【暮葉畏啓 思想文】受験生のAさんは「自分は自分をどう認識したいか」という観点で悩んでいる。
面白い話をしてみようと思う。
まずは具体的な例から。
『Aさんは小中学生の間、ずっと天才と言われてきた。高校受験では努力して、市内で有数の進学校に合格した。
しかし、Aさんは高校に入学すると大きく変わってしまった。
中学生までは真面目に勉強ばかりしてきたAさんだけれど、高校生になるとインターネットを知り、カフェのスイーツの味を知り、自分の好きなものが増えていった。
広がった自分の世界にAさんは嬉しく思いながら、新しくできた趣味の時間を楽しむようになった。その結果、勉強の時間が必然的に減るようになった。
けれどもAさんは、
「せっかく広がった私の世界なんだから大事にしたい!」
と考え、どうしても勉強の時間が減る。
そのうち、今までの成績からは想像できないほどに低下し、高校受験合格時に考えていた阪大進学の夢も難しくなっていった。高三になって、彼女は渋々志望校を下げることになった。』
Aさんは何を間違えたのだろうか?
勉強をしなかったのがダメだったのか。けれども、趣味をしているとその間は勉強ができないのは当たり前の話だ。では、両立をうまくできなかったのがダメだったのだろうか。
けれど、勉強しかしてこなかった小中学生の頃に比べると、両立がうまくできても、趣味をしている時間が少しでもある時点でそれは違うのではないだろうか。
そう考えると、彼女が新しい趣味や好きなことを持ったこと自体がダメだったのではないだろうか。
もしも趣味や好きなことに出会わなければ、彼女は阪大にも、東大にも行けたのではないだろうか。
彼女はこのせいで、今までの自分の認識である、『真面目で勉強のできる子』という自己像を裏切ることになり、
『自分とは何だったのか。何をするのが自分なのか。』と悩むようになってしまった。
やはり、勉強以外のものに出会うことがいけなかったのだろうか。
思考が煮詰まってきただろうか。こういう時は、まず基準を決めて、論を整理することが大切だ。
まず、何が彼女にとっての成功だったのだろうか。
今回、彼女というのは二人いる。
一人は中学の頃の真面目な自分。もう一人は新しい世界を知った高校生の自分だ。
中学の頃の自分にとっての成功は、阪大に合格することだろう。
抽象的にいうのであれば、勉学に向き合い続け、最良の結果を出すこと。
高校の頃の自分にとっての成功は、おそらく中学の頃の自分を失望させないことだろう。
というのも、高校の頃の自分にとって、何か具体的に大学受験に対しての目標はなかったように思える。
なぜなら、趣味の世界が広がり、そちらに傾倒していたわけで、強いていうならば中学の自分を裏切りたくないという思いくらいだろうか。
でも、これを読んでいる人は多分こう感じていると思う。
「ん?なんで中学の自分を裏切りたくないの?」
と。
これの答えというのはあんまりない。もうほとんど唯一と言っていい答えがあると思う。
その答えとは、『自分の自己像を守りたいから』だ。
別に中学の自分が今、目の前にいて、裏切ったら直接怒られるだとか、馬鹿にされるとかそういうことはあり得ない。あり得るのは、全て自分の心の中での話だ。
裏切ったという罪悪感は自分の心の中にだけ溜まる。中学の自分が親に将来の志望校を話したりしていないのであれば、余計に自分との話になる。
そして、過去の自分を裏切るという行為は、今の自分と過去の自分との間に断絶が起きていることを示しているとも言えるように思う。
なぜなら、今の自分は過去の自分の思いを否定しているからだ。もしも、過去の自分を裏切らずに志望校にそのまま合格できていたら、過去の自分との壁を感じたりはしないだろう。
つまり、過去の自分を裏切るという行為は過去の自分と今の自分の間を引き裂く行為だからこそ、そうなりたくないと言うのだ。
では、切り裂く行為だったら何が嫌なのか。
過去の自分と今の自分が違う存在だと認識すること。
それは別に必ずしも嫌な話ではない。
それは皆さんもわかると思う。
過去の自分はピーマンが大嫌いだった。けれど今の自分はピーマンを食べることができる。
過去の自分と今の自分が違うことを意識しているにも関わらず、彼はそれを悲しいとは思っていない。
ではこのピーマンの例えとさきほどの話にどんな違いがあるのか。
考えてみればわかると思う。
それは、「どっちが自分だったらいいのか」という問いの答えが真逆だというのがこの相違点だ。
ピーマンの話でいくと、ピーマンを好きな自分とピーマンが嫌いな自分のどちらの自分が良いか?と聞かれると、多くの人はピーマンが好きな自分を選ぶと思う。
そのため、ピーマンの例えにおいては、今の自分の方が過去の自分よりも望ましい自分であるからこそ、その違いを嘆かないということが説明できる。
では、Aさんの例えではどうだろうか。
中学生の頃のAさんは真面目で、高校受験では市内で一番の進学校に合格することができた。一方、高校の頃のAさんは中学の頃に思い描いていた大学を目指すことが難しい状態にいる。
この違いにおいて、どっちの自分が望ましい自分だろうか?
おそらく多くの人がこのように問われた時、中学生のAさんを選ぶと思う。
だからこそ、Aさんは今の自分に不満を持ち、この違いを意識してしまうことを辛いと感じているのだ。
では、だ。
2300文字もの言葉を重ね合わせて一体こいつは何を言いたいのかと、みんなそう思っていると思う。
なので、今ここで一番言いたいことを言わせてもらう。
『自分は自分をどう認識したいか』
これに尽きる。
確かに過去の自分への罪悪感がAさんを悩ませているのかもしれない。けれど人間というのはもう少し自己中心的だ。過去の自分への罪悪感でそこまで悩んだりしない。
先ほどの話のように、
真面目だと言われてきた自己像を失うことが一番辛かったのではないだろうか?
過去の自分への罪悪感。そんなものはっきり言って薄っぺらい。
だって過去の自分なんてそこにいない。そこにいるのは今の自分。
一番大事なのは今の自分だ。
今の自分はどんな存在だろう。
昔から真面目と言われてきた。
頭が良いと言われてきた。
そんな自己像に自分でも誇りを持っていた。
それがAさんだ。
では今はどうなっている?
勉強が思ったようにできない。
趣味を楽しんでいる。
勉強という観点だけで言えば、
というか、Aさんはずっと勉強ができるということを大きな自己像にしてきたのは紛れもない事実だろう。
だからこそ、Aさんは趣味を楽しんでいる新しい自分という自己像を受け入れて喜ぶよりも、
勉強関係の自己像を重く捉える。
だから辛いのだ。
今までの自己像が崩れかけている。でもそれを必死に認めたくない。今までは趣味をしているからという理由で隠してきた。
「本気を出せば頭良い。」
「一夜漬けすれば平均取れる。」
そんな考えや事実を巧みに利用して、「勉強のできる自分」という自己像を必死に守ってきた。
中学の頃の『ちゃんと真面目に勉強してちゃんと点数を取る自分』に対して、
『真面目に勉強しないのに、少し勉強するだけで結構点数が取れてしまう自分』という新しい評価基準で、
『勉強ができる自分』を保ってきた。
しかし、それが壊れるのが受験だ。
真面目に勉強してこなかったのなら、当然うまくいかない。
今まで自分の心の中で保ってこれていた自己像も、受験という外部から突きつけてくる自分の成績によって打ち砕かれる。
どうしようもなく思い知ってしまう。
『自分は勉強のできない人間になってしまったのか?』
と。
情けない。
辛い。
何をしてたんだという呆れ。
でももう遅い。
どうしようもない。
最悪だ。
はぁ。
自己像が打ち砕かれた瞬間ほど寂しいものはない。
急に自分の周りが広くなったように感じて、その広がりが胸を痛めつける。
『自分とは何だったのか。』
答えはない。けれど答えがない状態のままだと、自分の拠り所がない。刹那的な快楽の間の、自分の存在意義を確かめる手段がなければ、その度に悲観的になってしまう。
だから、例え真理として一つの答えがなかったとしても、
仮初の答えは欲しい。
「自分とはこういう存在である。」
それが掴めていた今まで。
でも、それが崩れ去った。
自分とは何なのか。
そして、崩れ去った時、崩れ去る原因になった全てに対して憎悪の思いを持ってしまう。
けれど、その原因とやらは自分がさっきまで愛していた趣味であり、自分そのものだ。
ならば、今度は自己像を失った上に、自分をも嫌いになり、かつて大好きだった趣味さえも嫌悪してしまうようになる。
そんな未来が見えるからこそ自己像を失うのが辛いのかもしれないが、
どちらにせよ、自己像を失うことが恐ろしいことなのには変わりない。
だから自分を裏切りたくないのだ。
だから後悔するのだ。
だから自分らしくない行動をしたくないのだ。
結局、この話は人間の心理を考える上で、
割と広大な何かにつながっているようにも思う。
つまり3800文字程度のこの文章で言いたかったことは、
『なぜ苦しいのか?』
『なぜ自分を裏切りたくないのか?』
という問いの答えであろう。
※こちらの文章は、同一作者による「自分史」
・エピソード163
・タイトル『163でも祝ってもいいじゃないか。記念すべき自己ログ倉庫163「受験も何もかも。俺の思いを聞いてくれ。」』
にて論じられた文章になります。




