お前の力は
畑の話は、ヨルの耳にも届いた。
集落は狭い。百二十人が崖の上の台地で生きている。秘密など三日と保たない。まして昼前に起きた出来事は、夕方には全員が知っている。芋畑の二畝が吹き飛んだ。ナギが鼻血を出して倒れた。それがどういう力かは、誰も正確にはわかっていないが、ヨルにはわかった。
わかった、という言葉は正確ではない。
確信した、の方が近い。
口伝の第二節——蟲の時代の次に来る節——には、こうある。「空の目が開くとき、体の中の力が外へ出る。空気を押し、水を動かし、地を揺らす。それは人が作ったものではなく、蟲が選んだものだ」。
ヨルは三十年以上、この節の意味を考えてきた。空気を押す。蟲が選ぶ。それは比喩なのか、文字通りの意味なのか。師匠の師匠から受け継いだ言葉は、すでに三代の伝言を経ていた。歪んでいるかもしれない。省略されているかもしれない。
だが昨日の出来事を聞いた瞬間、ヨルの中で何かが合致した。
もはや待てない。
翌朝、ヨルは杖を手に取った。起き上がるとき、膝が鳴った。腰の右側が痛む。毎朝のことだ。若いころはなかった痛みが、五十を過ぎてから少しずつ増えた。今は朝の最初の十歩が一番きつい。体が動き始めるまでの、準備のような時間だ。部屋の隅に立てかけてある杖は、枯れ木を削って作ったもので、握り込んだ場所が磨り減っている。もう何年使っているか、数えたことがない。
外へ出ると、朝靄が薄く漂っていた。台地の端、崖の向こうに森が見える。青みがかった梢が靄に溶けている。石壁の際に青い蔓が這っているのが見えた。昨日より伸びている。集落の朝の手入れが始まる前の、誰も来ていない時間だ。蔓は黙って、着実に石の表面を這っていた。
石壁沿いを歩きながら、ヨルは崖の縁の岩場へ向かった。崖際の小道は細い。両側に低い草が生えていて、朝露が足に当たった。
ナギはそこにいた。
石壁の外ではない。崖の際の、石が平たく張り出した場所だ。石壁の内側から出られる小道があって、集落の人間は誰でも知っているが、寒い季節にわざわざ来る者はいない。ナギがそこを好む、とミノリから聞いたことがあった。
ヨルが岩の縁に近づくと、ナギは振り向いた。
すぐに目が細くなった。警戒の目だった。顎を少し引いて、こちらを測るような目だ。怯えているのではなく、どう対処するか考えている目だった。
「また追い出せと言いに来たのか」
「違う」
ヨルは岩の上に腰を下ろした。膝が痛かった。座るのに少し時間がかかった。ナギはそれを黙って見ていた。老人が岩の上に降りる様子を、黙って見守っていた。邪魔をしない、けれど手も貸さない、という立ち位置だった。
「お前に話を聞きに来た」
「聞くことなんかないだろう」
「ある」
崖下から冷たい風が上がってきた。底白川の音が遠く聞こえる。川は崖の下を流れている。両岸を青い森に挟まれた、細い水だ。音だけで水の量を想像するほかない。秋の終わりで水量は少ない。春先の増水時とは音が違う。低く、細い流れの音だ。
ヨルはしばらく黙っていた。急がなくていい。このくらいの間は、ナギに必要だ。焦って言葉を出すより、この静けさを先に置く方がいい。それは長年の経験で知っている。口伝を語るとき、ヨルはいつも最初に沈黙を置く。沈黙が聴く者の耳を開く、と師に教わった。
「最初に起きたとき、どこだった」
ナギは少し黙ってから答えた。
「森の中」
「何があった」
「獣に追われた。足がもつれて転んだ。そのとき、出た」
「今回は」
「畑。青い蔓を見て——腹が立った。それだけ」
ヨルは頷いた。頷きながら、頭の中で照合していた。第三節。「蟲は、宿した者の感情に応じる。恐れが大きければ大きく動く。怒りが激しければ激しく押す」。
二度とも感情が引き金だった。制御できていない。それはつまり、蟲との接続がまだ確立していないということだ。口伝の第三節には続きがある。「しかし宿した者が息を止めて手を伸ばしたとき、蟲は感情ではなく意思に応じた」。ヨルはその一節を、長年比喩として解釈していた。今は違う。文字通りの意味かもしれない。
「力が出るとき、どんな感じがする。体の中で」
ナギは少し間を置いた。
「腹の底から、何かが上がってくる。そのまま手まで来て、弾ける」
「止められるか」
「止め方がわからない」
ヨルは再び黙った。腰の後ろに手を当てて、川の音を聞いた。秋の水は少ない。春先とは比べものにならない音量だ。ナギの呼吸が聞こえた。規則的で、少し浅かった。
ヨルはナギの手を見た。岩の上に伸ばされた両手。掌が上を向いていた。意識してそうしているのか、無意識かはわからない。皮膚が荒れている。爪が短い。農作業と薬草採りを続けてきた手だ。この手から衝撃波が出た。芋畑を吹き飛ばした。
教えてしまおうか、と一瞬思った。今すぐ全部話してしまえば、この子は理解するかもしれない。少なくとも、力の意味は知ることができる。
だが、ヨルには確信がなかった。自分の知っている口伝が、どこまで正確なのか。三代を経た言葉のうち、どれが本当でどれが歪んでいるのか。不正確な情報を確定的な事実として教えることは、嘘をつくより悪い。
それに——まだ、この子に全部を背負わせる準備ができていない。
自分の中にも、準備がない。
「一つだけ言う」
ヨルは静かに言った。
「お前の力は、お前だけのものではない。お前の体の中にあるが、お前が作ったものではない」
ナギが振り返った。
今度は警戒の目ではなかった。何かを捕まえようとしている目だった。
「どういう意味だ」
「今はそれだけだ」
「そんな——それだけ言って終わりにするのか」
「今は、そうだ」
ナギは石の上に腰を下ろした。崖の下を見た。ヨルも見た。底白川が細く光っている。両岸の青い森が川面に影を落としている。水の流れは見えない。ただ光の帯が、木の間に細く続いている。
しばらく二人はそのまま座っていた。
川の音だけが続いていた。
ナギは何も言わなかった。「そんな言葉だけで何になる」という怒りを、ぐっと飲み込んでいるような沈黙だった。ヨルにはそれがわかった。わかって、何も言わなかった。怒りを飲み込ませる時間が必要だ。今はそれだけでいい。
ヨルは岩の冷たさを、薄い布越しに感じた。この岩は日当たりがよくない。朝のうちはまだ冷えている。ナギは薄着だった。寒くないのかと思ったが、問わなかった。力を持つ者は、体の中が変わっている。それも、口伝には記されていた。
岩の上に、小さな虫が一匹這っていた。羽のない、細い虫だ。岩の縁まで来ると、向きを変えてまた戻った。ヨルはそれを眺めていた。ナギは気づいていないようだった。
ヨルが立ち上がったとき、ナギが言った。
「あんたは何を知っている」
直截な問いだった。子供らしくもあり、核心を突いてもいた。
ヨルは答えなかった。
「また来い」
それだけ言って、ヨルは岩場を離れた。
背中に、ナギの目を感じた。追いかけてくるかもしれない、と思ったが、足音はしなかった。振り返らなかった。振り返りたかったが、振り返れば何かを言わなければならなくなる気がした。
ヨルは石壁の内側へ戻りながら、口伝の一節を頭の中で繰り返した。「蟲は選ぶ。宿す者を、蟲が選ぶ」。
百四十八年ぶりに、蟲が選んだ。
それは——偶然か。それとも、何かの意思か。
ヨルにはわからなかった。わからないまま、老いた足で石の上を歩いた。杖の先が岩を叩く音が、歩くたびに繰り返された。後ろに残した問いが、まだそこに浮かんでいる気がした。——あんたは何を知っている。
答えはある。だが今はまだ、言えない。
言えない理由が正当かどうかも、ヨルにはまだわからなかった。
集落に戻ると、朝の蔓取りが始まっていた。東側の石壁の際で、二人の女が青い植物を引き抜いていた。引き抜くたびに、地面が小さく抵抗する音がする。蔓の根が深いのだ。一本抜くのに両手で力を入れなければならない。
ヨルはその作業を少し眺めてから、自分の小屋へ向かった。
口伝を一節、頭の中で反復した。「空の目は、蟲が選んだ者を見ている」。
見ている、の主語はAIだ。ヨルはその存在を、口伝の語り口からしか知らない。見ている、とはどういうことか。物理的な視線か。距離があっても届くものか。百四十八年間、見続けているということか。
あの娘も、見られているのか。
ヨルには答えがなかった。小屋の戸を開けると、朝の冷気が中から出てきた。一晩中、誰もいなかった部屋の匂いだ。ヨルは中に入り、戸を閉めた。




