お芋畑の金髪少女
「うー、暖かい。生き返るっす。やっぱこんな日は、焚き火に限るっすねぇ」
ぱちぱちと小枝が弾ける音が響いた。
とある日曜日。部活帰りの俺と先輩は近道するつもりで、いつもは通らない畑道を自転車でつっ切ろうとした。けれど畑の真ん中は、障害物がないせいか容赦ない北風が吹きつけてきて、俺たちは凍える寸前だった。
そんなとき先輩が、畑道の脇に積まれた枯れ木や枯れ草の山を見つけると、どこからともなくライターを取り出して「いったん小休止して、暖でも取りましょうか」と提案し、今に至る。
こうして俺たちは今、北風を背に焚き火を囲むようにしながら暖を取っている。くすぶる煙に手を近づけると、溶けそうになるほど気持ちいい。
「いやー、先輩。ライター持っているなんて不良っすね。メガネのくせに」
「何を言っているのですか。田舎の高校生の必須アイテムですよ。メガネは」
「そっちっすかっ?」
まぁ先輩のことだから、化学の実験にでも使っているんだろうけど。
「ときに、野田君?」
「何っすか?」
「せっかくの焚き火ですし……小腹がすきませんか?」
先輩の視線の先はサツマイモ畑があり、畑の脇には収穫された大小さまざまなサツマイモが山積みにされていた。
「おっ、焼き芋っすか。でも勝手に取っていいんっすかね?」
「問題ありません。うちは地主でこのあたりの畑も貸している状態です。もし見つかったとしても、借主に事情を説明すれば良いだけです」
「そうっすか。さすがメガネっす! 恰好いいっす!」
というわけで、俺たちはサツマイモを抜き取ると、焚き火の中に放りこんだ。火が消えないように焚き木を増やして、上手く空気が行きわたるように調整する。
「――ん? あれは」
先輩の怪訝そうな声がして、俺は焚き火から目を離して先輩の視線の先に目をやる。
サツマイモ畑の真ん中に、天使……もとい、金髪美少女たんがいた。
中学生くらいだろうか。この田舎町で外国人の姿を見たのは初めてだった。
透明感のある金髪に純白の肌、緑色の瞳。背も顔もちっちゃくて、まるでお人形さんのような顔立ちで、俺の視線はくぎ付けになってしまった。
首に汚れた白いタオルをかけ、手には軍手、服もツナギのような作業服を着ているけれど、少女の美しさが色あせることはない。手に持っているクワも俺的には無問題。
少女はサツマイモ畑をすたすたと突っ切って俺たちの目の前に来ると、小さな唇を開いた。
「ホッタイモイジルナ」
容姿通りの鈴を転がすような音色に、俺の胸がときめいた。だが俺の英語の成績は赤点すれすれである。少女がなんて言っているのかさっぱり分からない。
「やばいっす。超美少女っすよ。一目ぼれっす。でも何いっているか分からないっす」
俺が先輩に助けを求めると、先輩はふぅとため息をついて呆れたように言った。
「……まったく、この程度の英語も分からないのですか。What time is it now? 今何時ですか、と聞いているんですよ」
「さすがっす。先輩っ」
見たところ少女は腕時計をしていない。中学生だから携帯は持っていないのかもしれない。確かに、畑のど真ん中じゃ時間は分かんないだろう。
俺はサツマイモを焚き火の中で転がしつつも、素早く携帯電話で時刻を確認して、少女に声をかけた。
「えっと、三時だよ」
「ホッタイモイジルナ!」
少女が少し怒った様子で俺に向かって言った。
「君はアホですか。英語で答えてあげないと彼女に分からないじゃないですか」
先輩がサツマイモを突っつきながら言った。
「――あ。そうか。うっかりしてたっす」
そりゃそうだ。外国人の少女に日本語で答えても意味が通じるわけがない。
「えっと、すりーみにっと?」
「掘った、芋、弄るなッ!」
通じなかったようで、また同じ言葉が繰り返された。少女の方も言葉が通じないのが悔しいみたいで、地団駄踏んでいるところが可愛らしい。
「君はアホですか。ミニットは分ですよ。三分ってなんですか。カップラーメンですか? 我々は芋を焼いているのです!」
「先輩。アホアホ言わないでください。馬鹿と違って何気に傷つくっす」
「突っ込むのはそっちですか? まったく君は逆関西人ですね。時間は『オクロック』ですよ」
「あ、そうそう。それっす。えっとごめんね。さんろくおっく、分かった?」
――これで意味が通じたかな? 俺はほっと一息ついてサツマイモの焼き具合を確認する。天使との非現実な会話は俺にはハードルが高すぎなので、芋を弄って現実の世界に逃避する。お、そろそろ食べごろかな?
反応がないのでちらりと少女を見ると、なぜか大きくため息をついている。
俺と視線が合うと、少女は何か思いついたようでぱんと手を合わせた。まず最初にサツマイモの山を指差し、次に焚き火を指さして言った。
「掘った芋いじるな」
俺と先輩は顔を見合わせた。
焚き火に向かって「今、何時ですか?」これはいかに。
「なるほど。分かりましたよ、野田君」
先輩がくいっとメガネを押し上げた。
「少女が指さしているのは焚き火ではなく、芋なのです。そして時間を尋ねているのです。野田君。今の時刻は何時ですか?」
「午後の三時っすけど……そっかっ!」
俺と先輩は同時に叫んだ。
『おやつの時間っ!』
これはあれだ。戸棚にあるお菓子を見ながら、「もう三時だよ~、おやつまだぁ?」と聞くお子ちゃまと同じ仕草なのだ。つまり、サツマイモを要求しているに違いない!
俺は枝を使ってサツマイモを焚き火の中から取り出すと、まだ熱いそれを手に取って二つに分けて、一つを少女に手渡した。
「え――」
「あげる。食べていいよ」
言葉が通じないせいか、少女は俺と渡された芋を交互に見つめながら戸惑った様子を見せている。
けれど俺が少女を促すように自分のサツマイモを食べ始めると、少女は「……いただきます」と呟いて、小さな口でお芋にぱくりついた。
「な、なんですとっ」
「どーしたんっすか先輩。普通に『いただきます』って言っただけじゃないですか」
「君は何を言っているのですか。彼女が日本語を話すわけないじゃありませんか」
「ああそうか」
「少女はIt’s a dirty mouseと言ったのですよ。直訳すると『それは汚らしいネズミです』」
「ええっ。俺まさかの、ネズミ呼ばわりっすかっ?」
「もしくは焦げ付いたサツマイモが、ネズミの丸焼きに見えたのでしょうか?」
「それはそれで嫌っすっ!」
ネズミの丸焼きに躊躇なくかぶりつくなんて、ちょっと野性的すぎる。
けれど俺はめげない。可愛いは正義なのだ。
それに某デズニーの人気キャラクターだってネズミだし、ミ○ キーのキャラクターが描かれたまんじゅうやクッキーもあるに違いない。
「ねぇ、君、名前はなんていうの?」
三人でサツマイモを食べながら、言葉が通じないだろうけど名前を聞いてみた。
「ヨシダテルミ」
サツマイモをほくほく食べながら、少女が天使のような音色を響かせた。
「何って言ってるんっすか?」
もちろんなんて言っているのか分からない俺は、隣の先輩に聞く。
先輩はしたり顔で答えた。
「You should tell meですかね。直訳すると『あなたは私に言うべきだ』ですね」
おお。さすが先輩。メガネは伊達じゃない。
それはさておき、言うべきこととはなにか。これは考えるまでもない。「人に名前を尋ねるときは、まずは自分の名前を言ったらどう?」っていう展開は漫画やドラマでよく見る。
「俺の名前は、野田とおる。で、君のお名前は?」
「ヨシダテルミ」
あれ? また同じ言葉が繰り返されたぞ。名前だけじゃ不満なのか?
ちらりと振り向くと、先輩がサツマイモの皮をいちいち丁寧に剥きながら言った。
「そうですね。You should tell meは、直訳すると先程の意味ですが、ちょっと文章を変えて、You should be telling meとしたら、『よく言うよ・冗談でしょ』みたいな意味になるようです」
「ええっ。俺の名前は冗談じゃないっすよ。野田とおる。分かる?」
俺が念を押すように言うと、少女は確認するように呟いた。
「ノダトオル」
「あ、いま、俺の名前を言ってくれましたよねっ」
少女の可愛らしい口から発せられると、何てことのない変哲な俺の名前がすばらしいもののように思えてくる。
歓喜する俺の横で、先輩が気の毒そうに言った。
「残念ながら空耳ですよ。少女はNot at allと言ったのですよ」
「なんっすか、それ?」
もちろん意味なんて分からない俺は、先輩に聞く。
先輩はしたり顔で答えた。
「Not at all。『どうもいたしまして』という意味でしょうか」
「おお。何となく意味分かるっす。サツマイモのお礼っすね」
本来なら「ありがとう」と言うべきで、「どうもいたしまして」は俺の台詞だけれど、この辺りは文化の違いなんだろうな、うん。
「のだとおる」
俺が満足げにうなずいているのを見て、少女は嬉しそうに俺に向けてもう一度言う。
「あれ? また同じことを……」
「そうですね。今のNot at allは『決して~ない』という意味でしょうか。つまり『お礼なんて言ってるんじゃねーよ、アホ』という完全否定です」
「そ、そんなぁ。ひどいっす」
「野田とおる」
「またNot at allですね。今度は『とんでもない』という意味でしょうか。色々な意味を持っているんですよ。この文法は」
「そんなっ。俺、空飛べないし、豚でもないっすよっ」
先輩に抗議すると、俺たちのやり取りをぽかんと見つめていた少女が、くすりと笑った。あれ? もしかして好印象?
「ふふっ。アホみたい」
少女が面白そうにつぶやいた。
もちろんなんて言っているか分からない俺は、隣の先輩に聞く。
先輩はちょっと驚いた様子でうろたえていた。
「……どうしたんっすか?」
「いや言っていいものかと……Ah, hold me tightはですね。『ああっ、強く抱きしめて』という意味ですよ」
これには俺も驚いた。さすが外国の女の子。初めて出会った男性にこんなことを頼むなんて、すばらしき積極性! そうだ。わかった。きっと寒いんだ。そうに違いない。ならば暖めてあげないとねっ。
俺は両手を広げると、一歩前に出て、華奢な少女の身体を優しく抱擁した。柔らかな髪の毛から土の香りが漂う。
「――きゃぁぁぁぁ!!」
耳元で少女の悲鳴が響いた。
そして気付いたときには、少女が手にしていたクワの柄の部分が、俺の顎に命中していた。
「つぅぅ……まだ痛てぇ」
自宅に戻った俺は、腫れたあごをさすりながら呟いた。
冷静になって考えてみると、いきなり抱きつかれたら当然の反応だよな。クワの金属の部分で殴られなかっただけマシなのかもしれない。
「ってことは先輩め。うそを教えやがったな。メガネのくせに」
俺はそう断定すると、少女がなんと言っていたのか調べることにした。くそメガネの悪態をつきながら辞書と悪戦苦闘する。
「えーと、確か『あ・ほ・み・た・い』って言ってたよな。あ、ほ、み、た、い……『あ』は、あぁ、みたいなものとして、『ほ』がホールドで、『み』は、みぃ? 『た』と『い』がタイト……だよな、たぶん」
俺は辞書でスペルを確認しながら、一つの文章を完成させた。
「よし。この文章をパソコンに打ち込んでみて……」
やほおの翻訳にかけてみると、すぐに日本語訳に変換された。
『ああ、私をきつい状態に保ってください』
俺は椅子から立ち上がって叫んだ。
「これかっ!」
少女はこれを伝えたかったのだ。きつい状態に保って。確かに抱きしめるだけでは不十分だった。永遠に保つことはできない。これじゃ少女が怒るのは当然だ。
じゃあどうすれば……と俺は考えに考えて、一つの結論にたどり着いた。
そうだ、道具を使おう!
☆☆☆
「……はぁ」
夕暮れの一軒家。一人の金髪少女が、コタツの上にあごを乗っけてみかんを手にもてあそびながら、物思いにふけっていた。
少女の名前は吉田テルミ。さらさらとした金髪に純白の肌、緑色の瞳を持った中学生の少女である。母親がフランス人なのでこの容姿に生まれたけれど、父親は日本人のため日本国籍を持ち名前も日本風である。生まれも育ちもフランスだが、父が両親の農業を継ぐため、つい最近日本の田舎町に移り住んできた。
フランスにいたときは、家での会話はほとんどフランス語で行われていた。そのため来日してから間もないテルミは、日本語での会話にやや不自由なところがあった。
町の人はテルミに気を遣って日本語ではなく英語で話しかけてくれる。けれど英語を使わないフランスの片田舎で育ったテルミの英語は、日本語以上にからっきしだったりする。にもかかわらずこのド田舎町では、外国の人と言ったらみんなアメリカ人扱いされてしまうのだった。
例えば、日本に来て間もないとき。両親の都合で、一人タクシーに乗って帰宅することになった雨の日のときだった。
運転手の人は気さくそうな顔をしていたけれど、外国人の少女を乗せているせいか緊張している様子だった。テルミもおしゃべりが好きなので話しかけたいけれど日本語がわからなくて……という状態で、車内は微妙な無言の状態が続いていた。
そんなときだった。ぐぅぅ、と、テルミのお腹が鳴ってしまったのだ。
あまりの音にテルミは恥ずかしくてたまらなかったけれど、それで車内の緊張状態が解けて、無口だった運転手がくすりと笑って話しかけてきたのだ。
「ははは。お譲ちゃん。どぅゆー、好きな食べ物は?」
どぅゆー、の意味はわからなかったけれど、ほかの言葉はちゃんと意味が通じた。
「揚げ豆腐っ!」
話しかけられたのが嬉しくて、テルミはつい大きな声で言ってしまった。
祖母の得意料理で、あのお出汁の味とカラッとした衣の組み合わせが堪らない。ここに大根おろしとおろし生姜を加えたら、ご飯三杯はいける自信がある。
「あ、はいはい。I get offね。……ちょっと待っててね」
すると家に着いていないのに急にタクシーが止まって、料金を請求された。
もしかすると至高の揚げ豆腐を御馳走してくれるのでは。テルミはそう思って、お金を払ってタクシーの外に出た。
そこは何もないところだった。家に帰る途中の畑のど真ん中だった。
「はい。サンキューベリーマッチあるね」
そのままタクシーは走り去ってしまった。
冷たい雨が降りしきる中、畑のど真ん中に取り残されて、とぼとぼと歩いて家に帰ったテルミは、当然ながら風邪を引いてしまった。
きっと運転手さんは揚げ豆腐が嫌いだったから意地悪されたのだろう。
テルミはそう思った。
またあるとき。
こちらの中学に転校してきて間もないときだった。級友が好きな戦国武将について話しているのを耳にした。会話はままならなくても日本史に興味を持っていた好きなテルミは、書物やネットで見て知った人物が語られるのを、耳を伸ばして聞いていた。
その態度があからさまだったのか、近くにいた女の子の一人が聞いてきた。
「ねぇ吉田さん、戦国武将に興味があるの? 誰か好きな武将いる?」
問われたテルミは即答した。
「上杉謙信っ!」
周りの女子が微妙な表情をした。
テルミは失敗したと思った。
本場の歴女といわれる人たちと会話するからには、真壁氏幹とか柿崎景家くらいの人物を挙げないと、にわかだと思われてしまうのだろうか。いやしかし、その危険性を配慮しても上杉謙信は魅力なのである。上杉謙信と言ったら、一般的には武田信玄の宿命の好敵手として川中島の戦いを挙げる人間が多いだろう。だがそれこそにわかの主張である。テルミのお気に入りはなんと言っても、あの天にも昇る勢いの織田軍を完膚なきまでに叩きのめした手取川の一戦。軍神ここにあり。例え信長が出陣していなかったとはいえ、この一戦により上杉家の支配下が北陸まで及んだのはゆるぎない事実なのであり――
「えっと……West Kensingtonって、イギリスの地名だよね。はは。やっぱりイギリスの人に日本史の話題は難しすぎたかなぁ」
「――え?」
なぜか英国人扱いされてしまった。
ぽつりと会話から取り残されてしまいながら、イギリスの地名まで知っているなんて日本人はすごいなぁ、とテルミは思った。
とまぁこんな感じである。
テルミの言葉を日本語と認識しない会話相手にも問題があるが、テルミにも語学のすれ違いを気づいていない、ちょっと抜けているところがあった。
テルミはこたつの中に身体半分以上埋めた状態でミカンの皮をむきながら、今日起こった出来事を思い出していた。
学校が休みなので両親の畑作業を手伝っていると、見知らぬ高校生二人組が、丹精こめて作って収穫したサツマイモを抜き取って、焚き火をしながら談笑していた。
頭にきたテルミは怒鳴りつけてやった。「掘った芋いじるな」と。
ところが怒っているのに、男子高校生は笑顔のまま訳のわからないことを言う。しかも勝手に焼いたサツマイモをなぜか手渡してきた。テルミは戸惑ったけれど、元々は家の畑の物だし農作業で冷えた身体には有難かったので、素直にいただいた。焼き具合が絶妙でおいしかった。
男子高校生は野田とおると名乗った。
テルミのクラスの男子たちは、テルミの容姿に気おくれしてか、遠巻きに見つめるだけで、気さくに話しかけてはこない。なので自己紹介するだけでも嬉しくて、テルミは何度か彼の名前を口にした。
すると野田とおるとメガネの人が二人して漫才のようなやり取りを始めた。何を言っているのか半分くらいしかわからなかったけれど、なんとなく可笑しくて、つい笑ってしまった。
そうしたら、いきなり野田とおるが抱きついてきたのだ。
テルミは驚いて思わずクワで殴って、その場から逃げだしてしまった。
けれど家に帰って冷静に考えてみると、ただのハグだったのではないかと思うようになった。日本に来てからしばらくそういう習慣から離れていたせいで、つい驚いて反射的に手が出てしまった。
そのまま彼を置いて逃げ帰ってしまったけれど、野田とおるは大丈夫だろうか。
「また会えたら、ちゃんと謝らないと……」
その後はもう少しお喋りしたいな、とテルミは思った。
☆☆☆
「あれ? 野田君。もう帰るのですか」
「はい。お先に失礼するっすっ」
あの日以来、俺は通学に少女と出会った畑道を使うことにした。もちろん俺のバッグの中にはいつ少女と再会しても大丈夫なように、なぜか両親の寝室のタンスに入っていた、真っ赤なロープを忍ばせている。
とはいえ平日だと少女も学校に通っているのか、一向に会える様子はない。そんな日々が続くうちに、少女への思いが募っていく。あぁ、これが恋というやつなんだろうな。俺は彼女に最高の縛りをささげるべく、特訓も欠かさなかった。
そんなこんなで一週間が経った今日は、ひそかに期待している休日だ。
部活を終えた俺は真っ直ぐにあの場所に向かった。畑道に入ると、今度は逆にゆっくりと自転車を走らせながら、少女の姿を探す。
――いた。
いつかのサツマイモ畑の中に、太陽の光を一身に浴びて光輝いた鮮やかな金髪が見えてきた。前と同じ農作業向けの完全装備姿は、まさに土の精霊。
俺は自転車を止めて、クワを振るう少女の元に近づいた。
少女が気づいて振り返った。逃げられるかクワでいきなり襲われるかもしれないと思っていたけれどそんなことはなく、少し戸惑った様子で俺を見つめている。
えっと、まずは謝らないと。
けどここで重要な事実が発覚する。俺の英語力が皆無なことにっ。
くそ~。肝心なときにいないメガネめ。
置いてきた先輩を恨みつつ、俺は頭をフル回転する。ごめんなさい、は確か……アイム・ソーリーなんとやら……って、それだっ!
俺は少女の顔をじっと見つめて叫んだ。
「ひげそーりっ!」
「……え?」
少女は驚いた様子で自らの頬に手を当てた。突然の謝罪に戸惑っているようだ。
「えっと……とにかくその、ひげそりっ」
俺はがばっと頭を下げた。しばらくすると、少女がぽつりとつぶやいた。
「……どげざ」
――え?
「土下座」
確認するように顔を上げると、少女は申し訳なさそうにもう一度言った。
可愛い顔してなんたる鬼畜っ。いや、けどそこが萌えポイントなのかっ?
しかし土下座なんて簡単だろうと思ってたけれど、いざやろうとすると難易度高いぞ、これ。少女はそこまで怒っていたのか? いやそれとも土下座は日本の風習だと思い込んでいて、それを生で見たいだけなのか。
うっしゃ。ならば日本男児の土下座、見せたるぜっ。
俺はその場から五歩下がった。続いて膝を地面に付け、手をハの字に置く。そして頭を一気に地面一センチまでのところに下げた。
これぞジャパニーズ「DO・GE・ZA!」
しばらくそのままで停止する。しかし少女の反応はない。恐る恐る顔を上げると、少女は今にも泣きそうな顔をしていた。
やばい。泣かせるつもりはなかったのに。
俺は場を取り繕うように、明るい声を上げる。
「いや、土下座くらいなんてことないって。それより『ハラキリ』なんて言われたらどうしようかと思ったよ。こうやって、ずばーって」
あえて大げさな動作でおちゃらけながら実演してみせる。
最初は戸惑っていた様子の少女だったけれど、俺の馬鹿みたいな動きを見ているうちに、ようやく笑ってくれた。よしっ。なんかいい雰囲気だ。今がチャンス。
けど本当に縛っていいのだろうか。俺はもう一度確認するように、自分を指差しながら、なんとなく疑問系でたずねた。
「えっと、あのさ……、あーほーみぃたい?」
「うん」
今度は即答された。『UN』の意味は分からないけれど、うなずいたんだから、たぶんOKなんだろう。当然といった表情で俺を見つめてくる。
――これはもう、やるっきゃないよな?
俺はかばんの中に忍ばせておいた、ロープを取り出した。
きつい状態に保つには縛り方が重要だ。
少女の肩に手をかけてロープを背中に回す。
「きゃぁぁぁっぁぁ!!」
ロープを結び終わらないうちに、少女のエルボーが見事に俺のあごに決まって――意識が飛んだ。
「あぁ先輩。先輩のありがたさが身にしみました。すみません。くそメガネと言ってしまいまして」
畑のど真ん中で気を失っていた俺を見つけてくれたのは、偶然通りかかった先輩だった。メガネ様もこの畑道のショートカットを使っているようだった。あのまま寝ていたら凍死するところだった。
「先輩。なんで失敗したんっすかねー。俺、ちゃんと勉強して亀甲縛りもマスターしたんっすけどねー」
自販機のあるところまで移動して暖かいココアを飲みながら、俺は先輩に話しかけた。
少女の笑顔を見て、もしかすると気に入られているのかなって思ってたけど、それは全部俺の勘違いで、やっぱり嫌われているのか。
「……まったく、君は本当にアホですね。縛ろうとしたら、誰だって抵抗するに決まっているじゃないですか。野田君改めアホ君」
「だからアホアホ言わないでくださいっす」
まぁ。言われてみると確かに、やほおの翻訳にも「保ってください」で、ロープで縛れとは書いていなかったけどさ。
「でも先輩が言った通りに抱きしめたって殴られたじゃないっすか。少女の英語を聞き間違えたんじゃないっすか。もしくは俺と少女がいい関係だったのを嫉妬して、うそを吹き込んだとか」
「なっ、失礼ですね君は。私の英語力を疑うというのですか?」
先輩がメガネをくいっと押し上げた。その迫力に、俺はちょっとたじろいだ。
「いや……すみません。変なこと言って」
俺は先輩に頭を下げた。つい八つ当たりしてしまい自己嫌悪に陥る。
「……まぁいいです。辞書を使ってでも彼女の言葉を理解しようとしたのは良い心がけです。その調子で頑張っていれば上手くいくんじゃないですか?」
先輩はそっけなく言うと、自転車に乗ってそのまま帰ってしまった。まだ怒ってるのかな。あとでメガネ拭きでもプレゼントしておこう。
俺はココアを飲みながら考えた。
頑張れと言われても、必死に英語を理解しようとした結果ロープ縛りになって失敗したのだが。
「……ん? 待てよ」
さっきの少女「土下座」って言ってなかったっけ。ただ単語として知っていただけかもしれないけど、日本で暮らしているわけだし、多少は日本語を話せるかもしれない。先輩や俺が和訳を間違えたのは見た目に騙されていて、実は少女が話していた言葉が英語じゃなくて日本語だったのからじゃないだろうか。
「よしっ」
なんか希望が出てきた。
俺は決心した。発想の転換。バリバリの日本語で最高の愛を語ってやるぜ。
☆☆☆
「……はぁぁ」
テルミはこたつに寝そべって宿題をしながら、物思いにふけっていた。
今日、偶然にもまた会いたいと思っていた野田とおると会えた。
いきなりひげそり呼ばわりされたときは、自分の顔にヒゲが生えているのではないかと驚いてさすってしまった。家に帰ってからも鏡で確認したけれど大丈夫だった。中学生の乙女に「ひげ」は酷い言葉だった。
でも野田とおるが一心に頭を下げているのを見て、ひげそりというのは謝罪を意味しているのかなと思った。けどそんな日本語聞いたことないし……と頭の中をフル回転させて、テルミは一つの過程を生みだした。
ひげそりとはテルミが分からない言語、つまり英語なんだと。
テルミの容姿に合わせて英語を使ったのだろうか。それとも野田とおるは日本語より英語の方が得意な人なのだろうか。そういえば以前会ったとき上手く意思疎通できなかったのも、もしかするとテルミではなく、野田とおるの日本語の方に問題があったのかもしれない。
(……だったら私も英語で謝らないと)
英語は苦手だが、これでも現役中学生である。多少の英語は知っている。
謝らなくちゃいけないのは私も一緒。
そういうつもりで、テルミは慣れない言葉を口にした。
「Together」
大切なことなので二度言った。
そうしたら、野田とおるは土下座した。
きっと抱きついたことをそれだけ反省していたんだろう、とテルミは思った。
そんなことより、そのときテルミの目の前にあったのは、日本の伝統芸能「土下座」である。まるで戦国武将の仕草を見ているような綺麗な形に、テルミは感動のあまり涙腺が崩壊しそうになった。
すると今度は「ハラキリ」をしてきた。先程の土下座とは一転しておどけた動作で、テルミを笑わせようとしているのだということが伝わってきた。実際大げさな仕草はアホみたいで、テルミは笑ってしまった。
そうしたら、野田とおるが尋ねてきた。
「アホみたい?」
今度は意味がちゃんと分かったので、素直にうなずいた。祖母は関西系のため「アホ」はテルミにとってもなじみのある日本語だった。
そしたら、いきなりロープで縛られそうになった。
あれはハグなんてものではなかった。明らかに襲う目をしていた。日本人は草食男児だって言われているのに、なんて肉食系。
驚いたテルミは思わず野田とおるを殴り倒して、その場から逃げだしてしまった。
けれど家に帰って冷静に考えてみると、少し印象が変わっていた。
そもそも戦国大名に男色が多かったのも、きっと昔の人は女性だけでは満足できなかったからじゃないだろうか。そういう意味では、遠目にしか見ることのできないクラスメイトの男子なんかより、野田とおるはずっとテルミ好みの男性像なのかもしれない。
けれど、ロープで縛られるのは、テルミにはアダルト過ぎる。
彼としっかりコミュニケーションをとるためには、Togetherみたいに、もっと英語の勉強をしなくちゃいけない。
ロープで縛られないためにも、テルミは緑茶をすすりながら辞書を開いた。
翌週の日曜日。テルミはあえて収穫を終えたサツマイモ畑を耕していた。先々週に初めて彼と会って、先週も会えた。ならば今日も、という思いがあった。
午後三時の少し前。静かな畑道に自転車の音が聞こえ、テルミは期待しながら音の方に目をやった。
けれど自転車は野田とおると一緒にいたメガネの人で、野田とおるの姿は見えない。
メガネの人は自転車から降りると、携帯をしまってこっちに向かってくる。テルミがちらちらと野田とおるの姿を探していると、メガネの人が軽くメガネの淵を掴んで言った。
「ふふふ。彼はいませんよ。私がうその場所を教えましたから」
「え?」
「彼を警戒しているのかと思いましたが、その様子ですと、むしろ彼が来るのを期待しているみたいですね。残念でした」
メガネの人がテルミの身体を上から下まで舐めるように見つめる。
「さて。せっかく二人きりになったのですし、少し話でもしましょうか。私は知っているんですよ。貴女が最初に言った言葉は、時間を尋ねているのではない、と」
何を言っているのかよく分からない。
「初めて出会ったとき、我々はサツマイモを弄っていた。その状況を踏まえれば考えるまでもないのです」
メガネの人はくいっとメガネを押し上げて断言した。
「ずばり、あなたは、『What imo is it now?』 と言っていたのですね。和訳すると『今、何芋ですか?』。つまり正答は、サツマイモです!」
「えーと……」
単語は聞き取れても、意味が分からない。これが慣用句というものなのだろうか。日本語ってやっぱり難しい。
「おっと、私としたことが。『サツマイモ』は日本語でしたね。模範解答は、スイートポテトにしなくてはなりませんね。はっはっは」
ただメガネの人から、悪意のような怖さをテルミは感じ取っていた。
「さて、それでは少々お付き合いしてもらいますよ」
メガネの人が一歩テルミに近づく。
テルミはクワを構えた。野田とおるに抱きつかれたとき撃退したように、いざとなったら柄の一突きを決めるつもりだった。
「ふっ。甘いですね」
だが必殺の一撃はあっさりとメガネの人に弾かれて、クワを奪われてしまった。
「そ、そんな……っ」
「農作業五段の私に、その程度の腕で勝てると思ったのですか」
メガネの人がじりじりと差を詰めてくる。
「へ、変態っ」
「はっはっは。貴女のような外国の方が変態と言うとは『HENTAI』は全世界共通語なのですね」
全然堪えた様子もなく、メガネの人がテルミの腕を取る。
テルミは怖くて、声も出せない。
「……ようやく来たようですね。無駄話が長引きました」
メガネの人がぽつりとつぶやいた。
☆☆☆
「……やっぱいないよなぁ」
俺は近所にある唯一のコンビニの駐輪場に自転車を止めた。
ここで俺のことを待っている、と少女が先輩に言ったらしいのだが、彼女の姿は見えない。
「そもそもおかしい話だったんだよなぁ」
なぜ彼女が先輩にそんなことを伝えるのか。ただ先輩が俺をコンビニに行かせたかっただけなんじゃないだろうか。
しばらく待っていると先輩からメールが来た。もし肉まん買ってこいって内容だったら、メガネにぶつけてやる。
だがメールの内容はそれ以上に衝撃的なものだった。
『ふっふっふ。君は本当にアホですね。君のいない隙に、少女は貰い受けました(◎。◎)y-゜゜』
騙された!
変態メガネめっ。俺がいない隙に英語堪能なことを活かして、彼女を落とすつもりだな。
俺は慌てて自転車に飛び乗り、いつものサツマイモ畑に向かった。
――いたっ。
そこには今にも少女に襲いかからんとするメガネの姿。
「先輩っ!」
「おや。ヒーローの登場ですか。ですが農業五段の私に勝てるとでも?」
「くぅぅ。さすがメガネ。マジぱねぇっす!」
けれどここで逃げたら男がすたる。
俺は思い切って、クワを構えた先輩にけりをかました。
「ぐぁぁっ」
すると先輩は意外なほどあっさりと蹴り飛ばされ、畑に転がった。
「野田とおる!」
解放された少女が、今なら抱きついても許されそうなほどウルウルとした瞳で俺を見つめた。
そのあまりにまぶしい視線を直視できずに顔を逸らすと、あぜ道に倒れている先輩が目で訴えてきた。
(……野田君、今です)
と。
そうか! 俺と少女の仲を取り持つため、先輩はピエロになってくれたのだ。
ナイスメガネっ。これを逃す手はない。
俺はカバンの中に手を入れた。少女がびくっと怯えた様子を見せたけれど、取り出したのがロープではなく手紙だと分かってほっとしたようだ。
俺は深呼吸すると、一週間かけて書いた愛の詞を語った。
「春はあけぼの恋心。諸行無常の胸の音。君の瞳にいとおかし。竹取の翁といふものよりも美しい」
「……竹取の翁はおじいさんのことで、かぐや姫のことじゃありませんよ」
メガネのツッコミは無視。
「つれづれになるような夫婦関係を、ゆく河の流れのように絶えずして、百人の過客とともに、いずれの御時にか……」
少女の反応がない。
辞書を引きながら必死に考えた台詞だけに、馬鹿みたいって思われたらショックで立ち直れないかもしれない。本当に大丈夫なのか心配になってきた。
☆☆☆
(どうしよう……?)
テルミは焦っていた。
変態メガネに襲われそうになったところを野田とおるが助けてくれた。
すごく嬉しかった。
問題はその後である。野田とおるはテルミを抱きしめてくれるのではなく、手紙を取り出して朗読を始めたのだ。一瞬、またロープが出てくるのかと警戒したけど、ここでの問題はそれではなく、彼が何を話しているのか全く分からないことだった。なんとなく戦国時代っぽい言葉遣いだけど、どこか違う。やっぱり英語なのだろうか。
反応がないので、野田とおるは戸惑っている様子だった。このままだといけない。
(言葉が分からなければ態度で……)
テルミはそう考えた。
一週間、ちゃんと勉強した。こういうとき、どう英語で言えばいいのか知っている。
恥ずかしいけど勇気を振り絞って、テルミは言った。
「Ah, hold me tight!」
語っていた野田とおるが固まってしまった。
伝わらなかったのだろうか。テルミはもう一度、はっきりと区切って発音した。
「ア・ホ・み・た・い!」
彼の顔色が変わった。
「……そんなっ。必死に考えたのに、馬鹿ならまだしも『アホみたい』なんて、あんまりだぁぁぁ~っ!」
野田とおるは自転車を置いて走り去ってしまった。
あわてて彼のあとを追って、テルミは叫んだ。
「違う! アホみたい、じゃなくて……」
「……じゃなくて?」
彼が立ち止まって振り返る。
テルミは、恥ずかしいけど勇気を振り絞って、今度は日本語で言った。
「その……抱い……て」
彼の顔色が変わった。
「……そんなっ。『die』って。『死ね』なんて、あんまりだぁぁぁ~っ!」
あわててテルミは叫んだ。
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて、なんてあんまりだぁぁぁ~っ!」
「だから――」
畑を疾走する野田とおるの後を追いながら、やっぱり日本語って難しい、とテルミは思った。
読了ありがとうございました。
今後は短編の方も、ちょくちょく投稿できたらなと思います。