信じる者は、救われるのか?
時折、抗生物質が効かない“耐性菌”が話題に上る事があります。抗生物質が効かないって事は退治し難いはずな訳で、「それはとんでもないモンスターなのじゃないだろうか?」とか、「感染したらどうしよう? いや、それどころか、繁殖が抑えられなくて、世の中に蔓延しちゃったらどうしよう?」とか、思わず不安になっちゃったりするのも無理はないですが、実は“耐性菌”ってそれほど怖くないそうなのです。
いえ、もちろん、免疫力の弱い人なんかにとっては大問題なんですがね。
どうしてなのか?
“耐性菌”には、当然の話ですが、抗生物質に対抗する為の仕組みがあります。となると、これまた当然の話ですが、その仕組みを作る為の情報が遺伝子にある事になります。すると、遺伝子をコピーする時の情報量が多くなり、それだけ増殖に時間がかかってしまう。結果的に繁殖速度が遅くなり、他の菌類に負けてしまう。だから、普通はあまり繁殖しないものらしいのです。抗生物質なんかで、他の菌類の増殖が抑えられている状況下以外では、だから脅威ではないのですね。
多細胞生物の進化に慣れている僕らの感覚で判断すると、この耐性菌の進化の話は少しばかり違和感を覚えるかもしれません。多細胞生物では、こんな事はありませんから。ずんずんと情報量を増やして、それで進化をし続けている(もっとも、純粋な遺伝子の情報量は、進化しても増えていないどころか、減ってすらいるケースもあるのですが)。
これがどうしてなのかというと、多細胞生物と違い、細菌は捕食したり防御したりをそれほどしないので、結果的に“いかに迅速に増えるか”が生き残りの鍵を握る事になるからだそうです。つまり、素早く環境に適応し、できるだけ情報を軽量化し、数を増やしたモノが生き残りに勝利するのですね(その為に、“性”を介さず、遺伝情報を融通し合うという事も細菌たちはやっています)。
つまり、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という訳です。
ここでキリスト教について知っている人なら、この「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉が旧約聖書からの引用だと直ぐに気が付くだろうと思います。
もちろん僕は、意図的にキリスト教という宗教のこの言葉を使いました。先に僕は、細菌類の生き残り戦略の特性を“いかに迅速に増えるか”だと書きましたが、これは布教によって信者を獲得する宗教の戦略にも通じる部分があるのではないかと思っているのです。
(一応断っておきますが、僕は宗教を馬鹿にするつもりはありません。“生き残り”という意味では、細菌達の方が多細胞生物よりも勝っているという考え方もありますし、それは上等や下等などという概念で捉えられるものではないでしょう。単なる“タイプ”の差に過ぎません)
農業牧畜技術が発達する以前、人口問題は人間社会にとって今以上に深刻でした。人口増を賄うだけの食糧を生産できなかったからです。宗教制度には、実は機能的な意味がある場合が少なくないのですが、性を禁忌とする制度は、実は人口問題解決の為の人口抑制効果があったのではないかという仮説があります(仏教などの出家も、その効果を果たしていたのではないか、と考えている人がいます)。
ところが、ある時に現れたキリスト教は人口抑制から、人口増に転じ、子孫をより多く残す事を促したのです。その為に、中絶や同性愛を禁止したと思われます(同性愛は実は人口抑制の為のものとしても、存在した可能性があるのです)。
もちろん、その背景には農業牧畜技術の発達があったのではないかとも考えられるのですが、いずれにしろ、これは非常に効果的に作用したようです。
子孫をより増やせば、他の宗教よりも数が多くなるのは当然の話で、つまりは勢力拡大に貢献したと思われるのですね。
意外に思われるかもしれませんが、世界三大宗教の一つ、イスラム教は性に関しては寛容です。節度を持って楽しめと説いている。だから、イスラム教にもこの考えは当て嵌まります。昨今、イスラム教信者の数が急増しているのですが、その主な要因は、イスラム教の信者達が子を多く生んでいるからだそうです。世界三大宗教の残りの一つ、仏教については、性に限らず禁欲的ですが、世界規模で観るのなら信者の割合は数パーセントと、実はそんなに多くはありません。
ただし、時代によって、宗教の性に関する禁忌は、その態度を大きく変えるのだそうです。教義としては性を否定していても、食糧難の時代でしか実質的な意味がない場合も多いのだとか。仏教でも宗派によっては、妻帯を積極的に認めていますしね。
ですが、宗教を信じる人達が、その機能的な意味をどれだけ理解しているのかはかなり怪しいと思います。ほとんどの人は、ただ信じているだけでしょう。実際、愚かとしか思えない行動を宗教団体が執ってしまうケースは多々観られます。集団自殺とか毒ガステロとか。ある人に言わせれば、宗教は麻薬だそうで。一度信じると思考停止に陥ってしまう危険性がある点は、認めなければいけないでしょう。だから、宗教は失敗する場合もあるのです。なんと、社会を破滅に追いやってしまう事すらもあるのですよ。例えば、こんな顕著な事例があります。
南東アフリカに暮らしていたコーサ人は、イギリスの植民地支配とそれに伴う戦争、そして牛の肺病という不幸に陥った状況下で、ある信じられない預言に縋りました。
「全ての呪術を捨て、全ての牛を殺して穀物を焼き払えば新しい人々が現れ、健康な牛を連れて来て、穀物倉は新鮮な穀物であふれかえる。そして、イギリス人達は本来生まれた場所へ帰っていく」
こんな話、普通は信じないでしょう。実際、それを信じなかったコーサ人も多くいたらしいのですが、預言が実現しない原因が預言通りに行動しなかった所為だという考えが生まれてしまった事で、その冷静な人達の判断は押し潰されてしまったのでした。そして、食糧を手に入れる為という目的もあったのかもしれませんが、牛以外の家畜も殺され、当然、預言が現実になる事など起きず、莫大な数の餓死者を出し、社会は甚大な被害を受けてしまったのです。
もちろん、これは特殊なケースかもしれませんが、これほどではなくても、根拠不明の信心の事例は数多く観られるのです。イスラム教では、豚を食べる事を禁じていますが、文化的な意味合いを別に考えれば、今という時代において、それに何かしら機能的な意味があるようには思えません(かつては、それによって豚による疫病の媒介を防いでいた可能性があると言っている人がいます)。
もしも、宗教制度の背景には、機能的な意味があると理解しているのであれば、このような事は起こらないように思うのです。ただし、疑問が生じない訳でもないのですが。
何故なら、そのように人々がただ単に“信じているだけ”なのに、どうしてなのか、機能的に弊害のある制度は無意味化する傾向にあるように思えるからです。
キリスト教でもイスラム教でも、実は金融経済には否定的でした。働かずに金を貸すだけで利益を得るのは、卑しい行為だとされていたようなのです(シェイクスピアの「ヴェニスの商人」で金貸しのユダヤ人が悪者として描かれている背景には、このような宗教的な意味があるようです)。ところが、今はキリスト教国家であるアメリカが金融資本立国を行っている事からも分かる通り、その教義には従っていません。イスラム教圏には、イスラム銀行という金利を取らない金融機関が存在しますが、金利を取らなくても、本来の教義の意味からするのなら認めるべきではないように思えます。
もっとも、機能的な重要性を考えるのなら、金融機関の存在を認めない訳にはいかない点は簡単に理解できますが。
他にも本来、仏教において「あの世」なんて重要視されていなかったのに、日本では葬式こそがメインになってしまっていますし、神道においての神は自然そのものなのに、深刻な自然破壊をする工業化を、神社を参詣する人達が推進しようとしていたり(因みに、この最たる例は原子力発電所の推進ではないかと思われます。神道の立場から、原発に反対している人もいるのですよ)と、似たような事例は多々観られるのです。
これは、どうしてなのでしょう?
また、その一方で、例えばアメリカでは、“同性愛や中絶の禁止”が選挙の争点になったりと、頑なに守ろうとしている教義も多い。更に、多少意味合いは違ってきますが、難解な内容が受け入れ易く簡略化されるケースも散見されます。
つまり、“機能的に劣った内容は無意味化し、繁栄に役立つ内容は強化され、無害なものはそのまま残り易い”と、どうやらそのような事が言えるように思えるのです。先にも述べた通り、社会的機能性を宗教の信者達がほとんど意識していないのだとすれば、どうしてこのような事が起こってしまうのでしょうか?
先に「細菌の生存戦略は、布教によって勢力を拡大する宗教にも通じる部分がある」と書きましたが、僕はこの原因を、生物の進化、生き残りのロジック、遺伝的アルゴリズムの発想と同じではないかと考えています。それなら、例え本人達が意識していなくても、自然と生き残りに有利な性質が強化され、劣った性質は淘汰される事で退化し、どちらでもないものは残り続ける可能性が大きくなる、という風になるはずです。
ただし、宗教ばかりを俎上に載せていますが、これは宗教だけの話ではないでしょう。いえ、そもそも何をもって“宗教”だとすれば良いのか、それが分かりません。宗教団体を名乗っていなくても、宗教的なものは数多くあります。
随分と前の話ですが、中国で“文化大革命”というものが起こりました。その際には、毛沢東語録には全ての真理が書かれているのだから、それ以外は勉強する必要がないと主張されていました。少し前の情報なので、今は違うかもしれませんが、韓国では日本についての悪口ならば、何故か誤報であっても許容されてしまう傾向にあるそうです(因みに検索をかけて翻訳サイトで調べたら、日本についての誤報に怒っている人達がいましたから、少なくとも全ての韓国人に当て嵌まる話ではないようです)。日本でもこれは同じで、韓国の悪口ならば例えデマでも構わないという風潮が、一部の日本人にはあります(実際、嘘でも本当でも気にしないと、明言している人がいました)。また、同じく日本での話ですが、土地の値段は下がらないという“土地神話”がかつて信じられ、それがバブル経済を引き起こし、社会に深刻な被害をもたらした、なんて事もありました。
つまり、『思考麻痺に陥り、疑問を抱かず、批判を拒絶、或いは批判者を排除するという状態に集団が陥ってしまう事』が、宗教に限らず人間には観られるのです。
これには宗教を信じるのと同じ様な人間の性質が関わっていると考えて良いのかもしれません。「“宗教”は人間が獲得した生物的な性質の一つで、それは集団行動を執る場合に非常に役に立つ」と主張している人達がいますが、これは正しいように僕には思えます。
“信心”によって人間社会に起こる現象は非常に強力です。ただし、今まで事例で紹介して来た通り、それは常に人間社会にとってプラスに働く訳ではありません。そして更に付け加えるのなら、役に立つ場合でも、それは「長期的に役立つのか、それとも短期的なのか」という問題がありますし、また、「果たして誰にとって役に立つのか?」という問題もあるのです。
はい。
つまり、その“信心”は、一部の権力者に利用されているだけかもしれないし、短期間ではメリットがあるように思えても、長期間ではデメリットになるものなのかもしれないのですね。
もちろん、冷静に考えればその問題点に気付けるかもしれませんが、『思考麻痺に陥り、疑問を抱かず、批判を拒絶、或いは批判者を排除するという状態に集団が陥ってしまう』という“信心”のその特性を考えるのなら、一度集団がそれに嵌ってしまったなら、それを覆すのは至難の技だと考えた方が良いでしょう。
恐らくは「言論の自由」は、そのような状態に集団を陥らせないようにする為にもある制度ではないかと思います。批判者の声に耳を傾けさせ、冷静に考えるように皆を促す効果があるのではないでしょうか。批判者を許容することで、集団全体が間違った方向に進むのを止めてくれる。
だから、もし「言論の自由」を否定したりしたら……。
(――例えば、仮に、こんな会社があったと想定してみよう)
その会社はとあるSNSを運営していた。一部には有料のコンテンツもあったが、基本的には無料で、その会社は利益のほとんどを広告ビジネスによって得ていた。そして、その会社のSNSは大成功を収めており、膨大な利用者を獲得していたのだった。一度、マーケティングを席巻すれば、かなり優位な立場に立てる。もちろん、増え続ける莫大な情報に対応する為の効率的なデータベースの構築と利用や個人情報の扱い犯罪対策など、問題は山積していたが、それでも経営は安泰であるように思われた。
ところが、この会社の社員達には、労働に対してある不満があったのだった。一応断っておくと、給料は中の上くらいだし、開発中などは多少は残業も多くなるが常識的な範囲内で、パワハラやセクハラの類も少ない。つまり、この会社は世間一般で言われているようないわゆる“ブラック企業”ではない。この会社の社員達の不満は、世間一般的なものとは少しばかり違っていた。
この会社の社員達はSNSを運営している会社ならではの特殊な業務“クレームへの対応”に、大きな不満を持っていたのだ。それがとても過酷だったのである。
SNSというシステムの特性上、利用者からの様々な苦情が寄せられるのは必然で、中には単なる嫌がらせに過ぎないものや、我侭としか思えないものも多い。また、ある利用者の要望通りにすると他の利用者には不便になったりと「あちらを立てればこちらが立たず」な問題もある。直接電話を受ける者や、メールを受ける者だけでなく、社員達はそういった利用者への対応に常に追われていたのだ。
社員達はクレーム対応に辟易し切ってしまい、その精神的苦痛に耐え切れず、会社を辞める者や精神を病んでしまう者まで現れてしまった。そしてそんな時に、ある会社の重役の一人(仮にその重役をAと呼ぶ事にしよう)がこんな事を言い始めたのだ。
「利用者の苦情に応えるのは止めよう。社員達の精神的苦痛を和らげる方が重要だ。無料でSNSを利用させてもらいながら、その立場を忘れ、傲慢に接して来る者達の意見など真っ当に対応する必要はない」
当然、社員達の多くはその考えに賛成し、Aの事を支持した。しかし、他の重役達はAの意見には否定的だった。このままでは、Aの考えを実行する事はできない。それでAはこんな解決策を提示したのだ。
「社員達で株を買って、発言権を得よう。そうすれば私の考えを会社経営に反映できるぞ」
この会社は社員持ち株制を採用していた。給与の一部は、株によって支払われ続けているので、元から社員達はある一定割合の株を保持している。だから、更に株を買い増せば、充分に発言権を得るところまで株の割合を高める事ができそうだった。それで社員達は株を買い始めたのだ。それに反対する社員達もいる事はいた。しかし、少数派のその意見は省みられる事なく、押し潰されてしまった。結果として、順調に社員達は株の保有割合を高める事に成功したのだが、そこで少しばかり想定外の出来事が起こった。この社内の動きが外に漏れてしまい、株価が上がるだろうと予想した投機家達が、この会社の株を買い始めたのだ。それで、株価は急激に上がり始めた。
社員達は、多少は戸惑ったが基本的にはこの動きを歓迎した。何故ならそれは、自分達の保有している株の価値が上がる事を意味していたからだ。つまりは、その事で、彼らの資産は増えていたのである。
やがて、社員達の株保有率がある一定以上に高まると、Aの意見を無視する事はできなくなり、会社は「利用者の苦情を無視する」というAの提案を認めた。そうして社員達は“利用者のクレーム対応”から解放されたのだった。
ところが、それからしばらくが過ぎて、その会社のSNSに異変が起こり始めた。利用者の数が激減し始めたのだ。しかし、それは考えてみれば当たり前の事だった。一体、「無価値な苦情」と「適確なアドバイス」の差は何処にあるのだろう? いや、こう問いかけ直すべきかもしれない。
「寄せられるメッセージが適確なアドバイスかどうかは、どのように判断すれば良いのだろう?」
例え、辛辣な表現であったとしても適確なアドバイスである場合はあるだろうし、丁寧な表現であったとしても取るに足らない下らない内容の場合もある。悪い点を指摘されると、人間はそれを“攻撃”だと判断してしまいがちだが、そうして感情に任せて行動していると、有用なメッセージを見落としてしまいかねないのだ。
仮に批判であったとしても、的を得ているそれは“協力”なのだ。
感情だけで受け入れるべき苦情を選別し、適切なメッセージを見つける努力を怠れば、当然、成長はできない。成長とは自らを否定する事ではじめて為し得るものだからだ。その会社のSNSが競争力を失っていったのも必然だった。
そして、その会社にとっても、社員達にとっても悪い事はまだあった。利用者の激減が発表されると、会社の株価が下がり始めたのだ。しかも急激に。
元々、この会社の株価が上がっていたのは、単なる社内の事情だった。会社の業績が評価された訳でも何でもない。つまり、その株価の上昇はバブルのようなものだったのだ。だからこのような切っ掛けがあれば、簡単に下落する。
結果的にその会社の業績は大きく下がり、株の資産も減り、社員達の多くは、大損害を被ったのだった。
果たして、これは防げなかったのだろうか?
反対意見にも真摯に耳を傾け、慎重に判断をしたなら、こんな結果には至らなかったように思う。
利用者を獲得する事が重要なSNSで、利用者からの意見を無視するのは愚かな行為だと分かるだろうし、業績以外の要因で株価が上がっても、その信頼性は薄い。キャピタル・ゲインを得る目的で投機家達が株を買うのは、ポーカーをやっているようなもので、いつ売れば利益が得られるのか彼らは互いにタイミングを読み合い、虎視眈々とその機会を狙っている。安定性があるはずがない。
社員達が自分達にとって一見は都合が良いように思えるだけの安易な“信心”に陥らなければ、このような点には簡単に気付けたはずだった。
……この大損害の責任を取る為かどうかは分からないが、今回の騒ぎの切っ掛けをつくった張本人である重役のAは後に会社を辞めた。ただし、意外にも彼は莫大な利益を得ていたのだが。
理由は簡単。
彼はこれを仕掛ける前の段階で、会社の株を大量に買っておいたのだ。そして、充分に高くなったと判断した段階で、それを売り、利益を得ていたのである。
もちろん、Aは群集心理を巧みに突く事を思い付き、今回の計画を立てて実行したのだ。しかも社外の投機家達がここまで参加してくれるとは思っていなかったので、予想していたよりも遥かに大きな利益を得ていた。
充分な資産を築き、安定した贅沢な生活を送る事に成功をしたAは、人々の愚かな“信心”を笑った。
お蔭で楽な生活が送れると……。
――さて。
近代科学が登場する以前は、頭の中だけで考えた思弁的な考えが、“正しい”と世の中に認められる事が多々ありました。
帰納的思考や反証主義といった考えが世の中に受け入れられていく過程でそれが変わり、きちんと正しいのか間違っているのか検証しない限りは、それを信じるべきではない、となって来たのですが、しかし、それでも、人間の悲しい性質というべきか、反論を拒絶した上で成立している狭い考えに人間が囚われてしまうケースが散見されます。
“自分達とは違う考えを持っている”
ただそれだけの理由で、その誰かを排除したりすれば、その正しさを確かめる事ができません。人間社会が歴史上で何度も繰り返して来た類の失敗を、また繰り返す事になってしまいます。
その為にも「言論の自由」の意味をよりよく理解し、安易な思想に偏らず、広く意見を受け入れる態度をどうか保ち続けてください。
参考文献:
NTT出版 宗教を生み出す本能 ニコラス・ウェイド
文春新書 池上彰の宗教がわかれば世界が見える 池上彰
NHKBOOKS 原始仏教 中村元
光文社新書 傷はぜったい消毒するな 夏井睦
関連した歌を作りました↓
http://www.nicovideo.jp/watch/sm26002183
2015年4月現在。株価が好調ですが、その背景には公的資金の投入があるのですよね。まぁ、色々と不安です。