第八話 「出現! 深き森の主」
姉ちゃんの話だと、日没までには帝都に到着できるらしい。
昨日と同じ速さで歩けば、という話だが。
ここで問題になってくるのが、ナルカの体だ。
痛みは楽になったとは言っていたが、俺も姉ちゃんも無理をさせるつもりはなかった。
昨日よりも休憩は多めに取ろうと、出発前に姉ちゃんと相談して決めた。
ナルカに聞こえると落ち込んでしまうだろうから、こっそりと。
姉ちゃんは、別に今日中に着かなくてもいいよね、と言っていた。
帝都に行くよりも、体を壊さない方が大事だ、とも。
それは俺も概ね賛成だった。
この旅は、他の誰でもない俺たちの物だ。
誰かに急かされるわけでも、期限を守らなければいけないわけでもない。
慣れていない体に鞭を打たせてまで無理をする必要なんて、これっぽっちもない。
ただ、もう1日森で夜を明かすのは躊躇われた。
ナルカの体に無理をさせないというのであれば、安全で柔らかな布団の上で寝させたほうがいい。
肉体的にも、精神的にも、そのほうが回復する。
金は持っていないが、手持ちの肉類を売れば宿代くらいにはなるだろう。
2人で悩んだ末、ナルカが帝都まで持ちそうにもなかったら森で寝泊りする、という話で落ち着いた。 本人には秘密で話を進めるのは悪い気がしたけど、変な誤解を生むよりはずっとマシだと割り切ることにした。
程なくして、俺たちは帝都へ向けて森を進み始めた。
肌寒かった朝と比べ、昼は少し暑い。
昨日と変わらない気温と湿度の中、ナルカは息を荒くして歩いていた。
心なしか、昨日よりも呼吸が乱れているような気がする。
疲れがまだ完全に抜けきっていないのもあるだろうが、足から腰にかけての痛みが厄介のようだ。
足に体重がかかる度に走るその痛みに、ナルカは唇と噛みしめながら耐えていた。
見かねて、休憩を提案した。
歩いてから時間も経っていたし、ちょうど良かった。
気遣われたのに感付いたのか、ナルカは休憩することを渋っていた。
意地を張っているわけではない。
俺たちの足を引っ張るのが嫌だったらしい
それでも、姉ちゃんに諭されると、ゆっくりと頷いてくれた。
ほっと安心できた反面、このままだと駄目だと感じた。
俺たちよりも、自分のことを考えるようになってもらわなければ、すぐに潰れてしまう。
早いところ何か考えなければと、強く実感した。
「あ゛ぁ~、痛゛ぃいい~……」
呼吸が落ち着いた後、足を摩りながらナルカがそう唸った。
何とかしてやりたいが、そればかりは仕方がない。
怪我と同じで、すぐに治すこともできないし、痛みもしばらくは引かない。
完治するまでは、大体3日から5日。
その間だけは、どうしても我慢してもらう必要がある。
その後に体力と筋力がつくとはいえ、痛みは避けて通れない。
「ナルカちゃん、どう? 体は大丈夫?」
「大丈夫ですけど、つらいです……。やっぱり、長い間眠ってからでしょうか……?」
「それもあるかもしれないな。あんな所にずっと入ってたら、体も鈍るだろうし」
「やっぱりそうですよねぇ。せめてお布団の上とかだったら大丈夫だったかもしれないですけど」
いや、布団の上でも変わらないと思う。
「ナルカちゃんって、どれくらい眠ってたか覚えてるの?」
「覚えてませんけど、結構な時間寝てたと思います。お寝坊さんもいいところです」
あはは、とナルカが笑う。
何だか笑うに笑えない。
「そういえば、リオスさんは朝が早かったですよね。今朝も私が起きたらもういませんでしたし」
「いつもあんなに早いわけじゃない。狩りに行く時は自然に目が覚めるんだ。
ちなみに、姉ちゃんも狩りの当番になればもう少し早く起きるぞ」
「その代わり、何も仕事がない時は遅めに起きるけどね。いっつもリオスに起こしてもらうんだよ」
照れ隠しに、姉ちゃんが頬を掻く。
いつもしっかりしているように見える姉ちゃんだけど、目を覚ますのだけは苦手だ。
揺さぶっても揺さぶっても、唸るばかりでちっとも目を開いてくれないし、ひどい時だと半日ほど寝ている。
なのに、狩りに行く日の朝だと自然に目を覚ますのだから不思議なものだ。
「いつも狩り日みたいにすっと起きてくれたら助かるんだけどなぁ」
「ごめんごめん。でも、なかなか起きれないんだよ。ぼーっとするし、動けないし」
「あっ、わかりますそれ! 目は覚めてるのになぜか体が動いてくれないんですよね!」
「そうそう! 起きるぞ起きるぞ~って思っても、全然動かないんだよね!」
何か通ずるところでもあったのだろうか、2人が意気投合した。
俺はどちらかと言えば寝起きはいいほうだから、姉ちゃんとナルカの話がよくわからない。
すっごく眠いときに、うつらうつらと船を漕ぐ感じに似ていたりするのだろうか?
「ナルカも朝は駄目なのか?」
「駄目ってほどじゃないですけど、苦手ですね。
今日もたぶん、体が痛くなかったらリオスさんが来るまで寝てたと思います」
「あ~、それ私もかもしれない。ナルカちゃんが叫ばなかったらずっと寝てたと思うし」
「あ、あははは。ごめんなさい」
「いえいえ、とっても刺激的な目覚ましだったよ」
そういえば、ナルカの叫び声で起きたって姉ちゃんが言ってたっけ。
眠ってるところへの絶叫だ。
今は笑っているけど、かなり驚いただろうな。
なまじ耳がいいもんだから、きっと跳び上がったに違いない。
「習慣になっちまえば大丈夫だ。ナルカも、そのうちすぐ起きられるようになる」
「そうだといいんですけどねぇ……。慣れるでしょうか?」
「きっとすぐに慣れるよ。そうなったら、今度はナルカちゃんにも起こしてもらおうかな」
「いや、姉ちゃんも自分で起きれるようになりなよ」
「んん~……、まぁそのうちね。うん、そのうち」
俺から視線を逸らし、姉ちゃんが笑って誤魔化した。
……あぁ、こりゃ駄目だ。改善する気がない。
まったく、姉ちゃんの寝起きが良くなるのはいつになることやら。
そんな感じで会話をつづけているうちに、ナルカの息が徐々に整ってくる。
この分だと、もう大丈夫だろう。
出発しよう。
頃合いを見計らって雑談混じりの休憩を終え、俺たちは再び森を歩き始めた。
最初に歩いたときよりも、ずいぶん足の進み具合が速くなった……と思う。
一度休んだからか、ナルカの足も軽快だ。
休憩を挟んだのが良かったらしい。
こう余裕が出てくると、山歩きのいいところが目についてくる。
顔を覗かせている芽や、柔らかな木漏れ日。
木々の間から吹き込んでくるそよ風に、深くて濃い緑の匂い。
時折聞こえてくる鳥の唄も捨て難い。
どれも狩りの最中だと気にも留めない小さなものなのに、今は違う。
感じるもの全てが、和ませてくれる。
良い。
こうやってのんびり山道を歩くのが、すごく心地いい。
ナルカはどう思っているだろうか。
気になって、振り向いてみた。
息を荒くはしているものの、視線はあちらこちらと動いている。
気に入ったものを見つけるたびに視線を止め、それをじっと見入っていた。
……よかった。ナルカにも、少し余裕が生まれたようだ。
この調子だと、体力もすぐついてくれるだろう。
俺と姉ちゃんがナルカに狩りを教えるのも、そう遠くないことかもしれない。
森の息吹を感じつつ、俺たちは前へと進む。
途中、2度目の休憩を取り、朝に焼いておいた肉を軽く口にした。
ナルカは猿の肉に挑戦したけど、癖が強すぎたのか何とも言えない表情をしていた。
それでも、最後には全て腹に納めていた。
その分、水を少し多めに飲んでいたが。
順調だった。
特に変わったこともなければ、ナルカの体にもおかしな点は見られない。
天気も良いから足場もマシだし、進み具合も予定よりずっと早い。
このままいけば、日没よりも前に到着できるだろう。
もちろん、だからと言って油断はしない。
こういう時に限って事故は起こるということを、俺は身を持って体験してきた。
何が起こってもすぐ対応できるよう、気を引き締めておかなければならない。
今は俺1人だけじゃなく、ナルカも姉ちゃんもいるのだから。
胸の内でそう決めて、ふと気が付いた。
鳥の鳴き声が、いつの間にか消えている。
あれだけ穏やかだった森の空気も、急激に張り詰めていく。
この独特の雰囲気の正体を、俺は知っている。
何が迫ってきているのかが、わかる。
「ナルカちゃん、止まって」
姉ちゃんがナルカの肩を掴む。
どうやら、姉ちゃんも気づいたらしい。
「はぁ、はぁ……、どうしたんですか?」
「いいって言うまで声を出しちゃダメ。それと、苦しいかもしれないけどすぐに呼吸を整えて。
無理なら、なるべく静かに息をして。いい?」
真剣な表情をしながら、姉ちゃんが矢次に注文する。
何が何だかわからないという表情をしながらもナルカは静かに頷き、両手で口を押さえた。
小さな手の中で、何度も何度も深呼吸を繰り返している。
激しく肩を上下させているが、呼吸する音は小さい。
これなら大丈夫だ。
近づかれても、こちらの位置を気取られることはない。
姉ちゃんが目を閉じ、聞き耳を立てる。
何度か耳を動かし、そして右を指差した。
どうやら、やっこさんはそっちの方から近づいて来ているらしい。
息を整えているナルカの手を取り、移動を開始する。
なるべく速く、なるべく静かにだ。
近くの茂みに身を隠し、弓矢を取り出す。これは保険だ。
使うつもりはない。
少し遅れて、姉ちゃんも茂みに入って来る。
元いた場所には、今朝捌かれた生肉が置かれていた。
あれで少しでも注意がいってくれればいいのだが、そればかりは運だろう。
腹が空いている事を祈るしかない。
姿も、音も絶った。
注意を引ける物も置いたし、姉ちゃんも弓矢の準備ができている。
あとは待つばかり。
来るなら来い。
じりじりと、焼けつくような緊張感が漂う。
まだかまだかと、心の中で急かしているうちに―――そいつはやってきた。
(山犬……! でかい……!)
鋭い眼光に、隠し切れていない犬歯。
返り血でも浴びたかのように薄汚れた毛並みは、どこか薄ら寒いものを感じさせた。
体は思っていたよりずっと大きい。
俺の背丈と同じくらいの高さがあるし、横幅もかなり長い。
噛み付かれても、引っ掻かれても終わるだろうなと、どこか他人事のように分析している自分がいた。
力の差があまりに大きいといつもこれだ。
慌てるよりも、かえって冷静になる。
ふんふんと鼻を鳴らし、山犬が目の前に置かれている肉へと近づいていく。
そのまま喰うかと思いきや、警戒するように辺りを見回し、耳を立てた。
さすがに外敵の確認を怠るような真似はしてはくれない。
素直に喰ってくれることを期待していたのだが、そこまで馬鹿ではなかったか。
息を殺し、一切の動きを止めた。
破裂しそうなくらい心臓が跳ね、胸を内側から激しく叩く。
どうか気が付かないでくれと、心の底から懇願した。
頼むから見逃してくれ、と。
思いとは逆に、山犬はしつこく鼻をひくつかせる。
止める様子は見られない。
俺たちは石のように動きを止め、山犬の警戒が解けるのをただじっと待った。
粘つくような濃密な時間の中、状況が動いた。
―――悪い方向に。
「ウ゛ウ゛ゥゥ……」
山犬の視線がこちらを向く。
牙を剥き出しにし、唸り声を上げた。
……気付かれた。
ぶわっと汗が吹き出し、背筋に冷たいものが走る。
このままだとまずい。
2人が食い殺されてしまう。
(やるしかない……!)
迷うことなく、番えていた矢を引く。
先手だ。
先手を取って山犬を怯ませれば、2人を逃がせるかもしれない。
狙いは目。
必ず命中させ、視界を奪わなければならない。
だが、矢を放とうとした瞬間、横から手が伸びてきた。
(―――ッ!?)
驚いて、引いていた矢をつい戻してしまう。
誰の手かなんてわかりきっている。
姉ちゃんだ。
姉ちゃんが、矢を撃つ事を止めたのだ。
顔を向けると、険しい顔をして姉ちゃんが首を横に振った。
撃ってはいけないと、顔が言っていた。
その意図がわからず、混乱してしまう。
こんな状況で、何をためらう必要がある?
もたもたしていると、先手を許してしまうことになってしまう。
そうしたら取り返しがつかない。
俺がどう動こうと、2人が無事に逃げ切ることは難しくなる。
思考が一瞬固まったその隙に、山犬が動いた。
弓を再び構えようとしたが、俺の動きはあまりに鈍かった。
風のような山犬を見ていることしかできない。
死んだ。
終わった。
そんな言葉が頭をよぎった。
だが、山犬はこちらへ攻撃をしかけようともせず、ましてや近づいて来ようともしなかった。
ただ目の前の肉を咥え、その場を全速力で去っていった。
一瞬だった。
俺がのたのたと弓を構えている間に、山犬は行動を終わらせていた。
あまりにも唐突だったせいで、何が起こったかを理解するまで時間がかかったが、どうやら俺たちは助かったらしい。
見逃された、というべきか。
とにかく、3人とも無事だ。
あれだけ重苦しかった空気が一気に軽くなり、俺はようやくそこで止めていた息を吐き出した。
硬直していた体が軽くなり、空気が全身にいきわたる。
「……ナルカ、もう大丈夫だ。どっか行っちまったよ」
肩に手を乗せ、そう言ってやる。
プルプルと、ナルカの体は小刻みに震えていた。
初めて見た獣があんな大型だったらこうもなる。
気遣う余裕がなかったとはいえ、何もしてやれなかった事に少し後悔した。
ナルカは喋ろうとしなかった。
かといって、体も動かそうともしない。
顔を引きつらせ、どこか遠くを見つめていた。
何度か名前を呼んでみたが、ナルカは応えなかった。
短い呼吸を何度も繰り返すだけだった。
一向に落ち着きは戻らず、石のように固まったままだ。
「良く頑張ったねナルカちゃん。恐かったでしょ? もう大丈夫。大丈夫だからね」
姉ちゃんが優しくそう囁きながら、震えるナルカを抱き締めた。
それでようやく安心したのか、ナルカは姉ちゃんの胸の中で声をあげて泣き始めた。
必死に抱き着いてくるナルカの背中を、姉ちゃんは母親のように優しく、何度も叩いていた。
……心が痛んだ。
何もしてやれないのが歯痒く、こんな目に遭わせてしまったことが悔しかった。
しばらくして、ナルカはようやく落ち着きを取り戻した。
すんすんと鼻をすすり、目を赤くしているナルカを見て、居た堪れなくなった。
守ると誓ったのにこのざまだ。
何とも情けない。
「……すまん、ナルカ。恐がらせたな」
「リオスさんは悪くないじゃないですか。どうしようもなかった事くらい、私にもわかります」
微笑みながら、ナルカがそう言ってくれる。
無理して笑っているのはわかった。
あんなに眩しかった笑顔が、何だかぎこちなかったから。
「でも……本当に恐かったです。あんなに震えたの、すごく久しぶりのような気がします。
お2人は、ずっとあんな怪物を相手にしてきたんですね……」
「恐かったのは俺もだ。正直、バレた時は本当に死ぬと思った」
危機が去ったというのに、まだ汗が止まらない。
大型の獣と対峙するのは初めてじゃないが、それでもさっきの山犬はケタ違いだ。
今まで出会った大型の中では、まず間違いなく上位に入る。
「それにしても、攻撃してこなくてよかったな。向かってこられたら死んでた」
「あの山犬、強くて頭も良いけど臆病だから、こっちから手を出さない限りは襲ってこないの。
ここらの主でね、何回か会ってるんだよ。ごめんね、説明してる暇がなかったから……」
それじゃ、俺があそこで山犬を射ていたら、間違いなく全滅してたわけか。
考えるだけでも背筋が凍る。
姉ちゃんが止めてくれて、本当によかった。
「とっても強くて賢いのに、恐がりなんですか?」
「さっきの山犬だけに言えることじゃないけどね。獣のほとんどはそうだよ。
怪我をしても、私たちと違って手当もできないからね。
なるべく危険を避けるのが多いんだ」
野生の中で生き続ける獣にとって、ちょっとした怪我でも致命傷になりかねない。
たとえ切り傷程度の軽いものだとしても、そこから化膿して、最後には死ぬということだって十分ある。
危険はなるべく避けるものだということを、獣たちは知っているのだ。
だから、山犬は俺たちを見逃したんだろう。
山犬にしてみれば、肉だけ手に入れることができればそれでいいのだ。
わざわざ危険を冒してまで、俺たちを殺す意味はない。
そんなことをしなくても、腹は満たされるのだから。
「ナルカ、もう大丈夫か?」
「あ、はい。泣いたらすっきりしました。抜けた腰も元通りになりましたし……よいしょっと」
言いながら、ゆっくりと腰を上げた。
無理をしている様子はない。
本当にもう大丈夫みたいだ。
それなら、もう出発したほうがいいだろう。
もたもたしていると、山犬のおこぼれにありつけると勘違いした獣が寄って来るかもしれない。
さっさと離れるのが吉だ。
「姉ちゃん、もう行っても大丈夫だよな?」
「うん、大丈夫。早く行こう」
「よし、じゃあ出発だ。ナルカ、何かあったら言ってくれ」
「はいっ!」
元気な返事が返ってくる。
どうやら調子が戻ってきたらしい。
ナルカの声に安心しながらそそくさとその場を後にし、俺たちは再び帝都へ向けて歩き出した。
+++++
歩き続けて、結構な時間が経ったと思う。
辺りは薄暗くなり、肌寒さを覚えた。
夜行性の獣の鳴き声が森の中に木霊し、風で揺れる木の葉の音が妙にうるさく感じる。
危険だけでなく、不気味さも増すのが夜の森だ。
焚火のような明かりがなくては、悪い所しか見当たらない。
ナルカも、昨日とは違う森の様子に恐がっているのか、何か物音がするたびに身をすくませていた。
足を止めて火を点けてやりたいところだが、森を抜けるまであとほんの少しの所まで来ている。
ここまで来てしまったら、進みきってしまったほうがいい。
無言のまま歩いていると、うっすらと明かりが見えた。
夕日というには薄く、月明かりにしては赤みがかった色だった。
どうやら、奥の木と木の間から差し込んでいるらしい。
ということは間違いない。
あそこが出口だ。
「もう少しだよ、2人とも頑張って」
姉ちゃんの声を背中に受けながら、歩く速度を速める。
前へ進むにつれて薄暗さは消えていき、明かりの向こう側が見えてくる。
最後に待っている木の間を抜け―――
そして俺は、待っていた景色に圧倒された。
「う、わぁ…………」
綺麗で、広くて、豊か。
目に飛び込んできた物を言い表すとしたら、そんな言葉がぴったりだろう。
大地を覆っている草原。
点々としている大規模な田畑。
その隣に流れている川。
そのどれもが夕焼け色に染まっていて、思わず息を呑んでしまう。
中でも一際目を引いたのが、お互いに違った雰囲気を持つ2つの城だった。
1つはオンボロで、どこか古臭い。
ここから見ても、壁や屋根の至る所に穴が開いているのがわかる。
場所もずっと端のほうにあるし、それがまた物悲しさを感じさせた。
もう1つの城は、オンボロの方と比べてずいぶん厳かさがある。
外壁はもちろん、屋根も柱も白を中心とした色合いのせいか、どこか神聖な空気が漂っていた。
その下には街が広がっている。
かなり広い街だ。たぶん、あれが帝都だろう。
城の周りをぐるりと囲むようにして、色んな建物が見えた。
どれが家でどれが店なのかは、さすがにここからじゃわからない。
「ひぇ~……すごいですねぇ……」
肩を上下させながら、ナルカが息をついた。
見てみると、口を開けながら目を輝かせていた。
目の前に広がっているもの全てが珍しいのか、あちこちへ視線を移し、その度に顔を綻ばせる。
くるくると変わる表情のどれもが可愛くて、思わず顔が緩んだ。
「さ、そろそろ行こ。のんびりしてると真っ暗になっちゃうよ」
ぽん、と俺の肩を叩いて、姉ちゃんがそう言った。
あれだけ眩しかった夕日が、いつの間にか沈みかけている。
完全に沈んで暗くなると歩きにくいし、危ない。
名残惜しいが、そろそろ行くとしよう。
「ほれナルカ、行くぞ」
「ふむっん!」
開いていた口を指先で優しく閉じてやり、歩き出す。
後ろから、ナルカの返事と一緒に2人分の足音が聞こえた。
帝都までは、もう目と鼻の先だ。
この距離だと、急いで歩かなくても大丈夫だろう。
ナルカも疲れているだろうし、のんびり歩こう。
「それにしても、どうしてお城が2つもあるんですかねぇ」
ふと、後ろのナルカが呟いた。
「ずぅっと昔に、大きな戦争があったらしくてね。
そのときに負けちゃった方のお城が、ずっと残ったままなんだって。
帝都のお城も、そのときに建てられたみたいだよ。
何回も修繕してるみたいだから、その頃と同じ形かはわからないけどね」
姉ちゃんの言葉に、ナルカは熱心に頷いていた。
戦争があったって話は、勉強と称して村長から聞かされたことがある。
でも、本当に聞いたことがあるだけだ。
詳しいことは何もわからない。
当時はそんなことより、邪神の話に夢中になっていたから。
ただ、それでも1つだけ確かに覚えていることがある。
数えきれないくらいたくさんの人が死んだ、ということだ。
『大地の下には、おびただしい数の骸が眠っている』
その村長の言葉だけは、どうしても忘れることはできなかった。
「どうして古い方は壊さないんでしょうか?」
「前にそんな話が出たみたいなんだけど、取り壊すなんてとんでもない話だって、偉い人が猛反対したんだって。
調査は終わってるみたいなんだけど、価値があるから残ったままみたい」
「へぇぇ……、れきしてきかちってやつですか。
それじゃあ、あっちの綺麗なお城にも同じくらい価値があるんでしょうか?」
「う~ん、どうだろうね。帝都のお城は何回も修繕してるみたいだから、戦争の頃のままってわけじゃないからね。
古い物が好きな人にとっては、そこまで価値のあるものじゃないのかもしれない……のかな?」
「ほおぅほおぅ。修繕されてるってことは、中はキレイなんですよね。
どうなってるんでしょうか! 気になります! 入ってみたいです!」
「あはは……、中に入るのはちょっと無理かな。お城に一般の人は入れないからね」
「あぁ、やっぱりですか……。でも、仕方ないですよね。怪しい人を入れちゃダメですもんね」
「うん、王族が住んでるからね。下手に人を入れるわけにはいかないんだよ。
私も見てみたいんだけどね、残念」
物思いにふける俺を差し置いて、2人が会話を弾ませる。
城の中か。
確かに気にはなるけど、そこまで興味が沸かない。
やっぱり、そういうのは女にしかわからないもんなのだろうか。
仲間外れにされているみたいで、何だか寂しい。
それからも、2人の会話は途切れることなく続いた。
やれ綺麗な寝室だの、やれ高価な宝石だの、そんなのばっかりだった。
適当に相槌は打っておいたが、話にはさっぱりついていけなかった。
壁は白くて、高級そうな家具があるといいねとか、そんなの知るか。
凝った衣装と、綺麗な飾り物とかいいですねとか、わけがわからん。
妙な居心地の悪さを感じながら歩き続けているうちに、ふとあることを思い出した。
俺とナルカの見た目のことだ。
このまま街に入っても、たぶんろくなことにならない。
俺とナルカは、普通のやつから見れば異形なんだ。
うまく隠さなければ、街を歩くことすら許されないかもしれない。
……『あれ』を使うときがきたか。
背負っている荷物の中から髪飾りを取り出す。
真っ黒に染まった、耳のついた自信作。
そのうちの1つを、ナルカに差し出した。
「ほれ、ナルカ。お前の分だ」
「? 髪飾りですか。あっ、耳が付いてます」
「山猫の耳だ。俺達はそのままだと目立つからな。
それを付ければ、下手な事をしない限りは誤魔化せるはずだ。今のうちに着けときな」
「はいっ! ではさっそく……」
いそいそと、ナルカが装着する。
うん、なかなか似合う。可愛らしい。
良い具合に髪の色と合わさっているから違和感もない。
あとは結んでいる髪を下ろして、元からある耳を隠せば完璧だ。
これなら周りから変な目で見られることもないだろう。
「おー、ナルカちゃん可愛いね、とっても似合ってるよ」
「ホントですか! ありがとうございます! えっへへ」
姉ちゃんの言葉にはにかみながら、ナルカは飾りの耳を優しく撫でた。
気に入ってもらえてよかった。
こんなことなら、もっと早く渡してしまってもよかったかもしれない。
「リオスのもあるんでしょ? 着けてみてよ。私、久しぶりに見てみたいな」
「あっ、私も見てみたいです! リオスさんの耳! ぜひ見たいです!」
「わかったわかった。いま着けるって」
期待の籠った2つの視線を受けながら、渋々ともう1つの髪飾りに手を伸ばす。
ちなみに俺のは山犬の耳だ。
ぼさぼさの髪の毛をかき上げながら、頭に着けてみる。
大きさが合わないんじゃないかと思ったが、どうやら大丈夫みたいだ。
若干小さめだが、これくらいなら問題ない。
「どうだ? 似合うか?」
「か、可愛いですよリオスさん! とてもお似合いです! 世界を狙えますよ!」
そう言いながら、ナルカが目を輝かせる。
どうやら好印象らしい。
何だか照れくさいけど、悪くない。
「ありがとな。で、姉ちゃんはどう思う? ナルカはこう言ってるけど」
「もう、ばっちり!うんうん、似合う似合う。
小っちゃいときも可愛かったけど、今もじゅうぶん可愛いよ~」
わしゃわしゃと髪飾りごと頭を撫でられる。
撫でられるのはいつものことだけど、ナルカの前だからか、どうも気恥ずかしい。
止めろと言ってしまいたいけど、この満足げな顔を見てしまうと何も言えない。
まぁいいかと思えてくる。
「あっ! 私も! 私も撫でたいです!」
ぴょこぴょこ跳ねながら、ナルカが俺の頭に手を伸ばす。
が、届かない。
俺とナルカとじゃ、身長差があるからな。
「届かないです! かがんでください!」
「はいはいよ」
言われた通り、膝に手をついて前かがみになってやる。
待ってましたとばかりに、ナルカが両手で頭を撫で回してきた。
両手で耳をくいくいと引っ張り、わしゃわしゃと髪の毛を引っ掻き回す。
……俺の頭はおもちゃじゃないんだが。
「これいいですね! マルシアさん!」
「でしょ! いいでしょ!」
2人が顔を見合わせ、うふふと笑う。
もう少しこのままでもいいかと思ったが、そうもいかない。
本当に日が沈んでしまう。
前かがみをやめ、立ち上がる。
「あぁん、まだ触りたいですよぉ」
「また今度な。それよりナルカ、髪の毛で耳を隠しとけ。
髪飾りしてても、耳が出てたら意味がなくなる」
「あ、はいっ。了解ですっ」
言うなり、ナルカは団子にした髪の毛をほどいた。
下ろした髪で耳を隠し、手櫛で丁寧に整えていく。
「どうですか? 耳、ちゃんと隠れてますか?」
「あぁ、問題ない。猫の獣人にしか見えん」
「よかったです! リオスさんの耳は大丈夫みたいですね。元からあるように見えますよ」
「お、そりゃよかった。なら、このまま入っても大丈夫そうだな」
「それじゃ、2人の仕度も終わったことだし、行こっか」
姉ちゃんにうながされ、帝都へ向けて進んだ。