直樹と炎
直樹君。
そう呼ぼうとするが、声が出ない。
いや、違う。声に出さない。
何を話せばいいのかわからないのだ。
直樹との出会いは偶然と言う名の必然だったらしい。
ならこの事態も必然だったというのか。
(違うよね……たぶん)
恐らくは想定外の出来事。
狂った歯車は歯止めを壊し、まだ避けられたかもしれない災厄を引き起こした。
何が起こるかはわからない。タイミングは今しかないのかもしれない。
だというのに草壁炎は何一つ言えなかった。
想い人の隣で、ただその横顔を眺めているだけである。
その肝心の想い人はというと、不自然なくしゃみをして、後はただボーッと虚空を見つめている。
何か考え事をしている風の直樹の顔を横目で見ながら、炎もまた思考する。
これからどうなるのか。自分はどうすればいいのか。
もう大雑把な考えは纏まっている。
世界を救う鍵と銘打たれた狭間心……自身の親友を救いだし理想郷を創り上げる。
言葉にするのは簡単だ。だがそう簡単にいく、などとは楽観的な炎でさえ想っていない。
(きっと……たくさんの人が死ぬ。いや、もう死んでるよね)
炎は感知異能を持ち合わせていないが、それでも何となくわかる。
聞こえる。世界の壊れていく音が。
人の叫び声と、断末魔が。
その音が聞こえるたび、声が耳に届くたび、炎は悲しい気持ちになる。
そして、恐らくは直樹も。いや……それだけではない。
殺す側も殺される側も、悲しみや恐れを押し殺しているはずだ。
人は人が想像する以上に弱い。強がれば強がるほどその人間は弱いのだ。
ベテランや強者は、自分の弱さを弁えて戦っている。
弱さを直視し情けなくなることなく、如何にその弱さを強さに変えるか。
それが生存への近道であり、勝利への鍵だ。
(でもだからって弱気になってはダメ……難しいよね、戦いって)
直樹の横顔を炎は凝視する。
炎から見て、直樹はすごい人である。彼自身に宿った複写という器用貧乏な異能を用い見事心を救ってみせたばかりか数多くの敵を打ち負かし仲間を作っていった。
彼のみの実力ではないにしても十分すごい人間だ、と炎は想う。自分が直樹を慕っているということを抜きにして、だ。
ただ、そんな彼も自分が弱者だ、と思っている。
皮肉でも嫌味でもない。ただ優れた仲間がいただけだ。そう言うのが神崎直樹という人間である。
過ぎた謙遜は実力を見誤る元であるが、そこで直樹を否定すると今度は自分が謙遜になってしまうという矛盾が生じる。
ここは誰かをピンポイントで強弱を判定するのではなく、直樹達というチームで見るべきなのだ。
ひとりひとりに欠点はある。だが、それをカバーしてあまりある仲間達がいる。
ならそれでいいじゃないか。別に努力を怠っているわけではないのだから。
この二転三転するよくわからない思考こそ無駄である。そもそも炎は考えごとに向いていない。
つまりは、こんな意味不明なことを考えている暇があるならさっさと告白してしまうべきなのだ。
(だけど……うぅ、もやもやするなぁ)
炎は深く嘆息した。気晴らしに手元にある紅茶を一口飲んで石造りのテーブルにカップを置き、もやもやの原因を探る。
否、探る必要はない。答えはもう出ているのだから。
炎が直樹に告白しない理由。それは親友である心の存在だ。
遠慮をしているという訳ではない。以前の炎ならば他者に遠慮し告白しないつもりだったが、もうそんななよなよとしたことはしない。
当たって砕けろ。来たるべき時が来たら突貫するつもりだ。
だが心が不在の今は、時ではない気がするのだ。
時期尚早であり不公平。競争している訳ではないが抜け駆けのようで気が乗らない。
それにそんな不真面目なことをしている時間があるのかという気もする。
皆平静を装っているが内面では何とか自分を維持するのに精一杯なはずだ。
怖い、恐ろしいという不安。そんな感情と……自分自身と戦っている。
心が折れた瞬間、戦いに負けるのだ。戦に必要なのは鋼の心。どんな絶望にも抗うという屈強な精神。
ならば炎も戦いに向けて精神統一をするべきだろう。妙な恋愛事に浮かれている場合ではない。今はまだ。
全て終わって平和になった時に機会もあるだろう。例えそれがどんな結果に終わっても。
なら今はただ……好きな人と話をし、親友の身を案じることが今の自分のすべきことだ。
故に炎は口を開いた。さきほどとは違い自然に言葉が紡がれた。
「直樹君、何考えてるの?」
「え? いや……色々と」
ちょっと無神経過ぎたかと思わなくもない。
もしや、何かしらの葛藤をしていたのかもしれない。理想と現実のギャップを前にして思うところがあったのかも。
まずかったかなと焦る炎に直樹は心中を吐露し始めた。複雑な、様々な感情の色を感じさせる表情で。
「父さんと母さんになんて言えばいいんだろうな。もう誰も喪いたくないから、戦場の真っただ中に飛び込んできます……って感じかな。怒られるだろうな」
「怒られる……だけじゃすまないだろうね。私も浅木さんに別れの挨拶しなくちゃなぁ」
恐らくはさわりだけでも既に中立派が説明していることだろう。
立火市にいた全員――心を除く――はアミカブルに転移させられているから、何かしらの説明を住民は受けているはずだった。
達也と行動を共にしていたことがあり真実の一端を垣間見た浅木はともかく、直樹の父親と母親は全くの素人だ。
心中はとんでもないことになっているだろう。
あなた方の娘は実の娘ではなく、そして殺されました。あなた達の息子は異能者で、これからひとりの少女を救うため戦場に向かいます。
もし自分が逆の立場だったなら、間違いなく止めただろう。どんな手段を使っても。
例え徴兵されたとしても、徴兵などという愚行を行った国自体を破壊する勢いで止めにかかる。
これは例えであり、炎が実際にそうするかは別なのだが、それくらいの気持ちでいる。
本当は直樹にも行って欲しくないのだ。散々巻き込んでおいてなんだが、ここからは冗談抜きに死ぬかもしれない。
そして、親友も助けたい。その為には直樹の力が必要だということも炎は承知している。
だから、自分は我儘を言ってはダメなのだ。心を助けたいのならば直樹達と協力し日本に向かわなければならない。
それなのに炎は揺れてしまう。もし記憶を喪う前の心なら何と言ったのだろうか。
「みんなにも言わなきゃ。許してくれるかな?」
呟く直樹の顔はとても不安そうに見えた。
たぶん、直樹君は許されなくても行くよね。そういう人だから。炎には直樹の行動を簡単に予測出来た。
でもどうせならば大手を振って、みんなに見送られたい。そう思うのが人情だろう。
そんな彼に自分は何を言えばいいのだろうか。
心なら何と言うのだろうか。
(いや……心ちゃんは関係ないよ)
何かを伝えたいなら自分のことばで言わなければダメだ。
とはいえ、伝えるべきことはそう多くはない。直樹はもう覚悟しているし、自分も決心している。
だから、言うべきことはただ一言。その背中を押すことばだけだ。
「大丈夫。すぐには無理かもしれないけど、きっとわかってくれるよ」
当たり障りのない、ありふれたことば。時には無責任とも取れる発言だが、今の直樹にとって効果は絶大だった。
「そうだよな。まず言わなきゃ始まらない。……行ってくるよ、ありがとう炎!」
急に立ち上がった直樹はそのまま走り去ってしまう。恐らくは家族と友達の元に。
「言わなきゃ始まらない……か。うん、わかってる」
だからこそ心を救い出さなければ――。
炎もまた、胸に想いを秘めて歩き始めた。
全ての終わり……その先に――始まりがあると信じて。
ここを使ってくださいと、直樹が案内された一室は直樹のような庶民では考えられないほど豪華でまるでファンタジーの世界に入ってしまったのではないか、と誤解してしまいそうな造りだった。
いや、そんな風に思ってしまった理由はもう一つある。家族と友人の顔だ。
炎のことばに勇気づけられた直樹だったが、やはり家族と友人の衝撃に打ちのめされたかのような顔は堪えた。
達也が死んだと知った時の炎の顔とシャドウが死んだと知った水橋の顔にとてもよく似ていた。
だが、もう譲るつもりはない。誰に言われたでもなく、自分で歩むと決めた道だ。
例え親に懇願されたとしても、足を止めるつもりはない。
父さんと母さんは、親友である智雄はわかってくれただろうか。
「……どうしても行くのか?」
静かに確認してきたのは直樹の友人である智雄だ。直樹が力強く頷くとそうか、と言って彼は近づいてきた。
「……お前、俺が貸したゲームソフトとか本返してないだろ? 帰ってきたら返せよ?」
「ああ、もちろん。全部返す」
全部燃えてしまった、などとは言わない。
これは智雄なりの肯定だ。行ってもいいが死ぬんじゃねえぞという約束だ。
直樹が素直に頷いたのを見た智雄は直樹の手を握った後、
「じゃあ、またな」
と言って部屋を出て行った。残るのは直樹の家族だけだ。
本来の家族のカタチ。居もしないはずの妹という不純物が取り除かれた親子の在り方。
だというのに、父親も母親も、直樹自身もその顔は晴れていなかった。これは、直樹が戦場に赴くから、という理由だけではないだろう。
妹の、成美という娘の死にショックを受けている。例え偽物でも、多くの人の命を奪った女王だとしても、彼女は間違いなく神崎家の一員だった。
「絶対に行くのか? 何が何でも向かうのか? まだ高校生なのに」
悲痛な面持ちで口火を切ったのは直樹の父親だ。母親も口にこそ出さないが同じ疑問を思い浮かべているのだろう。
そんな両親を前にして、直樹は即答した。
もう決めている、と。高校生だから、などということは理由にならないと。少なくとも、神崎直樹という個人には。
狭間心という生き様を見て、もう年齢は関係ないなと直樹は想っていた。
他人にはその考えは当てはまらない。もし他の誰かがそんな理由を言った暁にはぶん殴ってでも止めるだろう。
自分が特別な存在だ、などとは直樹は考えたことなどなかったが、もしそれが特別だというならば喜んで特別になろう。
「……赤の他人を救いに、自分が死ぬかもしれないのに、親の言うことを聞かずに行くのか……」
「ああ。悪いと思ってる。でも、心は赤の他人じゃない。友達だ。仲間なんだよ」
いやもしかしたらもっと別の何かかもしれないが。
しかし、直樹はそのことは告げず、両親の反応をじっと待っていた。
本当はもっといろいろ説明しなければならない。でも、言葉が思い浮かばない。
昔の人間は何と言って戦場に出たのだろうか。生憎、直樹には物語の知識しかない。
そして、それを言うつもりもない。誰でもなく自分のことばを告げる。ただそれだけだった。
「考えが甘いって言われるかもしれないけど、死ぬつもりはないよ。そして、人を殺すつもりもない。あくまで俺として、神崎直樹として戦場を生き抜き、心を救って帰還する」
「…………そうか」
椅子に座っていた直樹の父親が立ち上がる。
智雄のようにゆっくりと近づいた父親は、突然息子を殴った。一切の躊躇なく。
それなりに場数を踏んでいる直樹も避けることも防ぐことも出来ず、そのまま床に崩れた。
「父さん……」
茫然と父親を呼ぶ直樹。理不尽過ぎる暴力だ。
そして、それは父親とて理解していた。
「不満があるなら帰って来てから怒れ。理不尽だと憤るなら、五体満足で友人を連れ帰って、俺のことをぶん殴れ」
恐らくは、父親として息子に出来る最後の抵抗だったのだろう。
子どもを戦地に行かせたくないという父親としての気持ちと、息子に選んだ道を歩んで欲しいという親としての願い。
後者が勝った。だから殴った。
情けなくも見える行為だったが、直樹はむしろ父親を誇らしく思っていた。
拳こそぶつけられたが、父は自分のことを愛している。自分のことを思い遣ってくれている。
係合する二つの気持ちを戦わせて、自分を送り出すことを選択してくれた。
ならば殴られようが笑っていられる。自信を持って、胸を張って戦場に参ることが出来る。
故に直樹はことばを紡いだ。ありがとう、と。
「ありがとう、父さん。母さん」
「……行くからには絶対に救え。そして、絶対に生きて帰れ」
「もちろん。どんな状況に陥っても、諦めたりしないよ」
父親と息子は握手を交わした。次に直樹は母親の手を握る。
ずっと黙っていた母親だったが、直樹はもうわかっていた。
母親も自分を愛してくれている。
自分は家族に恵まれていた。父も母も自分を愛し、その背中を押してくれている。
今まで色んな人間に出会ってきた。皆、個性豊かで人間とは色んな在り方があっていいんだと学べた。
いや、まだまだ学び足りない。
まだ自分は十七歳。まともに恋愛もしてないし、人生を謳歌してもいない。
だから、世界を守る。
今までたくさん大事なモノを貰ってきた。今度は俺が与える番だ。
「直樹……頑張ってね」
「……うん。行ってきます」
十分すぎるほど覚悟した少年は、軽く周囲を散歩するような気軽さで部屋を後にした。
その意志の前には、どんな悪意も敵わない。
そんな気を起こさせるほど、逞しい成長した姿だった。
「心……待ってろ。今すぐ行く」
場所は変わって、日本。
轟音に続く轟音。煌めく爆発。空に上がる黒煙。
かろうじで攻撃を回避した黒い影は、手に黄金色の輝きをまき散らしながら歯噛みした。
「くっ……敵が……多い!」
直樹達が準備している合間に心は追いつめられていた。
自分の記憶に纏わる、思い出の深い場所で。
「やられる訳には」
いかない――。
決心したように呟いた心は、長い間整備されていない道路を敵に向かって走って行った。