短くも歴史を焼いた牙の古鳥
最近ね、引っ越しました。
どうせなら日付も残しとこう。令和8年の9月19日。
ところは勿論伏せつつも、よくある独り暮らし用1Kの部屋から、広々とした2LDK。
間取りについてはもしかしたら多少のツッコミどころはあるかもしれないけれど、素敵な我が家でございます。城と言ってもいい。牙城。
……牙城てなんでしたっけ?
調べてみたら、城の中の本丸、大将がいるところらしいですね。
となると家を城と喩えた時、その牙城とはいったいどこにあたるのか。少し議論の分かれそうなところではある。
例えば寝室。寝るところって大事ですからね。
寝るとき以外は寝室に入らない方が入眠にはいいらしい、という事で、実際そのように運用させていただいています。1Kから移った最大の利点ですね。
例えばリビング。いまだにリビングってよくわかっていない。
リビングとダイニング、そもそもどういう部屋のことですか? でっかいイメージはある。
例えば書斎。書斎って定義なんでしょう? なんか漠然と、仕事場?
引っ越したので、デスクとゲーミングチェアを導入しました。体感的にはここが本拠地かな。
というわけで、暫定書斎が我が牙城ということになりました。
ここでこうして文章を書いている、愛機を扱う素敵な部屋が、本丸。そう考えると、ただの殺風景な部屋にすぎないここも、大層価値のある場所に見えるというワケ。
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取り敢えず今回はそういう近況について語るというよりも、それに付随して利用されるようになった表題の件。牙古鳥について語りましょう。
まず、そもそも牙古鳥とはなにか。
これはつまりは『雅』の字、牙のふるとり……これに由来する私の私、自称の一つであるわけです。
そして、古い鳥。『古』の字に老成を、『鳥』に麗しき鴉羽……闇夜の如くに暗く輝く賢い鳥を。そしてそこに『牙』を携えカッコイイ。つまりそういうこと。
冗句を広げ伸ばした先、心に抱くその名前が、誇りや内在の力となる。
そういったものの一例が、私……『微睡む牙古鳥』である、と。そういうこと。
……まぁ、正直分からないとは思います。よくわからんことをほざくのは、夢想家の特権。
偽りなく語れども、正気のレイヤにてかかる想起もなく、果たして「何言ってんだコイツ?」となるような言の葉のかけら……なんとなく雰囲気で感じ取るその片隅の理屈、つまりは
「あぁ、なんとなくわかりますよ!!!(てきとう)」
とその場のノリで言ってみたそこにある気持ち。
その虚ろで不確かな認識が、その概念の本質ですらある。
それが、心底『正しい理解』であるのだという、しっくりこない模範解答。
そういったものが、私の一部であるわけですな。
んでまぁその内面の開示は実のところどうでもよくて、結構前……あれはいつの話だったかな?
だいぶ前の、夏だったか秋だったか。たぶん3年くらい前かな?
確かその日は、タイ料理だったかを食ったのち、陶芸教室の体験に行った日だった。
もちろんそんなものに単独で行くわけもなく、いわゆるネッ友のお二方と行ったのです。
一人はちょくちょく現れる(※)友人A、もう一人は……まぁ、何と言っていいのか。
お友達のお友達?
あるいは、儚くも独立して縁のわずかにある、知ってる人。
口が裂けても「仲が良いです!」とは言い難いような、険悪ではないだけの、実質他人の如き人。詳細に語れば語るほど失礼感の出てくる誰か。そういう感じ。
勿論、そういう事を詳らかに書くことが利益を生まないことは重々承知していつつも、そこにいた本人の目にはつかないだろうという楽観と、逆に目についたからと言ってなんやねん実際そうだよなと納得いただけるに違いない、という楽観ゆえに、私の言葉は「こう」なるというわけ。
あるいは、最早そんなことは誰も覚えていなかったのかもしれない。
そこにあった物の記憶さえなければ、私もその事実があったことは、ついでにタイ料理を食ったという事実を含めて既に捨てられていたに違いない。
その日食った……トムヤムクンスープだっけ? の、薬味にあたる葉っぱがえらい硬かった(※)という事も、脳の片隅に残る残滓として掃き捨てられ、意味を失って事実上消滅していたことだろう。逆に言えば、そこに記念品が残っているというだけで、そこまでちゃんと覚えているとも言える。
つまり、表題の通り。
陶芸教室で作った『牙古鳥』の文字を描いたマグ。
これを引っ越し時にちゃんと持ってきたうえで、なおかつ今日初めて使用した、ということ。
引っ越し前は全然使わなかったんですよね。記念品って実用しがたい、というか。
それ以前に実用していたマグは普通に元々あったから、わざわざそれを使う必然性がなかった、というのもある。それでも、そのマグは引っ越し前の家でもずっと電子レンジの上で埃を被っていた。
これを捨てることなく、少なくとも部分的に「だいじなもの」の枠で持ってきたことに、何らかの意味を感じる。
実質的にはランダムな行動の一つに過ぎないかもしれないが、そこにあった歴史を不要と断じず、記録の一つとして残そうとした。その事実が、今日この文章を書く理由を作っている。
いつの日か、割り当てられた土塊の、釉薬を塗って焼かれた無二の一品が、かつて存在した一日を今日に残している。
そう考えると、やっぱり「記念品」ってのは存外大事なものかもしれないな、と感じるわけです。
それは例えば、なんでもない日常を撮った写真であったり。
それは例えば、いつか取った資格の証明書であったり。
それは例えば、物件を買った際の権利書であったり。
生きてきた証の、そこに残るものが想起させる、在りし日の記憶が。
今まで生きてきたことの本質的な無価値さを彩り、仮初の価値をもたらす。
実のところなんでもいい生き方に、今までを刻み、これからを与える。
今の命に空疎を感じるのであれば、まずはなんでもいいことに記録を残し、それを物と紐づけるといいのかもしれないと、そう感じた。
そういう、引っ越してだいたい1週間たった日のどうでもいい記録である。
※ちょくちょく現れる友人A:神出鬼没という意味でなく、私の文章では登場頻度の高い人妻。私の友達が少ないから……!
※トムヤムクンの葉っぱ:恐らくレモングラス。食べるための具材ではありえないレベルで硬かった。




