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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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3/14

森の縁で

 空気が違う。


 ナギは崖を下りてすぐ気づいた。森のふちに近づくほど、空気が重くなる。重さというより、密度だ。吸うたびに抵抗がある。秋の乾いた風なのに、肺に入ると湿ったような感覚がある。今日は特にひどい。数歩踏み出すごとに、空気が一段と濃くなる気がした。


 頭痛がいつもより強い。


 額の奥に圧力がある。こめかみの血管が脈打っている。歩くたびに微かに揺れる。慣れているはずの痛みが、今日は慣れない。体がそれを普通として処理するのを拒否しているような、そういう感覚だ。


 それでも足を止めなかった。薬草はここでしか採れない。崖の上の畑では育たない種類が、森の縁の斜面に自生する。タマキが使う熱冷ましも、集落の治療師が必要とする傷薬も、全てここから来る。ナギの仕事だ。


 青い梢が頭上に迫ってきた。


 葉の色が深い。陽の光を普通の葉と違う角度で受けているように見える。光が葉を通り抜けないで、表面で何かに変換されているような、奇妙な光り方だ。青い森はいつもそうだが、今日はその青が一段と濃く、重く感じた。葉が揺れるたびに、青い光が網のように広がる。


 かごを背負い直して、斜面を横切り始めた。


 黄色い葉の細い草が群生している場所を知っている。せんじると熱に効く。タマキが教えてくれた。その隣に、白いきのこに似た形の植物がある。傷の炎症を抑える。名前はない。集落ではただ「白いやつ」と呼ぶ。先週も採りに来た。先週と同じ場所で、先週と同じように採る。それだけのことだ。


 採り始めた。手を動かすと少し楽になる。指先が土と草に触れる感覚が、頭の痛みより現実的だ。


 葉が大きく揺れた。


 風ではなかった。風なら葉全体が一斉に動く。揺れたのは一か所だけだった。低い茂みの中、ナギから二十歩ほど先。


 ナギは動きを止めた。


 息を殺して待った。音が消えた。虫の声も止まった。森がひとつの息を吸い込んで、止めているような静けさだ。


 茂みが割れた。



 獣は大きかった。


 いのししに似ているが、猪ではない。全身に石のような板が張りついている。うろこでもなく、甲羅こうらでもない。石に似た何かが皮膚から生えて、体を覆っていた。板と板の間に、かすかに皮膚が見える。そこだけ柔らかそうだ。頭が低く、眼が赤い。鼻の先が短くて、鼻孔が上を向いている。体長はナギの背丈の二倍近い。地面を踏む足音が重い。一歩ごとに土が沈む。


 獣がナギを見た。


 鼻孔が広がった。空気を読んでいる。ナギの気配を確認している。


 ナギは走った。


 一歩目の瞬間に、かかとが斜面の窪みに入った。体が傾いた。立て直せなかった。膝から崩れて、左の掌を地面についた。砂利が手に刺さった。痛みより先に恐怖があった。


 振り返った。


 獣が来ていた。


 石の板が地面を叩く音がした。速い。あれほどの重さで、あれほど速く動ける。ナギは立てなかった。足が言うことを聞かない。恐怖ではなく、体が機能を忘れたような感覚だった。膝が折れている。地面の砂利が掌に食い込んでいる。


 来る。


 思考が一点に絞られた。


 ナギは両手を前に突き出した。


 何をするつもりかは分からなかった。ただそうした。体がそうさせた。手の平が獣に向いた瞬間、何かが弾けた。


 音が先だった。


 耳が痛くなるほどの破裂音が、鼓膜を内側から押した。それから衝撃——掌から何かが弾け出た。凝縮された空気が放たれたような、その圧でナギの体が後ろへ吹き飛んだ。地面に背中を打ちつけた。息が止まった。肺が縮んで、空気を出し切ったきり動かない。一瞬だけ、全てが止まった。


 砂煙が晴れていく。


 獣は三間さんけんほど先に倒れていた。横向きに。石の板が地面に当たって、ひびが入っていた。四肢が一度だけ動いて、それから止まった。胸が上下していない。


 ナギは仰向けのまま、空を見ていた。


 青い梢が揺れていた。梢の向こうに、澄んだ空がある。雲が一片、ゆっくり流れていた。


 掌が熱い。


 熱さは痛みではなかった。熱を持っているのに、燃えているのとは違う。何かが内側から皮膚を通って出ていったような、その後に残る熱だ。炉から鉄棒を取り出した直後の、あの熱に似ている。だが痛くない。


 ナギは掌を目の前に持ってきた。


 一瞬だけ——見えた気がした。


 青い粒子が、空気の中に浮かんでいた。砂煙が晴れた後の空気の中に、光の粒のような何かがあった。目を凝らしたが、もうない。あったのか、なかったのか分からない。ただ、見た気がした。一瞬だけ、確かに。


 そして気づいた。


 頭が痛くない。


 今この瞬間、頭痛がない。低い熱の感覚もない。生まれてから一日も消えたことのなかった、あの圧力が——ない。こめかみの鈍い圧迫がない。額の奥の重さがない。体がただそこにある。痛みなしに。


 ナギは起き上がった。立ち上がった。


 足がしっかり地面を踏んでいる。膝が震えていない。体が、いつもより軽い。頭の重みがないから、体全体が浮いているような気がする。


 獣は動かない。胸が上下していない。


 ナギはしばらくそこに立っていた。何も考えられなかった。考えようとしたが、全てが追いつかない。手の平が何かをした。爆発のような音がした。獣が吹き飛んだ。頭痛が消えた。青い粒子が見えた気がした。どれも同じ瞬間に起きた。繋がっているのか。繋がっていないのか。



 集落に戻ったとき、ナギの顔を見てミノリが走ってきた。


「何があった。顔が青い。血が出てる」


「転んだ」


「それだけ?」ミノリはナギの手を取って、砂利で擦れた掌を確認した。傷が深いかどうか調べるように、指で縁を押す。「他には?」


「平気」


 平気かどうか、分からなかった。でも他に言う言葉がなかった。


 カヤが来た。何人かの若い猟師も後ろにいた。狩りから戻ったばかりらしく、まだ槍を持っている。


「ナギ。森の縁に大きい獣が倒れているのを見た。お前の荷物もそこにあった。何があった」


 ナギは答えられなかった。


 どう答えるのか。手から何かが出た。獣が吹き飛んだ。そう言えばいいのか。言えるか。信じてもらえるか。自分でも信じていない。見たことを見たままに言葉にできない。


「わからない」ナギは言った。「わからないです」


 カヤはナギを一度見た。表情を読もうとしているような、短い視線だった。それから猟師たちに目を向けた。「確認してくる。ミノリ、ナギを連れて戻れ」


 ミノリがナギの腕を取った。集落の中に向かって歩きながら、ミノリは何か言いかけて、やめた。賢いやつだ、とナギは思った。今は聞かないと判断したのだ。聞いても答えが出ないと分かっている。


 広場を通り過ぎた。ヨルの家の前を通り過ぎた。夕方の薄い光の中で、集落はいつも通りだった。子どもたちが走り、大人が火の用意をしている。煮炊きの煙が立ちのぼり、獣脂のランプに火が入り始めていた。何も変わっていない。ナギだけが変わった気がする。いや、変わったかどうかも分からない。変わったのか、ずっとこうだったのに今初めて気づいたのか。


 ミノリと別れて、家に入った。


 タマキが振り返る前に、ナギは手を見た。


 傷はある。砂利で擦れた痕が赤い。だが他には何もない。火傷の跡もない。腫れもない。


 ただ、熱がある。


 熱さは続いていた。痛みではなく、熱だけがある。体の内側から、手の平に向かって何かが流れているような、そんな熱だ。血とは違う。もっと細い、もっと多いものが、掌の皮膚の直下を流れている。


「ナギ?」タマキが顔を見た。「顔色が悪い。頭は?」


「……痛くない」


 タマキが少し目を細めた。今日ばかりは嘘をついていない、と分かったのかもしれない。何も言わなかった。


 ナギは手を握った。


 頭痛は、まだ戻っていない。


 何かが、目を覚ました。ナギの体の中の何かが。今日まで眠っていた何かが——今、目を開けている。その何かはナギ自身より古くて、遠くて、名前がない。ただ、掌に熱がある。確かに、手の平に、熱がある。そして頭が、初めて軽い。


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