災いの種
数日が経った。
集落の空気は、じわじわと変わっていた。急に変わったのではない。水に墨を落としたように、少しずつ、しかし確実に染まっていった。
最初に変わったのは子どもたちだった。
これまでも、ナギを好いている子はそう多くなかった。頭痛持ちで仕事が遅い、体が細くて力が弱い、と思われていた。役立たず、という言葉を面と向かって言う子はいなかったが、遊びの輪に入れてもらえない日の方が多かった。それでもナギは慣れていた。慣れていたから、傷つかない、とは言えなかったが、少なくとも驚きはしなかった。
役立たずは分かる。体が弱いのは事実だ。仕事が遅いのも事実だ。弓を引けず、槍を運べず、走って獣を追えない。そういう理由なら、慣れられる。理由のある疎外は、少なくとも意味が分かる。
今は、ちがう。
子どもたちが道を開ける。ナギが広場に出ると、話していた子たちが自然に散っていく。目が合わない。背中に視線を感じる。好奇ではなく——警戒の目だ。
大人たちはもっと巧妙だった。
タマキが水汲みに連れていくと、他の女たちは挨拶はするが、ナギとは距離を置く。男たちは狩りの班分けの話をナギが聞こえる場所でしなくなった。長老会議の日取りが、いつもより早まった。
タマキだけが、変わらなかった。
ナギの隣に立つ位置は変えない。薬草を刻むとき、ナギの手元を確かめる目の動きが変わらない。夜の食事を盛る量も変わらない。だが一度、タマキが集落の女と話しているとき、ナギの名前が出た瞬間に、タマキの背中が少し固くなるのが見えた。守ろうとしているのだ、とナギは思った。盾のように、ナギの前に立とうとしている。それが申し訳なかった。タマキにそんな思いをさせることが。
ナギは自分の手を見た。
右手。左手。両方とも、変わらない。骨が透けるほど細い指。爪の端が少し欠けている。何も変わらない、自分の手。
朝の光の中でも、昼の作業中でも、その手がいつもより目に入る。薬草を刻むとき。水を汲むとき。籠の紐を結ぶとき。どれも昨日まで当たり前にやっていた動作だ。だが今は、手が動くたびに少し息を詰める。
あの日、この手から風が出た。意図していなかった。ただ、怖かった。獣が迫って、体が固まって、喉の奥で叫び声が詰まって——そうしたら何かが爆ぜた。
自分でも、何が起きたかわからない。
だから怖かった。集落の人たちが怖がっているのと、たぶん同じ理由で、ナギ自身も自分の手が怖かった。
*
「ナギ」
呼ばれて振り向くと、ミノリが柵の陰から手を振っていた。
ミノリは集落で唯一、ナギより一つ年上の女の子だった。母親同士が仲良しで、子どもの頃から一緒にいることが多かった。ミノリは明るく、声が大きく、どんな場所でも中心になれるたちだった。
「あのね」とミノリは開口一番に言った。「手から風が出るって、本当?」
「……本当」
「すごいじゃん」
すごい、という言葉をそんなに軽く言える人間が、この集落にいるとは思っていなかった。ナギは答えられなかった。
「私、見てみたい」
「やだ。こわい」
「ナギがこわいの? 自分の手が?」
ミノリの問いは鋭かった。悪意はない。ただ真っすぐだった。ナギはうつむいた。
「うん」
「そっか」とミノリは言った。しばらく黙ってから、「でも、もっといろいろできるようになったら、それはいいことじゃない?」
いいこと。
ナギにはその言葉が、届くようで届かなかった。
もっといろいろできるようになったとして——集落の人たちの視線は変わらない。いや、もっと変わる。もっと遠ざけられる。怖いものが、強いものになる。それはいいことなのか。
崖の縁に二人並んで立った。遠くに青い森が見える。百四十八年前から広がり続けているという森。その中に何がいるか、詳しく知る者はいない。
風が吹いた。崖の下から来る風で、底白川の冷たさを含んでいた。ミノリの髪が横に流れる。ナギは目を細めた。
ミノリがそこに立っているだけで、少し楽になる。何も変わっていないのに。ナギの手が怖いことも、集落の視線も、長老会議のことも、全部そのまま残っている。それでも、ミノリが隣にいると、体の力がほんの少しだけ抜ける。それだけのことだ。
ミノリと別れて、ナギは崖の縁をひとりで歩いた。
自分は、あの森に近い何かになってしまったのだろうか。
そんな考えが浮かんで、ナギは自分で自分を驚かせた。
*
長老会議が開かれたのは、夕刻だった。
本来なら子どもが近づく場所ではない。だがナギは、タマキが呼ばれているのを知っていた。自分のことが議題になるとわかっていた。柵の隙間から光が漏れる集会小屋の裏手に、ナギは膝を抱えてしゃがんだ。板壁は薄く、声は筒抜けだった。
入り口の方では人が増えていた。呼ばれていない者まで、小屋の周りに立っている。正式な会議の傍聴は許されていないが、誰も追い払わなかった。皆が何かを決めてほしいのだ、とナギは思った。自分についての何かを。ナギ自身も、そう思っている。決まらないまま宙に浮いているのが、いちばん怖い。
集会小屋の外は暗かった。夕暮れが終わり、西の空だけがまだかすかに赤かった。地面は冷たく、膝を抱えていても石畳の冷えが体に伝わってくる。風が板壁のわずかな隙間を通り、ひゅうと音を立てた。その音と、内側から聞こえる声が、交互に届いた。
「あれは災いの種だ」
シズの声だった。集落一の古老で、ヨルより年上の、七十がらみの男だ。声は老いても低く、太く、通る。
「わかっておるか。あの娘が何かをすれば、森が応える。森が怒る。百四十八年、われわれが生きてこられたのは、森を刺激しなかったからだ。それを——」
「守れた命があります」
カヤの声が遮った。カヤが長老会議で発言できるのは、狩り頭としての立場からだけだ。だが今日は違う調子だった。
「獣が集落に入っていれば、あの場に子どもが三人いた。三人が死んでいたかもしれない。あの力が一人を救い、三人を救った。それを、災いと呼ぶのか」
「結果ではない。原因を言っている」とシズが返した。「その力がどこから来たものか、誰が知っておる? 森から来たものなら、森に返さなければならん」
返す、という言葉の意味を、ナギは考えようとして、やめた。
他の長老たちの声も聞こえた。どちらでもない声、様子を見ようという声、もっと情報が必要だという声。一人だけ、カヤとシズのどちらとも違う声で「あの娘に直接聞けばいい」と言った者がいた。誰の声か分からなかった。誰も答えなかった。
結局、その夜は結論が出なかった。
会議が終わり、人が散り始めた頃、ナギはその場を離れた。
夜空には星が出ていた。寒かった。手足の先が痺れるほどではないが、耳と頬が冷えていた。息が白くなる。ナギは両腕を体に巻きつけて、夜の広場の端を歩いた。獣脂のランプが家々の軒先に揺れている。その橙色の光の中を、何人かの大人が通り過ぎた。誰もナギを見なかった。見ないようにしていた。
シズが小屋を出てきた。老いた背中が丸く、その輪郭が灯の光に切り取られた。シズはナギがいることに気づいたかもしれない。気づかなかったかもしれない。どちらでもいい顔で、別の方向へ歩いていった。「災いの種」——その言葉がまだ耳の奥に残っていた。種、というのが不思議な言葉だとナギは思った。種はいつか芽吹く。シズの言い方は、まだ芽吹いていないということだ。これからどうなるか分からないということだ。ナギには、それが慰めにも聞こえなかった。
会議の間、ヨルの声は一度も聞こえなかった。ヨルは呼ばれていたはずだ。何も言わなかったのか、それとも何か言ったのに聞こえなかったのか。
ナギは思った。
あの獣を倒した日の夕方、ヨルがナギの顔を見た。その目が、他の誰とも違った。怖がっていなかった。驚いてもいなかった。あれはいったい、何の目だったのか。
なぜ老ヨルだけが、自分を見ても怖がらなかったのだろう。
夜風が崖の縁を吹き抜けた。底白川の方角から来る風だ。冷たく、湿っていた。ナギは両手を見た。暗くてよく見えない。ランプの光も届かない。それでも、昼間と同じ手のはずだった。何も変わっていないはずの、自分の手だった。掌の中心が、かすかに、あの日からずっと、温かかった。




