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解決編第五章 真相

 回想は終わった。最後の方は榊原もその回想に加わって説明していたが、『生還者』はただ黙って唇を噛み締めるしかなかった。

「……もう終わりです。あなた以外の生還者である彼女が、あなたが犯人だと証言しているんです。これ以上の証拠はありません」

 榊原ははっきり宣言した。

「この事件の犯人はあなたなんですよ」

 『生還者』は何も答えない。ただ、無言で目の前にいる二人を睨みつけているだけだ。自分が相手をしていたのがとんでもない怪物だった事を知り、『生還者』の額に汗が浮かんでいる。

 が、『生還者』はそれでもなお諦めようとしない。

「どうでしょうかね。まだ私が犯人だと決まったわけじゃない」

「これだけ明白な証拠があっても認めない、と?」

「何しろ、証言者が彼女だけですからね。しかも根拠が本物かどうかもわからない似顔絵だとすれば、見間違えの可能性も捨てきれないでしょう?」

 ふてぶてしく言う『生還者』に対し、榊原は厳しい視線を向けた。

「先程の様子では、彼女を知っているようでしたが」

「さぁ、どうですかね。あなた方が勝手にそう思っただけかもしれない。それに、その会話を聞いたのはあなた方二人だけだ。警察に言っても、私はあくまで否認しますよ」

 思わぬ人物の登場に一時取り乱していた『生還者』だったが、少しずつ体勢を立て直していた。

「あくまで、認めないつもりですか?」

「私は誰も殺していないし、まして『生還者』でもない。私の主張はただそれだけです。それとも、まだ証拠があるとでも?」

 『生還者』はそう言って榊原を見据えた。琴音という切り札を出した以上、これ以上の持ち手はないというのが『生還者』の判断だった。それさえ言い逃れできればこの場を乗り切ることができる。本気でそう考えていたのだ。

 だが、その考えは甘かった。この直後、『生還者』はこの男の……榊原恵一という男の恐ろしさをまったくわかっていなかった事を、最後の最後に実感する事となる。

「……あなたのミスは二つです」

 唐突に榊原はそのような言葉を告げた。

「一つは彼女……時田琴音さんの生死を確認しなかった事。まぁ、あの状況ではそれも難しいでしょうがね。崖下に落ちた彼女の元に向かうわけにもいきませんし、それで自分が崖から落ちて死んだら元も子もありませんから。とはいえ、結果的にそれを怠ったがゆえに彼女の生還を許し、言い逃れのできない証人の発生を阻止する事ができなくなった」

 そして、榊原は二本目の指を上げる。

「そしてもう一つは、小里さんを襲撃したその場でしとめ切れなかった事。結果、彼は片手を失いはしたものの生きたまま川に落下。そこから手帳という重大な証拠が捜査陣営に渡ることとなり、事件当時の詳細な状況という犯人にとってこれ以上ない不利な情報が我々に暴露される事になった。総合すると、この二つのミスが、あなたの完璧な犯罪計画をことごとく狂わせている事になります」

「……それが?」

「時田琴音さんに対するミスに関連する切り札はおおむね出し切りました。残るは、小里利勝に対するミスに関連する証拠です。私はこちらに関してはまだすべて出し切ったつもりはありませんよ」

 『生還者』は咄嗟に頭を回転させた。小里利勝に関連する致命的な証拠は手帳だけである。だとするなら、手帳関連でまだ何かあったという事なのだろうか。

 だが、榊原が告げたのは思いもよらない事だった。

「小里さんですがね、発見された当時、残った方の拳をきつく握り締めていたそうです。発見した警官もその拳を解く事はできなくて、最終的にその手のひらが開かれたのは彼の死の直前……捜査陣営に手帳を託した時でした。そして、その手からあるものが発見されているんです。何だと思いますか?」

 榊原が問いかけるが、『生還者』は下手な事を言って突っ込まれるのを恐れ、答えようともしない。が、榊原は容赦なく言葉を続ける。

「皮膚片だそうです。正確には、握り締めていた彼の指の爪の間から検出されたとの事ですがね。まるで自分の爪に残ったその皮膚片を守るかのように必死に手を握り締めていたようだったとか。小里さんの執念ですよ。そして、その執念があなたを追い詰める最後の武器になるんです」

 そして、榊原は今度こそ最後となる切り札を切った。

「もう説明するまでもないでしょう。この皮膚片は小里さんがあなたに襲われたとき、咄嗟に抵抗した際に付着したものと考えられます。当然、その傷跡は犯人の体のどこかになくてはならない。小里さんの爪とその傷跡が一致すれば……頭のいいあなたなら、どうなるかわかるかと思いますが」

 『生還者』は何かに耐えるかのように拳を握り締めたが、榊原は追及を緩める事はない。

「仮に否定したとしても無駄です。皮膚片からDNA鑑定ができるのはあなたもご存知でしょう。つまり、小里さんが必死に守り通した問題の皮膚片のDNAとあなたのDNAが一致すれば、あなたが事件当日あの村におり、なおかつ小里さんを襲撃した張本人である事が、科学的にも証明されるんです」

 榊原の言葉に、『生還者』は何も言えないまま棒立ちになっている。そして、榊原はそんな『生還者』にとどめを刺しにかかる。

「あなたが犯人だと証言する証人に、犯人の皮膚片という物的証拠。もうこれ以上の証明は無用と考えます。さて、まだ反論があるなら聞かせてもらいましょうか。もっとも……」

 榊原は最後の言葉を『生還者』に叩きつけた。

「どんな反論をしようと、私はそれをすべて打ち砕くだけですがね。さぁ、どうしますか!」

 『生還者』……否、『孔明』はしばらく動かなかった。すでに薄暗くなり始めている事務所の中で、恐ろしいほどの沈黙が流れた。

「ふ……」

 と、不意に『孔明』の口から小さな声が漏れた。

「ふ……ふふふ……ははははは……」

 それはただ平坦で、どこまでも空ろな笑い声だった。狂気に取り付かれたわけでも、まして高笑いというわけでもない。ただ、ひたすらに空しく、ひたすらに空っぽで単調な笑いだった。

「私の……俺の計画は完璧だった……なのに……なのにどうして……」

 その瞬間、『孔明』は握り締めた拳で来客用のテーブルを思いっきり叩いた。置いてあった湯飲みが跳ね、入っていたお茶がこぼれるが、誰も気にする様子はない。そして、『孔明』は叫んだ。

「どうしてこんな事になってしまったんだ!」

 それが、この長かった推理勝負における、『孔明』の敗北宣言だった。榊原と琴音は、そんな『孔明』の様子をただ黙って見つめているだけだった。



 世の中とは世知辛いものである。いくら小さい頃に神童と呼ばれていようが、大人になればそんなものはたいした自慢にもならない。大学を出ていても就職できない世の中である。それどころか、本来高等な教育が行われているはずの大学院を出た人間の方が、就職率が低いというデータまで出ているそうだ。普通は逆だと思うのだが、世の中これほど理不尽なこともない。

 『孔明』もそんな人間だった。小さい頃は将棋の天才ともてはやされ、奨励会でもかなりの成績を誇っていた。だが、所定の年齢までに規定の段を取ることができず奨励会を脱会。その後、大学院まで進んだものの、どこにも就職する事ができず、就職浪人とでも言うべき状況まで落ちぶれていた。

 そんな『孔明』が『仲達』と出会ったのはネット上での事だった。何日か後には実際にリアルでも会い、年齢が一回りほど違うにもかかわらず意気投合していた。互いに社会に不満を持ち、そして苦しんでいた。『仲達』は経営する商店が倒産寸前で、『孔明』もそろそろ手持ちの貯金がなくなりつつあったのだ。

 二人はある時期から、社会に対する不満を互いに公然と口にするようになっていた。それが、いつしか犯罪の計画に変化するまで、大して時間はかからなかった。自分たちをここまで追い詰めた社会に対する復讐。元はといえばそれが犯行のきっかけだった。

 落ちぶれたとはいえかつては「奨励会」に所属し、大学院まで出た身分である。しかも、その大学院では法学、特に刑事政策や犯罪学を研究していた。それゆえ、犯罪に対する知識は他の人間よりもあるつもりだった。

 二人は第一目標として、あくまで社会に対する復讐という側面を重視した。世間が注目するような、今までに誰も企てたことがないような犯罪。なおかつ、それでいて犠牲を最低限に抑える完璧な犯罪。それが二人の目標だった。それゆえ、ありきたりな殺人やけちな窃盗などは即座に彼らの計画から漏れた。そうした犯罪に対するメディアの対応が冷ややかなものである事を、『孔明』は犯罪学を学んだ際によく知っていたからだ。

 世間をアッといわせる犯罪……彼らが選んだのはバスジャックだった。そもそもバスジャックそのものが日本では実行例が少ないため注目されやすく、なおかつ同じ系列に属するハイジャックやシージャックなどに比べて実現可能性が高かったからだ。

 ただし、ただのバスジャックではすぐに捕まってしまう可能性が高い。こういった犯罪の場合、長引けば長引くだけ世間の注目は集まり、逆にすぐに捕まってしまえば社会面の三文記事にもならない。いかにうまくバスジャックを成し遂げるかが二人の課題となった。二人は必死に過去のバスジャックの事例を調べ、彼らがなぜ失敗をしたのか、その理由を突き詰めた。

 そして出た結論。それは、いずれの事件もバスの運転を人質である運転手に一任してしまっているという事だった。そのせいで、肝心なときに給油中だの何だのと言われて発車できず、そこを警察に突かれて捕まっているケースが多かったのである。ということは、逆に言えば犯人自身が運転をすれば、バスを完全にコントロールできる事になる。警察の制止を無視して発車する事もできるし、任意に暴走や事故を起こす事さえ可能となる。もちろん、普通なら人質の管理ができなくなるという最大のデメリットが発生するが、自分たちのように共犯であるなら問題はないはずだ。

 協議の結果、『孔明』が運転をし、『仲達』が実際に人質を脅す役回りになった。『仲達』は自身が一番犯行をしやすいと思うバスを選定し、人質の管理というリスクの高い仕事をする。その代わり『孔明』はこの犯行でどうしても殺さなければならない運転手の殺害を引き受ける。それが二人で決めた取り決めだった。

 『仲達』はすぐさま標的となるバスの選定に取り掛かり、しばらくして八王子市内を走る一本の路線バスに的を絞った。なぜこのバスにしたのかを尋ねると、『仲達』は通勤ラッシュ時間帯を外れていて乗客の数がある程度少なく人質管理がしやすい事を挙げた上で、

「俺が八つ裂きにしても飽き足らないやつが毎日乗っているようなんでな」

 と、最後は吐き捨てるように言ったものだ。『孔明』が彼から白神村でのライトバン事故の話を聞いたのは、このときが最初である。『孔明』としては犯行に支障さえなければどのバスでもよかったのであるが、それなりに興味もあったので、犯行前に彼が言っていた白神村について一通り調べておいた。結果的に、これが後に吉と出る事になる。


 犯行当日の朝、二人はバスの経路上にある住宅街の一本道に来ていた。いくらなんでも複数の運転手がいる可能性があるバスの車庫に潜入して運転手を襲撃するわけにはいかない。事前の調べで、この道は休日の通行量が人・車ともに非常に少なく、何かあっても目撃者は出ないだろうと判断していた。また、バスも車庫を出た直後で、乗客もまず乗っていないはずである。襲撃するには絶好の場所だった。

 しばらくして、問題のバスがこの道に姿を見せた。狙い通り人通りはまったくなく、狭い道ゆえにバスの速度もそれほど出ていない。乗客も乗っていないようだ。それを確認すると、『仲達』は電柱の影からバスの前にわざと飛び出した。

 バスが急ブレーキを踏み停車する。それを見て、『孔明』はすぐさまバスのドアの陰に身を潜める。すぐにドアが開き、バスの前で倒れたふりをしている『仲達』の様子を見るために運転手がドアから飛び出してきた。

 その瞬間を見逃さずに、『孔明』は手にしたワイヤーを手に背後から運転手に飛び掛ると、そのままバスの中に運転手を引きずり込んだ。すぐさま『仲達』も立ち上がり、後に続いてバスに乗り込んで運転席からドアを閉める。『孔明』は通路に運転手を組み伏せながらワイヤーで思いっきり運転手の首を締め上げた。初老の運転手は最初こそ抵抗していたが、やがてぐったりしたかと思うと、そのままピクリとも動かなくなった。

 運転手が死んだ事を確認すると、『孔明』はすぐに運転手の服を剥ぎ取って自身がそれを着込み、その際運転手の名前が『土方邦正』である事を確認しておく。対して、『仲達』は運転手の遺体をあらかじめ用意しておいたゴルフバッグに入れ、そのまま最後尾の座席に座った。『孔明』はそのまま運転席に座り、バスのエンジンをかける。わずか五分。早業の犯行であった。

 あらかじめ決めてあった計画では、最初はこのまま運転手と乗客のふりをして予定通りの経路を進み、一定程度乗客が乗り込んだところで『仲達』が客席を制圧するという流れだった。ただし、『仲達』のつけた条件として、問題の「八つ裂きにしたいやつ」……雨宮憲子というらしいが、とにかく彼女が乗客として乗り込むまで決行は見合わせるというものがあった。もちろん、最後まで乗ってこなかった場合はその時点で決行となるが、ギリギリまで待つというのが今回の方針であった。

 幸いな事に、雨宮憲子は思いの外すぐに乗り込んできた。その場合、『孔明』の基準としては、乗客が自分と『仲達』を除いて十人となった時点で犯行を決行する事にしていた。バス停を巡るごとに順調に乗客たちは乗り込んできて、目標の十人まであと少しというところまできていた。

 だが、九人目まできたところで、二人にとってまったく予期せぬ事態が発生した。

「う、動くなぁ!」

 突然そんな絶叫が車内に響き、次の瞬間、自分の首に刃物が突きつけられていたのである。

「おとなしくしろ! このまま黙って運転を続けるんだ!」

 見上げると、上気した表情の見知らぬ若者が血走った目で自分に刃物を突きつけている。こんな事は予定にない。バックミラーをちらりと見ると、『仲達』も呆然とした表情で運転席を見つめていた。

 『孔明』も最初こそ呆気にとられていたが、やがて事態が飲み込めたきた。どうやら、ジョークのような犯罪のかち合いが発生してしまったらしい。『孔明』はとりあえず運転手としての演技をしながら、その若者に呼びかけた。

「き、君、いったい何を考えて……」

「黙れ!」

 若者の一喝に、『孔明』は怯えるふりをする。

「バス停には止まるな。八王子駅には行くな。とにかく、このままひたすら走り続けろ。バスを止めたら、その瞬間にお前を殺す」

 その宣言を聞きながら、『孔明』は密かに眉をひそめていた。よりにもよって自分たちよりも先にバスジャックを起こされてしまったらしい。しかも、綿密に計画を練り上げた自分たちと違い、この若者の犯行は恐ろしく単純で稚拙である。

 『孔明』は一瞬、この馬鹿な若者に反撃して制圧し、そのまま自分たちの計画を実行できないかと考えた。だが、運転している自分は反撃する事などできないし、『仲達』にしても体力的にはこの若者にかなわないだろう。現状では運転手のふりをして指示に従うしかない。『仲達』にミラー越しに合図すると、『仲達』も黙って頷いた。

 こうなった以上、計画は大きく修正する必要がある。すでに運転手を殺している以上、自分たちもここで引き返すわけには行かない。が、この状況下ではとても当初の予定通りにバスジャックを実行する事など不可能だ。だが、本人はおそらく微塵も思っていないだろうが、この若者のやり方では犯行が成功する可能性はほぼゼロだ。今日のために過去の事件を調べてきた『孔明』である。警察に情報が伝われば、この程度の事件、簡単に解決する事は明白だった。

 だが、このままバスジャックが解決してしまえば、自分が本物の運転手でない事がばれ、何もできないまま捕まってしまう。それだけは断じて避けなければならない。どうにかならないかと考えながら、『孔明』はチャンスを待った。

 犯人の若者は、なぜかバスを奥多摩方面から山梨県の丹波山村へ向けるように指示を出した。今となっては彼がなぜそんな場所を目指したのかわからないし、正直わかりたくもない。自分たちの計画を邪魔した男。それが『孔明』にとってのこの若者に対する評価のすべてだった。ただ、目的地が奥多摩方面というのは『孔明』にとっては朗報だった。というのも、そこに至るまでに通る奥多摩の山道は曲がりくねっていて、事故を起こすのにうってつけの場所だったからだ。この事は、事前に「白神村」について調べた際に把握していた事だった。

 このままこの男にバスジャックを続けさせるわけにはいかない。『孔明』の頭に、わざと事故を起こして事態を収束させ、同時に自分たちの顔を知る乗客たちを始末してしまおうという考えが浮かんだのはこの時だった。自分が運転手としてこのバスを運転しているのを知っているのはこのバスにいるメンバーだけ。逆に言えば、ここにいる連中の口を封じればすべてを白紙に戻す事ができるのだ。事故を起こしてできるだけ人の数を減らし、おそらくは大怪我をしているであろう生き残った乗客を事故に見せかけて殺害すれば、自分は唯一生き残った「乗客」として疑われる事なくこの場を脱することができる。恐ろしい考えだったが、このときの『孔明』にとっては最善の方法に思えてならなかったのだ。

 一度決めると『孔明』の行動は素早かった。豪雨降りしきる中、『孔明』は犯人の言うことを聞くふりをしながら慎重に事故を起こす場所を見極めていた。犯人の無茶な要求とこの天気であるなら、事故を起こしたところで誰も不自然には思うまい。問題があるとすれば、自分たちの命の保障もできないという点である。『孔明』が確実に助かろうと思えば、事故直前に車体をスピンさせて後部座席の方から崖下へ落下させるという手法が考えられるが、この場合、逆に後部座席に座っている『仲達』が一番命を失うリスクが高くなる。さすがの『孔明』もこれには一瞬だけ迷った。

 だが、判断は一瞬だった。自分はこんな場所で死ぬわけにはいかない。そう判断すると、『孔明』はチラリとバックミラーで『仲達』の姿を確認し、思いっきりハンドルを切った。この瞬間、『仲達』がもしかしたら死ぬかもしれないと思っていた事は否定できない。法学的には未必の故意と呼ばれるものであり、この事実が証明されれば充分に殺人罪が成立するものである。だが、このときの『孔明』はこの状況を打破することで精一杯で、他の事にはほとんど気が回らない状態だった。とにかく、自分だけが生き延びて後はどうなってもかまわないという心境だったように思う。

 だが、結果は『仲達』のみが死亡し、肝心の乗客は誰一人死なないというものだった。どころかあのバスジャック犯以外はたいした怪我もしておらず、事故に見せかけてこの場で全員を自分一人で殺害するなどまず不可能な状況である。『孔明』は天を呪った。が、バスジャックこそ収束できたものの、発見されたら自分の身が破滅という自体は代わりがない。この乗客たちにはなんとしても死んでもらわねばならないのだ。

 バスの後部座席で死んでいる『仲達』の姿を見たとき『孔明』は逆に覚悟を決めていた。自分のエゴのために死なせてしまった彼のためにも、この場を必ず切り抜けなければならない。すなわち、自分の姿を知るこの場にいる全員を……生き残ってしまった乗客全員を自分一人で殺害せねばならない……。

 幸い、全員が生存する可能性も考慮して、『孔明』はあえて白神村の近くで事故を起こしていた。万が一の場合はそこに全員を誘導して自らの手で全員を皆殺しにするためである。もっとも、そちらのプランはできれば使いたくなかったが、事がここに至っては仕方がない。やるしかないのだ。

 そんな歪んだ決意を胸に秘め、『孔明』は今から自分が消す「仲間たち」のいる場所へと向かっていた。


 『孔明』がまずしたのは、生き残ったメンバーを白神村へ誘導する事だった。たった一人でこの場にいる全員を殺すとなると、それなりの舞台が必要になる。白神村はまさにそうした状況にうってつけの場所だった。事前に興味本位で調べた事が役立った形である。表向きは運転手である『孔明』にとって、みんなを誘導するのはたやすいことだった。

 逃げ込んでから最初の一日は乗客の観察と村の地理の把握に費やした。元来、『孔明』は慎重な男である。実際に犯行をするにあたって現場となるこの村の事や、殺すべき対象である乗客たちの事を観察するのは必然だった。『孔明』は気のいい運転手という仮面の下で、虎視眈々とこれから自分が犯す非情な殺人計画の概観を着々と練り続けていた。

 最初の被害者に『土方邦正』を設定し、自身の存在を乗客たちから抹消してしまう事は、バスの事故直後から考えていた事だった。そのために、白神村に行き着くまでにわざわざ大回りして遠いように錯覚させておいた。実際は、事故現場とこの村の距離は走れば十分前後といったところだろうか。夜になると、『孔明』はひそかに持ち出していた非常用の懐中電灯片手に事故現場にとって返し、放置されていたゴルフバッグごと運転手の遺体を村の中に持ち込んだ。

 その上で、最初の標的として選んだのが離れで寝ていた宮島と時田の二人だった。理由は単純に狙いやすかったという事と、女性二人なら自分にも充分殺害は可能だと判断した事によるものだった。『孔明』は土方の遺体を便所に隠すと、早速離れにいる二人を襲いにかかった。

 ところが、ここで早くも第一の誤算が起こる。この部屋にいるはずの時田琴音の姿が見えなかったのである。『孔明』は一瞬戸惑ったが、今更引き返すわけにもいかない。『孔明』は手に持った手斧を寝ていた宮島に向かって振り下ろしていた。

 琴音が見つかったのは、犯行から少し経って便所の中にある土方の遺体の処理をしようかと考えていたときだった。彼女は突然外から戻ってきたのである。どうして彼女がうろついているのかはわからなかったが、一人でいる以上、これ以上のチャンスはない。『孔明』は彼女に近づき、隙を見て襲撃した。その過程で宮島や土方の遺体を見られたが、彼女が声を出せない事を知っていた『孔明』にとってその事はたいした問題ではなかった。

 ただ、予想以上に彼女の殺害は手間取った。最終的に崖まで追い詰めたところで彼女は崖から転落し、『孔明』も崖の高さから彼女はこれで死んだと判断した。が、死体がないとなると残ったメンバーが、彼女が犯人と判断して結束してしまう恐れがある。苦肉の策として、『孔明』は宮島の遺体をバラバラにして、琴音の遺体に見せかけることで対応した。どうせこの場にいる人間は全員死ぬのだから、彼らが皆殺しになるまで騙し通せればいい程度の考えだった。それが終わった後、今まで自分が着ていた運転手の服を土方の遺体に着せ、自身は土方を殺すまで着ていた私服を着込んで雨合羽を羽織った上で、土方の首を切断して身を隠した。

 その後は、『孔明』はひたすら待つ事に終始した。これだけの事が起こった上に、現場はかつて大量殺人が起こった村。乗客たちは間違いなく疑心暗鬼に陥っているはず。となれば、自分が何かせずとも向こうが何かアクションを起こすはず。そこを襲えばこの犯行は思ったよりもスムーズに行くという判断だった。

 そして、それは現実のものとなった。次の夜、瀬原という少女が思いつめた表情で家から出て行くのを『孔明』は見て取っていた。こっそり家の中を覗くと、見張り役のもう一人の少女がぐったりと倒れている。どうやら耐え切れなくなって、友人を倒して逃走を図ったらしい。好機が到来したと『孔明』は判断した。

 が、瀬原を追う前に『孔明』にはやっておくべき事があった。『孔明』はこっそり部屋に侵入すると、泥のように眠っている乗客たちをすり抜け、縛り付けられているバスジャック犯……須賀井の前に立った。元はといえば、この男のせいでこんな状況に追い込まれているのである。『孔明』としても、この男だけは許す事はできなかった。幸い、彼は縛られている。他のメンバーと違い、目を覚まされても抵抗できない。チャンスだと思った。

 そう判断すると、『孔明』はあらかじめ用意しておいた紐で須賀井の首を思いっきり締め上げた。須賀井は途中で目を覚まし、驚愕の表情を浮かべて『孔明』を見ていたが、結局声すら上げる事もできず、そのまま息絶えた。それを見届けると、『孔明』は須賀井の戒めを解いて肩に担ぎ、そのままゆっくりと家の外に出た。他のメンバーは立て続けに起こった異常事態で疲れきっていたのか、これだけの事が近くで起きながら目を覚ます様子は一切なかった。

 『孔明』は須賀井の遺体を玄関付近でバラバラにして処理すると、今度は逃げた瀬原の後を追った。相手は山登りの経験もない女子高生で、しかもこれだけの大雨である。さらに、彼女が逃げた方角が行き止まりである事は事前の調べで把握していた。だからこそ、『孔明』はほとんどあせるような事をせず、悠然と彼女の後を追う事ができた。

 案の定、須賀井一人を殺して遺体の処置をした後だというのに、彼女はまだ山の入り口に到達さえできていなかった。どうやらすでに体力的に限界らしく、低体温症にでもなっているのか動きも緩慢である。

 『孔明』に情けはなかった。自分が生き残るためには、彼女には死んでもらわねばならないのだ。『孔明』は今まさに森に入ろうとしている彼女めがけて、容赦なく手斧を振り下ろした。彼女は即死には至らず、悲鳴を上げながら最後の力を振り絞って森の中に逃げ込んだが、もはやそれは手負いの獲物を追う狩人という構図であった。抵抗こそされたが、さしたる苦労もせず『孔明』は彼女の息の根を止める事ができた。

 瀬原の遺体の処理をし終えると、向こうから何か物音が聞こえた。咄嗟に隠れると、やってきたのは雨宮憲子だった。なぜ彼女がここにいるのかは不明だが、彼女がここに来たという事は、おそらく他のメンバーもそのうちここにやってくるだろう。『孔明』としては、この場であえて危険を冒して殺人をする理由もない。この場はおとなしく引くことにした。

 が、森を出るときに運悪く藤沼に見つかってしまった。このときばかりは慌てて森の中に逃げ込んだのだが、藤沼はまるで蛇のような執念で『孔明』に追いすがってきた。このままではまずい。そう考えた『孔明』の判断は一瞬だった。咄嗟に振り回した手斧は藤沼の喉を切り裂き、藤沼はその場に倒れこんだ。今回に限っては遺体をバラバラにする時間などなく、『孔明』は森に隠れて他のメンバーが去るのを待ったのだった。

 それからは、残る四人が分裂するのをひたすら待った。しばらくすると雨宮憲子が家から出てきたが、彼女はなぜか最初の現場である離れの方へと向かった。嫌な予感がしてついていくと、彼女は離れの中を覗き込んで一際大きく頷いている。時田琴音の遺体トリックを見破られたかもしれない。もはや一刻の猶予もなかった。『孔明』は彼女の傍に踊り出ると、彼女が何かを言う暇も与えず即座に相手の喉笛を切り裂いた。そんな彼女の顔は驚愕にゆがみ、何か信じられないものでも見たようだった。彼女がなぜ離れを見ようなどと思ったのか『孔明』にはわからなかったし、また正直なところどうでもよかった。この頃になると、『孔明』はただ殺人マシーンのように機械的に殺人を実行することしか考えられなくなっていた。彼自身、この村に漂う何かに取りつかれているようでもあった。

 それからしばらくしただろうか。今度は小里が家から飛び出し、何かを探すように村中を走り始めた。何をしているのかはわからないが、もはや理由などどうでもいい。ただ、次の標的が決まったというだけである。

 襲撃したのは川の傍だった。何の前触れもなく後ろから襲撃したのだが、さすがに体力があるのか小里は振り下ろされた手斧を反射的に避けた。が、避けきるまでには至らず、手斧は彼の片腕を根元から容赦なく切断した。

「ぐはぁっ!」

 小里はそんな悲鳴を上げ、吹き出す血をもう片方の手で押さえながら、目の前に立つ殺人鬼の姿を見て驚愕の表情を浮かべていた。フードをかぶっているので正体はばれていないはずだが、それでもこの男の息の根を一刻も早く止めなければならないと直感的に感じていた。『孔明』は手斧を振り上げ、今度こそ相手の脳天に振り下ろそうとする。

 が、ここで思わぬ反撃があった。小里は毅然とした表情を浮かべると、そのまま残った方の手で小里につかみかかってきたのだ。さすがに『孔明』の一瞬動きが止まるが、その間に小里は『孔明』の腕に思いっきり爪をつきたてた。

「くっ!」

 まさに命がけの攻防だった。が、素手と手斧では勝敗は見えている。『孔明』は反撃にふらつきながらも、再び手斧を切断された傷口に思いっきり叩きつけた。

「ギ、ギャアアアアァァァァァァァ!」

 小里はこの世のものとは思えない大絶叫を上げた。そして、そのまま意識を失ったように、背後を流れる川へとゆっくり転落していったのである。水飛沫があがり、すぐに小里の姿は見えなくなった。あれでは助かるまい。『孔明』はそう考え、道路に落ちていた小里の腕を拾うと、そのまま村上家へ向かい始めた。残るは二人。もう身を隠す必要もない。このまま一気にけりをつけるつもりだった。

 実のところ、この後のことは『孔明』もよく覚えていない。立て続けに殺人をやったためか、完全に精神が麻痺していたようだ。ただ、自分が寝ている杏里に手斧を振り下ろし、最後に残った矢守の脳天をかち割った感触だけは手に残っている。気がついたとき、『孔明』は呆然として村の真ん中に立っていたのだった。

 計画は成功した。予定通り、自分の姿を知る乗客全員を葬り去る事ができた。だが、そのとき感じていたのは達成感ではなく、なんともいえない後味の悪さだった。

 とはいえ、このまま突っ立っているわけにもいかない。『孔明』は最後の仕上げ……村中に今まで切り取った遺体の一部をばら撒く仕事をはじめた。この時、本物の土方の首を捨てておく事も忘れなかった。これで、この村に逃げ込んだ『土方邦正』は本人だったという風に認識されるだろう。すなわち、自分という人間は最初からこの村にいなかったという風に。

 後はこの村を脱出するだけである。自分はこの場にいてはならない人間なのだ。したがって救助隊に救出されるわけにはいかないし、そんな事をすれば唯一生き残った自分が疑われるのは明白である。あくまで脱出は自力で行わねばならなかった。が、その手段も実はすでに考えてあった。

 『孔明』は村の一角に積み重ねられていた丸太を組み合わせて簡単な筏を作ると、それを押しながら流れる川へと向った。長年放置されてきた丸太だけあって、浮力は相当にあるはずだ。正直、この急流ではどこまで行けるかはわからない。が、適当なところで筏から降りて、後は手近な車をヒッチハイクでもすればいい。要するにこの村から離れさえすれば、自分がこの事件に関与していた事など誰も疑いはしないのだから。

 そして、『孔明』は筏に乗って村を離れた。彼がここから数キロ下流にある市街地の少し手前で筏から川に飛び込んで河川敷に降り立ち、その近くの駐車場にあった自転車を盗んで近くの病院に飛び込んだのは、それから数時間後の出来事である。



 『孔明』が回想から意識を戻すと、榊原と琴音は相変わらず自分を黙って見下ろしているだけだった。この瞬間、『孔明』は自分がこのさえない中年探偵に完膚なきまでに敗北した事を、改めて実感する事になった。

「……探偵さん。あんた、さっき最初から運転手を疑っていたと言っていたな」

「ええ」

「なぜだ。俺の計画は完璧だった。関係者でもなんでもないあんたにそう簡単にばれるはずがない。なのにどうして、最初から運転手を疑う事が……彼女の証言を信じる事ができたんだ?」

 榊原はしばらく黙っていたが、やがてはっきりとこう告げた。

「そもそも、バスジャックが発覚しなかったという時点で、運転手が事件の中核に絡んでいるのは間違いないと思っていました」

「……どういう意味だ?」

 榊原は種明かしをする。

「二〇〇〇年に佐賀県で起こった西鉄バスジャック事件という事件を覚えていますか。刃物を持った十七歳の少年が天神行きのバスを乗っ取り、乗客一名が死亡。最後には広島県のパーキングエリアで警察が強行突入して犯人が捕まったという事件です」

 もちろん知っていた。計画を練るにあたって過去に起こったバスジャックはあらかた調べていたからだ。

「この事件では事件からかなり経つまでバスジャックの事実が外部に伝わらず、結果的にバスが山口県に入るまで警察は何も知らない状態でした。一応運転手はライトを点滅させて外部に知らせる努力をしたらしいですが、奇跡的にバスから脱出した乗客の一人が通報するまでバスの異常に誰も気づけなかったんです。そこで、この事実を重く見た各バス会社は、事件後にあるシステムを導入しました」

「システム?」

「ええ。バスの外部にある行き先表示板。緊急時にはあそこにSOSの文字が表示され、警察への通報を要請するシステムです。犯人に気づかれずに外部に事件の発生を伝えるため、都バスを中心に導入されています。つまり二〇〇〇年以降、バスジャックが発生した場合、事件が外部に伝わらないという事はありえない話なんです」

 そう、と榊原は言葉を続けた。

「運転手が意図的にそのSOS表示を表示しない限りは」

 『孔明』は空ろな視線を榊原に向けた。

「そんなシステムの事なんか……」

「知らなくても無理はありません。このシステムが導入された二〇〇〇年以降、国内でこのシステムが必要になるようなバスジャック事件は一件も発生していませんから。つまり、システム導入前の西鉄バスジャック事件が最後の事例という事になる。あなたは事件前にかなり綿密に事例研究をしていたようですが、肝心の事例にシステムの存在が書かれていないんですから、知らなくても当然です」

 もっとも、と榊原は続けた。

「知っていてもあなたはボタンを押さなかったでしょうがね。外部に知られるとまずいのは、あなたも同じだったはずでしょうから。要するに、SOS表示がなされていなかった時点で、運転手も事件が外部に漏れる事を拒絶した事になる。これで運転手を疑うなという方に無理があるでしょう」

 『孔明』は乾いた笑い声を上げた。これでは、最初からすべてこの男の手のひらで踊らされていたようなものではないか。

「……それで? これから俺をどうするつもりだ?」

「知れたこと。警察に突き出すまでです」

 榊原の言葉は容赦がなかった。

「は……はは。そこまではっきり言われるといっそすがすがしいな。せめて自首を薦めるくらいの事はしてくれてもいいんじゃないか」

「自分勝手な理由で十人も殺しておいて、今さら自首も何もないでしょう。情状酌量の余地などありませんし、何より自分の犯罪を隠すためにこれだけの犯罪をしでかしたあなたが、今さら自首をするとは思えません」

 そこまで言われて、『孔明』の頭の中にどす黒い考えが浮かんだ。あの時と……村の中でただひたすらに乗客を殺す事だけに専念していたあの時と同じである。『孔明』の中に潜んでいた狂気が、再び鎌首を上げようとしていた。

「……仮に、この場であんたたち二人がいなくなれば、事の真相を知る人間はいなくなる。違うか?」

 その感情のない言葉に、琴音は無表情のまま小さく肩をこわばらせる。が、当の榊原は聞いていなかったかのように小さく首を振るだけだった。

「逆に聞きましょうか。私があなたほどの殺人鬼と対決するに当たって、何の備えもしていないとでも思いますか?」

「……どういう意味だ?」

 榊原はその問いに答えず、黙って自身のデスクに歩み寄ると、そこに置かれている自分の携帯電話を『孔明』に見せた。

 そして、それを見た『孔明』の表情が歪んだ。その携帯は、どこかへ向けて通話状態になっていたのだ。

「まぁ、古典的な仕掛けですけどね。あなたが部屋に来てからの会話は、すべてこの事件を担当している大迫刑事の携帯に筒抜けになっています。携帯料金がとんでもない額になっているかもしれませんが……あなたを捕まえるためなら安いものでしょう」

 そう言うと、榊原は携帯を静かにデスクの上に置く。

「要するに、今この場で我々を殺しても、まったくの無駄という事です。もっとも、たとえ殺そうとしたところで、私は警察が駆けつけるまでなら、あなたを押さえつけておく事ぐらいはできると思っていますがね。こう見えても、私も元刑事ですから。さすがのあなたも拳銃のような飛び道具は所持していないはずでしょう?」

 もう、『孔明』は言い返す気力もないようだった。そもそも、重要な証人である時田琴音をこの場に連れ込んでいた時点で、『孔明』に襲われる事に対する何らかの対策はしてあると考えるべきだったのだ。考える事すべてに先手を打たれ、もう『孔明』にできる事は何一つ残されていなかった。

「私の仕事は容疑者圏外にいたあなたを事件の舞台の上に引きずり出し、徹底的に追い詰めて逃げる余地を残さないようにするところまで。後は警察と司法の仕事です。……そういうわけですので、そろそろ来て頂けますかね」

 どうやら、それが警察を呼ぶ合図だったらしい。それから三分もしないうちにドアがノックされ、何人もの刑事たちが部屋の中に踏み込んできた。だが、『孔明』はもはやそちらに顔を向けようともしない。

「お疲れ様です」

 榊原が先頭の刑事……大迫に呼びかける。大迫は不機嫌そうな表情を浮かべると、目の前でうなだれている男を見下ろした。

「こいつですか?」

「ええ。そっちはどうですか?」

「問題ありません。ここでの会話は最初から全部録音してあります。これなら裁判所も令状を出すでしょう。この録音データと、皮膚片の照合結果が出れば、有罪に持っていく事も充分可能です。もちろん、そこの彼女とあなたには後々証人として話を聞かせてもらう事にはなりますが……」

「なら、結構です。後はお任せしますよ」

 そう言うと、榊原は大きく欠伸をしてデスクに戻り、携帯の通話ボタンを切ると、そのまま椅子にもたれかかった。一方、刑事たちは『孔明』を強引に立たせ、部屋を出て行こうとする。

「ああ、そうだ」

 と、その時不意に榊原が『孔明』に声をかけた。

「そう言えば、一度もあなたの口からあなたの本名を聞いていませんでしたね。せっかくです。最後に言っていただけませんか? 犯人の名前がわからないまま終わるというのも締まらない話ですし」

 その言葉に、『孔明』は緩慢な動作で振り返ったが、直後に引きつったような声で榊原に吐き捨てた。

「これは傑作だ。まさか犯人の名前を一度も言わないまま、犯人との推理対決を制してしまう探偵がいるなんて。前代未聞もいいところだ」

「それはどうも」

 榊原はまったく動じていない。『孔明』は憎々しげに榊原を見つめていたが、やがて諦めたように、この長かった推理劇の終幕を飾る最後の言葉を発した。

「よく聞いておけ。俺の名前は……」

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