速に表面をしわしわにしてへこんでいく。
がっくりと肩を落としたアルマの隣で、フリーダが鼻歌交じりにオーブンへクッキーを入れた。それから三秒ほどして、
「きゃー! 卵ぬるの忘れちゃったぁ」
と慌てて取り出し、ひとりで「セーフセーフ」と呟きながら卵液を塗っている。
そのせわしげな後ろ姿を見つつ、アルマは自分の失敗の原因をたずねてみようとして、ためらった。おっとりとした師匠だからこそ、下手なタイミングで話しかけるととんでもない失敗につながってしまうのだ。話しかける際には細心の注意が必要だった。
アルマのもの言いたげな視線を感じてか、フリーダが振り返った。それからついと視線を落とす。
「どうしたの? 手、熱くない?」
「え?」
言われて天板を持ったままだったことを思い出す。ミトン越しとはいえ天板から熱気がじんじんと伝わってきていた。
「あちち! ちょ、置き、待ってください!」
天板とミトンを投げ置くようにして、アルマは流水に手をさらした。
「あらあら火傷しちゃった? ちょっと待ってね、今氷さんを出すからねー」
「大丈夫です、これぐらいなんてことありませんからっ」
頭を振りつつ、自分の腕についたいくつもの火傷の跡が気になった。勲章のようなものよと師匠は言ってくれるのだが、アルマには失敗の痕跡としか思えない。
「アルマちゃんが大丈夫ならいいけれど……」
師匠の視線が何気なくスフレをとらえた。
「あらあら、スフレちゃんがしおしおね、次はメレンゲを『つるんでパリッ』とさせるといいわよ」
「『つるんでパリッ』……ツヤが出て、まわりがごわつくぐらいの固さですね」
うんうんと頷いてフリーダが微笑む。
「そうなの。泡立てが『とろんでぺよん』だと、こうなっちゃうのよ」
『とろんでぺよん』――また新しい言葉だ。脳に重要単語として書き記し、アルマは両の拳を握りしめた。
「わかりました、次、頑張ります!」
「アルマちゃんはよくわかってくれて助かるわ。お店の職人くんたちには、こういう細かいことって本当に伝わらなくって……」
はあ、と深刻なため息をついて、フリーダは作業に戻った。
やがて夕方になり、ルーメンの店子たちが工房へ集まりはじめた。今日の試作品披露をかねた夕食配りが始まるのだ。
アルマと同じ白いブラウスに赤いスカートをはいた店子たちが、テーブルに並んだケーキをきゃいきゃいと楽しそうに選んでいく。
「やばい、フリーダさんのレアチーズケーキがある! 昨日食べたばっかりなのに!」
「このチョコレートケーキ、なんですかぁ?」
フリーダは微笑んでこたえた。
「三種類のチョコレートムースよ。オレンジチョコとピスタチオチョコ、それからチーズチョコにしてみたの」
「チーズ……どうなんですか、それ」
「うん、まあ、試作品で十分かなってところね。お店にはリアが並ばせなさそう」
「このキウイのモンブラン、もらいます!」
「あーっ、それ私が狙ってたのにぃー」
フリーダ作の大きなホールケーキたちが、バサバサとさばけていく。と、
「ねぇ、今日はアルマちゃんのもある?」
突然話を振られて、アルマは戸惑った。
「あ、はい……。でも今日はちょっと調子が……」
見た目にもわかる失敗作を隠すようにして後ずさる。
毎日繰り返されるこの時間がアルマは苦手だった。師匠のケーキは失敗作でも十分おいしくて、店子たちに大人気なのだが、アルマのケーキに手をだす者は少ない。あからさまに自信作を無視されて傷つかないほど、アルマは鈍感ではなかった。リアは店子の舌が肥えすぎているからだと言っていたが、アルマにはなんの慰めにもならない。
ただ兄だけが、どんなに不格好で不味いケーキでも気にせずに食べてくれていたのだ。
店子たちが去ったあとにアルマはフリーダとリアの目を誤魔化して、ゴミ箱へ近づいた。選ばれなかったケーキを捨てるためだ。そのすべてがアルマの作品だった。
……やっぱりもったいない、よね。
失敗作とはいえ丹精込めて作ったケーキだ。失敗の原因も追及しなければならないのに、捨てるなどもってのほかだった。
だがしかし、今日一日で作ったケーキは六種類七ホール。そのうち捌けたのはたった二ホールだった。残りの五ホールは味見をしたら捨てなければならない。
以前は多くとも三ホール程度しか残らなかった。それを自宅へ持って帰って兄と一緒に食べていた。今は兄もいないのに、残るケーキは増える一方だった。
理由はわかっている。最近のアルマは基本的で地味なケーキばかり作っていて、店子たちに飽きられているのだ。しかもすべて成功とも失敗ともつかない微妙なラインの作品ばかりだった。
「やっぱりわたし……下手になってる」
料理の腕が上がるのに反比例して、ケーキの腕前は下がる一方だった。
『砂糖を使うな』
ヴィルの言葉が頭の中でリフレインして集中力を乱していた。お菓子作りの基礎ともいえる砂糖を封じられて、この先どうやってお菓子を作っていけばよいのだろう。
今日のところは普通に砂糖を使ったのだが、それを聞いたら少年はまたあの冷たい瞳でため息をつくのだろうか。
アルマが残った失敗作を持ち帰り用の箱に入れようとしているのを鋭く見とがめて、リアが指先でテーブルを叩いた。
「捨てていいのよ、アルマ。姉さんだって昔はすごい量の失敗作を捨ててたのよ。今だって山ほど失敗してるでしょう」
「でも」
「いいの。あんたはまだ小さいんだから、失敗して当然なの。どんどん次にいきなさい」
「はい……」
小さく頷いて俯く。次に行けと言われても、一体何をしたら良いのかわからなかった。どんどん失敗作を量産するべきなのだろうか?
アルマが工房に来てからスランプになったのは一度や二度ではない。なのに、以前はどうやって乗り越えていたのかが思い出せなかった。ただ必死につくり続けて乗り越えてきたはずだが、それは今の自分とは別人だったような気がする。
それに、今回は事情が違うのだ。ただ物理的にケーキ作りが下手になったのではなく、心から折れている。新しいレシピに挑戦もせず、基礎的なケーキばかり作り続けているのも、そのせいなのだろう。
(そう、わたしは逃げてるんだ)
脳裏に構想のまま進まないウエディングケーキがよぎった。一から考え直そう考え直そうと思いつつ、今日までだらだらと日にちがすぎてしまった。結婚式までもう半年を切っているのに。このままでは出来るものも出来なくなってしまうだろう。
アルマは頭を振って雑念を振り払い、ケーキをゴミ箱に放り込んだ。
べっこりと潰れたスフレを見るのが、辛かった。