記憶の中の彼女
◇再会のようなもの
三年という月日は、記憶の輪郭を曖昧にするには十分な長さのはずだった。
少なくとも私は、そう思っていた。
十月半ばの火曜日、仕事帰りの雨。
その日、駅の裏手にある小さな地下のカフェへ入ったのは、ただの気まぐれだった。重い木の扉を押し開けると、湿った空気に混じって珈琲の香りがふわりと鼻先をかすめた。店の奥では焙煎機が低く唸り、薄暗い照明が濡れた床を鈍く照らしている。
私は窓際の席に腰を下ろし、畳んだ傘を足元に立てかけた。
メニューを開きかけたところで、声がした。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
その一言で、身体が先に反応した。
顔を上げるより早く、喉の奥がひりつく。
視線の先に立っていた店員の女性を見た瞬間、息が止まった。
由奈、と思った。
もちろん、そんなはずはない。
そんなはずはないのに、少し目尻の下がった目元や、注文を待つあいだ両手を軽く重ねる癖が、記憶の底に沈んでいた名前を一息に浮かび上がらせた。三年前、私の前からいなくなった恋人。その面影が、目の前に立っていた。
心臓が嫌な音を立てる。
よく見れば違う。髪の長さも、鼻筋の通り方も、記憶の中の彼女とは微妙にずれている。本人であるはずがない。ただ似ているだけだ。そう言い聞かせなければ、その場で彼女の名前を呼んでしまいそうだった。
「……ブレンドを、ひとつ」
どうにかそれだけを口にすると、彼女は「かしこまりました」と小さく微笑んだ。
その笑みさえ、記憶のどこかに触れてくる気がして、私は視線を落とした。
彼女が離れていってから、ようやく息を吐く。
ただの他人の空似だ。
そう思おうとしたのに、運ばれてきた珈琲の横に置かれたレシートを見て、指先が止まった。
担当者名の欄に、優奈、と印字されていた。
由奈と優奈。
たった一文字の違いなのに、雨音の中でその境目はひどく曖昧だった。
私はレシートを指先でなぞり、すぐに目を逸らした。
窓の外では、細い雨が絶え間なく降り続いている。三年前の別れの日も、たしかこんな雨だった気がする。喧嘩のあと、互いに何も言えないまま背を向けたことだけは覚えているのに、最後に彼女がどんな顔をしていたのかは、もう思い出せなかった。
彼女は由奈ではない。
それだけは、はっきりしている。
それでも帰り道、財布にしまったはずのレシートの感触が、ずっと気になっていた。
◇ 通う理由
一度生まれた引っかかりは、思っていたよりもしつこく残った。
週に一度だけのつもりだった。けれど気がつけば二度になり、三度になり、仕事を終えると私はほとんど無意識に駅裏の地下へ向かっていた。
重い木の扉を押し開けるたび、珈琲の匂いが湿った上着に移る。
カウンターの奥に彼女の姿を見つけると、それだけで胸のどこかが静かにざわついた。
最初のうちは、自分でも理由をはっきり認めたくなかった。
彼女が由奈に似ているから。
ただそれだけのことで通っているのだと認めてしまえば、自分がひどく空っぽな人間に思えたからだ。
けれど何度か顔を合わせるうちに、私は少しずつ、優奈さん自身のことを気にするようになっていた。
注文を取るときの声のやわらかさや、忙しい時間帯でも慌てた様子を見せないところ。客が帰ったあと、テーブルの上に残った水滴を布巾で丁寧に拭き取る仕草。そういう細かなものが、記憶の中の誰かとは別の輪郭を持って、私の中に残るようになった。
「いつもありがとうございます。お仕事帰りですか」
そう声をかけられたのは、通い始めて一ヶ月ほど経った頃だった。
カップを置きながら、彼女は少しだけ首を傾げた。最初に見たときと同じ仕草なのに、もうあのときほど息は詰まらなかった。
「ええ。帰りに寄るのが、なんとなく習慣になってしまって」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
彼女はそう言って、控えめに笑った。
由奈は、冗談を言うと肩をすくめるようにして笑う人だった。優奈さんは違う。喉の奥で小さく「ふふ」と鳴らして、少しだけ幼い表情になる。その違いに気づくたび、私は妙に安心した。安心しながら、同時に、説明のつかない寂しさも覚えた。
似ているところは、たしかにあった。
白いカップを置くとき、人差し指でそっと縁を支えるところ。注文を待つあいだ、両手を軽く重ねるところ。雨の日、窓の外を眺めるときの静かな横顔。そういう瞬間だけ切り取れば、記憶が勝手に昔へ引き戻されそうになる。
けれど、違うところもいくつもあった。
「雨の日って、嫌いじゃないんです」
ある日、店内に流れていたピアノ曲の話から、そんなふうに彼女が言った。
「家にいるときは、バロックを流してることが多いです。雨の音と合うので」
私は曖昧に頷きながら、カップに口をつけた。
由奈が好きだったのは、擦り切れた古いブルースだった。雨の日ほど、ざらついたギターの音を大きくしていた。似ているようで、やはり違う。その当たり前のことが、なぜか少しだけ胸に引っかかった。
似ているけれど、違う人だ。
私はそのたびに心の中で言い聞かせた。
そう思うとほっとするのに、完全に別人だと突きつけられると、どこか置いていかれるような気もした。
それでも、優奈さんと話す時間は心地よかった。
彼女は必要以上に踏み込んではこないが、こちらが言葉を探しているときには急かさず待ってくれる。そういう静かな優しさに、私は少しずつ救われていたのだと思う。
ある晴れた秋の夕方、会計を済ませたあとで、私はレシートを受け取る手を引っ込められずにいた。
このまま帰れば、また次も店で会うだけだ。そう思った瞬間、口が先に動いた。
「今度、お店の休みの日にでも、お茶しませんか」
言ってから、自分の声が思ったより真っ直ぐだったことに気づく。
優奈さんは一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに、困ったようでもなく、試すようでもなく、ただ少し考える顔をしてから頷いた。
「はい。喜んで」
その返事を聞いたとき、胸の奥で何かがほどけた気がした。
過去の続きを探しているのではない。
これは新しく始まるものなのだと、そのときの私は本気で信じようとしていた。
◇ 交際
十一月の終わり、私たちは付き合い始めた。
三度目のデートの帰り道だった。イチョウの葉が歩道に薄く積もり、踏むたび乾いた音がした。街路樹の隙間から落ちてくる夕方の光の中で、私は立ち止まり、思っていたよりずっと素直な言葉で気持ちを伝えた。
優奈さんは少し驚いたように目を見開き、それから困ったように笑った。
しばらく黙っていたあとで、「私でいいなら」と言って、差し出した私の手をそっと握り返してくれた。
その手はあたたかかった。
たしかに、と思った。
この温もりは、記憶ではない。今ここにあるものだ。私はようやく過去から抜け出せるのかもしれないと、そのとき本気で思った。
付き合い始めてからの時間は、穏やかだった。
休日に待ち合わせて映画を観て、帰りに食事をして、たまに彼女の部屋で夕飯を食べた。特別なことは何もないのに、そういうありふれた時間が妙に新鮮で、私は何度も救われた気がした。
ある週末、彼女の部屋で肉じゃがをご馳走になった。
湯気の立つ小鉢を前にして「いただきます」と言うと、優奈さんは少し不安そうにこちらを見た。
「味、薄くないですか」
「いや、ちょうどいい」
ひと口食べてから、私はもう一度言った。
「むしろ好きかも。このくらい、少し甘いほうが」
そう言った瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
由奈も、たしか甘めの味つけをしていた。
いや、そうだっただろうか。肉じゃがなんて一緒に何度食べただろう。思い出そうとすると、目の前の湯気の向こうに、曖昧な記憶が勝手に形を取り始める。
「よかった」
優奈さんはほっとしたように笑って、自分の皿にも箸をつけた。
その横顔を見ながら、私は妙な安堵を覚えていた。うまく言えないが、どこか深いところで噛み合っているような気がしたのだ。そんなふうに感じられる相手は、そう多くないのかもしれないと思った。
また別の日、映画を観た帰りに入ったカフェで、優奈さんがアイスティーのストローを指先でくるくる回していた。
感想を言葉にする前の、少し考え込むような癖だった。
「どうしました?」
私が見ていたことに気づいたのか、彼女が首を傾げる。
「いや、なんでもない」
そう答えながら、私は視線をカップに落とした。
由奈は考え事をすると、ストローではなく紙の袋の端を細かく折る癖があった。似ているとは言えない。けれど、何かに気を取られて指先を遊ばせるところは、どこか通じているようにも思えた。
そんなことが、一度や二度ではなくなっていった。
彼女がコートのポケットに手を入れる仕草。
信号待ちで少し俯く癖。
店を出るとき、振り返って忘れ物がないか確かめるところ。
ひとつひとつは些細なことなのに、私はそれを見つけるたび、胸の内側で小さく頷いていた。
似ている、と思うたびに、なぜか安心した。
それは過去に引き戻される感覚というより、ばらばらだった何かが静かに繋がっていくような、不思議な心地よさだった。
もちろん、違うところもいくらでもあった。
優奈さんは由奈よりよく笑うし、食後には必ず温かいお茶を飲む。映画の好みも違えば、休日の過ごし方も違う。それでも私は、違いより先に、似ているところへ目が向くようになっていた。
その頃の私は、まだそれをおかしいとは思っていなかった。
好きな相手に、共通点を見つけて嬉しくなるのは自然なことだと、本気でそう思っていたからだ。
◇ 自己暗示
十二月に入る頃には、私はもうほとんど考えなくなっていた。
優奈さんの仕草や言葉の端に、由奈を思わせるものを見つけることが、あまりにも自然になっていたからだ。見つけるたびに胸の奥が静まり、逆に見つからないと、どこか落ち着かなかった。
ある日、横断歩道の前で信号を待っていたときのことだった。
風が思ったより冷たく、優奈さんは肩をすくめるようにして少し俯いた。マフラーに顎が埋もれ、白い息が細くこぼれる。その角度を見た瞬間、私は息を呑んだ。
由奈も、冬になるとこんなふうに首をすくめていた気がした。
「優奈」
思わず呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「え? どうしたの?」
「いや……なんでもない」
そう言いながら、私は自分の言葉の続きを飲み込んだ。
今の仕草が、昔の誰かに似ていた、などと言えるはずがない。けれど胸の内では、もう別の声が勝手に囁いていた。似ているのではなく、繋がっているのだと。私が見落としていただけで、最初からどこか同じものを持っていたのだと。
食事のときもそうだった。
彼女が皿の端にシイタケをよけているのを見て、私は何気ない調子で尋ねた。
「苦手なんだ、シイタケ」
「うん。子どもの頃からずっと」
彼女は少し眉を寄せて笑った。
私は曖昧に頷きながら、頭の中で別の記憶を探っていた。由奈はどうだっただろう。キノコが好きだった気もするし、嫌いだと言っていた気もする。思い出そうとすると、どちらも本当のように思えてくる。
人は変わる。
三年もあれば、味覚くらい変わるかもしれない。
あるいは、私が知らなかっただけなのかもしれない。
そう考えると、不思議と何も矛盾しなかった。
違うところが見つかっても、それは間違いではなく、まだ知らなかった部分が増えただけなのだと思えた。そうやって私は、目の前の優奈さんと、記憶の中の由奈のあいだにある隙間を、ひとつずつ都合よく埋めていった。
その頃にはもう、優奈さんと過ごす時間そのものが、私の中で少しずつ別の意味を持ち始めていた。
新しい恋をしているはずなのに、どこかで失ったものの続きを受け取っているような気がしていたのだ。そんなふうに感じることを、私はおかしいとは思わなかった。むしろ、ようやく自分の人生が正しい場所に戻ってきたのだとさえ思っていた。
けれど、そんな見方が彼女に伝わらないはずはなかった。
クリスマス前の土曜日、遊園地の帰りの電車で、私たちは並んで座っていた。
閉園間際まで歩き回ったせいで、彼女は少し疲れた顔をしていた。窓に映る横顔を見ながら、私は何の気なしにその髪に触れた。指先に、甘い香りがかすかに残る。
「本当に、こういう優しい匂いがするところ、変わらないね」
言った瞬間、自分でも何かがおかしいとわかった。
優奈さんは私の手をそっと押し戻した。
「ねえ」
その声は静かだったが、ひどく澄んでいた。
「どうして、そういう言い方するの?」
「え?」
「あなた、たまに私のこと、昔から知ってるみたいに話すよね」
私はとっさに笑おうとしたが、うまくいかなかった。
彼女は私を見ないまま、自分の髪を指先でつまんだ。
「これ、シャンプー変えたの、先週だよ」
「あ……いや、そういう意味じゃなくて」
喉が急に乾く。
何か言わなければと思うのに、言葉がうまくまとまらない。
「君の雰囲気が、その……落ち着くから。たぶん、そういうことだと思う」
苦しい言い訳だった。
自分でもわかっていた。
「雰囲気、か」
彼女は小さく繰り返して、窓の外へ目を向けた。
流れていく夜の灯りが、その横顔を一瞬ずつ照らしては消していく。
「私、あなたが思ってるような人に見えるのかな」
「どういう意味?」
「ううん」
彼女はそこで少し黙った。
それから、笑うでも責めるでもない曖昧な顔で言った。
「たまにね、私のことを見てるんじゃなくて、私の向こう側にある何かを確かめてるみたいな顔をするから」
胸の奥を、細い針でまっすぐ刺されたような気がした。
「それが、少し怖い」
私は反射的に彼女の手を取った。
大丈夫だと言いたかった。違うと言いたかった。けれど、握ったその手は驚くほど冷たく、私は自分が何を否定しようとしているのか、うまくわからなくなった。
◇ひび割れ
年が明けてからも、私たちのあいだに入ったひびは、そのままだった。
大きな喧嘩をしたわけではない。会えば一緒に食事をして、他愛のない話もした。ただ、何かの拍子に会話が噛み合わなくなることが増えた。ほんの少しの沈黙が、前より長く残るようになった。
一月の終わり、私の部屋で映画を観ていた夜のことだった。
古い恋愛映画で、主人公の男女はすれ違いの末に別れる。エンドロールが流れ始めたところで、私は画面を見たまま小さく息を吐いた。
「やっぱり、一度壊れた関係って、元には戻らないのかな」
独り言のつもりだった。
けれど隣にいた優奈さんは、すぐには何も言わなかった。しばらくしてから、画面を見たまま静かに口を開いた。
「戻そうとするからじゃない?」
「え?」
「前と同じものにしようとするから、苦しくなるんじゃない」
その声は穏やかだったが、妙にまっすぐだった。
私は返事に詰まった。彼女はそこでようやくこちらを見た。
「新しく始めたつもりでも、ほんとは昔の何かを探してるだけなら、相手はずっと苦しいよ」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
彼女は気づいている。ずっと前から、たぶん気づいていたのだ。
「そんなことないよ」
私はすぐに言った。言わなければならない気がした。
「僕はちゃんと、今の君を――」
そこまで言って、言葉が止まった。
今の君を、何だというのだろう。好きだと続けるはずだったのに、その瞬間、頭のどこかで由奈の名前がかすめた。ほんの一瞬だったのに、それだけで十分だった。
優奈さんは目を伏せた。
責めるというより、もう確かめ終わってしまった人の顔だった。
「……やっぱり」
その小さな声が、ひどく遠く聞こえた。
「ねえ、私のこと、本当に見てる?」
私は何も言えなかった。
否定したいのに、うまく息が吸えない。
「私の名前、優奈だよ」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
笑ったはずなのに、その表情は泣くのをこらえているようにも見えた。
「あなたが呼んでるのは、ちゃんと私の名前のはずなのに。たまに、それが私に向いてない気がする」
「そんなこと――」
「あるよ」
今度ははっきりと言い切った。
彼女は膝の上で指を組み、視線を落としたまま続けた。
「あなた、私のこと見てるとき、時々すごく優しい顔をする。でも、その優しさが私に向いてる感じがしないの」
私は喉の奥で何かを飲み込んだ。
彼女の言葉は、どれも少しずつ違う角度から、同じ場所を刺してきた。
「別の誰かを思い出してるのかなって、ずっと思ってた」
部屋の中が、急に静かになった気がした。
暖房の音だけがやけに耳につく。
「私、あなたの前で、ちゃんと私でいられてたのかな」
その問いに、私は答えられなかった。
違うと言えば嘘になる。けれど認めてしまえば、今まで自分がしてきたことの輪郭が、あまりにもはっきりしてしまう気がした。
優奈さんはしばらく待っていた。
それでも私が何も言えないでいると、小さく息を吐いて立ち上がった。
「今日は帰るね」
「優奈」
呼び止めた声は、自分でも驚くほど弱かった。
彼女は振り向かなかった。ソファの脇に置いていた鞄を取り、コートに腕を通す。その動作は静かで、迷いがなかった。
玄関まで見送ったときも、私は結局、何ひとつまともな言葉を言えなかった。
ドアが閉まる直前、彼女は一度だけこちらを見た。その目に怒りはなく、ただ深く疲れた色だけがあった。
扉が閉まる。
その音は大きくなかったのに、部屋の中にはいつまでも残った。
私はしばらく玄関の前に立ち尽くしたまま、閉じた扉を見ていた。
終わったのかどうか、まだわからなかった。
けれど、もう何かが決定的にずれてしまったことだけは、はっきりしていた。
◇崩壊
優奈さんが部屋を出ていってから、一週間が過ぎていた。
私はまだ、何も決められずにいた。謝るべきなのか、もう連絡しないほうがいいのか、それすらわからないまま、土曜の午後の渋谷をあてもなく歩いていた。
人の波に押されるようにスクランブル交差点を渡りかけたとき、向こうから来た女と目が合った。
私は立ち止まった。
相手も、ほんの一瞬だけ足を止めた。
短いボブカット。鮮やかな赤いコート。大ぶりのイヤリングが、冬の光を受けて揺れている。
スマートフォンを片手に持ったその女は、次の瞬間、ぱっと表情を明るくした。
「あれ、久しぶり」
その声で、ようやく現実が追いついた。
「……由奈?」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
由奈は少し笑って、昔と変わらない調子で肩をすくめた。
「なにその顔。ほんとに私だよ」
三年ぶりだった。
忘れたことなど、一度もなかったはずの顔。
それなのに、目の前にいる彼女は、私の記憶の中の由奈と、どこか噛み合わなかった。
まず、声が違った。
もっと低くて、少し掠れていて、言葉の切れ目が軽い。私の覚えていた由奈は、もっと静かに話す人だった気がする。いや、本当にそうだっただろうか。そう思った瞬間にはもう、自分の記憶のほうが揺らぎ始めていた。
「時間ある? せっかくだし、少し話そうよ」
断る理由も見つからず、私は彼女について近くのカフェに入った。
席に着くなり、由奈はメニューを一瞥して店員に言った。
「アメリカン。あと、シフォンケーキください」
私は思わず顔を上げた。
「……アメリカン、飲むんだ」
「え?」
「いや、その……もっと濃いのが好きだった気がして」
由奈はきょとんとして、それから吹き出した。
「なにそれ。私、昔から苦いの苦手だけど」
笑いながらそう言って、メニューを閉じる。
私は何も言えなかった。
苦い珈琲が好きだったのは、由奈じゃなかったのか。
それとも、好きだったのに変わったのか。
いや、違う。そんなふうに考えるより先に、もっと単純な可能性があった。私が、最初から間違えていたのだ。
「ケーキも食べるんだね」
自分でも情けないと思うほど、確認するような口調になっていた。
由奈はまた不思議そうな顔をした。
「食べるよ。むしろ好きだけど。前もよく一緒に食べてたじゃん」
その言葉が、胸の奥のどこかを鈍く打った。
一緒に食べていた。そんな記憶は、私の中にはほとんど残っていない。残っていないのに、彼女は当たり前のことのように言う。
運ばれてきたアメリカンからは、薄い湯気が立っていた。
由奈は砂糖をひとつ入れ、迷いなくかき混ぜる。その手つきを見ているうちに、頭の中で何かがずれていく音がした。
「どうしたの?」
「……いや」
「さっきから変だよ」
由奈はカップを持ったまま、少し首を傾げた。
その仕草さえ、私の覚えていたものとは違って見えた。
「あなた、私のこと、どんなふうに覚えてるの?」
冗談めかした口調だった。
けれど私は、すぐに答えられなかった。
「もっと静かな人だった気がしてた」
ようやくそう言うと、由奈は目を丸くしたあと、声を立てて笑った。
「私が? うそでしょ」
その笑い方も、私の知らないものだった。
明るくて、遠慮がなくて、少しだけ人を巻き込むような笑い方。
「私、そんな大人しいタイプじゃなかったよ。むしろ、よくしゃべるって言われてたし。あなたにも何回か、うるさいって言われた気がするけど」
私は何も言えなかった。
言い返そうとしても、思い出の輪郭がうまく掴めない。彼女にそう言った記憶があるような気もするし、まったくないような気もする。確かなはずだったものが、目の前で次々に形を失っていく。
由奈は私の沈黙をどう受け取ったのか、少しだけ笑みを引っ込めた。
「……もしかして、すごく都合よく覚えてた?」
悪気のない言い方だった。
責めるというより、本当に不思議そうにしているだけだった。
「私、そんなふうだったっけ」
その一言で、何かが決定的に崩れた。
私が三年間抱えていた由奈は、目の前の彼女ではなかった。
静かで、思慮深くて、いつも私を受け止めてくれる、傷ひとつない恋人。そんなものは最初からどこにもいなかったのかもしれない。ただ私は、別れたあとで少しずつ記憶を削り、塗り替え、自分に都合のいい形に整えていただけだった。
そして、その曖昧な像に少し似ていた優奈さんを見つけて、私は勝手に安心した。
似ているところを拾い集め、違うところには理由をつけて、彼女の上に別の誰かの輪郭をなぞっていた。
優奈さんの顔が浮かんだ。
バロック音楽の話をするときの、少し誇らしげな横顔。
喉の奥で小さく笑う癖。
シイタケを皿の端によけるときの、子どもみたいなしかめ面。
あれは全部、優奈さんのものだった。最初から、ずっと。
喉がひどく乾いた。
この場にこれ以上いられないと思った。
「ごめん。ちょっと、急用を思い出した」
「え、なにそれ」
由奈が呆れたように笑う声を背中で聞きながら、私は席を立った。
会計もそこそこに店を出ると、冬の空気が肺に痛かった。
雑踏の中で立ち止まり、震える手でスマートフォンを取り出す。
画面には、優奈さんの名前があった。
私は一度でも、優奈さんを優奈さんとして見ただろうか。
優しいと思った。落ち着くと思った。好きだと思った。
けれどそのたびに、私は彼女の向こう側に、もういない誰かの影を重ねていた。
じゃあ俺は優奈を愛していたのか。
その問いに、今の私には答えられなかった。
答えられないまま、それでも彼女の名前を呼びに行かなければならないと思った。今度こそ、誰の面影でもない、彼女自身を見ようとするために。
私はスマートフォンを握りしめたまま、人の流れをかき分けて走り出した。
冬の風が頬を切っても、足は止まらなかった。
もう遅いのかもしれない。
それでも、その答えだけは、彼女の前で知りたかった。
私は初めて、誰かの面影ではなく、優奈さんのもとへ走っていた。




