二度目
二度目は、畑の中だった。
断絶後百四十八年、澄ヶ淵の秋は短い。芋の収穫は十日もすれば終わる。その十日のあいだ、集落の全員が土と向き合う。猟団でも薬草採りでも関係ない。カヤでさえ、朝は畑に出る。
ナギは端の畝を任されていた。
いつも通りだ。鍬を持って、茎を引いて、土を起こす。芋の表面に傷をつけないよう慎重に。腰が痛いけれど、これも普段通りだ。体の弱いナギにとって、野良仕事は薬草採りよりきつい。それでも、こういう仕事は集落の全員がやる。やれる分だけやる。それが澄ヶ淵の決まりだ。
午前の光は斜めだった。
そのとき、ナギは畑の縁を見た。
石壁の際、本来なら土だけのはずの場所に、青い蔓が這っていた。蔓は細く、まだ若い。けれどそれは確かに畑の中へ伸びようとしていた。芋の茎の下を潜って、土の間から顔を出して。
昨日はなかった。
ナギは知っている。昨日この角を通ったとき、ここには何もなかった。石壁の際の土は乾いていて、雑草の一本もなかった。それが一晩で、もう畑の中に来ている。蔓の先端は、まるで意志を持つように芋の根の方角を向いていた。青みがかった葉が二枚、朝露をまとったまま広げられていた。きれいな葉だった。それがなお、気味悪かった。
先週、隣の区画でも似たものを見た。あのときはまだ石壁の外側だったから、ロウが足で踏んで済ませていた。それが今朝はもう、こちら側だ。
蔓を見ているうちに、別のことを思い出した。三日前、タマキが北の畑から戻ってきたとき、長靴の底に青いものがついていた。洗いながら何も言わなかった。ナギは聞かなかった。聞いても答えは出ない。毎年少しずつ、境が動いている。みんな知っているが、誰も口に出さない。
鍬を握る手に力が入った。
引き抜いてしまおうと思った。根を断てばいい。小さいうちに抜けばいい。そう思って腰を落として蔓に手を伸ばした瞬間、ナギの中で何かが弾けた。
弾けた、という表現しかない。
腹の底から、圧がきた。それは胸を通り抜けて、腕から両の掌に向かった。森の中でのあの日と同じだったが、今度は違った。あのときは恐怖が引き金だった。今度は、怒りだ。いらだちだ。青い蔓への、単純な、制御できない苛立ちだ。
「——」
音が出るより先に、衝撃が走った。
圧縮された空気が掌から弾け出た。ナギ自身は何も見えなかった。ただ芋の茎が根こそぎ吹き飛んで、土が爆発したように舞い上がり、二畝分の作物が空中に散った。
ナギは後ろへ倒れた。
仰向けに倒れて、空を見た。晴れた空だった。土の欠片が降ってきて、顔に当たった。
鼻から、血が出た。
温かいものが上唇に垂れてきた。拭おうとしたが、右腕が震えていた。
「ナギ——ナギ!」
タマキの声が遠くから来た。遠く聞こえるが、すぐそこにいるはずだ。声の質が、あのときと同じだった。恐怖と怒りが混ざった、母の声。
起き上がれなかった。
体の奥が空になったような感覚があった。やりきった後の疲労ではなく、何かを根こそぎ使い切ったような消耗。鼻血が止まらない。空がぐるぐる回っている。
だめだ、とナギは思った。
止められなかった。止め方がわからない。引き金が感情なら、感情を消せばいいのか。でも怒るな、と言われて怒らずにいられる人間がどこにいる。
タマキの手がナギの頭の下に入った。
「大丈夫? 意識ある? どこか——」
「ある」
それだけ答えた。鼻を押さえながら、ゆっくり上体を起こした。畑の端を見た。二畝分の芋が散乱していた。青い蔓は吹き飛んでいた。根ごと抜けている。
それだけが、できたことだった。
昼前には集落じゅうに知れ渡っていた。
ナギは薬草小屋の前に座って、タマキに鼻血を止めてもらっていた。麻の布を鼻に詰めながら、人々の視線を感じた。直接来る者はいない。石壁の向こうから見ている。井戸端から覗いている。足音が近づいては遠ざかる。
視線には重さがあった。ナギはそれを知っていたつもりだったが、これほどとは思わなかった。一つひとつは小さい。けれど全部を束にされると、皮膚がじりじりする。泣きたくはなかった。泣けば確かめたことになる気がした——自分が異質だということを。だからナギは詰め物を押さえたまま、石壁のひびを数えるふりをして目を伏せていた。
シズの声が聞こえたのは、それから間もなくだった。
長老筆頭のシズは、声が大きい。七十がらみの男だが、意図して大きくしているのか、もとからそういう声なのかナギにはわからない。
「だから言ったのだ。あの力は抑えられるものではない。次は人に向く」
誰かに向けて言っているのではなく、ただ言っているだけの声だった。周囲に聞かせるための声だった。
「集落の外に出すべきだ。災いの種は早いほうがいい」
タマキが布を強く押さえた。ナギの鼻に痛みが走った。タマキは何も言わなかった。
ナギも何も言わなかった。シズの言葉が終わっても、石壁の向こうの視線は引かなかった。むしろ増えた気がした。足音が二つ、三つと重なって、やがて止まった。誰かが囁いた。言葉は聞き取れなかった。聞き取りたくなかった。
子どもの足音がした。走って、止まった。親に呼び戻される気配があった。その一連が、じわりと胸の奥に染みた。
昼過ぎにカヤが来た。
広場からではなく、石壁の裏を回って来た。人目を避けていた。ナギの横にしゃがんで、畑のほうを一度見た。それから短く言った。
「制御できるようになれ」
断定の口調だった。
「あの力を使えるようにすれば、集落の守りになる。シズが何を言おうと、役に立つ力は追い出すより取り込むほうが賢い」
「使いたくない」
声は出た。低く、かすれていた。
カヤは動かなかった。ナギは顔を上げなかった。鼻の詰め物が濡れていた。涙が出ていた。泣いているとは思わなかったが、目の端が熱かった。
沈黙があった。カヤが何かを言おうとして、やめた気配があった。ナギにはわかった。長い沈黙は、カヤにしては珍しかった。
カヤは続けた。
「お前の父親は獣に殺された」
知っている。ナギが三歳のときだ。北の巡回に出て、戻らなかった。獣に遭って、逃げ切れなかった。それだけをナギは知っている。
「俺の兄だ」
カヤの声は変わらなかった。低く、乾いたままだった。
ナギは息を呑んだ。知らなかったわけではない。カヤとナギの父が兄弟だということは聞かされていた。けれどカヤの口からその言葉が出たのは、はじめてだった。俺の兄だ。四文字が、静かに落ちた。カヤはいつも集落の話をするとき、「ナギの父」と言った。「俺の兄」とは言わなかった。それが今日は違った。それだけで、カヤが何を言おうとしているのか、ナギには伝わった。
「あのとき、お前にその力があったら、俺の兄は死ななかった」
ナギは顔を上げた。カヤの目は畑の方角を向いていた。
「論理の話だ。感情ではない。使える力を使わなかった結果、人が死ぬ。それだけだ」
カヤは立ち上がった。
「練習する気になったら言え」
それだけ言って、石壁の方へ戻っていった。
ナギはしばらく動かなかった。
鼻の詰め物が濡れた感触で、まだ血が少し滲んでいるのがわかった。太陽が西に傾いていた。
カヤの言葉は情がない。冷たい。けれど、違うと言えない。
ナギは自分の掌を見た。
右の掌。芋を吹き飛ばした、この手。力が宿っているようには見えない。皮膚が荒れた、普通の十五歳の手だ。
この手で、誰かを守れるのか。
そんなことを、考えられる立場に自分はあるのか。
わからなかった。ただカヤの言葉だけが、頭の中に刺さったまま残っていた。——盾になれ。




