誰も聞かない話
声に出すことで、言葉は生き続ける。
ヨルは毎朝そう自分に言い聞かせてから、語り始める。家の中で、一人で、誰もいない空間に向かって。
「——昔、昔のこと。人間の血の中に、蟲がいた。蟲といっても目には見えない。触れもしない。砂一粒より小さく、水の中を泳ぐほど細い。名もない。名がつけられないほど小さい。だが、その蟲は人の中に住んで、人を強くした——」
言葉が出てくる。父の声で。
父もこうして毎朝唱えていた。ヨルが子どもの頃、父の声で目が覚めた朝が何度あったか。天井を見ながら、声を聞いていた。言葉の意味は後から教わった。まず音を覚えること。言葉は音だ、と父は言った。意味より先に音がある。音が正確なら、意味はついてくる。意味が先にあると思うと、音が歪む。
「蟲の時代。それがはじまりだ。人は蟲とともに生き、蟲は人とともにあった。人が傷つけば蟲が癒し、人が病めば蟲が戦い、人が老いれば蟲が抗った。完全ではない。蟲とていつか消える。だが人は蟲のおかげで、長く、遠くまで生きられた——」
父の声は低かった。ヨルの声は父より少し高い。そこだけが気になる。同じ音でなければならないと思う。同じ音でなければ、何かが変わってしまうかもしれない。変わっているかもしれない。もうずっと変わっていて、本来の口伝とは何もかも違う言葉を繰り返しているだけかもしれない。その可能性を、ヨルは考えないようにしている。考えれば語れなくなる。
「——空の目。蟲の時代の終わりに近く、人は空の目を作った。大きな目だ。見えないほど高い空から、地上の全てを見渡す目。人はその目を通して、蟲に命令を下した。空の目から声が降りてきて、蟲がそれを聞いた。人と蟲と目が、三つで一つだった——」
ここで一度止まる。
父もここで止まっていた。間を取る場所だと教わった。なぜかは言わなかった。ヨルも理由はわからない。ただ、間を取る。その沈黙の中に、何か大事なものが入っているかもしれない。沈黙も口伝の一部だと、今では思っている。
「——蟲の汚染。蟲は水に混じった。土に混じった。川を流れ、雨に乗り、地の端まで広がった。人が望まなくても、蟲は全ての人の血に入った。赤子の血にも。老いた者の血にも。誰も逃げられなかった。誰も逃げようとしなかった。蟲は良いものだと信じていたから——」
信じていたから。
この言葉を父から教わったとき、ヨルは十四歳だった。だから何だ、と思った。今でも意味がよく分からない。蟲が良いなら、信じるのは当然だ。なぜそれが語られるべきことなのか。父に聞いたことがある。父は「お前が答えを出す必要はない。ただ伝えればいい」と言った。ヨルはその答えが好きではなかった。今でも好きではない。ただ、伝えている。
「——大いなる沈黙。一人の賢者がいた。賢者は考えた。蟲は良いものか、それとも人をつなぎとめる鎖か。賢者は答えを出した。そして人と蟲の結びつきを絶った。一日で終わった。世界中で同時に。蟲の声が止み、空の目が閉じた。それが、大いなる沈黙——」
外で鳥が鳴いた。
ヨルは一度口を閉じ、水を一口飲んだ。喉が乾く。年々乾く。若い頃は水なしで半日語れた。今は一時間が限度だ。体が口伝を拒否し始めているような、そんな気がして不快だ。
「——目の命令。賢者はしかし、全てを絶ったわけではなかった。空の目は生き続けた。目は命令を持っていた。——もし人が再び蟲に触れるならば、それを止めよ。賢者の意志が、目の中に残された——」
ここで語りは終わる。
ヨルは目を閉じた。声を聞く。父の声が記憶の中にある。同じか。同じだったか。分からない。年々、父の声が遠くなる。ヨルが年を取るほどに、父が遠くなる。自分が父の年齢に近づくほどに、父の顔が若くなる。いつかは自分が父より老いる。
センが来たのは昼前だった。
扉を叩かずに入ってくる。十二歳の少年のやることだ。ヨルは咎めない。叩かれても気づかないことがあるので、その方が助かる。
「ヨルじい、また一人でしゃべってたの」
「語っていた」ヨルは言い直した。「しゃべるのと語るのは違う」
「どう違うの」
「しゃべるのは口から言葉が出るだけだ」ヨルは少し考えた。「語るのは——声に命を乗せることだ」
「命って、何の命?」
「伝えてきた人たちの命だ。父の、父の父の、そのまた前の——」
センは「ふうん」と言って、部屋の隅に座った。石の床に直接腰を下ろして、膝を抱える。好奇心はある。話を聞くとき、この子は目を逸らさない。それだけで、集落の大人の誰より真剣だ。
「蟲って何」とセンが言った。「虫みたいなやつ?」
「虫ではない。見えないものだ」
「見えないなら、どうやって血の中に入れるの。口から飲むの?」
ヨルは答えられなかった。
口伝はそこまで言わない。血の中にいた、と言うだけだ。どのように入ったか、どのような形をしていたか、何を食べていたか。何も言わない。言葉に入っていないことは、分からない。分からないことは、伝えられない。
「口伝にそこまでは残っていない」
「じゃあ、分からないってこと?」
「そうだ」
「じゃあヨルじいも全部は知らないんじゃん」センは少し得意そうに言った。「全部知ってるみたいに話すのに」
「全部知っているとは言っていない」ヨルは静かに言った。「ただ伝える。知ることと伝えることは別だ。知らなくても伝えられる。書かれた字を読めない子どもが、字を写せるように」
「でも写すだけなら意味ないじゃん」
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。それはわたしには分からない」
センはしばらく黙っていた。考えているときの顔だ。眉が少し寄る。
「空の目って、空のどこにあるの。昼に見える?」
「見えない。高すぎて見えない」
「ほんとにあるの」
「あった。あったからこそ、大いなる沈黙の後もそこにある——と、口伝は言う」
センは天井を見上げた。家の木組みの天井だが、その先に空がある。
「怖くない?」とセンが言った。「空からずっと見られてたら」
「慣れていた人々にとっては、怖くなかったのかもしれない。生まれたときからそこにあるなら、そういうものだと思う」
「今は?」
ヨルは答えなかった。今は見えない目が、まだそこにあるかどうか。見えないのだから分からない。あると思って生きるのと、ないと思って生きるのでは、何かが変わるのだろうか。ヨルにはその答えも分からない。
センはそれ以上聞かなかった。日が傾く前に帰っていった。扉も叩かずに来て、叩かずに出ていく。
夜が来た。
集落が静まる。獣脂のランプが消え、石壁の内側に人の気配だけが残る。ヨルは眠れないことが多い。年を取ってから、夜が長くなった。夜の間に、記憶が動く。
父が死んで二十三年になる。
息子のコウは——ヨルは目を閉じた。九年前だ。山際の崖で、大型の獣に遭った。コウは三十一歳だった。まだ若かった。口伝の半分しか教えられていなかった。蟲の時代と、空の目と、蟲の汚染まで。そこから先、大いなる沈黙と、目の命令は、コウの記憶の中にない。コウと一緒に、その半分の記憶は消えた。
語り部の血が、途絶えた。
コウに妻がいた。子が産まれる前に、コウは死んだ。妻は翌年よその集落の男と一緒になった。ヨルは何も言わなかった。言う権利がない。ただ、孫の顔を一度だけ見た。コウに少し似ていた。
センはどうか。センは利口だ。物覚えもいい。だが語り部にはなれない。語り部は物覚えでなれるものではない。声に命を乗せることができる者でなければならない。センには、まだそれがない。あるいは、ない。
「この語りが終わる日が来る」
ヨルは声に出した。
口伝の言葉ではない。自分の言葉だ。だが、それが真実だと分かっている。自分が死ねば語りは止まる。記憶の中の父も、父の父も、そのまた先の全ての語り部も、一緒に消える。何百年もかけて繋いできた声が、ここで終わる。
しかし、今夜ではない。
今夜でなければ、まだいい。ヨルはそう決めている。今夜でない限り、まだ続けられる。
目を閉じた。夜の暗がりの中で、また口の中で語り始めた。声に出さずに、唇だけを動かして。父の声を思い出しながら。少し遠くなった声を、引き寄せながら。蟲の時代。空の目。大いなる沈黙。目の命令。全ての言葉が正しい順番で続いていく。順番が変わらない限り、大丈夫だ。
ただ、知らないことがあった。その日は、もう始まっていた。




