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事件編第五章 皆殺し

 また日が暮れていく。一向にやまない雨の中、白神村は再び夜を迎えようとしていた。

 村上家の一室に、現時点で生き残っている四人の人間……矢守昭平、小里利勝、月村杏里、雨宮憲子の四人が、疲れきった表情で押し黙ったまま座り込んでいた。全員ずぶ濡れであるが、もう誰もそんな事を気にしている様子はない。

 藤沼の死。それは、残った面々に想像以上に重い衝撃を与えていた。

 あまりにも突然すぎる出来事だった。誰もが心のどこかで、他の人間はともかく、あれだけしっかりしている藤沼は殺されないのではないかという根拠もない確信を抱いていたのは明白だった。何より、中心的な役割を担っていた藤沼はまるで推理小説の探偵役のようで、彼は絶対に大丈夫という思い込みが潜在的にあったのだろう。もちろん、本人もまさか自分が殺されるなどとは思っていなかったはずだ。

 そんな藤沼があっさり殺されてしまった。しかも、誰も来ないような森の一角で、まるで虫けらのように……。その事実は、言われるまでもなく当たり前の現実を残った全員に突きつけていた。

 すなわち、誰が殺されてもおかしくない。小説と違って、必ず生き残る探偵役もワトソン役も、この場には存在しない。そんな簡単な事実を。

「……手詰まりだ」

 誰も何も言わない中、小里がぼそりと呟いた。もはや推理とか真相解明とか、そういう次元ではない。犯人を明らかにする以前の話として、本気で身を守らないと、自分も藤沼のようにあっさり死んでしまうかもしれない。

 推理小説でもホラー小説でもない。簡単に言えばサバイバルゲーム。事態は、もうその段階まで進んでしまっていた。

 藤沼は喉を掻っ切られて死んでいた。彼が森の中に姿を消してからせいぜい十分程度の早業殺人である。さすがに時間がなかったのか今回は藤沼も五体満足のままだったが、遺体はあのまま山の中に放置せざるを得なかった。というより、遺体の処理について言及する人間など、あの場には誰もいなかった。無言のまま、元いた村上家に戻るのが精一杯だったのである。

 矢守は憔悴しきった表情で生き残った他の三人を見回していた。もし、犯人がこの中にいるとすれば、いったい誰の可能性が高いのだろうか。基本的に、すべての事件において個々のアリバイは存在しない。だが、藤沼の事件はわずか十分前後の間に起こった。この事件について犯人を絞り込む事はできないだろうか。

 まず、小里に関しては一見するとアリバイが成立しているように見える。何しろ、森に入った直後から矢守は一瞬たりとも彼から目を離していないのだ。だが、その事自体が何かしらのトリックで、実は想像を絶するような殺人手法が使われている可能性も、この状況では否定できない。アリバイがある程度で、簡単に信用できないのだ。

 次に、さっきまで最有力容疑者だった雨宮憲子。彼女が雨宮憲子を名乗る偽者ではなく本人であることは、運転免許証がある以上は間違いないだろう。だが、そうなると彼女は問題のライトバン事故から生き延びた正真正銘の『イキノコリ』である事になる。つまり、動機らしきものが一番ありそうな人物であることに変わりはないのだ。確かに藤沼の遺体発見時は自分たちと一緒にいたが、自分たちに見つかる前に藤沼を殺し、その後何食わぬ表情で麻美の死体の傍にいたとすれば、矛盾はなくなる。

 最後に発見者の月村杏里。第一発見者を疑えというのは、現実・小説問わずに殺人事件捜査の鉄則である。何より、彼女には森に入った後のアリバイが一切ない。自分で藤沼を殺した後悲鳴を上げた可能性さえあるのだ。そう考えると、藤沼殺しに関しては一番疑わしい人物といえるかもしれない。

 疑えば疑うほどそれぞれの疑惑は大きくなっていく。しかし、それは他の三人も同じだろう。誰も喋ろうとしないのは、単に疲れきっているからというだけではないはずだ。

「救助はいつになったら来るんでしょうか?」

 不意に、矢守はそう呟いていた。何か考えがあったわけではない。ただ、何となく口に出てしまったのだ。

「さぁな。さすがに失踪してかなり経つから、捜索はしているとは思うが……」

 小里が気のない風に答える。言った事とは正反対に、あまり期待していない様子である。いくら救助隊が来ても、全員が殺されてからでは話にならないのだから当然ではあるが。

「……おい、あんた。今でも『イキノコリ』の話を信じているのか?」

 突然、小里が憲子に対してそんな質問をした。

「なぜ?」

「あんたの話を信じるなら、『イキノコリ』の噂が真実味を持って語られるようになったのは問題のライトバン事故のせいだ。だが、当のあんたがそのライトバン事故の生存者だというなら、その事故に『イキノコリ』がかかわっているかいないかは誰よりもよくわかっているはずだ。だからこそ聞く。問題のライトバン事故に、あんたの言うところの『イキノコリ』は関与しているのか?」

 重い沈黙がしばらく続いた。だが、憲子はやがて観念したかのようにため息をつくと、こう答えた。

「……あの事故は、死んだ柴井美春の運転ミスでライトバンが川に転落しただけ。それ以上でも以下でもない。その後、噂が勝手に一人歩きしたのは、私の責任ではない」

「つまり、あんたは最初から『イキノコリ』なんてものが嘘っぱちだったことを知っていたわけだな。にもかかわらず、あんたはこの状況でみんなを混乱させるような事を言い続けた」

 小里は引きつった表情で憲子を糾弾する。一方の憲子は、無表情を崩さない。

「何が言いたいの?」

「別に。ただ、何でそんな事をしたのか、理由を聞きたいだけだ。返答しだいじゃ、あんたの扱いも変わってくる」

「それ、脅迫?」

「残念だが、この状況ではどんな些細な見逃しも許されないからな」

 小里は感情を押し殺した平坦な声で宣告した。これに対し、憲子の答えは単純だった。

「ライトバン事故に『イキノコリ』が関与していなくても、『イキノコリ』の存在そのものが否定されたわけではない。だから、今も私が『イキノコリ』の存在を信じていたところで何の問題もない。違う?」

「……詭弁だな」

「好きに言えばいい。私は、あくまで『イキノコリ』の存在を信じるだけ」

「じゃあ、どうしてあんな森の中にいた?」

 その問いに対し、憲子は一瞬黙った後、

「……あの場所が、私の乗ったライトバンが運転ミスで川に転落した場所だったから……と言えば、信じる?」

 その言葉に、小里も押し黙る。

「信じない、と言ったら?」

「……別にどうとも。私は、それ以外の理由を言うつもりはない」

「その場所に、瀬原麻美の死体が転がっていたというのが、どうも都合がよすぎる気がするんだが」

「私もいきなり森の中に入ったわけではない。森の中で何か動いたように見えたから、入ってみたら死体を見つけただけ。あなたたちが来たのはそのすぐ後」

「だが……」

「やめてください!」

 二人の言葉の応酬に、矢守が耐え切れなくなったように言葉を挟んだ。

「こんなところで言い合っても何にもなりません。問題は、『イキノコリ』にせよ殺人鬼にせよ、この四人でここからどうやって生き残るかです。犯人当てなんて、助かってから考えればいいんです」

 そう言われて、二人とも黙り込んでしまった。

「……確かに、そうかもしれないな」

「この雨だって、いつまでも降り続けるはずがありません。雨さえやめば、ここから脱出できます。降り始めて三日……そろそろやんでもおかしくない」

「となると、今日一日生き残れるかにすべてがかかっているという事か」

「助かりさえすれば、六人も殺されている以上、警察も総力を挙げて捜査をするでしょう。真相を明らかにするのはそこで充分です。とにかく、今はこの場を生き残る努力をしないと」

 矢守は必死になって言った。が、そのとき隣に座っていた杏里がぼそりと呟く。

「……もう、どうでもいいじゃないですか」

 その言葉に、全員が杏里の方を振り向いた。今まで比較的落ち着いて対処していた杏里らしからぬ言葉だった。

「どうせ、みんな死ぬんです。いくらあがいたって無駄なんですよ」

「月村さん?」

「フフ……アハハ……イキノコリでも何でもいいです……私、もう疲れました……」

 こんな状況だと言うのに、杏里は薄笑いを浮かべながらぼんやりとした様子で言葉を連ねる。目の焦点が合っていない。小里が彼女の体を揺さぶった。

「おい、しっかりしろ!」

「はい? 私はしっかりしていますよ? もういいじゃないですか? ハハハ……」

 矢守の頬に冷たい汗が伝う。いくらしっかりしているように見えても彼女はごく普通の女子高生なのだ。バスジャックと事故に巻き込まれただけでも相当な体験だというのに、さらにバラバラ殺人の遺体を何度も目撃し、しかも友人の瀬原麻美に裏切られた挙句に、その麻美は無残な姿で打ち捨てられてしまったのだ。これだけの惨劇の連鎖に、正気を保っていろという方に無理があるだろう。PTSDどころではない。下手をすれば彼女の人格そのものが崩壊してしまう危険性さえある。

「当然といえば当然だな。これだけの極限状況と緊張状態を三日も続けていれば、精神に限界が来るのも必然だ。それが、さっきの藤沼さんの殺害で限界点を越えたか」

「フフ……エヘヘヘ……」

 杏里は不意に正座を崩すと、ぼんやりとした表情のまま自分の親指をしゃぶり始めてしまった。さすがの小里も唖然とした様子でその様子を眺めている。

「いったい、どうなってるんだ?」

「……退行現象。心の防衛機制の一つ。精神が限界を超えて、自分の心の殻の中に逃げ込んでしまった。こうなったら、もう外からの言葉を受け付けない」

 憲子が冷静に分析する。

「くそっ、身を守るどころかこの有様か」

 小里が舌打つ。だが、こんな状況にもかかわらず、矢守はもしかしたらこの杏里の言動も演技ではないかなどと考えているのに気がついた。そんな事を考えてしまった自分に対するどす黒い嫌悪感に、矢守は押しつぶされそうになる。

「外からは殺人鬼、内からは精神的ストレス。無事に助かっても、全員そろって頭がアサっての方向に向いていたら話にならないわね」

 憲子の言葉に、矢守は本格的に頭を抱えたくなる。ひょっとしたら、自分もこうなってしまうかもしれない。その恐怖が、矢守の心を蝕んでいく。

「気を飲まれるな」

 と、押し殺したような小里の声で、矢守はハッと正気に返った。

「自分の心に負けるんじゃないぞ。ここで俺らまで折れたら、殺人鬼の思う壺だ」

「は、はい」

 矢守は自分の頬を叩いて頭をすっきりさせる。

「気の毒だが、現状では彼女を元に戻す方法はない。事実上、三人では殺人鬼が襲い掛かってきても対処できるかどうか難しい」

「どうするんですか?」

「こうなったら、俺たちの精神が吹っ飛ぶか、殺人鬼に皆殺しにされるか、雨がやんで救助が来るか、どれが先かの我慢比べだ。限界まで耐え抜いてやるぞ!」

 最後は吐き捨てるような言い方だった。もはや、異論を唱えるものなど、この場にはいなかった。


 時間だけが過ぎていく。寒さに震えながら、四人は部屋の中で布団にくるまり、蝋燭での灯りに照らされた室内で無言のまま時を過ごしている。

 何もしないままでは精神的に追い詰められるので、小里は最初の『イキノコリ』論議のときに引っ張り出してきたこの村の住民名簿を改めて眺め回し、矢守は以前小里にアドバイスされたように、小里からもらった手帳に今まで自分が見てきた事を書き記している。憲子はぼんやりとそんな二人の様子を眺め、杏里は指をしゃぶりながら焦点の合わない笑みを浮かべ続けている。

 矢守は真剣だった。殺人鬼に皆殺しにされるにしろ、全員の精神が吹っ飛ぶにせよ、このままでは以前小里が言っていたように、犯人側の完全勝利で終わってしまう。自分が今残しているこの記録は事件解決に最も重要な証拠になるはずだ。それだけに、矢守はバスジャック発生から自分が経験してきた事、見てきた事を余すことなく詳細に書き綴っていた。何が手がかりになるかわからないので、頭を振り絞り、記憶を呼び覚まし、とにかく思いつくものすべてをページに書き込んでいく。そんな作業をしているせいか他に考える事もなく、かえって頭はすっきりとしている状況だ。

 一方、小里は名簿を見ながら何やら複雑そうな表情をして考え込んでいる。

「今更そんなものを見てどうしたんですか?」

 作業をしながら、矢守は小里に訪ねる。

「いや……念のため、俺の記憶の中にある『白神事件』の被害者と、この名簿の名前が一致しているかの確認をな」

「『イキノコリ』は信じていなかったんじゃないんですか?」

「こうなったら、排除できる可能性はすべて排除しておかないとな。俺の記憶違いがあるかもしれないし」

「で?」

「……俺の記憶に間違いはなかったようだ。村民二十三名と俺の記憶の中にある被害者の名前は全部一致している。やっぱり『白神事件』に関して、『イキノコリ』は存在しない」

 見ると、名簿には作成当時の各家の写真なども貼り付けられており、その横には三行程度の説明文も書かれている。下ノ倉家の写真には厳格そうな老夫婦が写っている。おそらく、当主の下ノ倉文吉と、その妻・下ノ倉よねの写真だろう。

 次の写真には三人の若い少女の写真が写っている。それぞれ、高校、中学、小学生だろうか。高校生は長髪の穏やかそうな少女で、中学生は生意気そうで活発そうな外見。小学生はどこか幼い外見で、ピンクのランドセルを背負い、手には歴史の教科書を持っていた。説明文には『寺坂明日美、夜理恵、早百合進級祝い』と書かれている。どうやら、寺坂家の孫娘三人の写真らしい。

 さらに次の写真には、この家の主である村上家の集合写真が移っていた。当主の村上松蔵・駿河夫妻。それに松蔵の息子である白神村村長・村上松夫と、その妻でこの名簿ができた当時に松夫と結婚した村上有里子。有里子は緊張した表情でカメラの方にぎこちない表情を向けており、松夫が彼女に寄り添うようにして写っている。

 最後の赤沼家の写真には一人の老人が警官と交番で将棋を指している写真が写っていた。老人が赤沼家当主の赤沼三太夫。警官があの交番の主である妻木一郎であると、説明文には書かれていた。

「何かわかりましたか?」

 一通り手帳を書き終えてから、矢守は小里に尋ねた。が、小里は首を振る。

「いや。元から何かあると思って見ているわけじゃない。こうでもしていないと、気が狂いそうで仕方がないからだ」

 やる事がなくなってしまった矢守も、その名簿の確認作業に便乗する。

「……にしても、この村にもちゃんとこんな生活があったんだな。当たり前の話だが」

「ええ。この家にも、人がいたんです」

 矢守は村上家の写真を指差しながら呟く。

「その有里子さん、子供ができる予定だったみたいね」

 不意に、憲子が呟いた。

「子供?」

 振り返った矢守たちに対し、憲子は何かを放り投げた。それは、箱に入ったままの何かだった。矢守と小里は顔を見合わせると、その小箱を開けた。

 中には、いわゆるガラガラと呼ばれる幼児用のおもちゃが入っていた。

「生まれてくる子供のために買ったものだったと思う。でも、使う前に事件が起きて、それは使われる事がなかった」

「どこで見つけた?」

「最初に調べたときに、タンスがあった部屋にあった。それとこれも」

 次に放り投げられたのは、なんと母子手帳だった。中を見てみると、事件直前に有里子の妊娠がわかったことが記録されている。

「気の毒に。生まれてくる前に母体ごと命を絶たれるなんて」

 ちっとも気の毒そうな表情をせずに憲子は言う。つまり、「白神事件」には名も残らぬもう一人の犠牲者がいた事になる。

「他にも色々あった。使い古された乳児用のおもちゃとか。多分、他の家のお古をもらったんだと思う。でも、残念。事件直前の妊娠なら、その子供が『イキノコリ』の可能性は間違いなくないから」

 あまりにも不謹慎なことを言う憲子に、小里は不快そうな表情を隠さない。

「いい加減に現実を見ろ。『イキノコリ』はいない。そんな世迷い事を言い続けていたら、この場では生き残れないぞ」

「それは私の勝手。その結果、私が死のうとも、私の自己責任に過ぎない」

 開き直るように言われて、ついに小里の堪忍袋の緒も切れたようだ。

「……なら、もう知らん。勝手にしろ! お前が死んでも、俺は責任を持たないぞ」

「では、お言葉に甘えて」

 そう言うと、急に憲子はその場を立ち上がった。

「どこへ行く?」

「どうせ死ぬのなら、自分の望むところで。こんな薄汚いところで見ず知らずのあなたたちと一緒に死ぬなんて真っ平」

「一応言っておくが、瀬原を例に出すまでもなく、そういうやつは真っ先に殺されるぞ」

「今更殺される順番も何もない。誰が殺されてもおかしくない状況。だったら、自分の好きな事をして死んだ方がまし」

 そう言いながら、憲子は縁側に通じる障子を開ける。

「……今生の別れに一つだけ。雨、やんだみたいね」

 それだけ言うと、憲子はそのまま部屋を出て行ってしまった。が、去り際の言葉に、矢守と小里は慌てて縁側に飛び出した。

「本当だ……雨がやんでる……」

 あれだけ降り続けた豪雨が、ついにやんでいた。暗闇の中、相変わらず所々で雷光らしきものは光っているが、あの激しい雨音は聞こえなくなっている。

「やった……これで脱出できるぞ」

 小里が拳を握り締めて感慨深げに言う。ついに突破口が開かれたのだ。

「夜が明けたら、すぐに村を出よう。ここにいるよりは生存率は格段に跳ね上がる」

「雨宮さんは?」

「……本人が構うなと言ってるんだ。俺たちにできる事はない」

 となると、問題は杏里である。矢守は反射的に部屋の中で布団にくるまっている杏里の方を見たが、そこで何かおかしい事に気がついた。

「小里さん。月村さん……さっきから動いていませんね?」

 その言葉に、小里もハッとした様子で振り返る。慌てて駆け寄ると、布団の中で杏里の体はすっかり冷たくなっていた。

「しまった……低体温症だ」

 小里が舌打ちをする。

「低体温症?」

「体温の急激な低下で体の機能が低下して、最終的に死に至る。いわゆる凍死に近いな。山なんかの遭難でよくある死因だ」

「し、死んでいるんですか?」

「いや、まだかろうじて生きてはいる。だが、このままだと本格的にまずいな。濡れたままにしておいたのはまずかった。体力のある俺やあんたはまだしも、彼女には体力的に耐え切れなかったんだ」

 小里は悔やむように言った。

「どうしますか?」

「このまま彼女を外に連れ出すのは自殺行為だ。とにかく、まずは濡れた服を脱がせて新しい服を着せよう」

「い、いいんですか?」

「彼女の命にかかわる事だ! 彼女が回復したらいくらでも怒られてやる」

 矢守たちは自分たちの上着を脱いで、水分を絞った上で蝋燭の火で簡単に乾かすと、なるべく見ないようにしながら、慎重に彼女の制服の上を脱がせて代わりにそれを着せた。湿っているとはいえ、彼女の着ている制服よりはましである。その後、布団をかぶせて体温を少しずつ上げるようにする。

「この状態で脱出できるんですか?」

「……いや、この状態の彼女を外に出したら、殺人鬼云々以前の問題として低体温症で死んでしまう。残念だが、彼女はここに残していくしかない」

「でも、それじゃあ、もし殺人鬼が来たら……」

「意識がないんだ。抵抗すらできないまま殺されるだろうな」

 小里はあえてはっきりと言う。

「他に選択肢はない。彼女の命を助けたいなら、ここから動かす事はできない。たとえ、殺人鬼に襲われる可能性があったとしても、だ」

「……畜生!」

 矢守は今にも呼吸が止まりそうな杏里を見ながら、畳を拳で殴って吐き捨てた。助けたくても助けられない。あまりに残酷な現実に、そう叫ぶしかなかったのだ。

「せめて、俺たちが脱出可能になる朝になるまでに回復してくれれば話は別なんだが……その可能性も低い。そもそも、朝までもつかどうかもわからないんだ。俺たちには、ただ無事を祈るしかできない」

「ここまで……ここまで生き残ったのに……こんな結末なんて……」

「だが、どうしようもない。このまま三人そろって死ぬか、彼女を残して俺ら二人が助かるか……朝になったら選ぶ必要がある」

 小里はあくまで状況を大局的に見ていた。悔しいが、小里の意見は正論だ。

「夜が明けるまであと数時間もないだろう。俺たちが生き残る事ができるか、この子が生き残ることができるか、あのオカルト女が再び生き残るか、それとも『イキノコリ』かどうかは知らないが殺人鬼が何もかもを皆殺しにするか……すべてがこの数時間で決まるぞ」

 その言葉に矢守は緊張した表情で頷く。いよいよ、この狂気に満ちた惨劇も最終局面に突入しようとしていた。


 それからさらに一時間ほどが経過した。まだ外が明るくなる気配はない。稲光は相変わらずだが、それでも雨音が響いてこないのが唯一の救いである。

 杏里の顔色は一向によくなる気配を見せない。残る二人は押し黙って部屋に座り込んでいた。矢守は手帳に今の状況を追加で書き記し、小里は杏里の様子に気を配っている。ただ待つ。それだけの行為がひどく苦痛に感じられた。

「脱出した後はどうするんですか?」

 手帳に記録を書きながら、矢守が唐突に尋ねた。

「とりあえずは、あのバスだな。もう三日経っているから、発見されている可能性もある。あそこまで戻れば警察なりに出会えるかもしれない。出会えなかったとしても雨はやんでいるんだ。バスの近くで待てばいい」

「戻れるんですか?」

「土方さんがあそこまでの印をつけていたはずだ」

「土方さん……」

 最初に首を斬られて殺された運転手の死に様が頭に浮かぶ。思えば、あれが今回の惨劇の始まりだった。そこから次々と惨殺死体が発見され、あれだけいた乗客もついにこれだけになってしまった。

「……できた」

 そう言うと、矢守は小里に手帳を放り投げた。

「一応、ここに至るまでの記録です。間違っているところがあったら今のうちに指摘してください」

 小里は黙ってその手帳を取り上げると、ペラペラと中を確認し始めた。

「ああ。これで問題ないと思う。万が一俺らが皆殺しになっても、これで殺人鬼の一方的な完全犯罪という事には……」

 その時だった。突然ページをめくっていた小里の手が止まった。

「どうしました?」

「……おい、ここに書かれている事は全部本当の事なんだよな?」

 小里が今までにない怖い表情で聞く。

「もちろんです。あの、何か?」

「ちょっと待て」

 小里はそう呟くと、何やら真剣な表情で考え込み始めてしまった。

「あの……」

「少し黙っていてくれ」

 そう言われては何も言うことができない。矢守は固唾を呑んでそんな小里の様子を伺っている。

 そして、そのまま何分が過ぎただろうか。不意に小里は顔を上げた。その表情は茫然自失といった感じだ。

「何てこった……」

 小里の言葉に、矢守はますますわけがわからなくなる。が、そうこうしているうちに、突然小里は立ち上がった。

「おい、この手帳、少し借りるぞ」

「それは、構いませんが……一体、何かわかったんですか?」

「あぁ」

 小里は重苦しい口調でしばらく何かをためらっている様子だったが、やがて衝撃的な言葉を告げた。

「『イキノコリ』の正体だよ」

 矢守は、一瞬小里が何を言っているのかわからなくなった。あまりにも突然すぎる話だったからだ。が、その意味がわかった瞬間、自身も思わずその場に立ち上がっていた。

「『イキノコリ』の正体って……犯人がわかったんですか!」

「まぁ、な」

 小里は何か思いつめた表情で答える。

「い、一体誰が! というか、それ以前に、あれだけ否定していた『イキノコリ』が本当にいたんですか!」

「確信があるわけじゃない。俺だって半信半疑なんだ。それをこれから確かめにいく」

「確かめにって……」

「こんなことをやらかしている野郎がわかった以上、そいつを捕まえた方が、話が早い」

「無茶です!」

 矢守は思わず叫ぶ。が、小里は強気だ。

「だが、このままじゃジリ貧だ! そこに寝ている彼女を確実に助けるには、犯人そのものを捕まえるしか方法はない」

「それは……確かにそうですけど……」

 と、そこで矢守は重大な事実に気がついた。

「待ってください。正体がわかったということは、その『イキノコリ』は乗客の中にいたってことですか?」

 その言葉に、小里は一瞬躊躇したが、やがてしっかりと頷いた。

「だ、誰なんですか!」

「説明している時間はない。俺はやつを捕まえる。あんたは、ここでその子を守ってやってくれ」

「で、ですが……」

「頼んだぞ!」

 そう言うと、小里は部屋を飛び出していった。『イキノコリ』の正体がわかって、完全に頭に血が上っているようだ。

「小里さん!」

 矢守は思わず追いかけようとしたが、後ろで物音が聞こえて思わず振り返った。それは、杏里が小さく体を動かした音だった。

「月村さん!」

 矢守は杏里の傍に駆け寄った。相変わらず青い顔だが、その目がうっすらと開かれている。

「大丈夫ですか?」

 矢守は必死に呼びかける。杏里は口を開く元気もない様子だが、開いた目で必死に何かを矢守に訴えている。とりあえず峠は越えたという感じだが、まだ予断を許さない状況だ。それに、精神的な部分がどうなっているのかは、この状態ではまったくわからない。

 矢守は咄嗟に周囲を見渡すと、武器になりそうなものを探した。が、そんなものはどこにもない。別の部屋に行けば何かあるかもしれないが、今ここで自分が部屋を離れたら、残された杏里がどうなるかわからない。だが、このままでは凶器を持つ殺人鬼相手に戦う事などできるはずがない。

 矢守は決心すると、杏里に呼びかけた。

「少し待っていてください。今、武器を持ってきます」

 杏里に聞こえているかどうかはわからなかったが、言うだけ言うと矢守は部屋を飛び出した。台所になら、包丁の一本くらいあるだろう。それを取って戻ってくるだけである。

 家の中は真っ暗である。かすかに光る稲光を頼りに矢守は廊下を進んでいく。物影に殺人鬼が潜んでいる可能性はあるが、この暗闇では相手も行動をかなり制限されるはずだ。それを見越しての賭けであった。

 何とか手探りで台所にたどり着くと、矢守は手近な棚から一本の包丁を取り出した。完全に錆びているが、ないよりはましであろう。矢守はとりあえず息をつくと、何気なく台所の窓から外を見た。

 その時だった。矢守の目に不自然なものが飛び込んできた。この台所の窓は中庭……つまり、最初の殺戮が起こった離れや便所の方向に面している。つまり、この窓から離れや便所の様子が見えるのであるが、その離れに入る勝手口の前に何かがもたれかかっているのが一瞬であるが見えたのだ。

 矢守の心臓がドクンと音を刻む。嫌な予感がした。見たくない。そう思っても、視線はおのずとそちらに向いてしまう。暗闇でよく見えないが、中に宮島真佐代の生首が転がっているであろう離れの勝手口に何かがあるのは間違いない。

 その時だった。唐突に空で稲光が光り、その物体の全体像を矢守の網膜に明確に焼き付ける。次の瞬間、矢守は大人げもなく絶叫し、そのまま台所の床に尻餅をついた。

「あ、雨宮さん!」

 離れの入り口、そこに扉をふさぐようにもたれかかっていたのは、首筋から大量の血を流して絶命している雨宮憲子の姿だったのである。

「そ、そんな……」

 さっき不気味な笑みを浮かべながら堂々と部屋を出て行った憲子の姿が矢守の頭にフラッシュバックする。一番犯人である可能性が高いと思われていた、ライトバン事件の『イキノコリ』である雨宮憲子。だが、ライトバン事件では生き残った彼女も、今回はこの村の魔の手から逃れる事はできなかったようだ。

 もはや、矢守の頭の中はパニック状態だった。矢守は手に持った包丁を握り締めると恥も外聞もなく這いずるように台所を出て元の部屋に戻ろうとする。あの様子では、憲子はこの家を出てすぐに殺されたようである。だとするなら、危険が身近に迫っているという事ではないか。

 矢守は何度もよろけながら、必死になって立ち上がって走り出す。足がもつれ、何度も転んだり壁にぶつかったりしながら、何とか玄関のある場所までやってきた。もはや、憲子の遺体を確認しにいく余裕など残っていない。とにかく、一刻も早く元の部屋に戻らなければ。この瞬間、矢守の頭にあるのはそれだけだった。

 だがこの直後、矢守に更なる災厄が襲い掛かった。

「ギ、ギャアアアアァァァァァァァ!」

 玄関から離れようとした矢守の耳に、突如として大音量の絶叫が飛び込んできたのだ。


 それは、村全体に響き渡るほどの絶叫だった。矢守は思わずギョッとして足を止める。その声には、嫌というほど聞き覚えがあった。

「こ、小里さん?」

 犯人を捕まえると勢い込んで部屋を出て行った男……この状況下で、最も頼りになっていた男……。その絶叫は、あの小里利勝が発したものに間違いがなかった。

 矢守は思わず身構えて体を硬直させる。だが、その大絶叫を最後に、外からは一切の物音がしなくなった。不気味な静寂が村全域を包み込む。

「う……」

 矢守の口から自然に声が出る。

「ウワァァァァ!」

 矢守は狂ったように絶叫しながら弾かれたように走り始めた。小里の様子を確認しにいこうなどという考えは当に頭の中から消し飛んでいた。

 小里もやられた。あれだけしっかりしていた小里でさえやられてしまった……。もはや、この村で生き残っていてまともに動けるのは自分ただ一人だけである。

 この村に逃げ込んだ乗客乗員のうち八人が殺され、一人は瀕死の重症。残っているのはもはや自分だけである。そして、矢守は自分が犯人でないことを誰よりもよく知っている。

 だからこそ、矢守の頭の中は混乱状態だった。クローズドサークルの中で人が殺されていき、一人だけ生き残ったのならその人間が犯人。それは常識の中の常識であろう。

 だったら、どうして自分が生き残ってしまうのだ。犯人でないはずの自分がどうして……それは、まさに以前小里が言っていた、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』そのものではないか。

 まさか、殺されたと思われていた誰かが実は生きていたとでも言うのだろうか。だが、矢守はほとんどの死体を確認してきた。土方運転手は首を切断され、宮島真佐代は生首だけ。時田琴音は全身バラバラにされた挙句に首と胴体を打ち捨てられ、須賀井は胴体より下がなくなり、瀬原麻美は頭を殴られた上で右腕を持ち去られた。そして藤沼明秀と雨宮憲子は喉を掻っ切られて殺され、今、小里利勝も犯人の手にかかった。状況的に考えて全員の死体が本人のものであることは間違いがないだろう。また、あの死体の状況では、誰かが生き残っているなど考えられない。

 だったら、今まさに自分たちの命を狙っているあの殺人鬼は何者なのだろうか?

 考え込んでいる暇はなかった。矢守は息を切らせながら元の部屋に転がり込む。幸い、杏里の様子に変化はない。

 ここだけ明かりがついていれば、殺人鬼に居場所を特定させてしまう。矢守は咄嗟についていた蝋燭をすべて吹き消し、包丁を構えて杏里の傍に座り込んだ。

 周囲を警戒しながら矢守は考え続ける。そう言えば、雨宮発見後のゴタゴタですっかり忘れていたが、結局柴井の手帳に書かれていた『孔明』なる人物の正体もわからないままだ。そもそも、あのバスの中に『孔明』がいたのかどうかさえうやむやになってしまっている。だが、今となってはそんなことはどうでもいい。やる事や考える事がすべて裏目に出てしまっている現状では、下手に考えない方がいいのかもしれない。

 息を押し殺し、矢守はまるで穴の中に潜む小動物のように殺人鬼の脅威が去るのを待つ。日が昇るまであと何時間なのだろうか。時間の感覚など当に狂っている。こうなってくると、意識をなくしている杏里の方が幸せなのかもしれない。暗闇の中、絶望的に長い時間がその場を流れていく。

 その時だった。ガラガラ……と、小さな音がどこか遠くから聞こえた。矢守の心臓が跳ね上がる。あれは、玄関の扉が開く音だ。

 小里が帰ってきた……などという甘い幻想はもはや持つことができない。あの絶叫で小里が生きていると考える方がどうかしている。あるいは、ああは言っていたが小里自身が殺人鬼だったという可能性も捨てきれない。

 だが、だとするなら藤沼殺しはどうやって行われたのか。藤沼殺しの際には、小里は矢守の目の前にずっといたという完璧すぎるアリバイがある。まさか、あの事件だけ別の犯人だとでも言うのだろうか。わからない。何もかも根底から狂っているかのようだ。

 そんな事を考えているうちに、部屋の向こうから木張りの廊下を一歩ずつ踏みしめる音が聞こえてくる。ギシ、ギシとその音はだんだんこちらに近づいてくる。今となっては自分たち二人しかいないはずのこの村にもう一人誰かがいる。それが目の前で実証された形だ。

 矢守の包丁を握る手が汗ばむ。暗闇の中、矢守は細かく体を震わせながらそのときを待っていた。足音はすでに縁側の方向から聞こえてくる。それはつまり、目の前の障子が開いた瞬間、矢守の命運も決まるという事だ。

 このままこの部屋にいたら殺される。だが、杏里を動かす事はできない。と、頭の片隅で悪魔のささやきが聞こえてきた。杏里を捨てて隣の部屋に逃げろ。そうすれば、殺人鬼は杏里を殺すのに満足して、自分は助かるかもしれない……。

 矢守は必死に頭を振ってその考えを吹き飛ばそうとする。だが、一度浮かんだ考えはそう簡単に消えてくれなかった。ふと気がつくと、矢守はいつの間にかふらふらと立ち上がり、音を立てないように隣の男子部屋に続く襖に手をかけていた。

 逃げてはいけない。そう思いながらも、体は勝手に動く。意識がないはずの杏里の視線が後ろから突き刺さるように感じる。だが、彼の腕は自分のものではないかのように勝手に襖を開ける。縁側の足音はもう目の前だ。矢守は一瞬杏里の方を見たが、そのまま黙って隣の部屋に入り、襖を閉めた。

 襖を閉めたとたん、体の自由が戻り、ぶわっと嫌な汗が全身を伝う。自分が助かるために杏里を見捨てた。その事実が、矢守の思考を急激に曇らせる。矢守は咄嗟に襖を開けて元の部屋に戻ろうとしたが、取っ手に手をかけようとすると、そこで体の自由が利かなくなる。もはや、自分の精神もズタズタに壊れているのかもしれない。ぼんやりとそんな事を考えながら、いつしか矢守は襖から遠ざかり、部屋の隅の壁にもたれかかる形で座り込んでいた。

 と、隣の部屋の縁側の障子が開く音がする。矢守は思わず包丁を両手で握り締めた。音は一瞬止まったが、すぐに畳を擦るような独特の音が聞こえてくる。誰かが部屋の中に横たわる杏里の下へ近づいた音だ。

 つかの間の沈黙がその場を包み込む。だが、その直後、ヒュッという空気を切るような音が響き、次の瞬間、ドシュッと嫌な音がした。矢守は思わず耳をふさいで音が聞こえないようにする。自分はあの少女を見殺しにした。自分が助かるため。そのために、あの少女を生贄にしてしまった……。今まで感じた事もない罪悪感が矢守の中に渦巻く。その罪悪感に、思わず大声で叫びだしそうになる。

 だが、寸でのところで矢守は声を飲み込んだ。今ここで見つかったら、杏里の死はそれこそただの無駄死にだ。罪悪感があるなら、絶対にここから生き延びろ。生き延びてそこでいくらでも卑怯者のそしりを受ければいい。お前はそれだけの事をしたんだ。

 それは自分がした卑怯すぎる行為を正当化していただけなのかもしれない。が、矢守は自分にそう言い聞かせながら、隣の部屋から物音が消えるのを待った。

 矢守は、これほど時間の流れが遅く感じたことはなかった。杏里を見捨てた今、もうこの場に生き残っているのは自分一人だけしかいない。つまり、自分が殺されたら、その時点でゲームオーバーだ。

 不気味な静寂だけがこの場に漂っている。隣の部屋に侵入したやつは去ったのだろうか。動くこともできず、張り詰めた時間がゆっくりと過ぎていく。矢守は体を動かそうとしたが、その体はまるで石のように凝り固まっており、まともに動く事さえできなかった。まるで金縛りである。

 矢守は必死に体を動かそうとした。これから何が起こるとしても、このまま体が動かないままではどうしようもない。矢守は鬼のような形相で強引に体を動かそうと身をよじる。ここにいてはいけない。一刻も早くこの場から逃げなければ……。焦れば焦るほど体は硬直していくようだ。

「う……ご……け……っ!」

 矢守は小さく呻くように言いながら必死に立とうとした。次の瞬間、矢守の体は急につっかえを失ったかのように前につんのめり、そのまま襖の前に倒れこんだ。

 まさにその時だった。

 目の前の襖を切り裂いて、一本の手斧が矢守の頭上に襲い掛かった。


 間一髪だった。矢守は頭上から襲い掛かる物体に気づき、反射的に横に転がるように避けた。障子を突き破って縁側に転がり出た直後、今まで自分のいた場所に手斧が深々と突き刺さる。

「……へ?」

 矢守は思わず間抜けな声を上げていた。が、次の瞬間、手斧が何者かに引き抜かれるにいたって、冷や汗が全身を伝った。

 目の前に、黒い雨合羽のようなものをかぶった謎の人物が立ち、頭をすっぽりと覆ったフードの奥から矢守をじっと見下ろしていた。雨合羽が全身を覆い、両手に手袋をしているせいでその人物が男か女かもわからない。が、その全身は両手も含めて血にまみれており、犯行の際についたものなのかその雨合羽や手袋は所々が小さく破れ、その奥に細かい傷のようなものも見えている。しかし、その人物はそんな傷に対しても一切反応する様子もなく、体の内側から明らかな殺意を吹き出していた。

「ひ……ヒィィッ!」

 矢守は反射的にそんな悲鳴を上げてそのまま後ずさる。と、その謎の人物は、手斧を持っている右手と反対側の左手で、何かを無造作に放り投げた。それが矢守の目の前に落ちる。それを見た瞬間、矢守の胃の中が一気に逆流しそうになった。

 それは、どう見ても人の腕だった。

「な、なななな……う。腕……」

 もはや、まともにものを言うことすらできない状態でありながらも、矢守はその腕が意味するところを瞬時に理解する。肘の辺りで切断されたその腕には、先程絶叫を上げた小里が着ていた服の切れ端がこびりついていたのだ。

 もはや疑う余地はない。この人物……否、この殺人鬼は小里を襲撃して、無常にも彼の腕を切断してしまったのだ。そしてそれは、小里がもはやこの世の人間ではない事を意味していた。

 矢守は反射的に踵を返して、這いずるようにして殺人鬼から少しでも遠く離れようとする。が、その時、開け放たれたままの隣室……つまり、彼が杏里を置き去りにした部屋の中が目に入る。いや、目に入ってしまったというべきだろうか。

 そこには、先程と同じ布団に横たわった姿勢のまま、頭を打ち砕かれた杏里の姿があった。ねじれた首が畳の上にゴロリと横たわり、血にまみれた恨めしそうな視線を矢守の方に見せている。

 それを見た瞬間、矢守の中で何かが切れた。

「ヒ、ヒヒヒ……ヒーッ、ヒーッ!」

 わけのわからない雄叫びを上げながら、矢守は縁側のガラス戸を突き破って外に飛び出し、そのままがむしゃらに走り始めた。理性など当に崩壊している。何度も足をもつれさせ、転び、全身傷だらけになりながらも矢守は走り続ける。とにかく、あの場から少しでも遠くに逃げる。矢守の頭の中にはそれしかなかった。どこをどう逃げているのかさえもうわからない。

 気がつくと、矢守は深い森の中にいた。ここがどこなのか、村からどれくらい離れたのか、まったくわからない。というより、今の彼の中ではそんなことはどうでもよかった。

「ヒー、ヒー……皆殺し……皆殺しだ……皆殺しなんだ! 誰も助からない! みんな死ぬんだ! イキノコリが殺しにくるんだ! アーハッハッハ! ハーハッハッハッハッハッハ! ヒーヒッヒッヒッヒ!」

 狂ったように……というより、狂人そのもの高笑いを上げながら矢守は森の中をよろめきながら進んでいた。深い森の中、その狂死歌は甲高く響き渡る。そして、その叫び声は殺人鬼を呼び寄せるホイッスルに他ならなかった。

 ガサリと矢守のすぐ傍の茂みから音がした。矢守は狂気に満ちた顔でそちらの方をゆっくり見る。そこには黒い雨合羽を着た殺人鬼が、血にまみれた手斧を握り締めて無言のまま立っていた。

「ヒーヒッヒ! アーハッハ!」

 矢守は狂気の笑いを叫び続ける。だが、その目にうっすらと涙が浮かんでいたのは、彼の最後に残った理性の表れだったのだろうか。

 そんな矢守の様子を黙ってみていた殺人鬼は、不意に無造作に矢守に近づくと、ゆっくりと手斧を振り上げる。矢守はもう逃げるそぶりも見えない。そして、最後の狂笑を発す。

「ハーッハッハ! ヒャーハッハッハッハッハ! ハーッハッハッ……」

 ヒュッ、という鋭い音とともに、矢守の狂笑が途絶える。その瞬間、手斧は矢守の脳天を打ち砕き、激しい返り血がざくろが割れたように周囲に飛び散った。

 それが、この白神村に逃げ込んだ乗客最後の一人の、あまりにもむごすぎる最期だった。



 白神村に朝が来る。誰もが待ち望んだ日の光が村に差し込んでくる。

 だが、もはやその日の光を待ち望む人間はこの村にはいない。あるのは、至る所に転がる惨殺死体の山だけである。

 そんな村の中を、フードをかぶった殺人鬼が荷車を押しながらゆっくり進んでいく。そして、無造作に荷車の中のものを村のあちこちに放り投げていく。

 それは、驚愕の表情にゆがむ土方運転手の頭部であり、

 それは、すっかり血の気の失せた宮島真佐代の足であり、

 それは、あちこちに抵抗した際の傷がついた瀬原麻美の右腕であり……

 今まで遺体からなくなっていた部位を、殺人鬼は惜しげもなく村のあちこちに投げ捨てていく。まるで、それがこの惨劇の仕上げであるといわんばかりに。

 そして、それが終わった瞬間、殺人鬼は今まで着ていた雨合羽のフードをめくってその素顔をさらした。そしてその口元を歪め、虚ろな視線で虚空を見上げる。

 それは、この白神村で十年越しに起こった大量殺人劇の幕引きを示すものであったのだが、もはやそれを理解できる人間は、この村の中には一人として存在しない……


 惨劇は、終わった。


 そして、その真相の解明には、今しばらくの時が必要となる……

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