第二話 「解き放たれた少女 ナルカ=バンク」
邪神を解き放ってしまった俺は、特に何をするわけでもなく、ただその姿を見て呆けていた。
翼や牙など、あるべき物が存在しない体。
俺以外にこんな体をしている奴がいるなんて思っていなかっただけに、こいつの存在は衝撃的だった。
古くからずっと封じられてきた邪神が、まさか俺と同じ容貌をしているなんて、誰が想像できただろう。
でも、こいつが邪神であることを考えてみれば、特に驚くような事ではないのかもしれない。
邪神の力を使えば、翼がなくたって飛ぶ事はできるだろうし、爪や牙がなくとも物は壊せる。
伝承にあるような力を使えるとしたら、邪神には不必要なものなのだ。
そこが、俺とは決定的に違う。
俺には、邪神のような力は備わっていない。
翼を使わなくても飛ぶことなんてできないし、素手で獣を仕留めることもできない。
いくら姿形が似ていようと、俺と邪神とでは天と地ほどの差がある。
ただ、目の前で眠っているこいつには、とてもそんな禍々しい力を持っているとは思えなかった。
目を覚ませばどうだかわからないが、少なくとも見た目の可憐さからは想像できない。
(……邪神っていうか、お姫様って感じだな)
決して狩りには向かない華奢で小さな体と、傷1つ付いていない長く細い手足。
黒くて長い髪の毛も、相当手入れしているのか、光を受けた水面のようにつやめいている。
纏っている布きれと同じくらい真っ白な肌は、まるで降り始めの雪のようで、思わず息を呑んでしまうほど綺麗だった。
何より目が行ったのが、顔だ。
村一番の美人と言われている、マルシアの姉ちゃんのあどけなさが残った顔とはまた違う、物語の中の王女のように気品のある顔立ちをしている。
一から作ったんじゃないかと思うほど、輪郭も、目元も、鼻も、唇も全て整っていて、それらがいちいち俺を見惚れさせた。
伝承にはなかったが、もしかしたら邪神は人を魅了する力があるのかもしれない。
惹きつけて離さない美しさとでも言えばいいのか……。
うまく言えないが、それだけの魅力がこの邪神にはあることは確かだった。
「……そろそろ、何とかするか」
いつまでも見惚れている場合ではない。そろそろ邪神をどうするか考えなければ……。
とにかく、ここに放置して帰るのはなしだ。
勝手に封印を解いておいて、何もしないまま逃げ帰るような真似なんてしたくない。
あまりに情けなさすぎる。
そうなれば一緒にここを出るしかない。
が、眠ったままの邪神を背負いながらあの階段を登れるかが問題だ。
普通の道なら何てことないけど、真っ暗な中、長い階段をずっと登って行くのはさすがに無理だ。
危険過ぎる。
さてどうしたものかと、邪神の端正な顔を見ながら考えていたその時だった。
「……●、●」
不意に、邪神が呻いた。
寝返りを打ち、体を丸める。
驚く俺をよそに、もう1度寝返りを打つ。
ふわぁと可愛らしい欠伸をし、邪神はおもむろに目を開いた。
「……●○、●」
寝ぼけ眼のまま、上体を起こして伸びをしている。
何だか、妙に人間臭い動作だ。
とても邪神とは思えないその一連の流れに、俺はただ目を丸くするだけだった。
伸びが終わったのか、邪神はきょろきょろと辺りを見渡し始める。
右を見て、左を見て、上を見て、左を見て。
そして最後に、俺を見た。
「あ、その……えっと」
何を言えばいいかわからず、口ごもる。
そんな俺を、邪神はただじっと見つめていた。
その黒い瞳からは、敵意や警戒はちっとも感じられない。
何も言わない、反応しない俺を不思議に思ったのか、邪神は首を傾げて口を開いた。
「●○●……。●●●、■?」
短い、邪神の言葉。
どうやら、俺に何かを尋ねているようだ。
答えたいのはやまやまだが、生憎、何を言っているかわからない。
適当な事は言えない。かといって、無視するわけにだっていかない。
とりあえず、思った疑問をぶつけてみることにした。
「あんたが……、邪神、なのか?」
俺の一番気になっていること。
こいつが、本当に伝承の邪神であるかどうか。
どうしても、それが知りたかった。
「? ●●、●●■■●■●●●●。■●■●●●○●●●……」
けど、返ってくるのは意味の通じない言葉。
邪神も困ったような顔をしているから、たぶん俺の言っていることも理解できていないんだろう。
何となく予想はしていたけど、実際に伝わらないとさすがに弱ってしまう。
これだと、意思の疎通がまったくできない。
けど、だからと言って諦めたくはない。
邪神が目の前にいるのに、何も聞けず、何も話すことができないなんて、絶対嫌だ。
言葉が駄目なら、身振り素振りで伝えてみればいい。
細かいことは無理でも、大雑把になら伝わるはずだ。
(とりあえず、本当に邪神かどうか聞かないとな)
なぜこんな所にだとか、どうやって封印されたとか、聞きたいことは山ほどある。
それでも、最初に聞きたいことはやっぱりそれしかなかった。
邪神の謎を解くこと。
それが、ここにやってきた目的だからだ。
だが、それを聞くためには1つだけ問題がある。
(……どうやって身振りだけで邪神かどうかなんて聞けばいいんだ?)
不思議な力を使っているフリとか、すごく怖い顔をしてみるとか、暴れる真似をするとか。
色々思いつきはするが、どれも邪神に結び付くとは思えないし、何よりも怪し過ぎる。
下手な身振りだと、かえって邪神に警戒心を与えてしまって危険だ。
つい頭を抱えてしまう。
時間ならまだ余裕があるけど、邪神がいつまで待ってくれるかわからない。
早く、早く何か考えないと……。
「●? ●○!」
必死に頭を回転させている最中に、邪神の短い悲鳴が聞こえた。
何かあったのかと思い、慌てて邪神に視線を移す。
「……は?」
思いもよらなかったことに、考えていたことが全部吹き飛んだ。
目がおかしくなったんじゃないかと本気で思った。
邪神が、体から淡い光を放っていたのだ。
邪神も何が起こっているのかわかっていないのか、ビクビクしながら身を縮み込ませ、助けを求めるような視線を俺に送っている。
てっきり自分で光を出したと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
ならば、誰が?
誰が何のために、邪神にこんなことを?
「す、すぐ助ける!」
何が起きているかよくわからないが、とにかく助けなければと、俺は邪神に駆け寄った。
近づけば、邪神と同じような目に遭うかもしれなかったが、そんなこと気にしている余裕はなかった。
慌てて鉄の塊の上に乗り、邪神の傍に寄って―――止まってしまう。
そこからどうすればいいかわからなかった。
何が原因で、どうすれば治まるかなんて、わからない。
何もできず、俺は邪神の前でオロオロするだけだった。
その間にも、邪神はじっと俺を見つめていた。
助けてと、その目が俺に語りかけていた。
その目を見てしまったら、もうやるしかない。
今、邪神がいる鉄の塊。
そこから離れれば、邪神の光が治まってくれるかもしれない。
邪神の手を取ろうと手を伸ばす。
細く、白い手を握り、引っ張ろうとしたその瞬間。
邪神を包んでいる光が、一際まばゆく輝いた。
「う、ぉ……!」
「●……」
邪神と同時に声をあげてしまう。
目の前が真っ白に染まり、たまらず目を閉じる。
それでも、邪神の手は離さなかった。
強く握りしめ、そのまま視力が回復するまで待った。
待って、待って、待って。
それから恐る恐る、目を開けた。
目の前には、目を瞑って体を強張らせている邪神だけがいる。
包みこんでいた淡い光も、いつの間にか消えていた。
あとは目を閉じる前と同じだ。
何の変化も見られない。
「……大丈夫、みたいだな」
ほっと一息つき、ポンポンと邪神の肩を出来るだけ優しく叩く。
それで邪神も大丈夫だと悟ったのか、ゆっくりと目を開けた。
きょろきょろと辺りを見回し、最後に俺を見る。
表情の強張りは取れている。
もう怖がってはいないようだった。
「それにしても……さっきのは何だったんだ?」
邪神を包み込んでいた、あの淡い光。
いつの間にか治まってくれたからよかったものの、あれは何のためのものだったんだろうか。
何をするわけでもない、ただ光るだけ。
誰がやったのかも、何のためにやったのかも、結局わからずじまいだ。
「わ、わからないけど、とりあえず怖かったですよ?」
邪神がそんなことを言ってくる。
確かに、あれは怖い。
自分が同じような立場だったら、たぶん一心不乱に逃げ回ると思う。
得体の知れない物は、何だって恐怖を覚えるものだ。
素直に邪神の言うことに相槌を打って―――そこで俺はようやく気がついた。
「……あれ?」
「? どうしたんですか?」
「いや、言葉が通じてると思ってさ」
「え? あっ、ホントです! 通じてますよ!」
一瞬だけ驚いて、そして邪神は俺の手を両手で掴んでぶんぶんと振ってくる。
「やっとお話ができましたよ! 言葉が通じないからもう困っちゃって困っちゃって!
あ~もうホントによかった! ずっとこのままかと思って不安だったんですよ、私!」
嬉しそうに。
本当に嬉しそうに、邪神は顔を綻ばせていた。
眠っていた時は絵か像のようだったけど、今は花や太陽のようだ。
明るく、元気で、何より綺麗だ。
その笑顔が、あまりにも美しくて、可憐で、眩しくて。
俺は邪神の話も半分に、ただ息を呑んで邪神に見惚れるばかりだった
「? えっと、どうかしましたか?」
「……え? あ、いや別に何でもない。何でもない」
頬を掻きながら、そう言って誤魔化した。
あまりに綺麗でつい見惚れていました、なんて言えるわけがない。
「あ、あのさ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
強引に話を本題に戻す。
どうしていきなり言葉が通じるようになったとか、さっきの光の正体だとか。
聞きたい事や考えたいことはたくさんあるけど、今はどうでもいい。
そんなことよりも、ずっと大事なことがある。
「はい? なんですか?」
嫌がる素振りは見えない。どうやら聞いてもいいようだ。
心臓が高鳴ってくる。呼吸がうまくできない。
今までにない緊張を覚えながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「あんたは……邪神、なのか?」
「えぇっ!? 私、邪神なんですか!?」
驚く邪神に、驚く俺。
……待て、ちょっと待ってくれ。
理解が追いつかない。今、何て言った?
「あの、邪神、だよな?」
「えっと、たぶん―――いえ、わからないです」
俺の問いに、邪神はそう答えた。
何だかおかしい。
少し考えて……もしやと思った。
「あんた、もしかして記憶がないのか?」
「い、いえ、そんなことはないですよ! 私、ちゃんと覚え、て……」
急に歯切れが悪くなり、美しかった顔がみるみる内に曇っていく。
えっと、えっと、と何度も繰り返し、首を傾げ、落ち着きをなくしていく。
「……あ、れ?」
不安げにそう言い、そいつは視線を落とした。
表情は険しい。先ほどの明るさとは真逆だった。
どうやら、俺の考えで間違えはないようだ。
記憶喪失。
村の医者から、そんな病気があると聞いたことがあった。
程度はわからないが、少なくともこの子は自分のことが思い出せないほど症状が重い。
こんな状態じゃ、何を聞いても答えることができないだろう。
「……大丈夫か?」
「……へ? あ、はい。大丈夫。大丈夫なんですけど、ちょっとびっくりしてしまって」
そりゃそうだ。こんなことがあったら誰だって戸惑う。
それでも、取り乱さないだけ大したもんだと思う。
強い子だ。
「あ、あの。お名前、教えてもらってもいいですか?」
「ん。リオス、だけど」
「えっと、リオスさん。さっきのお話のことなんですけど、私のこと邪神だって言ってましたよね? どういうことか、ちょっと教えてもらえませんか?」
ふと、そんなことを聞かれる。
気を取り直したのか、それとも沈んだ雰囲気に耐えられなくなったのかはわからない。
けど、顔には若干の憂いが残っている。
ここは話をして、少しでも気分を紛らわせたほうがいいかもしれない。
「あぁ。俺の村には、ここに邪神が封じられてるって伝承があるんだ。
そんで、この鉄の塊から出てきたのが、あんた。
だから、最初に邪神じゃないかって聞いたってわけだ」
「だからあんなことを聞いてきたんですね。ついでにもう1つなんですけど……」
「ん? 何だ?」
「……私が本物の邪神だったら、どうしますか? 私を、どうするんですか?」
真剣な表情で、そう俺に尋ねてくる。
どうやら、これが本当に聞きたかったことらしい。
口元をきゅっと締め、手を震わせている。
恐いのだろう。
邪神がどういう存在で、どういう扱いを受けるのかを考えれば当然のことなのかもしれない。
何だか、見ていて妙に心が痛む。
これ以上、こんな張りつめた顔を見たくない。
「安心してくれ、俺は何もするつもりはないよ。
そもそも、あんたの目を覚ますつもりはなかったんだ。
ただ、本当に伝承のとおり邪神がいるか確かめたかっただけなんだよ」
「え? そうなんですか? それじゃ、あの……
私を退治しに来たわけじゃ、ないってことですよね?」
「ああ、そうだ。だから、恐がらなくていい。大丈夫だ」
「そ、そうですか。よかったぁ……」
出来るだけ優しく話した甲斐があったのか、そいつはすっかり安心してくれたようだった。
張りつめた表情が緩み、笑顔が戻ってくる。
……やっぱり、この子には笑顔が一番似合う。見ているこっちも、何だか嬉しくなる。
だからこそ、気になってしまう。
この子からは、邪神と呼ばれるだけの邪悪な物が感じられない。
むしろ逆だ。心が洗われるような清らかさを感じる。
本当に、この子は邪神なのだろうか。
まったく別の存在ではないのだろうか。
そんな疑問が、次々と浮かんでくる。
手掛かりがあれば別だが、見つけたものからは何もわかりそうにない。
鉄の塊と、その中から出てきた女の子1人。
俺が学者であれば推測くらいならできるかもしれなったけど、ただの狩人の身ではどうすることもできなかった。
「……あ」
そこで、俺はようやく『あれ』のことを思い出した。
そうだ、あった。あったじゃないか。
この鉄の塊の表面に刻まれている文字だ。
俺には読めなかったけど、この子ならもしかして読むことができるかもしれない。
「あ、あのさ! ちょっといいか?」
「はい、何でしょうか?」
「ちょっと見てもらいたい物があるんだよ! 立てるか?」
「へ? あ、はい」
おもむろに立ちあがろうとするが、何だかふらふらしている。
どうやら、体がついていかないらしい。
長い時間ずっと眠っていればこうもなるか。
危なっかしくて、とても見ていられない。
うまく力の入っていないそいつの手を取り、体を支えてやる。
「あっ。ご、ごめんなさい。うまく立てなくて……」
「いや、いい。気にするな。降りるぞ」
慎重に鉄の塊から降り、2人で地面に立つ。
まだ足がふらついてはいるが、歩き方が様になってきている。
力の入れ方がわかってきたんだろう。
この様子だと、もう少し練習すれば1人でも歩けるようになるはずだ。
「あの、見せたいものって何ですか? 恐いものですか?」
「いや、文字だよ。俺には読めなかったけど、あんたならって思ってさ」
「そ、そうですか。文字ですか。文字は恐くないですね。よかった……」
ほっと息をつきながら、俺にその小さな体を預けてくる。
こいつが眠っている時にも思ったことだが、やはり華奢だ。
乱暴に扱えばすぐに壊れてしまうくらい、細くて小さい。
それと、何だかいい匂いがする。花のような匂いだ。
何か香料の類を付けているんだろう。
今まで嗅いだことのない甘いこの香りは、俺の村で使われている安物じゃ絶対出せない。
この子の付けている香料は、とても質のいい物らしい。
「……いい匂いだな」
「へぇ!? あ、ありがとうございますっ!」
顔を赤くして、しどろもどろと視線を泳がせている。
可愛らしい仕草だが、それ以上に嬉しかった。
俺の言葉でも、ちゃんと喜んでくれた。
家族である村長とマルシア姉ちゃんの2人を除けば、俺の言葉を素直に喜んでくれた人はこいつが初めてだった。
思わず、顔が綻んでしまう。
こんなに嬉しい気分になるのも、ずいぶん久しぶりのことだ。
赤くなったそいつと一緒に、扉のように開いた面まで回り込む。
……ここだ。確かここに刻まれてあったはずだ。
視点を動かして―――すぐに見つけた。
「これだよ、これ」
文字の刻まれた箇所を指差す。
「読めるか?」
そう尋ねると、そいつはその文字をじっと見つめた。
難しい顔をしているが、うんうん、と頷いているから読めないことはないらしい。
よしっ、と、心の中で拳を握った。
ただ、やはり乱雑過ぎるのか、文字の解読は難航しているようだった。
文字とにらめっこしながら、唸り声をあげている。
しばらくしてから、その子はポツリポツリと、一言ずつ絞り出すようにして呟き始めた。
「な……る……か……ば……ん……く」
呟きはそこで終わった。
どうやら、文字はそれで終わりらしい。
「なるかばんく?」
復唱してみるが、どうも意味のある言葉とは思えない。
「心当たり、あるか?」
「いえ、ないです。……あっ、でも、もしかしたらこれ、人の名前かもしれません」
「名前?」
「はい。ここに区切りの『=』っていう文字があるんですけど、
これって上の名前と下の名前を分けるためのものなんです。
先の『ナルカ』というのが上の名前で、『バンク』が下の名前だから……ナルカさんですね」
文字を指差しながら説明してくれるが、さっぱりわからない。
そもそも、名前に上下があることだって初耳だ。
嘘の名前とかならわかるが、1人が2つの名前を使うってのは不便じゃないだろうか。
「えっと、上の名前は自分のもので、下の名前は一族や家族が共通で使うものなんです。
ですから、ナルカ=バンクというのは、バンク一族、
あるいはバンク一家のナルカちゃん、ということになります」
首を傾げている俺に解説をしてくれる。
バンク一家のナルカちゃん。
なるほど、そう言われてみればわかりやすい。
俺の周りでは聞かない決まり事だけど、この子の周りではよく使われていた決まりのようだ。
……どうやら、全てを忘れてしまったわけではないらしい。
最初に話していた言葉も、俺が読めなかった文字も、そして自分が使っていた決まり事も、この子はちゃんと覚えている。
一般常識のようにわかって当たり前のようなことは、しっかり覚えているようだ。
それにしても、名前か。
「バンクって、どんな一族かわかるか?」
「ごめんなさい。聞き覚えはある感じはするんですけど……」
「そっか」
もしかしたらと思ったが、さすがに虫が良すぎたか。
記憶を取り戻すことができればいいんだが、目覚めたばかりではとても期待はできないだろう。
「ナルカ、ナルカ、ナルカ……。う~ん……」
刻まれていた名を何度も呟いている。
聞き覚えがある分、思い出したくて仕方ないらしい。
「自分の名前を思い出すまで、この名前を使わせてもらったらどうだ?」
「ナルカ、ナルカ……へ?」
俺の声に気がついたのか、名前の連呼がピタッと止まる。
「名前がないと何かと不便だろ。ひょっとしたらあんたの名前かもしれないし、
邪神様って呼ばれるよりはマシじゃないか?」
「あ~、確かに邪神様はちょっと嫌ですね……。
わかりました! 私は今日からバンク一家のナルカちゃんです!
どうぞナルカと呼んでください!」
えっへんと腰に手を当て、胸を張ってその子はそう宣言する。
ナルカ=バンクという、乱雑に刻まれた名前。
先ほどの引っ掛かりはどこへやら、案外すんなりとその名前を受け入れていた。
「よし。それじゃ、俺は今からあんたを、ナルカって呼ぶことにする。いいよな、ナルカ?」
「はい! よろしくお願いしますね!」
そう言って、その子―――ナルカは俺に微笑んだ。
喜んでいる表情が、子供のようにあどけなくて可愛い。
大人っぽいその雰囲気も、太陽のように明るい笑顔を惹き立ててくれている。
ドクドクと、心臓が跳ねるのを感じる。
何度見ても、やっぱりナルカの笑顔に慣れることはなさそうだ。
でもまぁ、それはそれとして、だ。
刻まれた名前も手掛かりにならないとすれば、これで本当に手詰まりだ。
俺の頭とこの鉄の塊だけでは、とてもナルカが邪神だということは証明できそうにない。
でも、ナルカは伝承のとおり社に封じられていたし、
この鉄の塊も俺達では到底作りだせないことを考えれば、ナルカが邪神である可能性は高い。
証明できないだけであって、ナルカが邪神ではないとまでは言い切れないのだ。
何かないかと考えていると、ふと村長のことを思い出した。
俺に邪神の伝承を教えてくれた村長。
あの人なら、ナルカと邪神の関係がわかるかもしれない。
仮にわからなくても、今度ナルカをどうすればいいかを相談できるし、行かない手はないな。
そうと決まれば、さっさと村に戻ろう。こうしている時間が惜しい。
「ナルカ。近くに、俺の育った村があるんだ。いつまでもここにいるのもなんだし、一緒に行こう」
「お気持ちは嬉しいんですけど、その……私、ここから出てもいいんでしょうか?
邪神かもしれないんですよね?」
ナルカが、そう返してくる。
そのことは一応、俺も考えた。
仮にナルカが邪神で、伝承どおりの力を持っているのならば、
このまま外に出すのは確かにまずいかもしれない。
でもよく考えてみれば、連れて行こうが、ここに置いていこうが、
封印を解いてしまった以上、同じことだ。
それなら、一緒に連れて行ったほうが、何かと楽で助かる。
「ナルカは、ここと外、どっちがいい? こっちのほうがいいとか?」
「い、いえいえ! そんなことはありません! 暗いし、じめじめしてるし、怖いし……」
「なら出よう。何もしないなら大丈夫だし、村の人達もいきなり襲ってこないよ。
何があっても、とりあえず俺が守るから大丈夫だ。安心してくれ」
「わ、わかりました! ちょっと怖いけど、行きます! 一緒に行きたいです!」
俺の言葉に安心してくれたのか、ナルカがそう言ってくれる。
やはり、ナルカもここから出たかったらしい。
外に出ることに不安があるのは仕方がないことだけど、俺が守れば問題はない。
強いて言うなら、ここから出るために階段を上らないといけないことが問題か。
あれだけ苦労して降りたんだから、上るのも同じくらい大変なはずだ。
それに、今はナルカだっている。
降りたとき以上に神経が擦り減るのは、覚悟しなければいけないだろう。
「これ、登って行くんですよね?」
螺旋階段を目で追いながら、ナルカが呟く。
途中から階段が見えなくなった事に驚いているのか、ぽかんと口が開いたままだった。
「ああ。途中から真っ暗になって足元も見えなくなるから、気をつけなきゃな」
「お、落ちたらどうなるんでしょうか?」
「ここまで真っ逆さまだな。でもゆっくり行くし、手は絶対に離さないから大丈夫だよ」
「……し、信じてますからね」
力一杯俺の手を握ってくる。
暗がりの中を登って行くのは骨が折れるけど、時間をかけて上っていけば落っこちたりはしないだろう。 万が一ナルカが足を滑らせても、俺が手を離さなければ問題はない。大丈夫だ。
ゆっくり息を吸い込み、少しずつ吐く。
肺の中が空っぽになったと同時に、ひゅっと息を吸い込む。
……よし、行こう。
「上るぞ。いいな?」
「は、はいっ!」
ナルカの返事と共に、俺は階段へと足を踏み出した。