美術室の幽霊
特に繋がっているわけではありませんが、登場人物を共有したシリーズものなので、この話の後日譚となる「夏は、彼女の季節」も合わせて読んでいただけたら幸いです。
奇妙な状態と言えば、これがすでにそうであろうと言える。
部活動は校則により一時間前に解散、すでに校内は閑散とし、僕たちのほかに生徒は居ないようにさえ思える。電灯が点いているのは職員室くらいのもので、今僕たちが居る美術室も、夏といえどもほとんど真っ暗と言っていい闇の中である。
「なかなか不気味な様相ではあるけれど、本当にこれで幽霊が来るのかしら」
日向葵は爪で唇を撫でるようにしながら、小さく呟いた。
「これ」というのは、目の前の机上を指しているのだろう。
「さあ、どうでしょう」
野々村が同じような声量で答える。
僕は何も言わず、観察を続けている。
机上では、真新しく削りたての鉛筆が五本、塔のように立っている。そしてそれを囲むようにして、赤い絵の具で円が描かれていた。この学校に伝わる降霊術を試そう、という話だった。
儀式を始めたのは午後七時十五分。即ち部活動が終了し、美術室が空くのを待っていたわけだ。「幽霊研究会」などという「いかにも」な会を発足した日向葵の存在は校内では有名で、美術部員も、嘲笑を含みながら、鍵を渡していた。
会員でもない僕が呼ばれたのに、特に理由はないらしかった。人数合わせとも言えるし、その中でもさらに偶然が重なった、とも言えた。野々村からは一度か二度「見えてしまうがゆえに可笑しな会に巻き込まれている」という話を聞いたことがあったが、その巻き込んだ張本人らしい日向葵のことはほとんど知らなかった。それでも話に乗ったのは、確かにそういう噂を聞いたことがあって、実際のところ、その噂の真相というやつに、興味があったわけである。
閉め切った室内は蒸し暑く、石膏像でさえ汗を掻きそうな具合だ。
唇を弄んでいた手の甲で妖艶に顎を拭った日向葵が、
「人は」ぼそりと呟く。暑さで話をする気力さえ湧かないようにも見えた。「どんなときに恐怖を感じるのだと思う?」
野々村に投げたのか、僕に投げたのか、判然としない言葉に思えた。
だから、
「幽霊を見たら怖いんじゃないかな」
返答をしてみると、
「どうかな」
甲に付いた汗を舐めるように、口を覆う。
お気に召さなかったらしい。
「その話」今度は野々村が言う。「前にしませんでしたっけ」
「どんなときに恨みを持つのか、ということなら話したことがあったかもしれないけど、これは私の記憶では初めてね」
「恐怖についてはまだだったか」思考力が散漫になっているのか、野々村は重たそうなまぶたを閉じて、首を回す。「そうですね、きっと、忌避に似ているのだと思います」
「忌避?」
「悪くないわ」
机の向こう側で日向葵が頷いた。ひとり、置いてけぼりを食ってしまった形になる。
野々村はどうやら、日向葵の意図を読み取ることに長けているようだ。
彼女は調子を変えることなく淡々と、
「未知のものへは拒否感を覚えるよう、私たちは設計されている。それが即ち、恐怖というもの。わからないものは怖い。じゃあ逆に」
「わかれば」先は野々村が続けた。「わかれば、怖くない、という話ですか?」
「そう。だから君は幽霊に対し恐怖を覚えることは無い。私とは設計の段階から違う人種なのね。君は何に恐怖を抱くのかしら」
「そんなこと無いですよ。幽霊が見えたって、見えるだけの話で、怖いときは怖い。それに、それを言ったら、僕と比べて日向さんは幽霊に対して明るくないけど、拒否していない。探求してる。今のは話が通りません」
「あなたが幽霊を怖いと思うのは、世論に流された錯覚に過ぎないわ。だって、あなたは幽霊を知っている」でも、と彼女は続けた。「私も、どこか君とは違う意味で、設計が狂っているのかもね」
意味深な笑みを浮かべたが、僕も野々村も、顔を歪ませて、首を傾げるしか出来なかった。
時計を見上げると、八時半に近かった。この一時間と少し、彼らはこうして、彼らだけにわかるような言葉で問答を繰り返していて、正直なところ、居た堪れない気持ちだった。研究会にはもうひとり、別の会員が居て、普段はその三人で活動をしているらしいが、今のように、ほとんど居合わせてしまっただけの僕はどうも馴染めない異分子でしかなく、どうせなら、呼ばないで欲しかった。
自分がもうひとり居たとしたら、きっと僕を同情の目で見ることだろう。
どうやら自分は二人と居ないらしいが。
とは言え、一体、何を持ってして、人は「自分」を認識しているのだろうか。
いや、当て所もない思考だ。
溜息を吐いて、
「もう夜も更けたし、帰ろうよ」
立ち上がると、野々村がこちらに合わせ視線を上げ、何かを言おうと口を開いた。
しかしそのとき、風も無いというのに、五本のうちの一本の鉛筆が、赤い絵の具へ倒れていった。そしてその研ぎ澄まされた切先が、あろうことか、日向葵のほうを向いた。
「へえ」本人は、腕を組んで、机上の変化をじっと見つめる。「野々村くんを散々引っ張りまわして、それらしいことが起きたのは初めてね」
「引っ張りまわしていた自覚があって何よりですよ」
言われた野々村は鼻をひくつかせ、薄闇の中、目で僕に座るよう促した。大人しく従う。
状況が変わった。もしかしたら、怪異が続くかもしれない。彼女に倣って鉛筆を見つめていたが、やがて三分くらいして彼女がやめるのと同時に、視線を外した。
「なんだったんだ?」
「どうなの。見える?」
野々村は四方八方に視線を投げたが、小さく首を振った。
「わからない」
「そう」日向葵が呟くのに続き、
「なんだよ」非難してみる。「見えるんでしょ?」
「今のところ、見えませんね」
「わかった」
日向葵は右手で一度に四本の鉛筆をまとめると、絵の具の付いた最後の一本も、何を厭うことも無く拾い上げ、拭きも、洗いもしないまま、自身のペンケースの中に仕舞いこんだ。その所作にまた、野々村がこちらを向いて何か言いたげな顔をしたが、結局、視線が合っただけで、それもすぐに逸らされた。多分、どんな言葉を出してみても意味など無いのだと、彼は知っているのだろう。
「なあ」しかし僕は気に掛かることがあり、声を出す。「こういうのって、正式な手順を踏まないで途中でやめると、何かよくないことが」
言下に、カツン、カツン、と足音が、廊下から響き始める。
野々村も、日向葵も、動きを止めて、廊下のほうを見た。
足音は一定のテンポを保ったまま、徐々に美術室のほうへ近付いてくる。
「ほら、やっぱり」
「何かが、降りてきたのでしょうか」
「どうかしらね」視線は廊下に向けたまま、しかし綻んでいる顔が想像できる。「それなら私は、歓迎するけど」
「冗談よしてよ」可笑しなことだが、寒気が背筋を這いずる。「夏だって言うのに、寒い」
「今」野々村はポツリと、平然と、こんなことを言う。「日向さんは、怖いですか?」
その言葉に、ようやく、彼女はこちらに向き直った。
口元に貼り付けただけのような笑みが、まっすぐ野々村に向かう。まるで射竦めるためだけのような仮面が、そんなこと無いのにこちらに向けられたような気がして、ブルリと、震えてしまう。
「怖い?」
「この、向こうから来る、足音。未知のものですよ。怖くは無いですか?」
「怖くなんて無いわ」
「好奇心によって、ですか?」
「いいえ」
廊下のほうを見ているのも、日向葵のほうを見ているのも、かといって挑戦的な野々村のほうを見るのも出来ず、僕はじっと、机上の絵の具を見ていた。倒れた一本のせいで、円は不完全なものへと変化している。
もし。
先ほど鉛筆を倒した何者かが、儀式を途中で取りやめたことに怒り、こうして恐怖心を煽りながら近付いてきているのだとしたら、彼と対面したとき、僕たちはどうなってしまうのだろうか。日向葵は、野々村は、僕は、今この状態と同じままで居ることが出来るのだろうか。
いや。
待て。
先ほど鉛筆を倒した者は、間違いなく、この教室内に居るはずだ。鉛筆を倒して、そのままそそくさと教室から出て行く姿は想像するだけで滑稽極まるし、幽霊とて、生きた人間と同じで、物質を通り抜けることは出来ない。なのだとしたら、この足音の正体は、鉛筆を倒した者とは違う何か、ということになる。つまり、儀式とはまるで関係が無く、僕たちは何かを呼び寄せてしまったと言うことだろうか。
足音は扉の前で止まった。
廊下の蛍光灯が扉の窓に影を作る。
ゆっくりと、スライドされ、
「なんだお前ら、まだ居たのか」
声を投げたのは、教師の一人だった。
野々村は溜息を漏らし、小さく首を揺り動かす。
「先生だってわかっていたから、怖くなかったわけですか」
「なんだ……」こちらも釣られて息を吐いた。「なんだよ……」
「それはもちろん、こんな時間に残っている生徒が居たら困るから、教師だって見回りくらいするわよ」
スカートのポケットから取り出したハンカチで机上の絵の具を拭い去ってしまうと、彼女はそそくさと鞄を肩に引っ掛けた。
「帰りましょう」
「そうですね……」
その会話を見ていた教師は、
「お前らなあ、悠長に話してるんじゃないよ全く。こんな時間に男女二人で居るなんて、普通は面談ものだからな。自覚を持て自覚を」
「先生、私たち、そういう関係ではないので、安心してください」
「もし必要とあらば、何をしていたのか、僕が懇々と説明しますよ」
「いいからいいから、もう早く帰れ。もう意味なく残ったりするなよ。変な噂が立ったらお前らも困るだろ」
「ええ、困ります」
「すみません」
会話が終わると、教師は室内を見回し、ゆっくりと、扉を閉めた。
日向葵は今日も幽霊を見れなかった。