言わなかった理由
長老会議にヨルが呼ばれたのは、夕刻の少し前だった。
シズの使いが来て、「知恵を貸してほしい」と言った。その言葉の重みを、ヨルは慎重に測った。シズがヨルに知恵を求めるのは珍しいことではない。だが今日は、求める内容がわかっていた。
集会小屋には五人の長老と、カヤと、タマキがいた。ヨルが末席に座ると、場の空気が変わった。誰も声を出さなかったが、視線がヨルに集まるのがわかった。期待の目だった。物知りが来た、これで解決する、という顔だった。シズが問うた。
「お前は物知りだ。あれが何か、わかるか」
あれ、と言えば通じる。それだけ娘の一件が集落に浸透していた。
ヨルは一瞬だけ、答えを持っていた。持っていながら、口を閉じた。
閉じる間、六人の顔が見えた。長老たちの、安堵を待つような顔。カヤの、何かを堪えるような顔。タマキの、やや前のめりになった顔。皆が同じものを待っていた。ヨルが口を開き、「これはこういうことだ」と言ってくれることを。それによって、見えないものに名前がつき、不安が収まることを。
「わかりません」とヨルは言った。「まだ、わかりません」
静かな嘘だった。ヨルの人生でおそらく最初の、意図的な沈黙だった。語り部は語る。それがヨルの役割だった。百四十八年前の記憶を声に乗せて届ける。それ以外の何者でもないはずだった。
小屋の中が、かすかに揺らいだ気がした。期待が崩れる音は、実際には何もない。それでもヨルには聞こえた。シズが低い息を吐いた。長老の一人が首を振った。タマキは手を膝の上で握りしめた。
なぜ黙ったか。
会議の間、ヨルは理由を数えた。
一つ目。蟲だと言えば、口伝の第五部まで語らなければならない。第五部は「止めよ」という命令だ。止めよ、と聞いた瞬間、人々は娘を止めようとする。止める、がどういう形になるか、ヨルには見当がついていた。排除か、監禁か、あるいは——。
二つ目。娘が蟲の力を持つと知られたとき、今度は反対の危険が生じる。利用しようとする者が現れる。力を持つ者を戦に使う、守りに使う、あるいは取引の道具にする。蟲の力が何であるか理解しない者が扱えば、空の目を刺激することになる。口伝にそう書かれてはいないが、ヨルの読みでは、そうなる。
三つ目は、もっと内向きの理由だった。
百四十八年伝わった口伝が、正しいかどうか、ヨルには確かめる方法がない。
師から受け取った。師はその師から受け取った。七代、八代を経て伝わった言葉が、最初の形を保っているか? 人の口は記録ではない。必ず変わる。どこかで一言が抜け、別の一言が加わり、本来の意味が少しずつ滑っている可能性がある。
あの娘の手から出たものが本当に蟲の力であっても、自分の持つ第五部の「止めよ」という命令が、本来の意味をそのまま伝えているかどうか。
ヨルにはわからなかった。
わからないことを、真実として語っていいのか。
*
会議が終わり、人が帰った後も、ヨルはしばらく集会小屋に残った。それから自分の小屋へ戻り、灯を落としたまま床に座った。
なぜ言わなかった。
その問いが、繰り返し戻ってきた。理由は三つあった。だが三つ並べてみると、どれも本当の理由のように見えて、どれも言い訳のようにも見えた。
語り部は語る。それが義務だ。義務というより、存在の意味だ。ヨルは語ることで、この集落の中に居場所を得てきた。力もなく、狩りもできず、農作業も体が続かない老人が、なぜここにいられるか。語ることがあるからだ。
その語り部が、知っていることを語らなかった。
自分は今日、何をしたのか。
ヨルは暗がりの中で、膝の上に置いた両手を眺めた。見えないが、見た。節くれだった指の形を、記憶で見た。この手で幾度、口伝を語ってきたか。子どもたちの前で、病む者の床の前で、死に際の耳元で。語るたびに、ヨルはその言葉を自分のものにしてきた。語ることが、ヨルという人間の形を作ってきた。
その形が、今夜、少しずれた。
理由の一つ目も二つ目も、娘を守るためと言えば言えた。だが三つ目は違う。三つ目は、自分の口伝への不信だった。正確には、不信の予感だった。確かめる前から、信じることをためらった。それは語り部としてあるまじきことではないか。あるいは、語り部として、これまでより正直なことではないか。ヨルには判断できなかった。
五十年以上、ヨルは口伝を真実として語ってきた。疑ったことがなかったわけではない。しかし疑うことより、信じることを選んできた。信じなければ語れないから。今日初めて、その疑いが決定的な形で頭をもたげた。
まだ確かめが足りない、とヨルは自分に言い聞かせた。娘に直接話を聞かなければならない。あの場で何が起きたか、娘自身がどう感じたか。それを聞いてから、判断する。
言い訳だとわかっていた。それでもそう思うことにした。
*
戸を叩く音がした。
小さな手の音だ。ヨルは立ち上がり、灯を一つ点してから戸を開けた。セン《せん》が立っていた。十二歳の少年。集落で唯一、ヨルの話を喜んで聞きにくる子だった。
「夜に来るな、と言ってあろう」
「昼は忙しかったから」とセンは言った。それ以上の説明をしない子だった。
ヨルは仕方なく中に入れ、椀に水を注いでやった。センは椀を受け取りもせず、まっすぐヨルを見た。
「老ヨル、口伝に風の話は出てくる?」
風、という言葉でどの話を指しているか、すぐわかった。
「……出てこない」
「じゃあ、あれは新しい話だ」とセンは言った。簡単に、当たり前のことを言う口調で。「口伝に加えなきゃいけないんじゃない?」
「口伝は加えるものではない」
「なんで?」
なぜ、か。
ヨルは答えを探した。五十年以上口伝を守ってきたが、なぜ加えてはならないか、言葉にしたことがなかった。変えてはならない、それが師の言いつけだった。なぜ変えてはならないか、師も説明しなかった。
「加えたら、もとの形がわからなくなる。どこが古く、どこが新しいか、見分けがつかなくなる」
「でも今起きてることは本当のことじゃないの?」
センが首を傾けた。子どもの傾け方だった。疑問が体に出る。
「本当のことでも、口伝は変えない」
センはもう少し何か言いたそうだったが、椀の水を飲んで立ち上がった。「そっか」と言い、戸から出ていった。
小屋に一人残り、ヨルは消えそうになった灯を見た。
加えるものではない。変えるものではない。それは正しい。だがセンの言葉が、小石のように胸に落ちて沈んだ。
口伝にない現実が、今、目の前に立っている。
百四十八年伝えてきた言葉の中に、この娘の話はない。この力の話はない。それでも現実は起きた。起きてしまった。
語り部は語る。だが何を語ればいいのか、ヨルには今夜、答えがなかった。




