ずっと昔から
少女らしい可愛い彩の部屋で、二人の少女が対峙している。
歳が似通った二人の会話は、年相応のガールズトークなどというものではなく、一人が拳銃を向け一人が瞠目するという殺伐としたものだった。
拳銃を構える少女小羽田の視線が、椅子に座り目を見開くクイーンという仮称を使う者へ注がれる。
確認の意味もかねて、小羽田は口を開いた。
「……出来ますよね」
「……どうかしらね」
答えをぼかすクイーンの表情こそが真実を物語っている。
小羽田は確信した。やはり、クイーンならば理想郷を創ることが出来るのだと。
無論、クイーンがそれを望まないのには何かしらの理由があるのだろう。
だが、可能ならば小羽田にとってクイーンの事情など関係がなかった。
なぜなら、理想郷を創ることこそが自分を裏切って行った両親への復讐となるからだ。
異能者と無能者はわかり合えない。そう嘯いていた連中への当てつけに。
「……嘘は止めてくださいね? 私には嘘が通用しません」
「同類なら通用するんじゃない? あなたは異能で裏を取ろうとするでしょうが、私があなたに干渉出来ないようにあなたは私に干渉することが出来ない。そうでしょ?」
クイーンの言葉は事実だった。
だからこそ、小羽田は炎のように操られずここでクイーンに拳銃を向けている。
小羽田はクイーンの問いに頷きつつ会話を続けた。
「その通りです。……でも、あなたはあくまで異能が強大なだけ。あなた自身に戦闘能力は皆無です。私と同じように」
「……それもそうね。だから、交渉の余地があると?」
「ええ。私はただあなたの上書きで世界中の愚か者達の思考を理想的に書き換えて欲しいだけです。コンピューターのOSを書き換えるようにね。……そうすれば、理想郷は完成する」
「……それは本当に理想郷なの? 狭間心が志した――」
一瞬、惜しむような顔を見せた小羽田だが、はっきりと言い放った。
「理想郷ですよ。……弁えることが出来る者にはちゃんとした思考を与える。……それ以外はクイーンの力で思考や思想を書き換える。これで誰も傷つかない理想的な世界が構築されます」
「……エグイことするのね」
「あなたほどじゃありません」
クイーンが浮かべた皮肉気な笑みに、小羽田も皮肉で返す。
すると、クイーンは困り果てたような顔になり、両手を上げた。
「はっきり答えましょう。出来るけど、出来ない。今の人間の思考回路じゃ、私がどれだけ設定しようとすぐに争いを始めようとする。……人間ってのは根本的に戦いを求める者だから」
「知ってますよ。ですから……その都度修正すればいいんです。バグは必ず発生するもの。後手には回りますが、理想郷を維持することは可能なはず」
小羽田とて、一度クイーンの力を使っただけで終わりだとは思っていない。
問題が発生しないなどということは有り得ないのだ。ならば、問題が現れた時、適切に対処すればいいだけのこと。
だが、そんな小羽田の考えをクイーンは一蹴する。まだお前はわかっていない、と。
「……そんなことをしても、反発する者が必ず現れる。それが人間っていうものよ。とても弱くてとても賢い。……油断が命取りになる……恐ろしい生き物。……それにね、まず――」
神崎直樹が黙っていない。
クイーンの言葉に、今度は小羽田が目を見開く番だった。
わかっていたことではある。
直樹の性格上、そんな仮初の理想郷が創られた時点で、敵対することは確定しているようなものだった。
そんなモノは、心と炎、仲間達が目指した理想郷ではないと。
しかし、直樹達の理想論では遅いのだ。
全てが手遅れになってしまう。いずれ、戦争が始まるのはわかり切っていることだ。
ならば、多少強引でも理想郷を創り上げてしまえばいい。
倫理的な問題はあるかもしれない。だが、少なくとも無益な争いで人が死ぬことはない。
神崎直樹に恨まれようと、それこそが世界を救済する唯一の方法である。
少なくとも、小羽田はそう信じていた。
「……だとしても、人が死ぬよりはマシでしょう。あなたの大好きな直樹も死にません。……それで、十分じゃないですか」
小羽田の言葉にしかし、クイーンは首を振って否定する。
「それは間違い。私は、直樹に精神的にも幸せになって欲しいの」
「……今更おかしくないですか? そんなこと言うなんて。……ただ、あなた自身が理想郷を嫌っているだけじゃ」
「そうね。否定しない。……私は理想郷が嫌い」
世界を変えるほどの力がありながら、クイーンの動く動機は個人的だった。
眉根を寄せた小羽田が女王を責め立てる。
「……そんな個人的嗜好で世界をどうこうされてたまりますか」
「あなたに言われたくない。思考回路が似てるからわかるよ。……大方、世界に対する復讐とかそんなものでしょ」
「……」
図星を突かれ、小羽田が押し黙る。
クイーンの暗黒郷を創る理由が個人的なら、小羽田の理想郷を創るという目的もまた個人的だった。
二人はどうしようもなく似ていた。境遇こそ違い、身に宿る力の大小も違うが、似た絶望を味わっている。
「個人的目的で動くあなたに、どうこう言われる筋合いはない。……理想郷を創れと命じられる言われもない」
「……私が主導権を握ってるはずですが!」
小羽田が改めてクイーンに狙いをつける。
サイトは精確にクイーンの眉間を狙っている。この距離で、大した動きも出来ない素人であるクイーン相手ならば、如何に銃の扱いに不慣れな小羽田と言えど、脳漿をぶちまけることは可能だった。
「本当に? だってあなた最初に言ったじゃない」
「何を!?」
クイーンの言う意図がわからず、小羽田が声を荒げる。
しかし、次の言葉で苦虫を噛み潰したような顔になった。
「歯止めである私を殺したら、世界が終わるって」
「…………っ!!」
今度のセリフも、真実だった。
小羽田がクイーンを殺せば、世界の歯止めが効かなくなる。
クイーンの死を皮切りに戦争が始まるのは自明だった。
それほど世界は切迫している。自分と違う存在を殺したくてうずうずしている。
「……それにね、理想郷を創らないのにはもう一つ理由があるの」
「…………何です? それは」
もはや主導権を喪ったに等しい小羽田に出来るのは、話を聞くことだけだった。
再び対等の立場となった相手に、クイーンが優しく微笑みかける。
「そこら辺を含めて、ゆっくりお話しましょうか。ね、おバカさん」
「おまえどこすんでんの?」
「…………どこだろう」
幼い自分の問いに女の子は自問するように答えた。
客観的に見つめると、とても生意気に聞こえる。
幼い自分はこんなにも生意気だったのかと、傍観者は失笑した。
「何だよ、迷子か? ならお家さがさねーとだめじゃないか」
「……え? いいよ。……どうせ、誰もいないし」
少女は全てを諦観したように呟く。幼い男の子が何言ってんだ、と少女に怒った。
「お家に帰らないとダメって言われなかったのかよ」
「……そんなこと言う人わたしにはいないよ。……わたしはひとりぼっちだから。お家だけじゃない。……セカイ、からも……ひとりぼっち」
夕日が輝き出して、ブランコの鎖が反射する。
暁の如く黄昏る少女に、生意気な子どもはチョップを加えた。
「ていっ」
「きゃ!」
不満げに見上げる少女に、この後自分が言った言葉を傍観者は思い出す。
ああ、確か臭いセリフを言ったな、と。
「バカじゃねーのおまえ。……セカイからひとりぼっちってありえねーだろ」
「……っ。あなたが思っている以上にセカイってのはめちゃくちゃなの! 子どもならわからないでしょうけどね!!」
腕を組んでそっぽを向く少女。
そろそろ来るな……と傍観者は身構える。
自分で言った言葉は当人の想像以上に気恥ずかしいものだ。
「は? おまえだって子どもじゃねーか」
「……出た、出た。……わたしはすごいイノウシャなの。……だから、あなたの言うことは通じません。セカイから、ひとりぼっちなの……うっ!?」
男の子は、女の子の肩を掴んで揺すった。ブランコがぎこぎこ音を立てる。
男の子の瞳は心なしか、その瞳は輝いて見えた。
「マジか……マジかよ! おまえイノウシャなのか! 空飛んだりレーザービーム出したり出来んのか!?」
「……そっ、それはっ、ムリッ!!」
「何で!? 何でだよ!? レーザー出してよ! 見てみたいって!」
「……あなたバカ!? イノウシャだよ!? みんなが大っ嫌いなイノウシャだよ!?」
少女は訳がわからない、と困惑した様子で叫ぶ。
当然の戸惑いだ。この時、まだまだ世間では異能者は未知の存在で、正体不明の化け物だったからだ。
だがしかし、幼い自分はおまえこそ訳がわからない、と小生意気な顔で言う。
「は? みんな大っ嫌いなわけねーだろ。みんなあこがれてるよ。少なくともおれはあこがれてる。だってレーザー出してぇもん」
「…………は? そんな都合のいいもんじゃ」
「ふつうが出来ないことをかんたんにやるのがイノウシャだろ? なに言ってんの? イノウシャのくせにバカだな」
「…………っ!! あなたの方がバカでしょ!! わたしはイノウシャで、ひとりぼっちなの!」
当時はなぜ女の子が怒るのか見当もつかなかったが、今の傍観している自分ならわかる。
今の自分はかなりうざい。たぶん、実際に目の前に来たならぶん殴ってしまう自信がある。
だが、次の瞬間傍観者からそんな気概は失せていた。
代わりに、身を蹂躙するような羞恥に襲われて、悶えている。
「……よくわかんねーけど、ひとりぼっちなのか? なら、おれがトモダチに……いや家族になってやるよ!!」
「は……へ?」
「だから家族になってやるって! それならもうひとりぼっちじゃないだろ!? おれって頭いい!!」
くっそお前は最高に頭が悪いぞ!
傍観者は全力で突っ込む。
友達で止めておけばまだマシだったものを、なぜ家族まで飛躍したのか。
幼い自分の思考に、傍観者はついて行けない。
子どもというのは大人が思うよりもアホであり……純粋だ。
「家族……? わたしを大事にしてくれる……?」
少女はしかし、間抜けな子どもの提案に言葉もないようだった。
呆れているわけではなく、感激している。
自分が焦がれて手に入れられなかったモノを、男の子が呈示してくれているかのように。
「もちろん大事にするに決まってんだろ! なにせ家族だからな! でもトモダチも大事にするぞ! 久瑠実は気付いたらいないけど、ちゃんと見つけてやるし。智雄とはよくくだらないことするしな! それにな……それに……」
夢中になってトモダチを列挙する子ども。
みんな大事にするそう言ってはいたが、実際成長した彼の周りにいる幼馴染は智雄と久瑠実だけである。
別におかしいことではない。普通のことだ。
昔の友達を大事にすることは難しい。良くも悪くも。人は変わるものだからだ。
しかし、あの時こそ傍観者は気づけなかったが、改めてみると女の子は男の子の話を全く聞いていない。
あれほど頑張って話しているのに。
過去のこととはいえ、何とも言えない複雑な心境になった。
「――これで全部! みんな、大事なおれのトモダチだ!」
ドヤ顔で言い切る自分。幸か不幸か、相手が一ミリも聞いてなかったことには気づいてない。
いや、結局未来で知るのか……? と時間という概念に想いを馳せそうになった傍観者の前で、すがるような瞳をした女の子が、男の子の服を掴んだ。降りたブランコが不規則に揺れる。
「ホント……ホントに……」
「どうしたんだよ?」
「ホントに……家族になってくれる?」
少女の瞳はどこまでも本気だった。
その手を離してしまったら、もう二度と出会えない。
そんな切迫とした瞳で、男の子に詰め寄る。
だが、男の子は……過去の自分はそんな女の子の様子を全く意に介さずにっこりと笑って答えた。
「もちろんだ! ……あ、でもお母さんとお父さんにそうだんしなきゃな。いいって言ってくれるかな」
困った様子の男の子に、少女が言う。
大丈夫。わたしが何とかするから。そう涙を拭きながら。
「ホントか!? ああ、おまえイノウシャだからな。かんたんか!」
「……ええ、かんたん。わたしに全部任せて」
「……そうか。じゃあ、いったん家に帰るぞ! ……ああっと」
女の子を先導するかに思えた男の子は、一度女の子に振り返り、手を伸ばした。
「じこしょうかいがまだだったな。おれは神崎直樹! すごいだろ? 神って名前に入ってるんだぜ!? おれさまは神様だ!」
「……へぇー。すごいのね」
「おう、おれにかんしんするのはいいけど、おまえも名前教えてくれよ」
「わたしの……名前……」
女の子は逡巡するかのように口元に手を当て、ぶつぶつと独り言を言い始める。
「わたし……元の名前は嫌い。だから……そう……日本風に。……そう……わたしは……ザザッ」
突然ノイズのようなものが奔り、名前は聞こえなかった。
しかし、傍観者の困惑も他所に、男の子と女の子の会話は続いていく。
そこではたと、傍観者である神崎直樹は思い知る。
この記憶は何だ、と。この夢は自分の本当の過去なのか。
だとすれば齟齬が発生しているのでは? 歯車がかみ合っていないのでは?
自分にこのような記憶が本当に存在していたのか?
どうなってる――?
直樹は男の子と女の子に問いかけたが、答えは返って来なかった。
「……今のは……何だ……」
己に問いかけながら、直樹は目を覚ました。
身体中が痛くない。もう傷は完治し、いつでも行動可能な状態にある。
しかし、行動不能だった。腕を動かそうとすると、鎖のような音が鳴る。
はっとして目線を移すと、両手首に手錠がかけられていることに気付いた。
直樹は壁に拘束されている。何者かによって。
「な――」
「……起きた?」
ふすまが開き、直樹を拘束した張本人が現れる。
見知らぬ者でも何でもない。直樹の良く知る人物だった。
「心……」
「……あれだけ急いていたのに、ぐっすりと眠ったのね。……スタングレネードを至近距離で喰らったなら仕方ないけど」
他人事のように呟いた心は、左手の包帯を解き始める。
恐らくグロテスクな状態となっていただろう左手は、もう完全に再生していた。
「……っ!? 小羽田が……解放してくれ! 助けないと……」
「ダメ。あなたは私の質問に答えてくれてない」
答える心の瞳は焦燥の念すら感じさせる。
実際彼女は焦っていた。自分が何者なのか。胸を渦巻くこの想いが何なのか。
その答えを早急に得たがっている。
「そんなこと言ってる場合じゃ……っ!?」
「いいから言うことを聞けっ!!」
ドスッ!! という音が和室に響く。
心が袖から取り出したナイフが、壁に突き刺さった。
直樹の左頬を掠り、真っ赤な血が、頬を伝い床に垂れ落ちる。
「ぐっ……」
痛みではなく焦りから、直樹が声を漏らす。
心と同じように、直樹も焦っていた。大事なモノが喪われてしまう。そんな予感から。
しかし、既に大事なモノを喪ってしまった少女に、少年の願いを聞き届ける余裕などあるはずもない。
心はテーブルの上に置いてある拷問用のスタンロッドを手に取った。
「私は答えを得るためなら……どんな手段も厭わない。冷酷な暗殺者だから。たっぷり頭に残っている知識がその証拠」
バチバチと雷撃を鳴らす棒を見て、直樹が息を呑む。
もはや躊躇っている暇はない。一気にノエルと炎の異能を発動させ、風の力で強化された爆炎でこの部屋ごと手錠を吹き飛ばす――。
(くそっ! ダメだ! そんなことしても何も解決出来ない!!)
脱出する方法がその身にありながら、結局直樹は実行出来なかった。
ただ、その選択は正解に近い。もし、ここで無理やり脱すれば、一時的に無力化したとしても心はすぐさま追いかけてくるだろう。
それに、他の敵に伝わってしまう可能性がある。一見、回り道に見えても、口を開きどうにか説得するしかなかった。
だが、直樹が説得を試みる前に、スタンロッドを持つ心の右手が近づいてくる。
「……答えてくれないのなら、あなたの心をへし折る。幸か不幸か、あなたには再生異能があるのだから。どれだけ傷付けても再生するなら、何の躊躇いもなく非情に徹することが出来る」
ロッドが左頬に近づく。
傷口に塩を塗るが如く、雷撃を浴びせるつもりだろう。
どんな痛みになるのか直樹は想像もつかなかった。
そもそも、想像する暇もない。視線は一点に向けられていた。
「私のこの気持ちが何であれ、あなたが重要なことはわかっている。……だから安心して。殺しはしない。ただずっと……永遠に近い痛みを与え続けるだけ。同情したりしない。ハハ……ハハハハッ!」
ハハハ、と乾いた笑いを漏らす心。
直樹は視線の先にあるその顔に、困り果てたような、呆れたような……苦笑するような笑顔を向けた。
「なら何で……泣いてるんだよ」
「な……泣いてなんか……いない……」
心の笑い声が止まる。代わりに聞こえる嗚咽。
震えを我慢しているような……そんな声。
心は泣いていた。涙を堪えようとも、彼女の心は確実に。
「嘘つけ。……自分に出来ないことを無理にやろうとするな」
「無理なんかじゃない。私の中にある知識では……」
まだ強がりをみせる心に直樹は首を横に振る。
そんなことはないと。
「知識は所詮知識だ。知識があるからやったことがあるってわけじゃない。……俺の知るお前は確かに人を殺したことがある。……けど、関係ない人間は絶対に巻き込まないようにしてた」
「……ホントに?」
すがるような瞳で、直樹を見上げる心。目じりには涙が溜まっていた。
直樹はデジャブを感じていた。あの夢と同じだ。
――なら、過去の自分と同じように、助けを求める少女に手を差し伸べるべきだろう。
「ホントだ。嘘をついてどうするんだ? 俺にとって心は大切な友人であり、仲間であり、それと……」
「……それと?」
直樹が急に口を閉ざし、心が涙声で尋ねる。
が、彼は気恥ずかしさからか、顔を赤らめ声を発せないでいる。
しばらく黙った後、決心したかのように口を開いた。
「……家族だ」
「家族……」
想定外の返答に心が固まる。
その反応を見た直樹が慌てて取り繕うとする。
「ああ、待て! 変な意味じゃないぞ! それくらい大事という意味でだな……い、いや……それもおかしいか……? あぁ、くっそどうすりゃいい……」
あたふたと言い訳する直樹。
彼は本質的にへタレであり、こういう事態に不慣れなのだ。
自分の誤解を生む発言に直樹が困っていると、心が涙を指で拭きながら呟いた。
「どうも……しなくていい」
「心……?」
そう呟く彼女の顔から焦燥と喪失感は消えている。
もう焦る必要はない。急いて取り戻す必要もない。
こんなバカバカしいことを言ってくれる男が傍にいるのなら、遠からず取り戻せるだろう。
大切な思い出を……自分という記憶を。
いや……むしろ忘却したままでも生きていけるだろう。
だというのに、自分は何を急いでいたのか。
無理矢理人づてで自分を確立しても、絶対に心が満たされることなどないというのに。
「……もうわかった。急がなくていいってことが」
「そう……か……?」
「ええ。私はゆっくり時間をかけて思い出していく。私が誰で、あなたが私にとっての何なのか。……だから」
銃声と金属音が二度響く。
心が太ももに差してあった理想郷を引き抜き、直樹の両手を拘束する手錠を撃ち抜いたのだ。
銃で撃つ必要はないだろ、とは突っ込まない。直樹にそんな余裕はない。
どれだけ自分が気絶していたかは考えたくもない。今はただ小羽田の無事を案じるのみだ。
「悪い……心。今は――」
「ええ。行っていい。……待ってるから」
「ああ、行ってくる!」
直樹は心の部屋を飛び出し、久瑠実の異能と彩香の異能を併用しながら駆け出した。
部屋に残された心は、ロッドを捨て、右手に持つ理想郷に目を落とし独りごちる。
「家族……か」
クイーンにもういないモノと伝えられた存在。
自分にとって大事なモノであるはずなのに、どうしようにもなく他人事。
しかし……今家族と言ってくれた男は他人事ではない。
恐らくはプロポーズ的な意味ではないのだろう。
何となく心は察せる。今のは素で出た心を安心させるためのことばだ。
だとしても――心は微笑する。
「悪くない……」
少なくとも今はそれでいい。
その関係が変化するのは、記憶が取り戻されてからだ。
だから今は帰りを待つ。
そう思った心だったが、どうも落ち着かなくなってきた。
「…………」
気づくと手には携帯を持っている。
恐らくはこれが癖――。暗殺者として行動する時の。
どうやら、自分は待つのが苦手らしい。
「……クイーン」
かつての敵であり、一時的な味方であり、再び敵になるかもしれない少女の名前を呟いて、心は家を後にした。




