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琥珀色の修正―カフェ〈夜想館〉―

作者: 一枝 唯
掲載日:2026/10/16


 行きつけの喫茶店、なんてものができるようになるとは、ほんの数年前まで思ってもみなかった。


「いらっしゃいませ」


 店に入ると、カウンターの向こうから老店主が声をかけてくれる。


 護(マモリ)は都会育ちだ。二十歳の頃まで、チェーン店くらいでしかコーヒーを飲んだことがなかったのも、不思議なことではない。


 そんな彼がある日、路地裏で見つけたこの古い喫茶店は、老マスターがひとりで切り盛りしている小さな店だった。

 おそるおそる入ってみたところ、レトロな空気感が心地よく、休みの日にちょくちょく通うようになったのだ。


 今日ここへやってきたのは、少々理由がある。気分を変えたかった、というのがそれだ。

 昨日、友人と喧嘩をした――いや、護が一方的に苛立ちをぶつけてしまった、そのもやもやが残っていて。


「『今日の一杯』お願いします」


 若者は窓際の席に腰を下ろしながら告げた。


 表の看板には「夜想館」とあるが、メニューには手描きで「Nocturne」――ノクターン、と書かれている。

 正式な名称はどちらなのだろう、と護はいつも思うが、尋ねてみたことはなかった。マスターと気安く雑談する雰囲気の店でもないからだ。


 一応メニューは見るものの、コーヒーに詳しくない護は、いつもだいたい「お勧め」である「今日の一杯」を頼む結果になる。

 店主は、孫ほど年の離れた若い護に視線を合わせると丁寧にうなずき、ホーロー製のキャニスターに手をかけた。


 いまどき、東京二十三区内の個人店でコーヒー一杯五百円(税込)という破格は驚きだが、薄給の身には有難い。判らないなりに、美味しいコーヒーだと思う。きっとこだわって淹れられているのだろう。


 店内はテーブル席がふたつ、カウンター席が五つ。ただ、カウンター席の椅子には物が置かれていることも多いため、実質三席だった。

 護はいつも、テーブル席にお邪魔する。混み合うようであればさすがに遠慮するが――夜想館に四人以上の客が入っているのは見たことがない。


(大丈夫なのかな、この店)


 護はついそんなことを思った。

 安すぎる値段設定。休日の十五時過ぎというピークタイムに、護しか客のいない店内。

 いい店に思えるのに、何故なのか。いまどき、全く宣伝をしていないからだろうか。ネットで調べても、この夜想館のことはどこにも載っていない。


 これで続いているのは、いわゆる「金持ちの道楽」でやっている店か、はたまた何かしら裏稼業を持っているとか。

 そんなことを考えてちらりとカウンターを見ると、老店主は無言で豆を挽いていた。少なくとも悪事で稼いでいるような人物には見えない。


 護は妄想をやめるとマスターから視線を外し、何気なく外を見た。

 秋口の風がびゅうと吹いて、枯葉を巻き上げている。鮮やかな銀杏の黄色が、奇妙に目に刺さった。


 ふう、と若者は息を吐く。


『――お前はいいよな。仕事で悩んだり金に困ったりしたこと、ないんだろ』


 投げつけた自分の言葉が耳に蘇る。


(どうしてあんなこと言っちまったんだろうな)


 年上の友人は、護から見れば「恵まれた環境」で、好きなことをやって生きているように見える。

 だが、誰にだってその立場なりの悩みや苦しみはあるものだ。他人からすれば護が「恵まれた環境」に見えることもあるだろう。


 普段は彼もそれくらい判っているのに、何故か昨日はあんな言葉が出てしまった。

 友人は少し驚いた顔をして、それからただ肩をすくめた。否定も肯定もせず、出てきた言葉が護の本心ではないと知っているかのように。


 傷つけた訳ではない。怒らせてもいない。

 だから――いたたまれない。


(謝ればよかったんだ)


 妙な空気になったとき、すぐ「ごめん」と。ただそれだけでよかったのに、口をつぐんでしまった。

 友人は何でもないように話を続け、それから彼らは、いつもと同じように別れた。

 次に会うときも、きっと何も変わらないだろう。友人とは、きっといつも通りに楽しく過ごせる。

 そうなると判っているからこそ、気にかかる。


 少しずつ暮れていく小径に、早くも街灯が灯りはじめた。と、ふわりと香りが届く。


「お待たせいたしました。『本日の一杯』は、グァテマラです」

「あ……どうも」

「解説を?」

「お願いします」


 メニューには「ご希望に応じてコーヒー豆の解説を致します」と達筆な字で書かれている。実際には、いつもマスターがこうして「解説してよいか」と尋ねてきては、護がお願いする形だった。


「深煎りのグァテマラが持つ最大の特徴は『苦味』です」

「苦味……」


 いまの自分にぴったりだ、とこっそり護は思った。


「ですが、ただ苦いだけではない。芳醇な香りもまた好まれる点です。カカオ分の強いダークチョコレートのようだとか、ナッツのようだと仰る方もいらっしゃる」

「へえ」

「重厚な苦味の中に、ほんのりとした甘みと芳醇な香りをお楽しみください」

「は、はい」


 店の人とのやり取りは少しだけ緊張する。いや、このマスターの様子が上品だからだろうか。自分が若造で、礼儀がなっていないことが意識されるせいなのかもしれない。


「ごゆっくり」


 静かにマスターは会釈をし、護はそっとカップを口に運んだ。


「――ほんとだ、苦いや」


 思わず言葉が洩れた。マスターの片眉が上がる。


「失礼ですが」

「えっ、別に苦くて嫌だとかいうような意味じゃなくて」

「お悩みごとでも?」

「え」


 思わず固まった。何故、そんなことを?


「失礼」


 マスターはまた言った。


「そんな気がしましたもので」

「は、はあ」


 ここのマスターはあまり客に話しかけてくる方ではない。こうした個人店では、店主と常連客の仲がよくて一見(いちげん)が居心地を悪くする、というような話も聞くが、交流が目的でこの店にやってくる者はあまりいないようだ。店内はいつも、落ち着いたジャズのBGMが流れているばかりだった。

 護がこの店に通うようになってしばらく経つが、マスターと話をしたのは数えるほどだ。それも「急に寒くなりましたね」とか「電車が止まっているようですよ」とか、そんなことだけ。


 だから、意外すぎて驚いた。

 そして、合っていることにも。


「……ちょっと友だちに、余計なこと言っちゃって」


 ぽつりと護は呟いた。


「向こうは気にしてないみたいなんだけど、言った俺の方が気にしてて……はは、くだらないですよね」

「人の気持ちに『くだらない』なんてものは一切ありませんよ」


 護の言い訳をマスターは静かに叱った。護は返事に詰まった。


「お客様……マモリさん、でしたか」

「え、あ、はあ」


 よく覚えているな、と彼は内心で驚いた。最初の頃、ちょっとした会話の流れで名乗った記憶はあるが、その後話題に上がったこともなかったのに。


「お酒は召し上がりますか」

「へ?」


 友人のことでも聞かれるかと思いきや、思いがけない問いかけだ。


「ええと、まあ、人並みに?」


 酒には強くも弱くもない。飲み会があればつき合い程度に飲み、飲まない仲間といれば全く飲まなくても気にならない。どちらかと言えば「飲まない側」になるが、「飲めない」というほどではない。


「承知いたしました」

「はい?」


 酒でも出てくるのだろうか。護は不思議に思ってメニューを思い返した。夜想館で出されるものはコーヒーがメインで、あとは少々のソフトドリンクくらいだったはずだ。

 もっともそのままマスターはカウンターの奥に戻り、コーヒー豆の入ったキャニスターを手にしている。何か聞き間違えたのだろうか、と護は訝しんだ。


 彼がそのまま眺めていると、マスターは古びたミルに豆を入れ、ゆっくりと回しはじめる。豆の砕ける心地よい音がBGMの向こうで微かに響き、護は知らず知らずの内に目を閉じていた。


(いまの場所って、俺が選んだ道なんだよな)

(まあ、薄給を選んだ訳じゃないけど、できることとやりたいことを合わせたらこうなってるんだし)

(あいつだって、同じなんだよな。それは俺も判ってて)

(……ただ最近ちょっと忙しくて、睡眠が足りなかったのかな。それで苛ついちまったのかも)


 「どうしてあんなことを口走ったのか」という答えの出なかった問いに、凡庸ながらも落ち着いた答えが出てきた。

 この店の空気は、自分を冷静に分析させてくれる。護は息を吐くと目を開けて、再びカップに口をつけ、今度は苦味を楽しんでみることにした。


「よろしいでしょうか」

「え?」


 少しすると、トレイを手にしたマスターがいつの間にかやってきていた。


「こちらをご試飲いただけますか」


 皺の深いマスターの手が、音ひとつ立てずにデミタスカップを置いた。


「なん、ですか?」


 護は首をひねった。ふわりとコーヒーの香り――だけではない。ほかにも違う香りがあるような。


「解説をしてもよろしいでしょうか」

「ぜひ」

「まず前提と致しまして。『カフェ・コレット』という飲み物がございます」

「カフェコレット」

「はい。イタリアのカフェで供されることがあるもので、エスプレッソに酒を少量加えたものになります。グラッパが多いとか」


 グラッパというのは確か蒸留酒の名前だったな、と護は思い出した。


「カフェで出るんですか? お酒が」

「出るようですよ」

「へえ……」


 曖昧に相づちを打つ。護の知るようなチェーンのコーヒー店で、酒入りのメニューはまず出ない。少し想像が難しかった。


「面白いのが、『コレット』の意味です。これはイタリア語で『修正された』という意味だそうでして」

「修正?」

「はい。酒を足して修正された、正しいコーヒー」


 とぼけた調子でマスターが言うので、護はちょっと笑った。


「コーヒーを出してる店で、『コーヒーだけじゃ物足りないから酒を足して修正した』って?」

「ええ。もちろん、一種の洒落なのだとは思いますが」


 本気でコーヒーが物足りないと言っている訳ではなく、もっと刺激がほしいときもある、というところか。


「それを真似てみました」

「え、蒸留酒を?」

「エスプレッソではなく、コーヒーですが。先ほどのグァテマラに、ウイスキーをほんの数滴」

「へえ……」

「ウイスキーがお嫌いでなければ、お試しいただけませんか」

「あんまり飲んだことはないですけど、いただきます」


 少し戸惑いながらも、護はデミタスカップを手にした。エスプレッソ用の小さなカップだが、試飲用として出してくれたようだ。


 おそるおそる、それを口に含む。先ほどのコーヒーと同じ味がしたあと、違う香りと風味が護の口中を覆った。


「何だろ……変な味……あっすんません、そうじゃなくて!」


 慌てて護は手を振った。


「知らない味ってことで……ちょっと甘いのに、コーヒーとも違う苦味みたいなのがある。なんか面白いって言うか……違うな」


 考えながら彼は呟き、顔を上げてマスターを見た。


「ほんの少しだけど、確かにお酒の味がして。あの……子供の頃、コーヒーって大人の飲み物だと思ってたんですけど」


 護はデミタスカップを撫でた。


「更に大人の飲み物を知ったみたいな気持ちだな。――好きです、これ」

「何よりです」


 マスターは若造に会釈した。


「コーヒーとウイスキー。あまり交わらないと思われるふたつの世界が、唯一無二の調べを紡ぎ出す。『マリアージュ』や『出会い』などとも言いますが、こうした結びつきは何も、飲食に関する話に限りませんね」

「結びつき……」


 ふたつの世界。出会い。

 護は少し、苦笑いのようなものを浮かべた。


(俺の世界とあいつの世界も、そういうものなのかな)


「……どちらかの世界が正しい、みたいなことは、ないんでしょうね」

「ええ、きっと」


 呟きのような護の言葉に、マスターは小さくうなずく。


 もちろん、マスターは詳細を知らない。護はただ「友人に悪いことを言ってしまった」というニュアンスの内容を話しただけだ。


「そう、っすね。ちょうどさっき思ってたんです。その、こっちの世界を選んだのは俺自身なんだよなって、改めて」


 口に出すと何だか気恥ずかしい。へへ、と護は照れ笑いをした。


「あの、この飲み物ってメニューにあるんですか」


 アルコール系はなかった気がする、と思いながら護は尋ねる。


「いえ、試作品ですので。アイリッシュコーヒー用のウイスキーを使っております」

「アイリッシュ……」

「ええ、コーヒーにウイスキーとシロップを入れ、ホイップクリームを載せたものでして……」


 そこでマスターは言葉をとめた。


「出しておりますね、日本の喫茶店でも。コーヒーと酒を」

「ほんとだ。普通に出してます」


 ははっと護は笑う。マスターも笑んだ。


「こちらをメニューに出す予定はいまのところございませんが、そうですね、『裏メニュー』というのはいかがでしょう」

「お、それっぽいっすね」

「実は、そうしたものに憧れておりまして」

「ええ?」


 意外な言葉に少し驚いたが、穏やかなマスターの笑みが少し悪戯っぽくなったのを見て、どうやら冗談のようだと判った。


「ではマモリさんが少し刺激を欲したときには――『アンバーティア』とでもご用命ください」

「アンバー……琥珀?」

「ええ。ウイスキーの色を琥珀色と表現することも多いですね」

「琥珀の、涙、ですか」

「いまひとつでしょうか」


 護が繰り返すと、マスターは少し眉をひそめた。


「よろしければマモリさんのネーミングセンスで」

「いっ、いやいや! いいと思いますよ、かっこいい!」


 正直に言うなら、若い護の感覚では少しだけ古く感じるが、レトロな夜想館(ノクターン)にはよく合っている。「アンバーティア」はとてもよい、と護は繰り返した。


「有難うございます。お邪魔いたしました。改めまして――ごゆっくり」


 丁寧に白い頭を下げて、マスターはまたカウンターの向こうに戻っていった。あとには飲みかけのグァテマラと、アンバーティア。


(修正、か)

(向こうが気にしてなくても、俺が「それならいいじゃん」って思えないのは、何て言うのか……きちんと修正できてないってことなのかも)


 グァテマラをゆっくりと空にした。


(修正する方法は?)


 アンバーティアを飲み干した。

 数滴の、しかし強いアルコールが胸の辺りを熱くするように感じられる。


(簡単、だよな)


「ごちそうさまでした」


 護は立ち上がり、会計を済ませる。


「あれ、アンバーティアの分は」

「ご試飲ですから」

「――今度は注文しますね」

「お待ちしております」


 そのままマスターに見送られ、護は店を出た。外はいつしか暗くなっており、涼やかな空気が若者を包む。


 色を濃くしていく空を見上げながら、護は財布をリュックにしまった。小さな剣のキーホルダーが揺れる。


「謝ろう」


 シンプルな結論を呟く。

 向こうが気にしていないことは、自分が謝らなくてもいいこととは違う。

 「謝ればよかった」と後悔するなら、いまからでも謝ればいい。


 口のなかに少しだけ残るグァテマラの苦味は不快ではなく、アイリッシュウイスキーの熱が彼の心に灯った。


 この灯りが消えないうちに、「友人の世界」を訪ねよう。


 きっと友人は笑うだろう。本当に少しも気にしていなかった、と。

 そうしたら護も笑って、アンバーティアの話をして、少し一緒に飲むのもいいかもしれない。


 薄く瞬く都会の星が、昨日より強くきらめいて見えた。



―了―


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