調査
街中の監視カメラはあらゆる場所を監視している。それは、多くの人が歩く大通りであったり、人通りの少ない裏路地でも目を光らせていた。
もちろん、三人が歩くこの商店街も例外ではない。
直樹、炎、心の三人は仲良く道を歩いていた。ただし、この仲良くというのは客観的観測に基づく。
直樹は炎と心に挟まれるようにして歩いている。周囲から見れば——特に男——羨ましい限りであった。
だが、それはどうも男だけの評価ではなかったらしい。遠くから覗いている少女も同じ感想であった。
(うわー何アレ。僕モテモテですよって?)
髪がぼさぼさ、目には隈があるスエット姿の少女は電柱に張り付きながら、呪詛のように爆発しろ、とつぶやきつつ、尾行を始めた。
直樹はブルッと身体を震わせた。炎と心が不思議がる。
「どうしたの? また誰かに見られてる感じかな?」
「そうなんだよ。一体何なんだ……」
クラスの誰かだったりするのだろうか。しかし、直樹が見渡してもそれらしき人影は見えない。
「……自意識過剰」
心がぼそっと呟いた。だが、手元には携帯があり、画面を見ずに操作している。監視ネットワークにハッキングしていた。
「……そんなことはないんだけど……」
直樹は苦笑する。声は控えめだった。やはりまだ心との会話は心もとない。
「まあ、安心してよ。ストーカーさんが来ても追い払っちゃうから」
炎が直樹を元気付ける。その隙に心は携帯を覗いた。
パッパッと目まぐるしく画面を切り替える。捜索対象は有馬だ。
だが、心の目に有馬を捉える事は出来ない。
(ん? 今のは……)
知り合いに似た人物を見つけた気がしたが、直樹の視線がこちらへと向いた為、心は画面を閉じらざるを得なかった。
「何?」
「いや……いじるの速いなって」
直樹は心が携帯を高速でいじくっているのが気になって見たのだ。画面をタッチする今時の携帯であるが、直樹にはどうも扱い辛い。
「心ちゃん速いよね。手先器用なの?」
「……そうでもない。慣れているだけ」
心はそれだけしか言わず、携帯をポケットの中へ仕舞った。
「ホント? 本当は色々作れるんじゃない? 例えば……プラモデルとか」
炎は後で訊こうと思っていた事を無理やりぶち込んだ。
「……プラモデル?」
心は直樹越しに炎を見つめる。
「うん。前買ってたよね。私は作るの苦手なんだ」
たまにパーツ燃やしちゃったりしてさーと炎は屈託に笑う。
直樹は笑い事じゃないと思ったが、それは心も同じだったようだ。
「それは笑えない。パーツを燃やしてしまったら、注文しなければならない」
どうも笑い事ではないと思う部分が直樹とは違うようだが。
「んーそうなんだけど、燃やしたショックでやる気なくなっちゃうんだよね」
「それは勿体ない。キット代、マーカー、紙やすり……全部無駄になってしまう」
「え? いや私はただキットを組み立てるだけだけど……」
炎はきょとんとした様子で言ったが、それは心の何かを発火させた。
「なぜ? 少し手を加えるだけでとても見栄えが良くなるのに。ひと手間の工夫だけで見違えるほど変わるのに。勿体ない。勿体なさすぎる。他のキットと組み合わせて装備を組み合わせたり、オリジナルのカラーリングにして自分専用機を創り上げる事が出来るのに。そして、最終的には、オリジナルの唯一無二の機体を——」
「心ちゃん……本当に好きなんだね」
予想外の反応に炎は苦笑させられたが、同時に嬉しくもある。暗殺者という疑いのある心の別の一面を見る事が出来た。
それは直樹も同じだった。心はまだ怖い。しかし、今の直樹には、心が好きな事に熱中する一人の少女にしか見えなかった。
心ははっとした様子で二人を見比べる。その様子はどこか警戒しているようにも見えた。
「どうしたんだ?」
「……いや、何でもない……」
心は少し後悔するような表情になる。実際に彼女は後悔していた。まだ敵かどうかは分からない相手にこのような話をするとは。彼女が何度も考察していたように、心はこの二人の前にいると油断してしまうのだった。
あえて親密なふりをするという方法も対人テクニックとして存在する。ターゲット相手に関係を築き上げ、油断した所を暗殺するのだ。しかし、心はその方法に自分が向いているとは思えなかったし、今まさにそれを自分がやられている可能性があるのだ。
そう思うと、心は気を許せないのだった。
「とりあえず、お茶にしよう」
心は手近な喫茶店へと指をさした。
「そうだね」
炎が頷いて、率先して店の中へと向かう。彼女は満面の笑顔だった。
直樹はそれを見て苦笑し、心はその笑顔でより一層警戒しようとして、気が抜ける。バカバカしくなったのだった。
「行こう」
「ええ……」
二人は炎に続いて店内へと入った。
三人は席に着くととりあえず飲み物を注文した。心はトイレに行くと言って席を立ったので、直樹と炎は向かい合って話している。
「でも、何で心ちゃんが……」
「考えるはやめよう。胃に悪いから……」
「胃? どうして?」
炎の反応に直樹は苦笑する。いや、確かに自分はストレスに弱すぎる気もするが。
「でも、確かにどうでもいいよね。同級生とお出かけする。深い理由なんてないもんね」
それがただの友達同士のお出かけだったのならば直樹も全面的に同意だった。しかし、今この席にいるのは異能殺しの容疑がある暗殺者と警察へ協力しているエージェント、その協力者である自分だ。
なかなかにカオスだった。スパイ映画かと突っ込みたくなる。どうせやるならば高校生ではなくおっさんと美女たちのやりとりにしてくれ。
などと直樹が考えていると、カランコロンと来客を知らせるベルが鳴った。入り口を見るとスエット姿の不健康そうな少女が息を切らせながら店内に入ってきたようだ。
その少女はふらり、ふらりと危うげな歩みでこちらへと近づいてくる。そして、直樹たちの席で止まった。
「……?」
直樹は炎の知り合いかと思い炎を見たが、同じように炎も直樹を見ている。炎の知り合いではないと気付いた直樹は、恐る恐る訊ねた。
「何か……うっ!?」
直樹は素っ頓狂な悲鳴を上げる。少女が直樹へと顔を近づけたからだ。
「ちょ、ちょっと!」
炎も声を荒げたが、少女はじっと探るような視線で直樹を見続ける。
「……はぁ……。まじか……ここまで来てこれか……でも何かモザイクのような……」
直樹の顔から視線を外さずに、ぶつぶつと独り言を言っている。直樹は圧倒された。これは不審者さんではないのか、と。
「精神操作でもされてる……? いや、何でこんな一般人に……何?」
少女は鬱陶しそうに言った。炎が立ち上がり、その肩を引っ張ったからである。
「あなた顔近いよ!? 誰なの?」
「誰って別に……? え、これは……っ!?」
少女は何か言おうとして、固まった。今度は炎に視線が釘付けになっている。
何か怖がっているようにも見えた。
「……あなた……」
「質問への回答になってないよ! あなたは……」
「彩香?」
回答らしき言葉が別の場所から聞こえた。心がトイレから戻ってきている。
「……あ、コホン。やほー心」
彩香と呼ばれた少女は頭を振った後、心へ挨拶をする。
「何でここに!?」
心は焦っているようだった。普段大人しい彼女には珍しい。
「それは……いたたたっ!」
「ちょっと来て」
心は問答無用で彩香を掴んで、店の外に出る。
残された二人はきょとんとした様子で、二人の後ろ姿を見送った。
「痛い! 痛いって心!」
彩香が悲痛な叫びを上げる。だが、心は取り合わなかった。
「あなたが悪い。勝手に対象と接触するから……」
心は嘆息する。まさか彩香が家から出てくるとは思わなかった。
「ちぇっ。せっかく人がわざわざ足を運んだというのに。やはり心はSだね」
「……で? 結果は?」
心は本題に入ろうとする。有無を言わせぬ迫力に押されたのか彩香は素直に話し始めた。
「男の方は普通。たぶん異能者じゃないや。ただ少しモザイク……っ!?」
彩香が頭を抑えてよろめく。心は咄嗟に手を伸ばし、倒れそうになった彩香を支えた。
「どうしたの!?」
「いや、ちょっと立ちくらみが……」
「……。ならいいけど。で、モザイクって?」
彩香が首を傾げる。「モザイクって何?」
「何って……あなたが言ったんでしょう?」
心は眉を顰めた。
「は? やだなぁ心。私はそんな事言ってないじゃん」
心は息を呑んで鞄の中の拳銃へと手を伸ばし、周囲の様子を窺う。視線が何者かが隠れそうなゴミ箱や電柱の影、店の中など視線が移る。
そんな心の様子を彩香が訝しんだ。
「どうしたの、心。とうとうどうにかなっちゃった?」
心はどうにかなったのはあなたの方、と思った。今確かに彩香はモザイクと言った。彩香は精神操作を受けている人間を鑑別出来る、数少ない人間の一人でもある。彩香が精神干渉を受けている人間を指す時、モザイクが入るという。
つまり神崎直樹が何らかの精神干渉を受けている人間だと彩香は判断したのだ。そして、それを心に言おうとした瞬間、彩香自身が何者かに精神干渉を受け、記憶を消されたのだろう。
(どこ……誰が……?)
だが、いくら心が索敵しても何も見つからない。しばらく警戒していたが、心は捜索を諦めた。
念のため、自分の心を強く保つ。それが精神干渉に対しての唯一の対抗手段だった。
「変な心。話続けるよ?」
「続けて」
彩香の状態を確認する為に、心は彼女の話に耳を傾ける。
「ま、そういう訳で、男は問題じゃない。正直、女の方がやばい」
「女……草壁炎の事? 具体的に」
心には草壁炎が危険だとは思えなかったが、念のために訊ねる。
「無理。イメージが強烈過ぎてね。とにかく、やばいとしか言えないわ」
彩香の回答は曖昧だった。心は深く追求することを止めた。まだ後遺症が残っているかもしれない。
「……じゃあ、これ」
心は鞄から鍵を取り出して彩香に渡す。彩香は受け取りながら質問する。
「何これ?」
「家の鍵。住所は……」
「ああ、いいよ。自分で調べるから。調査という名のデート中だったんでしょ? あの男のどこに魅力があるか分からないわー」
心には彩香が何を言っているのか分からない。今回は調査以外の何物でもないし、デートは三人でするものではない。
まだ何か影響を受けているのかもしれないと本気で不安になった心をよそに、彩香は心の家へと足を動かす。
「色々勝手に使わせてもらうからねー」
「……変な事はしないで。いざという時はサポートを頼むかもしれない」
了解! と言って彩香は去って行った。
テーブルにいる二人が共通して疑問に思っていたことは、先程のスウェット少女が何者なのかという事だった。
少なくとも心の知り合いだということは二人の様子を見て分かったが、そんな人間がなぜ直樹をガン見していたのか理解出来てはいない。
「一体何だったんだ……」
「全く、いきなり人に接近するなんて失礼にもほどがあるよ!」
ぷんぷんと炎は怒っている。確かに驚いたが、そこまで怒るような事だろうか。
まぁ思案してもしょうがない。男である直樹に女である炎の気持ちは分からない。
「でも、心ちゃんのお友達……か。どんな人なんだろう?」
炎はうーんと唸る。下手に考え事をして、また発火してしまわないか直樹が心配している事には気づいてはいない。
「炎、あまり考え事には向いてないんだからさ、考えるのは……」
ほら、何か食べようと、直樹はメニュー表を差し出して、話題を逸らそうとした。だが。
「……直樹君! 流石にそれは失礼というものだよっ!」
炎が声を上げる。炎にもプライドはある。直樹の言い方は炎のプライドを傷つけた。
「い、いや……そんな気はなかったんだけど……」
「私は確かに考えるのは苦手だよっ! 数字を見ると頭が痛くなるし、理系の人間は自分とは違う別の生き物だとも思ってるよ! でもね、いくら何でも言ってもいい事と悪い事があるんだよ! チョコパフェ一つ!!」
炎は大声でオーダーする。店員がビクッとなった。
「直樹君が私をそんな風に思っていたなんてがっかりだよ! 私の事は正義に燃えるスーパーエージェントだと思っていると信じていたのに!」
もう君のことは信じられないよっ! と炎は不満を隠さず腕を組んで、そっぽを向く。
直樹は困り果てた。というか今の言葉はまずい。心に聞かれてないだろうな……。
「どうしたの? 痴話喧嘩?」
直樹の心臓が跳ね上がる。彩香との話が終わった心が席へと戻ってきた。
「痴話喧嘩なんて……この人は彼氏なんかじゃないよっ!」
炎はお冠のままだ。普段の彼女だったなら笑って流した事も、無礼な事の後に失礼な事があったのだ。自称スーパーエージェントでも流せない事はある。
それに、直樹に言われたという事も癇に障った。
「別れそうな雰囲気を見せて、結局よりを戻すカップルが言いそうな言葉……。大丈夫そうね」
大丈夫も何も直樹と炎は別に付き合っていないので、何一つ問題はない。強いて言うならば、炎と直樹が仲違いする可能性はあるが、炎の性格ならば、チョコパフェを食べ終わった後に謝れば問題なさそうである。
心は炎の隣に座る。今思えば、喫茶店に入ってからちゃんと心は席についていなかった。
心はコーヒーを注文して、二人に謝罪する。「ごめんなさい、彩香が……」
炎は運ばれてきたパフェを頬張りながら「へぶにえいお……ひまは……はむっ……直樹君の方が失礼だもの!」と言って、直樹へとスプーンを向けた。
直樹の心中は穏やかではない。自分が怒られるのは構わないが、炎はちょっとした拍子に何か言ってしまうのではないかという不安が心の中に渦巻いている。
(く、くそ……腹痛い……)
穏やかではないのは直樹の心だけではなかったようだ。腹から嫌な音が聞こえてくる。
「……にしても、二人は本当に仲良いわね。出会ったのはいつごろ? 転校してきたのは私と同じだったはず」
「仲良くなんかないよっ! 転校してきた前の日、けいさ……」
「わーっ! わああ! ケイさんって人の家でばったり会ってね!!」
直樹が慌てて誤魔化す。心が何事? と言わんばかりの表情をする。炎も最初は同じ表情だったがすぐに直樹に合わせた。
「そ、そう! ケイさん! あの人の家でね!」
「Kさん? イニシャルかしら……。その人は知り合いなの?」
「え……えーっと」
直樹が言葉に詰まる。くそ、どうすればいい? と直樹が悩んでいると炎が余計な事を言った。
「そ、そう。合気道の達人で、道場を開いていてね! そこの道場でたまたま……」
(ば……何でそんな事言うんだよ!)
直樹の腹がきりきり音が鳴る。そこまで明確化してしまったら誤魔化せなくなる!
「それは奇遇。私も合気道をやっていて、今度から通うつもり。中尻町9丁目にある……慶田道場でしょ?」
直樹の腹痛が止んだ。まさか本当にあるとは! 達也さんに頼めば何とかなるかもしれない。
炎の顔もぱっと明るくなる。二人は一筋の、希望という名の光を掴んだ気がした。
「そ、そう! もしよければいっしょに通おうよ!」
「お、おう! 楽しいよな合気道!」
二人は引きつった笑顔で心を勧誘する。何とかなると思っていた。心が口を開くまでは。
「まぁ……嘘だけど」
「「え?」」
間の抜けた声が二つ、店内に響く。固まった二人を見て心はフッと笑った。
「中尻町は八丁目までしかないし、慶田道場なんてものはこの街にはない。調べれば分かると思うけど」
「……」「……冗談だよね? 心ちゃん……」
直樹は押し黙り、炎はすがるような瞳を心へ向ける。
直樹は自分の馬鹿さ加減にあきれ果てた。そんな都合のいい事あるわけないのだが、人間、何とかなりそうになると、そのようなバカバカしい事も信じてしまうのだ。
「……なぜ、私に嘘をついたの? 私に言えない事があるの?」
二人は完全に沈黙する。直樹はもう隠し通せないと確信していた。
そもそも無理だったのだ。秘密裏に事を進めるなど。
「神崎……直樹。あなたは、私が転校する前に一度会っているはず……」
ドクン、という心臓の鼓動音を直樹は聞いた。自分の心音だ。嫌な汗が背中を流れ落ちる。
「隣街の繁華街近く、ガス爆発による事故……という事になっている場所で」
心は核心に斬り込んできた。直樹が覚えていたという事は心も覚えていても不思議ではない。
「あなたは……あなた達二人は……異能省の」
ピリリリリッ! 二つの着信音が鳴り響く。
心の携帯と炎の携帯が同時に鳴ったのだ。
心の画面には角谷彩香という名前。炎の画面には新垣達也という名前。
「……出れば?」「こ、心ちゃんこそ……」
携帯を二人は取ったが、電話には出ずお互い見つめ合ったままだ。
「……店内での通話は他のお客さんの迷惑になる。私は外で電話してくる」
「じゃあ……私はトイレかな……」
「今日は……とても有意義だった、いろいろと。お代はここに置いていく」
心はコーヒー代をテーブルに置いて店内から出て行く。
炎はしばし呆然としたが、すぐにトイレへと向かった。
「……マジかよ。どうなっちまうんだ……」
一人残された直樹が思わず呟いた。
『やほー心。例の殺し屋が出てきたよ』
「どこに!?」
『マンションの駐車場。詳しい場所は転送するよ。……何かあったの?』
「何かって何!?」
心は携帯に向かって怒鳴りながら、転送されたマップに従って移動する。全力で走っていた。がちゃがちゃと揺れる荷物が鬱陶しい。
『……いつもの心らしくないと思ってさ。普段のあなたは、淡々と冷静に事を運ぶのに、今の心は少し……怒ってる?』
「怒ってなんかない!」
心は携帯に向かって叫んだ。路地に入り人通りは少なくなったが、まだちらほらと人がいる。
『じゃあ、悲しんでるんだ。心、私に嘘は通用しないよ……。まあ、装備品は心のラジコンで運んでおいたから。いざという時は援護するよ』
そう言って彩香は通話を切った。心は仲間の言葉を受けて自問自答する。
(私が怒っている? 悲しんでいる? まさか!)
有り得ない! 心は怒鳴った。何を怒り、何を悲しむというのか。
直樹と炎がエージェントだった事? それを即座に見抜けなかった自分に対して?
どうして自分がそのような反応をせねばならない。今までと同じだ。
自分の目標の為、冷静に一切の迷いも躊躇もなく敵を暗殺する。それだけのはずだ。
(落ち着け……落ち着くのよ、狭間心)
一流の暗殺者は、一切の情をみせず、機械のように人を殺す。
人を殺す機械となれ、狭間心。師の教えを思い出せ……。
だが、思い出せたのは自分の師が、自分を庇って死んだ時の最期の言葉だけだった。
――お前は暗殺者には向いていない……お前は……っ!!
「くっ……!」
様々な感情に振り回されながら、心が携帯のマップを見ると、目標地点とは別にマーキングされている場所があった。そこには心の装備が置いてあるはずだ。
ターゲットがいる場所から150mほど離れた場所にボロボロのアパートがあった。取り壊し予定の無人のアパートだ。
ベランダからターゲットのいる駐車場がよく狙える。狙撃地点としては最適すぎる場所だ。
アパートに辿り着いた心は階段を駆け上がり、マーキングがしてある部屋へと入った。
舞台役者が行うような早着替えをして、黒ずくめの仕事着へと姿を変えた後、畳の上に置いてあるライフルを取った。
とはいえ特別な装備ではない。交番にも置いてあるようなコッキング式のライフルである。
先日、心が交番から丁重にお借りした品物だ。恐らく被害届は出ていないだろう。
ベランダから出てスナイパーライフルを構える。カチッカチッと零点補正をした。
丁度150mの場所を選んだのは彩香の配慮だろう。いちいち距離を測定する必要がない。
問題は風である。風が吹くと着弾地点がずれる恐れがあった。
(あれが……有馬)
スコープ越しにターゲットを確認する。駐車場の真ん中で仁王立ちをしている男。
一体何を考えているのか心には分からなかった。あれはまるで狙撃してくれと言わんばかりだ。
(風……風さえなければ!)
アンチサイキックライフルを喪ったのが悔やまれる。あれの威力は風を無視出来た。50口径の強力な対異能ライフルは念力使いの襲撃によりホテルの一室と運命を共にしている。
心としては風が止むのを待つか、着弾点がずれるのを承知で撃つかの二択だった。
動くな、そこで止まっていて。心はターゲットに願う。風よ、お願い、止んで。そよ風に頼み込む。
そして、奇跡が起きた。風が止んだのだ。
(今……!)
心の指がトリガーにかかる。だが、引き金が引かれる事はなかった。
有馬が、心のいる部屋に向けて、車を放り投げたからだ。
「……! デバイス……起動!」
心が呪文のように言葉を唱える。すると心の身体に変化が生じた。
まるで早送りでもされているかのように心の移動スピードが上がったのだ。
心はコッキングライフルを諦めて、車が到達する前にベランダから飛び降りた。
二十階からの飛び降りである。運が良くて重傷、悪ければ即死という状況にも関わらず、心は一切の躊躇をみせなかった。
ガッ! と十階の手すりに掴まる。流石に地面に落ちる気はなかったようだ。しかし、そこに至るまでの落下エネルギーは心の左肩へダメージを負わせた。
「くっ……。彩香!」
心はモニタリングしているであろう仲間の名を呼ぶ。有馬のいる駐車場で動きがあった。
有馬は次なる車を持ち上げていたが、中断させられた。どこからか現れた小さな円盤に銃撃を受けたからである。
心が組み立てていた飛行ドローンだった。フリスビー状の円盤の下部に小型のサブマシンガンが取り付けてある。
ガガガガッという銃声と、有馬の怒号が聞こえてきた。心はその間に地上へと降り立つ。
『心、戦闘用ドローンは全部破壊された。後はお願いね』
「了解」
心は応答すると、携帯を仕舞い、戦闘スーツの内側に仕舞っていた拳銃を取り出した。黄金色の拳銃、ユートピアだ。
有馬は他人を巻き込むという噂がある。急がなければ。心は再び魔法の言葉を唱えた。
「デバイス起動——」
心はビデオの早送りのように不自然な動きで、駐車場へと急いだ。