森が来る
晩秋になった。
澄ヶ淵の秋は急に終わる。芋を掘り終えた翌週から気温が落ちて、朝の霧が白から灰色に変わる。そういう年は、冬が早い。
今年の変化は、寒さだけではなかった。
森が来ていた。
青い蔓は畑の縁を這って、石壁の際まで届いた。一夜で数十センチ伸びることがある。引き抜いても三日で戻る。集落の中で最も森に近い東側の三軒は、朝起きると家の壁に蔓が巻きついていることがあった。蔓だけではない。苔に似た青い膜が石壁の表面を覆い始め、石の間から青い草が生えてくる。
台地の北側の崖際、崖から三十歩の畑はもう使えない。三分の一が青い植物に覆われた。残りを守るために毎朝手入れが必要で、それだけで猟団以外の半数の時間を奪った。
収穫量が落ちた。備蓄があと二冬分あるかどうか。
集落はゆっくりと、息をつめるような圧力の下に置かれていた。
ヨルが畑仕事から戻ったとき、ナギは石壁の際で蔓を引き抜いていた。ヨルは道具を置きながら、低い声で言った。
「昔話、という扱いでは、もうなくなったな」
ナギには意味がすぐわかった。集落に伝わる口伝には、「大地が青くなるとき、人は動く」という一節がある。子供のころから聞かされてきた話で、ナギ自身、つい数年前まではそれを夏の夜の語りくさと同じ重さで受けとめていた。おそらくほとんどの大人もそうだった。
だが今、畑は青い。壁は青い。朝の光の中で蔓を引き抜くたびに、口伝が言っていたことがそのまま目の前にある。
「それでも信じない人がいる」とナギは言った。
「怖いからだ」とヨルは答えた。「本当のことだとわかってしまえば、今まで逃げていたことも本当だったことになる」
ヨルはそれ以上言わなかった。ナギも聞かなかった。
集落会議が開かれたのは、霜が初めて降りた翌日の昼だった。
広場に全員が集まった。百二十人が輪になると、広場はほとんど埋まる。ナギは母のタマキの隣に立った。少し離れた場所にシズがいて、反対側の石段の上にカヤがいた。
議題はすぐに出た。
「移住を考えるべきだ」
シズが切り出した。
「森を刺激すれば、報いが来る。これ以上ここに留まれば、集落ごと飲まれる。西の台地に候補地がある。水脈も確認している。来春の前に動くべきだ」
反論はすぐに来た。
「枯尾根はどうなった」
猟団の壮年の男が言った。
「三年前に森に飲まれた。今は青い木しか生えていない。西の台地も、三年後には同じことになる。逃げる先がない」
「ならここで死ぬのか」
「シズのやり方ではそうなる」
カヤが石段から降りた。
「どこへ行っても森は来る。問題は森を止める方法だ。逃げることではない」
しばらく声が重なった。移住派と残留派が互いに主張した。ヨルは輪の端で黙って聞いていた。
輪の空気は一様ではなかった。移住を叫ぶ者の顔には焦りがあり、残留を主張する者の顔には意地があった。その二つは別の感情のように見えて、根は同じだとナギには思えた。どちらも、今ここから逃げ出したいのだ——とナギには見えた。方向が違うだけで、全員が追い詰められている。
タマキは黙って立っていた。ナギは横顔を盗み見た。表情は読めない。だが体の力がわずかに抜けているように見えた。疲れているのか、それとも結論を先に知っているような、諦めに似た何かか。
そのとき、声が出た。
「その子の力で森を止められないか」
誰が言ったか、ナギには見えなかった。輪の中のどこかからの声だった。
一瞬、広場が静かになった。
それからすべての目が、ナギに向いた。
ナギは動かなかった。動けなかった、というよりは、動く必要がないと判断した。ここで動けば、それ自体が答えになる。
「論点にならない」
カヤが静かに言った。
「今日の会議には関係がない。まず移住か残留かを決めてから、それぞれの手段を考える」
話は続いた。結論は出なかった。
会議は日暮れ前に終わり、答えを持たないまま人々は散っていった。
その夜、ナギは眠れなかった。
家の中にいられなかった。タマキは眠っている。静かだ。何かを言ってくれれば楽なのに、という気持ちと、何も言わなくていいという気持ちが半分ずつあった。
石壁の内側を通って、崖の岩場へ出た。
月がなかった。星だけが多く、光量が低い分、底の暗さが増していた。崖の下から風が上がってきた。両岸の青い森が暗闇の中にある。昼間は奇妙な色に見える梢も、今は黒い塊にしか見えない。
ナギは岩の端に腰かけて、崖下を見た。
深い。断絶前の記録では、この崖は八十メートルほどあったと聞いたことがある。今は木が増えているので正確にはわからないが、落ちれば生きていない。
広場での視線が、まだ体に残っていた。
その子の力で止められないか。
声は一つだったが、他の全員がその声を持っていた、とナギには感じられた。カヤが抑えてくれたが、それは今日だけのことだ。
そのとき、ナギは見た。
崖の下、青い森の中に、光があった。
白い光だった。
点滅していた。
規則的に、一秒に一度くらいの間隔で、明滅している。大きさは握り拳ほどに見えたが、距離があるので実際はわからない。木の幹の間から見えたり隠れたりしながら、確かにそこにある。
ナギは目を細めた。
幻ではない。見間違いでもない。光は動いていない。位置が変わらないまま、点滅し続けている。まるで——何かが、信号を送っているような。
ミノリに言うべきか、と一瞬思った。カヤに言うべきか。だがナギは声を出さなかった。
これが見えているのは、自分だけだという確信があった。
なぜそう思うのかわからない。ただ、そう思った。暗闇の中で他の誰かがこれを見ていたら、もっと騒ぎになっている。あるいは——これを見るには、何か特別な目が必要なのかもしれない。
腹の底から、かすかな圧がきた。
力の端が動いていた。あの感覚だ。力が出る前の、波打つような感触。だが今回は爆発はしなかった。ただ、ほんの少し、何かが開くような感覚があった。光の縁が、ほんのわずかに青みがかって見えた。あの日——森の中で獣を弾いたとき、一瞬だけ見えた青い粒子と同じ色だった。
目を逸らすことができなかった。
崖の下の光を見ながら、ナギは今日の視線を思い返した。百二十の顔が、全員、こちらを向いていた。その視線には名前があった。期待でも恐怖でもない。もっと切迫した、追い詰められた者の目だった。あの目は、ナギを人として見ていなかった。手段として見ていた。
それが怒りにならないのが、自分でも不思議だった。
ただ、重かった。答えの出ない重さが、胸の中に沈んでいた。
光は点滅し続けていた。
ナギは目を離さなかった。
森の深みに、白い光。それは一定の間隔で明滅して、止まない。
あれは、ナギを呼んでいる。
なぜそう思うのか、説明できない。感情でも直感でもない、もっと別の何かが、そう告げていた。体の中から、直接、そう言われているような。
ナギは掌を見た。
星明かりの中で、自分の手は暗くて見えない。
それでも、手の中に何かがある気がした。まだ形のない、まだ言葉にならない、何か。
光が、また明滅した。
深い森の底から、白く、静かに。




