琥珀色の修正―カフェ〈夜想館〉―
行きつけの喫茶店、なんてものができるようになるとは、ほんの数年前まで思ってもみなかった。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、カウンターの向こうから老店主が声をかけてくれる。
護は都会育ちだ。二十歳の頃まで、チェーン店くらいでしかコーヒーを飲んだことがなかったのも、不思議なことではない。
そんな彼がある日、路地裏で見つけたこの古い喫茶店は、老マスターがひとりで切り盛りしている小さな店だった。
おそるおそる入ってみたところ、レトロな空気感が心地よく、休みの日にちょくちょく通うようになったのだ。
今日ここへやってきたのは、少々理由がある。気分を変えたかった、というのがそれだ。
昨日、友人と喧嘩をした――いや、護が一方的に苛立ちをぶつけてしまった、そのもやもやが残っていて。
「『今日の一杯』お願いします」
若者は窓際の席に腰を下ろしながら告げた。
表の看板には「夜想館」とあるが、メニューには手描きで「Nocturne」――ノクターン、と書かれている。
正式な名称はどちらなのだろう、と護はいつも思うが、尋ねてみたことはなかった。マスターと気安く雑談する雰囲気の店でもないからだ。
一応メニューは見るものの、コーヒーに詳しくない護は、いつもだいたい「お勧め」である「今日の一杯」を頼む結果になる。
店主は、孫ほど年の離れた若い護に視線を合わせると丁寧にうなずき、ホーロー製のキャニスターに手をかけた。
いまどき、東京二十三区内の個人店でコーヒー一杯五百円(税込)という破格は驚きだが、薄給の身には有難い。判らないなりに、美味しいコーヒーだと思う。きっとこだわって淹れられているのだろう。
店内はテーブル席がふたつ、カウンター席が五つ。ただ、カウンター席の椅子には物が置かれていることも多いため、実質三席だった。
護はいつも、テーブル席にお邪魔する。混み合うようであればさすがに遠慮するが――夜想館に四人以上の客が入っているのは見たことがない。
(大丈夫なのかな、この店)
護はついそんなことを思った。
安すぎる値段設定。休日の十五時過ぎというピークタイムに、護しか客のいない店内。
いい店に思えるのに、何故なのか。いまどき、全く宣伝をしていないからだろうか。ネットで調べても、この夜想館のことはどこにも載っていない。
これで続いているのは、いわゆる「金持ちの道楽」でやっている店か、はたまた何かしら裏稼業を持っているとか。
そんなことを考えてちらりとカウンターを見ると、老店主は無言で豆を挽いていた。少なくとも悪事で稼いでいるような人物には見えない。
護は妄想をやめるとマスターから視線を外し、何気なく外を見た。
秋口の風がびゅうと吹いて、枯葉を巻き上げている。鮮やかな銀杏の黄色が、奇妙に目に刺さった。
ふう、と若者は息を吐く。
『――お前はいいよな。仕事で悩んだり金に困ったりしたこと、ないんだろ』
投げつけた自分の言葉が耳に蘇る。
(どうしてあんなこと言っちまったんだろうな)
年上の友人は、護から見れば「恵まれた環境」で、好きなことをやって生きているように見える。
だが、誰にだってその立場なりの悩みや苦しみはあるものだ。他人からすれば護が「恵まれた環境」に見えることもあるだろう。
普段は彼もそれくらい判っているのに、何故か昨日はあんな言葉が出てしまった。
友人は少し驚いた顔をして、それからただ肩をすくめた。否定も肯定もせず、出てきた言葉が護の本心ではないと知っているかのように。
傷つけた訳ではない。怒らせてもいない。
だから――いたたまれない。
(謝ればよかったんだ)
妙な空気になったとき、すぐ「ごめん」と。ただそれだけでよかったのに、口をつぐんでしまった。
友人は何でもないように話を続け、それから彼らは、いつもと同じように別れた。
次に会うときも、きっと何も変わらないだろう。友人とは、きっといつも通りに楽しく過ごせる。
そうなると判っているからこそ、気にかかる。
少しずつ暮れていく小径に、早くも街灯が灯りはじめた。と、ふわりと香りが届く。
「お待たせいたしました。『本日の一杯』は、グァテマラです」
「あ……どうも」
「解説を?」
「お願いします」
メニューには「ご希望に応じてコーヒー豆の解説を致します」と達筆な字で書かれている。実際には、いつもマスターがこうして「解説してよいか」と尋ねてきては、護がお願いする形だった。
「深煎りのグァテマラが持つ最大の特徴は『苦味』です」
「苦味……」
いまの自分にぴったりだ、とこっそり護は思った。
「ですが、ただ苦いだけではない。芳醇な香りもまた好まれる点です。カカオ分の強いダークチョコレートのようだとか、ナッツのようだと仰る方もいらっしゃる」
「へえ」
「重厚な苦味の中に、ほんのりとした甘みと芳醇な香りをお楽しみください」
「は、はい」
店の人とのやり取りは少しだけ緊張する。いや、このマスターの様子が上品だからだろうか。自分が若造で、礼儀がなっていないことが意識されるせいなのかもしれない。
「ごゆっくり」
静かにマスターは会釈をし、護はそっとカップを口に運んだ。
「――ほんとだ、苦いや」
思わず言葉が洩れた。マスターの片眉が上がる。
「失礼ですが」
「えっ、別に苦くて嫌だとかいうような意味じゃなくて」
「お悩みごとでも?」
「え」
思わず固まった。何故、そんなことを?
「失礼」
マスターはまた言った。
「そんな気がしましたもので」
「は、はあ」
ここのマスターはあまり客に話しかけてくる方ではない。こうした個人店では、店主と常連客の仲がよくて一見が居心地を悪くする、というような話も聞くが、交流が目的でこの店にやってくる者はあまりいないようだ。店内はいつも、落ち着いたジャズのBGMが流れているばかりだった。
護がこの店に通うようになってしばらく経つが、マスターと話をしたのは数えるほどだ。それも「急に寒くなりましたね」とか「電車が止まっているようですよ」とか、そんなことだけ。
だから、意外すぎて驚いた。
そして、合っていることにも。
「……ちょっと友だちに、余計なこと言っちゃって」
ぽつりと護は呟いた。
「向こうは気にしてないみたいなんだけど、言った俺の方が気にしてて……はは、くだらないですよね」
「人の気持ちに『くだらない』なんてものは一切ありませんよ」
護の言い訳をマスターは静かに叱った。護は返事に詰まった。
「お客様……マモリさん、でしたか」
「え、あ、はあ」
よく覚えているな、と彼は内心で驚いた。最初の頃、ちょっとした会話の流れで名乗った記憶はあるが、その後話題に上がったこともなかったのに。
「お酒は召し上がりますか」
「へ?」
友人のことでも聞かれるかと思いきや、思いがけない問いかけだ。
「ええと、まあ、人並みに?」
酒には強くも弱くもない。飲み会があればつき合い程度に飲み、飲まない仲間といれば全く飲まなくても気にならない。どちらかと言えば「飲まない側」になるが、「飲めない」というほどではない。
「承知いたしました」
「はい?」
酒でも出てくるのだろうか。護は不思議に思ってメニューを思い返した。夜想館で出されるものはコーヒーがメインで、あとは少々のソフトドリンクくらいだったはずだ。
もっともそのままマスターはカウンターの奥に戻り、コーヒー豆の入ったキャニスターを手にしている。何か聞き間違えたのだろうか、と護は訝しんだ。
彼がそのまま眺めていると、マスターは古びたミルに豆を入れ、ゆっくりと回しはじめる。豆の砕ける心地よい音がBGMの向こうで微かに響き、護は知らず知らずの内に目を閉じていた。
(いまの場所って、俺が選んだ道なんだよな)
(まあ、薄給を選んだ訳じゃないけど、できることとやりたいことを合わせたらこうなってるんだし)
(あいつだって、同じなんだよな。それは俺も判ってて)
(……ただ最近ちょっと忙しくて、睡眠が足りなかったのかな。それで苛ついちまったのかも)
「どうしてあんなことを口走ったのか」という答えの出なかった問いに、凡庸ながらも落ち着いた答えが出てきた。
この店の空気は、自分を冷静に分析させてくれる。護は息を吐くと目を開けて、再びカップに口をつけ、今度は苦味を楽しんでみることにした。
「よろしいでしょうか」
「え?」
少しすると、トレイを手にしたマスターがいつの間にかやってきていた。
「こちらをご試飲いただけますか」
皺の深いマスターの手が、音ひとつ立てずにデミタスカップを置いた。
「なん、ですか?」
護は首をひねった。ふわりとコーヒーの香り――だけではない。ほかにも違う香りがあるような。
「解説をしてもよろしいでしょうか」
「ぜひ」
「まず前提と致しまして。『カフェ・コレット』という飲み物がございます」
「カフェコレット」
「はい。イタリアのカフェで供されることがあるもので、エスプレッソに酒を少量加えたものになります。グラッパが多いとか」
グラッパというのは確か蒸留酒の名前だったな、と護は思い出した。
「カフェで出るんですか? お酒が」
「出るようですよ」
「へえ……」
曖昧に相づちを打つ。護の知るようなチェーンのコーヒー店で、酒入りのメニューはまず出ない。少し想像が難しかった。
「面白いのが、『コレット』の意味です。これはイタリア語で『修正された』という意味だそうでして」
「修正?」
「はい。酒を足して修正された、正しいコーヒー」
とぼけた調子でマスターが言うので、護はちょっと笑った。
「コーヒーを出してる店で、『コーヒーだけじゃ物足りないから酒を足して修正した』って?」
「ええ。もちろん、一種の洒落なのだとは思いますが」
本気でコーヒーが物足りないと言っている訳ではなく、もっと刺激がほしいときもある、というところか。
「それを真似てみました」
「え、蒸留酒を?」
「エスプレッソではなく、コーヒーですが。先ほどのグァテマラに、ウイスキーをほんの数滴」
「へえ……」
「ウイスキーがお嫌いでなければ、お試しいただけませんか」
「あんまり飲んだことはないですけど、いただきます」
少し戸惑いながらも、護はデミタスカップを手にした。エスプレッソ用の小さなカップだが、試飲用として出してくれたようだ。
おそるおそる、それを口に含む。先ほどのコーヒーと同じ味がしたあと、違う香りと風味が護の口中を覆った。
「何だろ……変な味……あっすんません、そうじゃなくて!」
慌てて護は手を振った。
「知らない味ってことで……ちょっと甘いのに、コーヒーとも違う苦味みたいなのがある。なんか面白いって言うか……違うな」
考えながら彼は呟き、顔を上げてマスターを見た。
「ほんの少しだけど、確かにお酒の味がして。あの……子供の頃、コーヒーって大人の飲み物だと思ってたんですけど」
護はデミタスカップを撫でた。
「更に大人の飲み物を知ったみたいな気持ちだな。――好きです、これ」
「何よりです」
マスターは若造に会釈した。
「コーヒーとウイスキー。あまり交わらないと思われるふたつの世界が、唯一無二の調べを紡ぎ出す。『マリアージュ』や『出会い』などとも言いますが、こうした結びつきは何も、飲食に関する話に限りませんね」
「結びつき……」
ふたつの世界。出会い。
護は少し、苦笑いのようなものを浮かべた。
(俺の世界とあいつの世界も、そういうものなのかな)
「……どちらかの世界が正しい、みたいなことは、ないんでしょうね」
「ええ、きっと」
呟きのような護の言葉に、マスターは小さくうなずく。
もちろん、マスターは詳細を知らない。護はただ「友人に悪いことを言ってしまった」というニュアンスの内容を話しただけだ。
「そう、っすね。ちょうどさっき思ってたんです。その、こっちの世界を選んだのは俺自身なんだよなって、改めて」
口に出すと何だか気恥ずかしい。へへ、と護は照れ笑いをした。
「あの、この飲み物ってメニューにあるんですか」
アルコール系はなかった気がする、と思いながら護は尋ねる。
「いえ、試作品ですので。アイリッシュコーヒー用のウイスキーを使っております」
「アイリッシュ……」
「ええ、コーヒーにウイスキーとシロップを入れ、ホイップクリームを載せたものでして……」
そこでマスターは言葉をとめた。
「出しておりますね、日本の喫茶店でも。コーヒーと酒を」
「ほんとだ。普通に出してます」
ははっと護は笑う。マスターも笑んだ。
「こちらをメニューに出す予定はいまのところございませんが、そうですね、『裏メニュー』というのはいかがでしょう」
「お、それっぽいっすね」
「実は、そうしたものに憧れておりまして」
「ええ?」
意外な言葉に少し驚いたが、穏やかなマスターの笑みが少し悪戯っぽくなったのを見て、どうやら冗談のようだと判った。
「ではマモリさんが少し刺激を欲したときには――『アンバーティア』とでもご用命ください」
「アンバー……琥珀?」
「ええ。ウイスキーの色を琥珀色と表現することも多いですね」
「琥珀の、涙、ですか」
「いまひとつでしょうか」
護が繰り返すと、マスターは少し眉をひそめた。
「よろしければマモリさんのネーミングセンスで」
「いっ、いやいや! いいと思いますよ、かっこいい!」
正直に言うなら、若い護の感覚では少しだけ古く感じるが、レトロな夜想館にはよく合っている。「アンバーティア」はとてもよい、と護は繰り返した。
「有難うございます。お邪魔いたしました。改めまして――ごゆっくり」
丁寧に白い頭を下げて、マスターはまたカウンターの向こうに戻っていった。あとには飲みかけのグァテマラと、アンバーティア。
(修正、か)
(向こうが気にしてなくても、俺が「それならいいじゃん」って思えないのは、何て言うのか……きちんと修正できてないってことなのかも)
グァテマラをゆっくりと空にした。
(修正する方法は?)
アンバーティアを飲み干した。
数滴の、しかし強いアルコールが胸の辺りを熱くするように感じられる。
(簡単、だよな)
「ごちそうさまでした」
護は立ち上がり、会計を済ませる。
「あれ、アンバーティアの分は」
「ご試飲ですから」
「――今度は注文しますね」
「お待ちしております」
そのままマスターに見送られ、護は店を出た。外はいつしか暗くなっており、涼やかな空気が若者を包む。
色を濃くしていく空を見上げながら、護は財布をリュックにしまった。小さな剣のキーホルダーが揺れる。
「謝ろう」
シンプルな結論を呟く。
向こうが気にしていないことは、自分が謝らなくてもいいこととは違う。
「謝ればよかった」と後悔するなら、いまからでも謝ればいい。
口のなかに少しだけ残るグァテマラの苦味は不快ではなく、アイリッシュウイスキーの熱が彼の心に灯った。
この灯りが消えないうちに、「友人の世界」を訪ねよう。
きっと友人は笑うだろう。本当に少しも気にしていなかった、と。
そうしたら護も笑って、アンバーティアの話をして、少し一緒に飲むのもいいかもしれない。
薄く瞬く都会の星が、昨日より強くきらめいて見えた。
―了―




