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世界樹の剪定者

作者: ろろピーナ
掲載日:2026/04/19


 世界は木である。大きな木である。

 生命が葉を、繋がりが枝を、物質が幹を、そして概念が根を、それぞれ形作ってその大樹は存在していた。

 これは、そんな大樹___世界樹を美しく保つことを使命とした剪定者の、密やかな仕事の記録である。


 空は快晴。まさしく雲一つない青いキャンパスが頭上には広がっていた。強大な山が脈々と連なり、世界樹を守るように立つ防壁となっていた。そんな場所を風が通り、草原の草花を揺らして過ぎ去っていく。

 木の葉によく似たフォレストグリーンの長髪が風に吹かれて揺れ動く。その強い風に、咄嗟に目を瞑ったそれは、風が止んでから目を開いた。髪と揃いのフォレストグリーンの瞳が覗き、目の前に聳える大樹を見上げる。

 世界樹の秘境、そこに住む唯一の生命。あるいは、切り離された世界樹の一部。本来、あるはずのなかった生命に、名はなかった。限りなく人に近い姿形を取っていたそれは、けれども人とは違っていた。世界樹の一部である人とは、どうしたって異なる存在でしかなかったのだ。

 それの宿命はただ一つ。世界樹の剪定。世界樹を美しく保つこと、ただそれのみ。

 ゆえにそれは今日も見上げるほど大きな世界樹を眺めていた。世界樹の剪定を指名とする剪定者。その使命に相応しく、どこか歪に多い葉はないか、飛び出ている枝はないか、ただそれだけを思って世界樹を見上げていた。世界樹を美しく保つことは、そのまま世界のバランスを保つことにつながる。増えすぎた種があれば除き、不恰好な繋がりは切り落とす。そうして世界は今も続いていた。


 風が吹き付ける。枝葉が揺れ、静かな秘境に爽やかな音を響かせた。それは一人だ。秘境の地に一人、ただ寂しく存在している。果たしてそれに感情があるのかは不明だが。

 ふと、剪定者は世界樹に背を向けた。遠くに見える高い山の頂上を見据え、数歩、足を進めた。風が、それを後押しするように吹いていた。一際強い風に吹かれて、それはふわりと舞い上がった。まるで風に踊る落葉のように。それは山頂を目指して舞い踊る。いつの間にやら背に芽生えた羽___人の上半身ほどもあろうかという大きさの葉、と形容すべきかもしれないが___それは風に吹かれる以外の動きをせずに、風に身を任せ飛んでいた。

剪定者は、そうした末に目当ての場所に舞い降りるのだと知っていた。目論見の通りに山頂へ足を下ろしたのは、風に身を任せてから数日が経った後のこと。ゆらりと揺られる空の旅は右に左に遠回りが常だった。


白化粧の施された山頂にて、剪定者はようやく世界樹を振り返った。緑や黄色、赤と鮮やかに彩られ丸く象られた大樹。その、頂上。不自然に飛び出る枝葉を、剪定者は見逃さなかった。

 最も自然から遠く、最も賢い種。それらが集まり形を成す一帯。葉が枯れてなお伸び続ける枝。命が果ててなお切れぬ繋がりは、世界樹にとっての害だった。醜い原因に違いなかった。

 剪定者は、世界樹を醜い姿から救うために存在する。美しく保つために存在する。その使命のためならば、剪定者は手間も時間も厭わない。それが、出来損ないの自分に唯一出来ることだったから。

 剪定者は、久方ぶりに見かけた大きな歪みに顔を顰めた。自身の手で一つ一つ手折り摘み取るには、その歪みは大きすぎた。剪定者は一つ息をこぼした。それ以外に生命のない秘境を見下ろす。美しい幻想郷。青い空と緑の草葉と白い山脈の景色。そして、その中央に立ち尽くす、見上げるほど大きな世界樹。たくさんの色を見せるそれ。この空間で唯一息吹を感じさせるその神聖な大樹を愛おしむように眺めて、剪定者は世界樹に背を向けた。秘境とは逆側、その空中に足を置く。大気を捉え損ねた足が重力に従い落ちていく。

 仕事の時間だ。あの大きく育ってしまった枝を、そこに残る細々とした葉を、手折り摘むのは骨が折れる。憂鬱な気分で、剪定者は高い山から飛び降りた。




 空は曇天。人類未踏の地である世界最大の山脈の頂を覆い隠す分厚い雲が、なんとも不穏な空気を地上に吐き出していた。

 海に面した大きな港街。水産資源の豊富さによって栄えるその都市の名はヘプン。港街ヘプン。人情味に溢れた、温かな人々による交流もまた魅力の街であった。


「遅いなぁ」

 大通りに面したパン屋。真新しく綺麗な白い石の壁と、大きな窓が特徴的な、美味しいパンを焼くその店。青と白のオーニングと、その下に置かれた小さな置き看板には、おすすめのパンの名前がいくつか書き込まれていた。買ったパンを食べるための椅子とテーブルが二組置かれているテラスの横の壁に背を預けながら、約束の時間を待っている若い男が、空を見上げて呟いた。

「ったく、どんだけ待たせるつもりなんだ、あの馬鹿」

久しぶりに休暇が重なったことで取り付けられたこの約束を、男は楽しみにしていた。出かける相手は、男のよく知る人物。そう、親友と称すべき仲の人だった。

 男の親友は、朗らかで大抵のことを気にしないおおらかな性格の男だった。いつも笑顔で、争いごとを好まない気質は、確かに好かれやすい人物だと言えるだろう。しかし、親友にはどうしようもない欠点があった。時間を守らないのだ。正確には、時間を意識することを忘れてしまうと言った方が良いのかもしれないが。時間を気にしながらの移動などという細かいことを気に掛けられないのだとは、親友がよく使う言い訳だった。男の性格に影響されたのんびりとした動き。直せと常々口にしていた男は、久しぶりの再会でも変わらない親友の短所に呆れながらも、仕方ないなと言いたげに肩を竦めた。

「さっさとしないと雨が降っちまう」

濡れ鼠になりながら、手を振って駆けてくる親友の姿が妙にリアルに想像できて、今度こそ男は声を出して笑った。


「あれまぁ、雨でも降りそうな天気じゃないの」

 八百屋の老婆が、頰に手を当ててそうぼやく。

「久しぶりじゃない?いつ以来かしら」

野菜を買いに来ていた常連客がそう答えた。手に持っていたりんごを眺め、一つ頷いてから買い物かごに入れる。

「いやね、また大雨かしら」

老婆は、前回の大雨を思い返してそう言った。普段の明るさがほんの少し翳っているように見える。それが、曇天の下であるからなのか、あるいは憂鬱な気分であるからなのかは、見ているだけでは分かりにくい。

「数年に一度とは言え、嫌よねぇ」

今度はにんじんを手に持ちながら、常連客が言う。今晩の食事はカレーであるらしい。買い物かごの中には既にじゃがいもと玉ねぎが居座っていた。

「そういえば、傘使えるかしら」

「あぁ、うちも確認しないとだわ。今日はお昼、最近できたカフェに行こうと思っていたのに」

一つ息を吐いた常連に、老婆は眉をハの字にしながら頷いた。

「あの大通りのとこのでしょう?美味しそうだったわ。この天気だと、しばらくは外出を控えた方が良さそうなのが残念ねぇ」

老婆の発言に頷いて肯定を示していた常連は、ハッとして老婆の顔を見た。

「買い溜めしておかないと。あの大雨の中外出するのはもうごめんだわ」

老婆もそうねぇ、と頰に手を当てた。

「私も、今日は早めにお店を閉めちゃおうかしらねぇ。お買い物に行かないと」

二人は顔を見合わせて苦笑した。これから訪れるだろう雨への対策に、それぞれが動き出していた。


「おかーさん!あそびいこーよー!」

 街外れの一軒家、その居間にある大きな窓から外を眺める幼子の小さなお願いを、台所に立つ母親はやんわりと嗜めた。

「この天気じゃすぐに雨が降っちゃうわ。また今度、お外で遊びましょう?おやつ、出来たわよ」

母の言葉に振り返った幼子は甘い香りに破顔した。母の作るクッキーだ。サクサクで口当たりが良く、優しいバターの香りのするそれを、幼子は特に気に入っていた。コトン、と机に置かれた大皿に乗せられたクッキーを、幼子は瞳を輝かせて見つめていた。

「ね、ね、たべていい?!」

ワクワクと声を張り上げて、幼子は母の顔を見上げた。母は愛おしそうに幼子を見つめながら微笑する。

「もちろん。でもよく噛んで食べるのよ」

母からの忠告を聞き流しながら、幼子はクッキーに手を伸ばした。窓の外へ向けていた関心は、すでに消え失せている。母は、美味しそうにクッキーを頬張る幼子を眺め、それから窓の外、曇天の空を見上げた。

「……なにも、ないと良いのだけれど」

今朝、いつもよりも長引くかもしれない、と言って仕事に出かけた旦那の帰宅を、母は祈りながら待っていた。どうか、雨が降る前に帰ってきてくれますように、と。

「おかーさん、たべないの?」

幼子が、クッキーを差し出して小首を傾げていた。空をぼんやりと見つめていた母は、そんな我が子の姿にハッとした。不思議そうな幼子の頭を撫で、ありがとうと礼をしながらクッキーを受け取る。

「クッキー、美味しい?」

母は聞いた。幼子は答えた。

「おいしいよ!」

屈託のない笑顔で即答した幼子に笑みを返した母は、摘んだクッキーを口へ入れた。いつものそれよりも、ほんの少し塩の味が濃い気がして、母は大皿に乗るそれらを見つめた。

「飲み物いれようか。何を飲みたい?」

母の言葉に、幼子はパッと顔を上げた。口に入れたクッキーを、よく噛んでから飲み込んだその子は、ほんの少し考えてから口を開いた。

「ミルク!」

「はーい」

立ち上がった母の後ろ姿を、幼子は見送っていた。ほんの少し、元気がないように見えた。


「こんにちは〜!部屋って空いてますか?」

 ローブを纏った旅人が、とある宿屋へ立ち寄った。初めて通った港街にて、あまりの曇天に雨宿りを求めたのだ。

「あぁ、いらっしゃい!空いてるよ。一人かい?」

宿屋の主人は気の良い笑顔で旅人を迎えた。チェックインのための書類をカウンターに置き、トントンと指し示す。

「えぇ。まぁ、そうですね。一人旅です」

旅人も人好きのする笑みを浮かべながらそう応じた。サラサラと書類に書き込まれる文字は様になっていて美しい。

「お客さん、字が綺麗だねぇ」

「そうですか?ありがとうございます」

「誰かに教わってんのかい?」

「…えぇ。姉が作家をしていまして。字に関しては人一倍うるさいんですよ」

旅人は苦笑しながらも嬉しそうに声音を弾ませた。その様子に、主人は微笑ましく思いながらさらに話を広げた。

「じゃあ、一人旅は姉ちゃんから離れられて気楽だな」

「まぁ、ここを訪れた理由が、どんな街か教えてほしいから行ってこい、なんて姉に言われたからなので、完全に気にせずにいられるかと言われるとそうでもないんですけど」

頰を掻きながらそう答えた旅人の言葉に、主人は思わずという風に苦笑した。

「太陽の港、なんて呼ばれてるくらいの晴天が最大の魅力なんだがなぁ…生憎の曇天だ。しばらく滞在すると良いさ。姉孝行ってことで安くしとくよ」

パチリ、と瞬きをした旅人は、ついで花が咲くように笑った。

「わ、いいんですか?じゃあ、遠慮なくご好意に甘えさせていただきますね!ありがとうございます」

「はいよ、二階の奥の部屋がアンタの部屋だ」

嬉しそうに軽い足取りで、旅人が階段を駆け上った。


「……嫌な天気」

 不満そうに眉を顰めた少女は、タタッと軽い足取りで店内へと駆け入った。満開の花々が、鮮やかに咲き誇る姿に気分が幾らか上向いたものの、それでも外の慣れない曇天に抑えきれずため息がこぼれ落ちた。

「こーら。ため息なんて吐いたら幸せが逃げちゃうじゃないの」

店の奥から現れた華やかな女性は、この町一番の美人であり、この花屋の店主であった。花の似合う美しいその女性は、女性によく似た少女の頭を撫でながら笑う。

「だって、あんなに天気が悪いのよ?私、あんなに天気が悪いの初めて見たわ。なんだか不穏!お姉ちゃんは、気にならないの?」

女性は驚いたように目を開き、それから一つ感嘆の言葉をこぼして苦笑する。

「そうね、十年も前だもの。あなた、あの頃はまだ二歳だったわよね、覚えてなくても仕方ないわ」

もう一度、優しく頭を撫でた女性の手の温かさに、少女はほんの少し雰囲気を和らげた。しかし、不満そうな顔は未だ健在だ。

「前はどのくらいで晴れたの?」

少女の何気ない質問に、女性はふと店の外を眺めながら暫し沈黙した。何かを思い出すように目を伏せて、それから近くの花を見た。太陽のように美しい黄色の花。水面に咲き、白い花芯を十枚の黄色い花弁が彩る、この街のシンボルである花だ。

「この花が枯れるくらい、かな」

優しく撫でられたその花は、咲いたその日から花弁を一日一枚、丁寧に水面へ散らす。水面の花弁が水に溶けるころに、次の一枚が水面に散る。そうして十枚の花弁が全て散る頃に、ようやくその花は枯れるのだ。

「ふーん。やっぱり憂鬱だわ」

少女はうんざりしたように、窓から目を逸らした。




空は快晴。美しい晴天の街。水産資源に富んだ、港街ヘプンを眼下に捉え、剪定者は地上から目を逸らした。自身と同じ高さに浮かぶ雲は白く、雨を降らせるつもりもないようだった。

背に生えた葉が、剪定者の意思に合わせて羽ばたき、それを空中に留めていた。フォレストグリーンの髪が風に揺れ、同じ色の瞳が伏せられ瞼の奥へと仕舞われる。

剪定者が一つ息を吐く。それは呆れと憂鬱を含んだもので、これからの仕事を思った故のものだった。

陶器のように美しい白い指が、そばの雲に向けられた。指は、そのままヘプンの上空にゆったりとした動作で向けられる。その動きに合わせて、浮き雲がふわりふわりと空中を滑っていく。見える限りの雲を、そうしてヘプンの上空に集めてから、剪定者はポツリと言葉をこぼした。それは魔法の呪文。世界樹を美しく保つための魔法。

「ヴィズ スクルム ティーナ ロイヴィン」

葉を摘もう。増えてしまった醜い葉を。

 青空に浮かんでいた白い雲たちが、水を含み暗く色を変えていた。眼下には、もう灰色の真綿があるばかりで、晴天の港街など見えるはずもなかった。




 空は雨模様。しとしと。しとしと。降っては大地を濡らしていく小さな雨粒が、時間がすぎるにつれ増えていた。店の中から、そんな外を眺めていた若い男は、目の前に座り小さく縮こまる親友をジトリと睨みつける。

「で?言い訳は?」

慣れたように、呆れたように問うた言葉は、返答をすでに知っている上でのものだった。

「うぅ…ご、ごめんってば」

時間を守ることの方が少ないこの親友は、それでも毎度毎度、本当に申し訳なさそうに謝罪をする。眉を寄せ、わずかに俯く顔は、しかし目を逸らすことだけはしない。

「……ま、もう慣れちまったからいいけどよ」

男は湯気を立てるコーヒーの入ったカップを傾けた。喉を通って、身体を内から温める。

「えへへ……」

男の予想通りに、親友は雨が降り始めてからようやくこのパン屋へやって来た。やはりと言うか、濡れ鼠と化している親友の顔をハンカチで拭ってやってから、店内へと入ったのだ。今は、お互いに好きなパンとコーヒーを買って店内の食事コーナーに腰を落ち着けていた。

「それで?忙しそうじゃないか」

「ん、まぁね」

親友は顔を綻ばせて気恥ずかしそうに頭を掻いた。男はテーブルに肘をつき、頬杖をしながらその様を眺める。

「家族サービスはちゃんとしてんだろうな」

ニマニマと笑う男は、親友をそう茶化す。散々待たされた腹いせとでも言うべき、ちょっとした意地悪だった。

「もちろん!…てか、お前も早く相手見つけろよな」

親友のその返答に、男は深く傷ついた。決して結婚できないのではない。ただ、あえてまだ相手を見つけていないだけなのだと誰に向けたものでもない弁解を呟く。しかし、親友は男の弁解を軽く聞き流した。聞き慣れていたのも理由の一つだろう。

「好きな奴とかいないのか?」

「……どーせ俺は仕事が恋人だよ」

ふいっと顔を逸らした男に、親友は苦笑するばかりだった。男の視線の先、窓の外は、強い雨粒が大地を叩いていた。

 雨が、強くなっていた。


 閉店を知らせる看板が、扉にかけられていた。普段よりも随分と早い店仕舞いの理由は、灰の空より落ちる雨粒の音が示していた。

「あれまぁ、遅かったかしらねぇ」

老婆は、空を見上げて眉を寄せた。慣れない手つきながら、傘をさして歩き出す。小さな歩幅で、雨音のする静かな街中を、寂しい背中が歩いていく。大通りにはまだ人の姿が見えた。何人かが、老婆に声をかけては去っていく。短い世間話から、軽い会釈をするだけの者と様々だったが、独り身となった老婆にはありがたい事だった。

「買い溜めですか?八百屋のおばあちゃん」

日用品を買い物かごに入れる老婆へ、若い店員がそう聞いた。用具店へは週に一度の頻度で訪れていたが、この雨もあり前回の来店から四日しか経っていない状況で、この店を訪れることにしたのだ。

「こんな雨でしょう?たくさん買っておかないとねぇ」

濡れた傘を腕にかけ、老婆は照明用の油の瓶を手に取った。あとは、と家の物を想起しながら足りない物を買い足していく。

「今回も十日くらいで止むと良いですけどね。私も早く切り上げて食料を買い込んでおこうかな、と」

「それがいいわぁ。さっき見たけれど、パン屋さんは開いてたわねぇ」

「わ、ほんとですか?ちょうど切らしてたんです。あとで寄っていこうかな」

「そうしなさいな。雨の中出歩くのは、この街にはいないからねぇ。店も軒並み閉まっちゃうもの」

「不便ですよね、十年に一度とは言え」

カタン、と買い物かごがレジに置かれる。店員が中の商品を確認し、値段の計算をするわずかな時間。会話が途切れ、外の雨が未だ止んでいないことを知らせる雨音だけが店内に響いていた。

「はい。銀貨五枚と銅貨七枚ですね〜」

「ちょっと待ってちょうだいね」

老婆は鞄の中から緩慢に財布を取り出して、銀貨と銅貨を手に取った。

「…五枚、と七枚。はい!ちょうどいただきました!」

店員は愛想の良い笑顔で、老婆から手渡された代金をレジに仕舞い込んだ。

「ありがとうね」

鞄に商品をしまった老婆は、腕にかけていた傘を手に持った。扉を開けて、一歩外に踏み出す。曇りの空から落ちてくる雨粒は、心なしか先ほどよりもその数を増していた。

 老婆の退店を見送った店員に、店長から声がかけられた。

「閉店の準備、手伝ってくれ」

もう誰もいない店内を歩いて扉に向かい、閉店を知らせる看板をかける。

「早く帰ろーっと」

再び店内へと戻って、店員は店長の元へ向かおうと歩き出した。

 雨粒が、強く地面を叩いていた。


 ザァザァと音を立てて、雨が窓の外を濡らしていた。幼子はつまらなそうに頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。まだ遊びたい盛りのその子は、未だ帰らない父の帰りを待っていた。帰ってきた父と遊びたくて、その子は道が見えるその大きな窓辺で、つまらなそうな顔をしながら時間の割に薄暗い外を見つめていた。

「おかーさーん、おとーさんはー?」

待ちきれなくなって、幼子は母の方を振り向いて聞いた。本日のおやつである母お手製のクッキーを盛っていた大皿をシンクで洗っていた母は、クルリと身体を反転させた。母は視線が扉の上にかけられた時計に向けられ、それから窓の外に移り、顔をわずかに曇らせながら首を横に振った。

「まだいつもよりずっと早い時間よ〜?もうちょっと待たないと帰ってこないんじゃないかしら」

「えー?!」

幼子はそんな母の言葉に不満の声を大きくした。外ではそんな幼子の声を掻き消すほどの雨音が響くばかりで人の足音など一つたりとも聞こえはしない。

「おとーさん、あんまりおそいとびしょびしょになっちゃうよー?」

窓の外を指差す先。先日までは珍しくもなかった眩しいくらいの晴天が恋しくなるような天気のそこ。幼子は心配の思いを隠しもせずに、口をへの字に結んでいた。わずかに膨らんだ頰には、年相応の幼さを感じられた。

「そうね。帰ってきたらタオルを渡してあげないとね」

母はそう言いながら洗い物のせいで濡れていた手を拭って台所から居間へとやって来た。母は居間を通り過ぎて洗濯物の置かれている部屋へと直行した。少ししてから出てきた母の手には大きなタオルが広げられていた。それを見て目を爛々と輝かせて駆け寄ってきた幼子が、大きく両手を広げた。何を求められているのか察した母は、微笑みをこぼしてタオル越しにその子を抱き寄せた。

「んへへ」

「どう?いい匂い?」

「おかーさんのにおい!」

「そっか」

しばらくそうしてハグをしたままゆらゆらと過ごしていると、幼子は大きくあくびをした。

「もう眠い?」

「んーん……」

幼子は、母の服を掴む手を緩めない。可愛い我が子のわがままに、母はただ苦笑する。手に持っていたタオルを椅子の背もたれにかけた彼女は、空いた両手でその子を抱き上げると、目を伏せて囁いた。

「ふふ、もうお昼寝の時間だものね。もう寝ちゃいましょうね」

目を擦りながらこくりこくりと舟を漕ぐ幼子は、もう半ば夢の世界へと旅立っているようだった。

「寝て起きたら、お父さんも帰ってきてるからね」

寝室の寝台に転がされた幼子の横に、母も寝転んだ。次に目を覚ましたとき、目の前に愛しい旦那の顔があればいい。我が子が、楽しそうに父と遊んでいればいい。そう願いながら、母も目を瞑った。

 親子の小さな寝息は、外から聞こえる地面を打つ強い雨粒の音に掻き消された。すっかり薄暗くなった外には、未だに人の影もなかった。


太陽の見えない分厚い雲から降り注ぐ雨を見ながら、旅人は大きなあくびをした。二度三度と瞬きをしてぼんやりとしていた意識をはっきりさせた。ググッと伸びをして寝台を降りる。朝だというのに薄暗い外の景色を一瞥してから、借りていた一室を後にした。

「おはようございます」

いつもの場所でいつものように客を待っている主人に、旅人もまたいつも通りに声をかけた。

「おぉ、おはようさん。よく眠れたかい?」

「それはえぇ。いつも通り!」

旅人の言葉に、主人は申し訳なさそうに苦笑する。

「ひどい雨だろ。十年に一度、この大雨だ。ほんと、厄介な時に来ちまったなぁ」

主人の顔を見て、旅人は不思議そうにコテリと首を傾げた。それから、外の天気には似合わない笑みを浮かべる。

「でも、いつかは晴れるでしょう?そのときに満喫しますから、大丈夫です!」

前向きな彼の返答に、主人もまた笑みを浮かべた。主人の人柄に良く似合う、この街を見下ろす太陽のような笑み。

「すぐに晴れるといいな」

「えぇ。まぁ、それまではゆっくりしますよ」

 降りしきる雨を横目に、旅人はのんびりと頬杖をついて大きなあくびをした。

「とは言っても、こんな大雨じゃ……」

店の主人がいないのを良いことに、旅人は呟いた。基本は、行き当たりばったりにゆったりのんびりと旅をする彼と言えど、こうも激しい雨が続くと気が滅入るというものだった。

 パチパチ、と弾けるような音。雨が地面を叩き、うるさく鳴り響くのが、耳のすぐ近くで聞こえるようだった。伏せられた瞳が店の中を滑っていく。運が良いのか悪いのか、店内に旅人以外の客はおらず、話し相手たり得る唯一の人である主人は、仕事に精を出しているせいで話しかけるにも気遅れしてしまう。その主人も、今は裏手に引っ込んでなにやら忙しそうにしていたから、なおさら。

「暇つぶし……なんか持ってきてたっけ」

小さな物音を立てて、座っていた椅子から立ち上がる。もう一度部屋を一瞥してから、階段を登るために足を動かした。

 既に3日ほどを過ごしている部屋のドアを開けて、薄暗い室内に顔を顰めた。近くにある灯りに手を伸ばし、そのまま部屋を明るくする。見慣れてしまった部屋の中、適当に置かれた荷物へと歩み寄る。

「んー……なんかあったかなぁ…」

荷造りをしていた時のことを思い出しながら、荷物を取り出しては放り捨てていく。めぼしいものはなく、落胆の息を吐く。諦めながらも、半ば惰性で動かしていた手に、覚えのないものが当たった。より正確に言えば、”入れた覚えのないもの”。

「……まさか…」

取り出したそれは、それなりに厚みのある本。姉の執筆したものだ。

「入れた覚えないんだけどなぁ……あ」

ふと、思い出した。家を出る前のことだ。外に繋がる扉を押し開け、見送りに来た姉に振り返ったときのこと。

『寂しくなったら振り返れよ』

笑って言った姉の言葉に、適当にわかったと答えて家を出たのだ。当時は、よくわからないなと聞き流した言葉だった。

「あの人は本当に不思議な人だな……」

この荷物は、手が塞がらないように背負って持ち運ぶタイプのものだ。つまり、常に”背中にある物”である。背中は、身体の中でも背面に位置するものだ。『振り返れ』とは、つまり自身の後ろに背負ったバッグを確認しろよ、と。そういう意味だったのだろうとようやく理解できた。

「ほんっと、回りくどい言い方をする…」

言いながら、嬉しそうに顔を綻ばせて、彼は部屋を飛び出した。手に持つ本は、すでに読み込まれたようでどこか古めかしい。

せっかくだ、店の主人にも読んでもらおう。

そんな思いで、彼は先ほど登ったばかりの階段を駆け降りた。外の雨の音に紛れて、足音は聞こえやしなかった。


土砂降りになった、嵐のような外の景色に嘆息する。少女はカウンターに肘をついて頰を支え、ぶすくれたように頰を膨らませている。

「あーあ」

これ見よがしに吐き出した不満の声は、生憎と外の雨音に掻き消されて意味をなさなかった。その事実に、少女はさらに気を落としてカウンターに伏せる。

「どうしたの?まだ不機嫌?」

少女の姉である花屋の店主は、そんな少女の頭をそっと撫でながら問いかけた。少女はそんな姉の手に擦り寄りつつ、だって、と唇を尖らした。

「だって、お姉ちゃん!もう十日よ!こんな大雨が、もう十日も続いてるの、絶対変よ!」

バンッと、勢いよくカウンターを叩きながら立ち上がる。不満とストレスによって、気が立っているようだった。そんな妹の姿に、姉はただただ困ったように笑っている。

「とは言っても、それがこの街だもの…こればっかりは慣れないとどうしようもないわ」

そう、諭すように優しい声音で語り聞かせる姉に反論しようと勢いよく顔を上げた少女は、しかし姉の顔を見て反抗する気が削がれたようだった。力が抜けたかのように再度椅子に座り込んだ。

「だって〜……」

続く言葉はなかった。姉の顔を見てられなくてそっぽを向く。その先に窓があって、ただ気が滅入る。ザァザァと降り続ける雨のせいで、街並みも青い空も、いつでも見られると信じて疑わなかった景色は、何一つ見えなかった。窓の外に広がるのは灰色の壁のシャワー室である。

 嫌になって顔を背けた少女は、今度は店内を見回した。この十日間、客は一人も来なかった。この雨を考えれば当然ではあった。だが少女の知る限り、この花屋に客が来なかった日などなかったから、最初の二日は物珍しさに目を輝かせる余裕もあった。白、黄、橙、桃、紫、赤に青。色とりどりの花々は、観客もいないのに立派に可憐に咲き誇っている。室内に充満した花の香りは、店内で売っている香水のそれよりも濃く、うんざりしてしまう。

「花の香りを臭いって思ったの初めて…」

仮にも花屋の店主がいる場で言うことではなかったとは思いながら、店内の花を順ぐりに目で追っていく。色々な形、さまざまな枚数の、彩り豊かな花弁を付ける花々は、見るだけならば美しさを保っている。それでも、目立たないところは少しずつ少しずつ萎れてしまっているのに気がついて、少女はゆっくりと花に近寄った。そっと花を掬い上げて、目を伏せる。

「こんな天気だもん。花も元気がなくなっちゃう」

姉も、少女の手の中に収まった花を眺めながら、そっと鉢植えを持ち上げた。

「あちゃあ、もう枯れ始めちゃったか……家に置いておこうか。そろそろ晴れると思うんだけど…」

ぽつりと呟かれた独り言を聞きながら、そんなわけない、と心中でぼやいた。姉が店から自宅へと続く扉を開けて家へと入っていく。その後ろ姿を見送って、再度店内を見回した。

 普段に比べて気持ち暗めの店内、人で賑わうはずの花屋には人の気配などどこにもなく、花たちには元気がない。いつもと違う何もかもが、少女の心を乱しストレスを蓄積させていく。

「晴れるなんて嘘よ」

窓の外を一瞥した少女は、今日の来客もゼロだろうと判断して店を後にする。姉の後を追って家へと続く扉を開けた彼女は、もう一度店内を見る。どんなに見ても変わらない寂しい店から逃れるように、少女は踵を返して駆け出した。

 雨が弱まる気配もなく、永遠に続くかと思われた悪天候は、しかし着実に、終わりへと近づいていた。




 荒れ狂う眼下の惨状を、剪定者はただ見下ろしていた。目的通りの結末へは、あとひと押しと言ったところまで進んでいた。すぐそばに広がる青かった海は、墨汁をこぼしたように濁り、全てを飲み込まんとするように大きく波を立てて揺れている。岸に繋がれた幾つもの船が踊るように波の上を動き回る。紐が切れてしまったものがあるらしい。すっかり沖に流された船が、数隻見受けられた。

 無感動にそれらを見ていた剪定者は、やがてふらりと降下を始めた。それは、葉が舞い落ちる様によく似ていた。背に生えた二対の葉が、暴風を受けて暴れ狂っている。意思に関わらない、まさしく風の赴くままといった様子で地面に向かってひらりふらりと舞っていた。

 やがて剪定者が足を下ろしたのは、港街へプンにおいて最も高い建物の上。陽光を浴びて街を照らす、灯台だった。この塔が発する光も、今となっては分厚い雲に遮られ霞み、まして建物内から見るには高すぎるせいで役目を果たせていなかった。

 剪定者の影が地面に落ちる。光を背にして立っているそれを、認識するものはいない。眼下の街に人の姿は見受けられない。それはそうだ、皆が皆、建物の中で雨から逃れているのだから。いずれは止むものだと知っているからこそ、街民たちは焦っていなかった。大人しく、ただいつものようにこの大雨が通り過ぎていなくなるのを、いつもの日常が戻ってくるのを、疑わずに信じていた。

 一枚、二枚、三枚。何かを数えるように剪定者の影が揺れ、口が開閉されていた。暫くして、ようやく数え終えたのか、呆れたような侮蔑するような目を隠すようにして瞼が閉じられた。

 再度その瞳が開けられたとき、それは妙な色へと変質していた。強風で散る葉のように風に靡く髪も、同じように変質が始まっていた。

 美しいフォレストグリーンの髪は毛先からライムイエローとのグラデーションに色を変え、瞳にも同じ色の絵の具を垂らしたように滲んでいた。そんな剪定者の目線は下がり、自身の髪に向けられた。掬った髪に滲むライムイエローに、剪定者は眉を寄せた。ゆらりと伸ばした腕は、真っ直ぐに街へと向けられている。最後の一押しは、剪定者自らが押し出すこととしたようだった。

「巣は潰す」

強風に乗せるような声音のそれは、誰に届けるつもりもなかった。

「ヴィズ スクルム ブリョータ アヴ グレイナールナ」

枝を折ろう。揺れる葉と共に、地に落とそう。

 街に向けた右手とは別に、海に向けた左手が何かを引き寄せるように手招きしたのに合わせて、海が一際強く波を立てる。陸へと押し寄せ、そのまま大地へと乗り出した灰色に染まった絶望が、街を飲み込もうと身を乗り出した。それを冷たく見下ろして、剪定者は手を下ろした。あとは傍観者然として見守るだけだ。

風に吹かれて蠢く髪が、毛先からマンダリンオレンジ、ライムイエロー、フォレストグリーン、とグラデーションがより細かく複雑な色に変わっているのが目に入った。

「力、使いすぎた……」

次は上手くやらないと、と反省しながら眼下で海に呑まれ消えていく一つの港街を一瞥した。

「ここだけじゃダメかなぁ…これ以上は遠出できそうにないけれど」

街外れの小屋が一つ呑まれて姿を消したのを皮切りに、街民たちが異変に気付き始めたらしかった。慌てて家から飛び出して高台を目指す人々のなんと滑稽なこと。山の方を目指して逃げていく人々と、そんな人々に気づいて家から飛び出してくる人と。波から逃れようと背を向けて懸命に走る姿を無感動に見つめる剪定者は塔の天辺に腰を下ろして足をぶらつかせた。何も履いていない足は、汚れひとつない純白で小さく美しい。


「醜く過剰に増えてく葉」

歌うように囁いた。

「美しい世界樹を穢す伸び切った枝」

風に吹かれた髪が空中で踊るように靡いている。

「要らない分を摘みましょう。余計な分を折りましょう」

目を伏せる。緑と黄と橙に染まる、紅葉途中の木のような色味の瞳が白い瞼に隠された。雪を被った葉のようで、大雨と強風が吹き荒れる悍ましい津波の上でなければ、精霊のようでさえあった。


「ヴィズ スクルム ティーナ ロイヴィン」

葉を摘もう。

「ヴィズ スクルム ブリョータ アヴ グレイナールナ」

枝を折ろう。

「ティル ゼス アズ ヘイムリヌル セー ファレグル」

世界が美しくあるために。

「ティル ゼス アズ ヘイムリヌル セー リェットゥル」

世界が正しくあるために。

「ティル ゼス アズ ウップフィトラ フルトヴェルク ミット」

私の使命を、果たすために。


唱える言葉はおまじないだ。世界を美しく、そして正しく保つための魔法、その呪文だ。

出来損ないを自称する剪定者が、言い聞かせるように歌う言葉。懇願するように唄う言葉。増えすぎた枝葉を、間引くための言葉だ。

何度も何度も繰り返す。葉を摘み、枝を折る。世界が美しく正しくあれるように、自身の使命を全うするためだけに、自分は今ここにいる。


どれほどの時が過ぎただろうか。数時間か数日か、はたまた数週間か数ヶ月か。

津波に襲われた一つの港街は、跡形もない瓦礫の山となっていた。忌々しいほどに晴れた雲ひとつない青空は、なるほど晴天の街と謳われるに相応しい景色だった。

波は引いていた。灰に染まっていた汚泥の波は、いつの間にかに、青く広く続いている海という名の器に帰って、ただ穏やかに揺れるばかりだった。潮の香りが風に乗って剪定者の鼻をくすぐる。海らしい景色は、確かに剪定者の心を癒してくれた。日の光を反射してキラキラと輝く水面が美しくて、剪定者は暫くぼぅっと海を眺めていた。

やがて、剪定者は灯台から飛び降りた。背に芽生えた四枚の葉は、根本はマンダリンオレンジに、葉先はフォレストグリーンに、ライムイエローが二色を繋ぎ美しいグラデーションを織り成していた。穏やかな風に吹かれて、剪定者は落ち葉のように舞い降りた。瓦礫で汚れた大地に、音もなくそっと着地する。

剪定者は残った葉がないか確認しながら、港街の残骸を見て回った。


倒壊した建物から女子供を守るようにして死んでいる男と、そんな三人を庇うように建物の下敷きになって押しつぶされた男。

波に乗っていた瓦礫にぶつかったらしい、ぐちゃぐちゃの身体を投げ出す老婆。

海に程近いそこから、順ぐりに山の方へと歩みを進める。坂道は緩やかで、津波から逃れるには向かないのだろう。無惨に死んでいる老若男女が視界にチラチラ写っては消えていく。崩れかけの建物に引っかかって動きを止めているモノもあれば、引きずられた後だけが残っているモノ、建物の下敷きになって潰れているモノ、様々だった。


他より高い土地に建っている家の中でたった一人転がっている幼子。

少し離れた下流付近に流されていた女と、揃いの刺繍がされている服を着ているのに気がついた。

いよいよ山が近くなってきた頃、大きな建物が崩れているのに気がついた。惨たらしく割れて壊れた看板はかろうじてその役目を果たしてくれた。宿屋であるらしい。赤くなるべき材木たちの汚れは、ここまで訪れた波が綺麗に洗い流したようだった。ひどい肉塊が、ちょうど二つ分、剪定者の目に見えていた。


剪定者は、満足げな思いで悲惨な街を見渡した。大体の葉を摘み切ったのを確認して、ふと二枚、摘めていない葉があるのに気がついた。海に流されてしまったのかと思ったが、あらかじめ印をつけておいた誰も彼も、海に流れるようなことはなかった。確認が面倒だと気を配ったのだから当然のことではあったけれど。

どこだろうかと思いながら辺りを見回せば、すぐに思い至って足を進める。目指すは目の前の山。その中腹にある、美しい花畑。美しい場所を、剪定者は我が身のように知っていた。そこに誰が訪れているのかも、手に取るようにわかるのだ。




荒い息を吐き出して、少女は故郷だった港街を見つめていた。花に囲まれ、陽に照らされ、穏やかな空気に包まれているその花園には似合わない虚な瞳で、少女は呆然と座り込んでいた。

「……ねぇ」

少女の姉が、躊躇いがちに声をかけた。大好きな故郷はもうどこにもなく、帰る場所さえ失った少女の傷はいかほどか。いくらか精神の成熟していた姉は、不安はあれ、茫然自失とまではいかなかった。冷静を装って、妹の世話を焼く程度には正気を保てていた。そうして甲斐甲斐しく世話をすることで現実から目を背けていたのかもしれないが。

「なにかしら食べないと。もうずっと、何も食べてないでしょう…?」

姉の言葉に、小生意気な少女は何の反応も示さない。

「……ねぇ、」

声が震えた。このまま、少女の心までなくなってしまったら、姉はどう生きれば良いというのだろう。途端に何だか怖くなって、姉は少女を抱きしめた。

「いやなてんき」

ようやく、少女が言葉を発した。姉には目もくれず、ただ瓦礫と化した惨状を、焼き付けるように凝視して。

「わたし、はれってきらいだわ」

恨み言を呟く。いつかの時とは真逆の言葉を。

「もっとはやく、はれてくれたらよかったのに」

涙が落ちる。頬を伝って、花弁に雫が落ちていた。

「そうしたら、ずっとまえの、まえみたいに、なにごともなく、いつもどおりくらしていられたのよ」

いつか晴れると思っていた。信じていた。それが、こんなに遅いなんて、思っていなかった。晴れた空の下に見たかった景色は、こんなゴミの山ではなかった。

「いた」

ふいに、花園の入り口から人の声が聞こえた。弾かれたように振り返った姉と、そんな姉の動きを緩慢と真似た少女の視界に立っていたのは、美しい人だった。

 長い髪はフォレストグリーン、ライムイエロー、マンダリンオレンジ、カージナルレッドと色が移ろい華やかで、細められた瞳も、髪と同じグラデーションのガラス玉を嵌め込んだような美しさだった。白く汚れひとつない肌と、一枚の布を衣服のように纏った神秘的な姿のそれは、二人にとっては神が遣わした救いのようにも映るだろう。

「ヴィズ スクルム ティーナ ロイヴィン」

不可解な言葉を呟いて、ゆらりと持ち上げられた腕が姉に向けて伸ばされる。何をしようとしているのか不思議に思って首を傾げる暇もなく、姉の頭が消失した。

「……え?」

少女は真っ赤な鮮血を浴びながら、理解もできずに瞬きを繰り返していた。

「え、え?」

ゆっくりと、怯えるように姉の方へ顔を向けた少女は、絶叫して後ずさる。支えをなくした姉の身体は、力なくパタリと倒れ込んだ。

「な、なん…え、? は?なに、なにがおきて」

説明を、そして救いを求めて、縋るように神の遣いに目を向ける。それは先程までと何も変わらぬ様子で手のひらを見つめていた。フォレストグリーンが、ライムイエローに塗り替えられて徐々に色を変えていく。後少しで、フォレストグリーンは居場所をなくすのだろうと言葉もなく理解した。

「……無駄遣い」

それは花園に足を踏み入れた。美しい花に顔を綻ばせ、楽しむように嬉しそうに、ゆったりと、足を進める。

 少女は使い物にならない足を叱咤して、なんとかそれから距離を取る。あまりの恐怖に立ち上がれなくて、ほんの少しの抵抗は、ほとんど意味をなさなかった。

「きみで最後。それでも足りない」

嘆くような声音だった。

「あぁ、そうだ。あの肉塊と繋がっている先を消しに行こう。それなら辿るだけで力もほとんど使わない」

名案だとでも言いたげな言葉だった。

「あ、あなたは…」

少女が、震える喉から掠れた声を絞り出す。

「私は私。きみが葉であるように、私は根だった出来損ない。世界を醜くしたから切り離された。だからきみも摘まれるの」

それは心底丁寧に説明を口にした。少女には、それが何を言っているのかなんて理解できやしなかった。

「世界を美しく保つの。それが世界のためだから。だからきみも、ここで摘む」

それはゆらりと腕を持ち上げて少女に向けた。

「それが、剪定者の役目だから」

小さな口が、言葉を唱える。歌うように、囀るように。

「ヴィズ スクルム ティーナ ロイヴィン」

静かな花園に、どさりと倒れ込む物音と血の噴き出る音が響く。穏やかだった花園に真っ赤な血が降り、花々を赤く染めていく。

二つの死体が花園に生まれ、それは満足して踵を返した。ふと強い風に背中を押されて空を見上げる。その背に二対の葉が芽生え、風に乗って運ばれていく。それは役目を終えて次の仕事に移ろうとする落ち葉のような軽やかさで、消失した街を後にした。




世界樹は大樹だ。世界とは世界樹であり、生命は葉の、繋がりは枝の、物質は幹の、そして概念は根の役割を果たすことでその木を維持していた。

あるとき、美しい世界樹に歪みが生じた。根が地面から顔を出したのだ。美しくなくなった世界樹は、その根を切り離して捨て去った。世界樹から切り離されたそれは美しさだった。美しさは世界樹に捨てられた事実を正しく理解していた。そして同時に、世界樹に与えられた役割も。

幸いにも、美しさには絶対の指針があった。揺らぎない指標があった。

美しさを司る概念は、世界樹の維持をするのに適任だった。

ゆえにそれは世界樹の剪定を使命とした。

世界樹の傍らで、ときおり増えすぎた葉や伸びて不格好になった枝を切り落としては、世界樹を美しく保ち、世界の維持に貢献した。

それにとって、生命とは一枚の葉にすぎない。その葉一枚一枚にどのような物語があろうと、どのような暮らしがあろうと、世界樹の美しさを損なうならば、それは全て等しく悪である。害を除き形を整え美しい世界樹であるよう手助けすること以外に、興味関心はなかった。


ただ一人の剪定者はようやく仕事を終えて世界樹のもとへと帰ってきた。高い山頂、白化粧の施されたそこに舞い降り顔を上げる。世界樹の天辺、ヒトと言う葉が集まる一帯が、美しく収まっているのを確認して、剪定者は満足そうに飛び降りた。

目指すは世界樹の根本、かつての居場所。暫くは休んでも良いだろう。少しの間、眠っていても良いだろう。

剪定者は仕事を終えた。清々しい気持ちで世界樹に寄り添い目を瞑る。美しく紅葉した髪が世界樹に触れ、同じ色の瞳が瞼に仕舞われる。

剪定者はかつて根だった。今となっては、世界樹から切り離された異端だが、最も近い在り方をするのは生命だった。


剪定者は微睡んだ。深い眠りに落ちていく。次に目覚めるのはいつだろう。次の仕事は何だろう。そんな思いを抱きながら、ヒトによく似た異端のそれは、世界樹の根本で、寝息を立てて意識を手放した。


こうして、世界樹の剪定者は仕事を終えるのだ。


世界樹のお話でした。

個人的なお気に入りはお父さんの帰りを待つ幼子と花屋の少女です。可愛いですよね。


想定よりかなり長くなりました。ヘプンの人たちの描写が長かったかもしれません。

まぁ初心者ですもの、仕方ないですね。

この反省は次に活かしたいと思います。

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