5
などという決心がもったのは、はじめの一時間までだった。
料理が始まって三十分ほどで汚れきったキッチンで、ヴィルが絶望しきった目をして呟いた。
「……アルマ。君には学習能力というものがないのかい?」
異国風の皮肉な言葉回しよりも、淡々とした言い方が勘に障り、アルマはかっとなった。
「あ、あるに決まってるでしょっ、ちょっと忘れっぽいだけでっ。それに、ヴィルが横から口出しばっかりするから失敗するんじゃない!」
「……そうだな。それを言いたくなるのは、君がその砂糖壺を手放さないからなんだがな」
アルマの手元でつるりと光る白い壺へ視線を落とし、少年は深いため息をついた。
「はっきり言う。アルマ、砂糖を使わないようにしろ」
「ええっ。でも、お砂糖でカロリーが上がるのは知ってるけど……。まったくお砂糖なしじゃおいしくないでしょ? ほんの少し使うだけだから」
「ダメだ。この国の砂糖は体に良くない」
「え?」
アルマは目を見開いて相手を見た。
「この際だから正直に言う。今すぐ砂糖を摂取するのをやめろ。君はすでにおれの薬を被っているから大丈夫だとは思うが……」
ヴィルは独り言のように続きをぼそぼそ呟いた。それを聞き取れず、アルマは邪険に言い返した。
「なにそれ。わたしにもうお菓子を作るなって言いたいの?」
「違う。蜂蜜や他の甘味料を使えばいいんだ」
「そんなので作ったって限界ってものがあるでしょ」
「それはそうだが……」
少し黙り込んでから、ヴィルは呟いた。
「もうしばらくの間でいい。料理だけを食べてろ。甘いものは口にするな」
「なんでよっ」
「それは……」
ヴィルはしばらく押し黙り、やがて静かに口を開いた。
「――君は、幼い頃のことを覚えているか?」
唐突に問いかけられ、アルマは鼻白む。
「子どもの頃のこと? そりゃ……覚えてるけど」
「本当に? 八年以上前のことを覚えているか? 五年前でもいい」
「えっと、五年前……五年前?」
とっさに五年前の記憶が浮かばず、アルマは焦った。
「そ、その頃は……その、小さかったから……っ」
必死に間をかせいでも、記憶はまったく蘇ってこなかった。頭の中に真っ白なモヤがかかっている。
(そんなはずない。前はお兄ちゃんと暮らしていて、とっても平和で、テロなんかなくて――でも、何があったんだっけ?)
おかしい。いくら自分が忘れっぽいからといっても、たった五年前のことが思い出せないなんてありえない。――ありえてなんか、ほしくない!
「うそ……。思い出せない」
口ごもるアルマへ、ヴィルがまじめな顔で告げた。
「この国の砂糖は記憶障害を起こす。だいたい七~八年が記憶の限界だ。だから君たちはこんな異常な国でも何の疑問も持たずに暮らしていられるんだ」
「砂糖が原因なんて……そんなこと、あるわけないじゃない。もしそうだったら、この国のお菓子職人はどうすればいいのっ?」
「だから練甘術師が諸悪の根源なんだよ」
きつい視線でにらまれて、アルマはとっさに動けなかった。泣きそうになるのを肩を振るわせてこらえる。それでも信じたくなかった。
(砂糖が記憶を奪うだなんて……絶対にありえないよ)
じわりと、目に涙が浮かんだ。
それを見てどう思ったのか、ヴィルは軽くため息をついて目をそらした。
「……悪い、俺が言い過ぎた。君たちにはどうしようもないことだもんな」
そんなことないと言い返そうとするアルマを押し止めるように、ヴィルは早口で続けた。
「アルマ。正直なところ、君は器用だ。口頭で教えたことも即座にこなすし、包丁の使い方も様になっている」
「あとは甘いものを忘れればいいんだ」と彼は呟いた。
「君の舌から変わらなければ、またお兄さんをケーキ漬けにするだけだ。君自身、お菓子ばかり食べて生きていくだろう。それでは意味がないんだ。まず君から変わってほしい」
――ケーキ漬け。
その言葉がいやに響いて聞こえた気がして、アルマの胸が黒くざわめいた。
「そんなことを言われても……わたし、どうすればいいの?」
「具体的には白湯を飲んで舌を慣らして――」
「違うの、そうじゃない!」
アルマは我知らず叫んでいた。
「あなたに料理を習って、わたし、わかんなくなっちゃったの。本当にお菓子作りが好きだったのに、今は変なの、楽しくないの!」
ここのところ、ずっと思ってきたことだった。ケーキ作りに失敗する度に胸のうちで頭をもたげ、その度に「違う」と否定し続けてきた感情だ。
アルマの心は叫んでいた――本当はもう、お菓子を作るのが辛い、と。
だけどそんなもの認められない。否定して、気付かないふりをして、忘れていた。
そんな今ですら必死なのに、ヴィルは更にこの上をいけと言う。砂糖を使わないお菓子作りなんて、どれだけ難しいことだろう。アルマには想像もできなくて、ただ自分には無理だということだけがわかった。
アルマは鼻の奥がつんとしてくるのを自覚した。それを気力でぐっとこらえる。きっとまな板の上にある刻みタマネギのせいだ、そうに違いない。
「師匠にも他の工房に出されるかもしれないし、いつも失敗ばっかり。さっきの絵みたいになんか、きっともう、一生笑えない。そのうえケーキなんか作るなでしょう? もう嫌なの!」
ぽろりと涙が落ちた。鼻がぐずつく。それを隠すべくまな板へ向き直ると、タマネギの臭気がつんときて、いっそう涙を出させた。
ヴィルは何かを言おうとして口を開いたが、すぐに閉じた。考え深げな表情でじっとアルマを見てくる。その視線は同情ではない何か悲しげなものを映しているようだった。
居心地の悪い沈黙に耐えられなくて、アルマは目をこすった。
「ごめんなさい、わたし、変なこと言ってる」
「……いい。わかった。やっぱりおれたちが間違ってたんだな。何も知らない君に叩きこみすぎたんだ。混乱するのも無理はない」
その響きがいつもより優しくて、アルマは少し驚いた。
「そ、そんなことは」
「ある」
ヴィルは真剣なまなざしで続けた。
「食材、技法、そして感性。そのすべてを曲げられてなお自分の道を歩めるのは、本当の職人だけだ。君にはまだ早すぎたんだろう」
アルマへハンカチを渡し、ヴィルはどこか遠くを眺めるようにキッチンの小窓のむこうを見た。小さく見えるシュークリーム塔の先端をじっと見つめる。
「おれはな、アルマ。君にお菓子とケーキの中間的な作品をつくってもらって、人々に料理を浸透させたかったんだ」
アルマは思わず息をのんだ。
ドルチェブルグの人々に料理を浸透させる――もしそれが叶えば、この国の誰もが潜在的にかかえる難病、肥満を克服することができる。
(……でも、そんなものすごいこと、今のわたしじゃ到底無理だよ)
師匠なら軽々できてしまうだろう。だが、いつお店が持てるとも限らない見習い練甘術師相手では、ヴィルの計画は遠大すぎる。
「そういうことは師匠に言ってよ、わたしはまだ見習いなんだから」
「知ってる。それに、もうやってみたんだ。ドルチェブルグ中の製菓店に匿名で手紙を出してみた。でも、誰も変わろうとしなかった。だから、若い世代から変えていこうと思ったんだ。俺たちがいなくなったあとも料理が根付いて、続いていくように」
アルマは絶句した。
この国の大人は変わらなかった――この事実が、ヴィルを大人不信にさせた原因なのだろうか。
この国の問題はお菓子を主食として食べる習慣や、甘いものが良いものだという価値観に起因している。アルマひとりに料理を教え込んでも、そのあとが続かなければ意味がない。料理の習慣が広まって、続いていかなければならない。
だが、ヴィルはいつかはいなくなる。テロリストがこんな小さな国で長居できるはずがないのだ。そうなったときに、すぐに料理が廃れてしまったら、元も子もない。
「そっか……」
(ヴィルは色んなことを考えて、わたしに料理を教えてるんだ)
なぜか胸が苦しくなって、アルマはうつむいた。
ヴィルは真剣な声で話を続けた。
「おれも焦ってたかもしれない。君が早く覚えてくれれば、この国はもっと良くなるって。健全な料理が広まっていって、皆が健康になってくれるんじゃないかって」
少年の言葉ににじむ熱意に、アルマは少したじろいだ。
「なんでわたしなの? 師匠はもっとすごいのに」
「君が覚えれば師匠にも伝わる。そうだろう?」
「う、ん。それは、そうだけど……」
言われるままにうなずきながらも、アルマは納得がいかなかった。偶然兄をテロされて、料理を教わる関係になっただけなのだ。
「師匠がわたしから何かを吸収するなんてあり得ない気がする。師匠は完璧で、すっごいの。どんなレシピでも一度で覚えてしまうし、食べただけで技法まで当てちゃうんだから」
「だから君の師匠からあたれっていうのか? 巨匠フリーダの突飛さはおれでも聞いたことがあるんだが」
「突飛だなんて。ただちょっと発想がすごいだけよ。虹色クリームのエクレアとか」
リアの盛りつけ技術をもってしてダメだった不人気ケーキを思い出す。あれは失敗だったが、フリーダのケーキは一見とんでもなくて、でも食べるとおいしいという二重の楽しさがあるのだ。
アルマの主張を無視して、ヴィルは腕組みした。文句ありげにすがめた目元が鋭い。
「おれも錬金術師の端くれだから言うが、独り立ちした錬金術師は大抵どこかイカれてるものだ。練甘術師も同じだろう」
「なっ、そんなことないっ。師匠はちょっと天然なだけだもの!」
「おれの師匠なんてすごかったぞ。弟子に平気で毒をもって、その記録ばかり書いてた。ペンを手放すのは寝るときだけだった」
さらりと告げられた内容に思わず沈黙したアルマへ、ヴィルは更にたたみかけた。
「テオだって昔はまともな兄貴分だったんだ。それが錬金術師として独り立ちして、色んなことに携わって……あんな風になってしまった」
組んだ腕を悔しげに握りしめ、ヴィルの黒い服にしわが走った。
アルマはテオの軽い態度でバサバサと人を傷つける物言いを思い出し、昔はどんなまともな人だったのかと思いをめぐらせた。が、まったく想像できなかった。わかったのは錬金術師とはみんなひと癖もふた癖もある人物ばかりなのだろうということだけだった。
「だからヴィルは……大人を信用しないの?」
「かもしれない。それにこの国には特に信用にたる大人がいないことは、君も気づいているだろう?」
「? なんのこと?」
「五十代以上の成人がきわめて少ない、ということだよ。老人世代は皆無だ」
言われて初めて気づいた。
確かにおじいちゃんやおばあちゃんがこの国にはいない。みんな太りすぎで死んでしまうからではなく、初めから存在しないのだ。
「わたしみたいに外の国から来る人が多いからじゃないの?」
ちらりと暖炉の上の写真を見る。幸せそうに笑う家族の背後に立っているのは、お菓子ではない素材でつくられた家だった。しかし、その場所がどこかアルマは知らない。国の名前を忘れたと兄は言っていたが、今思えば当時五つだったアルマはともかく、十二歳だったエルクが自分の国の名前を覚えていないはずがない。
こんなことを疑問にも思わずに、この街の住人は平気で暮らしている。
(これが砂糖の記憶障害ってこと……?)
サァッと、体中から血の気が引いた。
アルマの理解が及んだのを見て取り、ヴィルが腕を組んだまま指先をとんとんと弾いた。
「この国は難民のよせ集めなんだ」
「なんみん?」
「戦争で土地を奪われた人たちのことだ。この国の外は……――いい、なんでもない」
ヴィルは強制的に口を閉ざした。
何か聞いてはいけないことに触れてしまった気がして、アルマはそっと息を飲み込んだ。
だが、ヴィルはふう、とため息をついただけだった。
「……今まではただ救ってきたんだがな。この国だけは人々の常識から叩き直さないといけなくて、危険な方法もとった。それに手詰まり感を覚えていたところへ、ちょうどいい年齢の練甘術師と出会ったってわけさ」
それだけを言うと、ヴィルは肩をすくめてまな板に向き直った。
「さあ、次のレシピにいこう。ほうれん草とトマトのグラタンだ」